二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

大学設置認可問題(2)

2012-11-10 23:35:57 | ニュースの見方
前回記事に引き続いて、
  大学設置審が、過去にどの様な行為をしてきたか、
  その実績を、今回の記事に紹介する心算、で居た。 
一般の人達にとっては無縁の事柄だから、前回記事
  のような書き方をしても、設置審が、具体的に過去に
  何をしてきたか、そしてその存在が如何に国益を
  損なうものかを、一般社会の人は全然知らないだろう、
  と思ったからである。
。 
勿論、前回記事の引用文献を詳細に見て頂けば分かる
     のだが、それは手間のかかることである。
  それらの引用文献は、教育・研究行政が如何に
  歪んでいるかを、その都度、指摘したものであり、
  その歪みを齎した原因が設置審に有ることを
       論じたもの、ではないからである。

     ★ ★ ★ ★ ★


ところで、田中文科相はその後豹変してしまったのである。
  それで、私が当初予定した記事内容は、
      全く無用のモノとなった。


このことはかなり大きな衝撃を以て世間に伝えられたから、
  此処にわざわざ記録するのも、馬鹿馬鹿しい思いは
  するが、一応前回の記事を公開しているのだから、
  けじめをつける意味で、此処数日の経緯、を記録する。

 ●11月1日、大学設置審議会が
      「4年制3大学の新設の認可」、を答申
●11月2日、田中文科相は、閣議後の記者会見で、
       「不認可」、を表明
●11月6日、田中氏は(不認可を撤回)
       「新基準で再審査する」、とし
      文科省も、
     「不認可処分は出していない」、と弁明
●11月7日、田中氏は
     「不認可の処分はまだ行っていない。
      3大学も世間も誤解している」。
        (新基準による再審査、を撤回)。
     「現行制度にのっとり適切に対処する」、と。
●同日、  田中氏は、衆議院文部科学委員会後、
      記者団に、「認可する」と。


     ★ ★ ★ ★ ★

この、11月2日からの3日間程の間の、
   当該3大学当事者や、設置予定市の市長等の
   大層な権幕は、呆れるほどのモノだった。

この人たちは、国政の仕組み、
  (官庁の審議会の答申と、大臣の決定の関係)
      につき、完全に無知であるようで、
   田中氏を提訴する、と息巻いた。

この人たちは、一体大学という存在が社会的に
  どの様な意味を持つのか、また、「大学」という名の
  組織を作れば仮令実質は遊園地であっても、
  学生1人に対して我々国民の血税が、どれほど
  注入されるのか、その辺を良く考えて発言
  しているとはとても思えなかった。
  しかし、彼等は自身の損得勘定が明瞭に
  分かるから、主張する理由は理解出来た。 
個人的に不利益となる政府の政策に対し
 、あれだけの騒ぎを起こすことが、メデイアに
  支持されるのならば、日本の国が中国やアフリカの
  国々よりも安定した社会で居られるのは何故か、
  全然理解できない。

でも、彼等は一般市民である。 国務大臣の職責を
  担う田中真紀子の、この数日間の発言は
  一体何を考えてのことだろう。
彼女とか、都知事を辞めた石原の様な、
  権力を握るのだけ上手な人物、というのは、
  本当に困りもの
、である。


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1 コメント

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higher education (noga)
2012-11-11 01:11:29
社会には口はないのであるから、個人が社会の代弁しなければならない。
個人は、人により意見が違うから、個人選びをして、社会を代弁する個人を選び出さなくてはならない。
選ばれた個人の哲学により社会の意思を決定する。
だから、個人には過不足のない内容が必要である。矛盾は考えから排除しなければならない。

我が国には、個人の意思で組織を取り仕切る考え方がない。
組織の長にも、組織の構成員にも意思表示の方法はない。
だから、組織の長は、床の間の飾り物の様になる。
あるのは、意向といった恣意のような掴みどころのないものである。

文章があれば、矛盾を指摘して取り除くことができる。
小言、片言、独り言では、矛盾は指摘できない。

日本語には時制がない。
だから、日本人の文章には未来時制がなく、未来の内容は、現在・現実からの推測になる。
未来時制の英文 ‘He will go.’は、日本人の文章では(おそらく、彼はそこに行くだろう。‘Probably he goes there.’) となる。
日本語で現在・現実のことを話すときには、実況放送・現実報告の内容になるので問題は少ないが、未来のことを話すときには、’おそらく、、、、だろう’、’おそらく、、、、だろう’、’おそらく、、、、だろう’ の連続になって、確かな考えを示すことができない。だから、それを聞いた聴衆も鬼も笑いだす。
日本語では、未来に関する真面目な話はできない。一寸先は闇で、構想と言う非現実の内容には絶えず不安が付きまとう。

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