アイヌ・アート・プロジェクト
Koji Yuki
結城幸司氏が中心の札幌に住む若いアイヌアーチスト集団。
アイヌの交易船イタオマチプの復元を機会に2000年に結成された。
2001年にはカナダでの先住民カヌー大会に4人が参加し
現地で巨大な交易船を完成させた。
イタオマチプでアラスカ、またはアムール川に行くことが目標。
現在は5家族で共同して木彫りや織布などの作業を行うかたわら
歌や踊りの伝承にも取り組んでいる。
イタオマチプを囲み、アラスカ渡航の構想を練る結城幸司氏(右)ら
アイヌ・アート・プロジェクトのメンバー
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ブルタニカ百科事典より(WEBより転記)
アイヌの歴史 ⑥
1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。その後も和人は、アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。
つまり、「桃太郎」以来、「悪い鬼」を退治するために常套手段として使われている卑劣な詭計が、善良なゆえに「愚直」なアイヌに対しても繰り返し行われたのだ。
豊臣秀吉から蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。姓を松前に改めて松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。
松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。
こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。
この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。
(川柳っていいいね!北海道散歩はアイヌの歴史をちょっと辿っています。)
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川柳北海道散歩。