事実は映画よりも奇なり

乳がんで余命2週の告知もキリスト教の27歳の裏千家師範は延命薬で百八夜を内鍵付きの病室にて戦うも・・・

原点回帰 「 第七部 法治 107 - 116 」

2013年01月10日 21時56分55秒 | 原点回帰 

“威厳と尊厳ある死”の崇高な命題から、延命薬には本人の意思を第一に尊重して頂きたく、情熱から問題として提起させてくださいませ。
意味ある死にしなければならない責務から私には余生で課せられております。見苦しき箇所も入れなければ読み取れない文才に内容となることを、御了承ください。
(107 病院へ行こう: 概念【事実は映画よりも奇なり】 より) 

 

2012年(平成24年)10月13日  第一回目の投稿日

 


あらすじ 【  朝顔  】 これは記憶喪失からの回復過程で投稿したページを羅列しただけでしたが、現在の投稿段階で軽薄も猪突猛進に反発される方には、まず日本史を学び直して頂ければ有難いのですが。

 

原点回帰 「 第一部 純愛  1 - 23 」

原点回帰 「 第二部 殺人 24 - 43 」

原点回帰 「 第三部 告発 44 - 59 」 

原点回帰 「 第四部 言霊 60 - 80 」

原点回帰 「 第五部 薫陶 81 - 93 」

原点回帰 「 第六部 記憶 94 - 106 」

 

そして、挿入する私のは句に詩に非ず折れそうな心の接着剤です。

 

原点回帰 「 第八部 鶴翼 117 - 完結 」

 



107 病院へ行こう: 概念【事実は映画よりも奇なり】

 

原点回帰 「 第一部 純愛  1 - 23 」 から 1、余命二週も、まだ27歳でした。九州での販売を一任された私はオープンしたばかりのニューオータニでの展覧会が終わったばかりの半年後、今度はグランドホテルでも同じく最も大きな会場となる『翠玉の間』で開催した日本画・洋画展に来会されたのが、昼休みを活用された院長であった。この日まで名すら聞いた記憶もない医院です。私邸を訪問した夜が彼女との初対面でした。妻子持ちは足繁く通いだした。出入り業者として。

 

 

“威厳と尊厳ある死”の崇高な命題から、延命薬には本人の意思を第一に尊重して頂きたく、情熱から問題として提起させてくださいませ。
意味ある死にしなければならない責務から私には余生で課せられております。見苦しき箇所も入れなければ読み取れない文才に文脈となることを、御了承ください。
ここからの投稿は2009年の7月にパソコンを始めるまでの、過去千通以上にもなるであろう捜査機関から医師に関係先に対して郵送した内容から、ブログでの投稿には使えない箇所は削除したり描き直した文章になります。

1994年6月28日(記憶を取り戻しだす前から郵送を開始していた日です)

 

 

原点回帰 「 第二部 殺人 24 - 43 」 から 27、内鍵付き病室。妻はといえば、「お見舞いに行ったら、どうして行かないの?」新たな夜のたびに、明ける朝の眩しさに手引きしてくれる。「してはいけない。引き止められている」と、少しだけ内輪話で語り合わす。「何のために家族がそんな事を言うの」妻は一人、頑張ってくれる。温かくって優しき、私には勿体無い連れ合いでした。「わたしに遠慮しているのだったら構わないから、お見舞いに行ったら」口を酸っぱくして説き勧めてくれました。

 

 

2000年2月07日(記憶を取り戻し始めてから徐々に書き直しつつの郵送開始です)


各位殿


咲いて落ちる二つの命な花椿で殺された病室を含む事件が、なぜ表に出ず、なぜ全国を揺さぶる数件もの殺人事件にまで拡大したのでしょうか。
これらが何故、今なお藪の中なんでしょうか。
医の人脈を世間を警察を、私が依頼した弁護士会会長を寝返らせ、裏の組織まで使用して私を謀殺しようとの全てに要石なる医者の家庭内の動機から、関係者の欲得の成長過程を全国へと飛び火させ、なおも火種さえ未だに消そうとしない現状を、問題外とか対岸の火事めかされて安易に切り捨てないで頂きたいのです。
文中の一行が行間が、それぞれに介護・医療・終末期・病室の体制に個々に生かされ、誰にも訪れる死に活きれば、こんなに有難い亡父「相浦三郎先生を想う」色に加えた“貨幣経済の憂い”はございません。

継続できる力こそ財産。
茶は家族にて。

亡父の「相浦三郎先生を想う」は医界で出版してくださいました追悼本の表題であり、私の持つTwitterからブログの存在は、この追悼本について師範どころか今は亡き姉とも生前に交わしていた会話から誕生の、約束した意志です。

(以下、10数枚に至った文章は省略します)

 

 

原点回帰 「 第三部 告発 44 - 59 」 から 50、カネで買えないもの。「赤ん坊の頃から面倒を見てやっている、凄いカネが掛かった、住まわせてやっているとか散々言いたい放題でしたが、あそこは彼女の家じゃありませんか」 すると院長は 「(奥様は)蔵の中を見せてもくれん。仕事なんかせんでもカネはあるが養子に入る条件として代々の医者は続ける約束事があるからだ。医者は趣味だ」

 

 


108 

 

原点回帰 「 第四部 言霊 60 - 80 」 未完 から 
70、2/3 法律。 境界杭の打ち直しで一つの出入り口を完全に奪われる隣地は分譲会社の倒産によって放置されていたのです。総勢四人もの弁護士、大手私鉄、県庁、村役場はこの現状に乗じた。隣地に 「その大物の方の組織」 から幹部の方がボディガードを伴い引っ越してこられた。隣地の倒産した分譲会社の債権者から所有者になられる。境界杭の件が発覚した。
76、3/3 裏と表の社会が反転した犯罪。  隣地の人たちに、表の社会を代表する行政や企業から境界杭を動かされて出入り口に取り付け道路となる要の土地を奪われたという一件が露見する。右翼に暴力団に、表の社会を代表する行政や企業から境界杭を動かされて出入り口に取り付け道路となる要の土地を奪われたという一件が露見する。。。拉致された、、、

 

 

1985年(昭和60年)
、、、3月13日、福岡地方裁判所久留米支部から、(これはコピーなり写真による投稿が必要) 

 

 

 


109 1/6 埋み火 (八王子抗争への道程)

 

1986年(昭和61年)
、、、9月8日、福岡簡易裁判所にて

、、、10月8日、福岡簡易裁判所から、

、、、11月、 

 

 

原点回帰 「 第五部 薫陶 81 - 93 」

 

 

1987年(昭和62年)
、、、2月、九州戦争終結。

、、、6月、

、、、7月、十三回忌まで御山に棲む決心を固める。

、、、8月、高森署のカラシマ刑事が市内の内科院長に護衛を依頼されたらしく、所有される隣の別荘地の様子見に連れ立って阿蘇に来る。この時に初めてカラシマ刑事と顔を合わせた。

、、、9月19日から23日、

、、、秋、師範殺しの院長の謀略に係り、混浴露天風呂に良い人、悪い人・真の姿 の恨み」を受け継いだカラシマ刑事どころか、二率会から阿蘇の連中から自治会内での内通者となる宮尾氏から誰から誰まで欲望という人間の言動が連携を保って私に向かってくるようになる。

、、、11月16日、母に6,716,510円、別離に至った妻に2,054,160円、それぞれ支払えた。他に、亡き師範のメモリアルホールの建設に不足だった資金へと5,000,000を補充する。

 

 

1988年(昭和63年)
、、、2月、最初の別荘となる中川歯科医の別荘の棟上げ。

、、、八王子抗争となる双方の組織(   党と二率会)の初顔合わせ。

、、、ペンション経営者、死す。

、、、3月26日、村民であり小学校校長でもある江藤氏夫妻にとって終身年金ともなる管理費という私利私欲の思惑で自治会の結成に動き出すと共に、私を村八分にするべく教え子から村内総出となる。

、、、4月24日、江藤氏の旗揚げでグリーンヒル南阿蘇自治会結成。

、、、5月12日、自治会総会。

、、、6月末、H氏の別荘が二件目として完成。

、、、秋、私は山小屋の工事を再開する。

 

 

1989年(平成元年)
、、、春にかけ、、、秋となり、今こうして生きている自分自身が不思議。巻き込まれた九州戦争どころの危うさではなかった。。。この時期を振り返れば、、、

、、、5月上旬、内通者に成り果てていた宮尾氏の丸太小屋の工事が始まる。抗争への道をまっしぐらに走り出す。決定的となった。

、、、5月15日から23日にかけて、東京の組織の九州における関係者と言うべきか取り巻き連が隣の土地を別荘地とした売り出しに動き始める。

、、、夏、「連絡してくれ」との電報を◯◯◯◯党◯◯総裁より受け取る。「なぜ二率会が手を出してくるのか?」という疑問を質したかったのでしょうが、この方の名前すら記憶を失っていた私です。この◯◯総裁、東京の二率会幹部のT氏に関係者、太鼓持ちの連中、所轄署のカラシマ刑事、自治会の内通者となる宮尾氏に自治会員のアホなオバサンたち。それぞれは自分の不利益となる教え込まれた私の捏造された悪評の断片しか知らない。ひとつにまとめられるのは私に振りかかった一件一件の物欲で映画した事実であり、とどのつまり脚本家な院長に行き着く経緯の一切合財となる。
◯◯総裁には九州戦争で恩義ある山口組とは知らずに隣地と対峙してしまった二率会、双方の組織とも訳分からないまま、経緯の道程は雌雄を決すべき抗争に突入していく、、、

 

村内まで加わった抗争であり、九州は守り抜けた満足感はあるが複雑です。一人にされても命を賭けて戦わざるを得ない世界に年月での限界を、内通者どころか警察まで自治会の名を借りた組織の支配下に成り果てた現実で痛感しました。

 

 

1990年(平成2年)
、、、1月、北海道函館

、、、2月15日、“組員2人を刺殺。出頭の暴力団員を逮捕” (新聞報道)にて八王子抗争勃発。

、、、3月15日、山陽道

、、、4月、終わったとたん、自治会長の江藤氏が自宅の建設工事に取り掛かる。信じらんない卑らしさ。

、、、5月12日、二率会のT氏が手打ちで阿蘇に来られる。このT氏を陥れる結果を招いた竹原さんを探しておられた。私の忠告をT氏が聞き入れてくれなかった最大の要因が、院長の影響下にあった、この竹原さんの存在でした。二人だけでなく慶九の内山氏も加えた東京の三人は幼馴染だった。

、、、6月14日、T氏を焚き付けていて行方不明だった竹原氏が宝珠山に現われる。生きていた。

、、、9月15日、私は下界に下る。 

 

 

埋み火の思いみるみる雪椿

 

 


110 2/6 国外逃亡 

 

医院の代替わりからアメリカへの移住まで、たった数ヶ月でやらかしてしまった。

なぜ移住できたんだ。グリーンカード(アメリカ永住権)は?

死ぬ瞬間に勝ち組やら勝者で逝けるのは私か、それとも・・・・・

 

 

1993年(平成5年)
、、、2月11日、姉妹の後見人に「事実関係を書き記しております」とだけ、お知らせする葉書を投函している。
ここに至った真相を思い出せ、とダンボール一杯の手帳から阿蘇での九十九日記からメモ類と格闘していた。

、、、3月2日、遅かった。福岡に帰って知るは、親族から画商の私に対する罵詈雑言の嵐。嘘八百も酷かった。後見人にも知己の間柄となる医者の伯父の病状悪化に追い立てられての葉書でもありましたが、訃報。

、、、3月9日、熊本の免許センターに出向くのに合わせて近くの署で二人の刑事からの事情聴取を受ける。
「(姉妹の家と)接触されましたか」と小柄な刑事に私は尋ねるが、途端に顔が曇り、相槌を打っただけで彼は横を向き黙り抜く。院長の圧力が掛かったのを確認した。担当する若い小柄な刑事に苦悩の色が滲み出ている。二人一組で捜査するので、もう一人の大柄な刑事が何か言い含め慰めている。上意下達の哀しい歌だ。
大柄な刑事は「聖人君子だと思っているのか」と自分を納得させる口調で、私を探る。
福岡へと私は日帰りしたが、この日には既に「私を送検すべき、黙らせるべき、たとえ捏造であろうとも」の大前提で熊本県警は動き出していたのです。

、、、6月10日、両刑事が福岡まで来る。一緒に阿蘇へと行くことにした。

、、、6月11日、朝、山小屋に泊まっていた布団を干す私の眼下に車三台から散る十人程の私服が目に入った。私もだが当の見知らぬ刑事たちが驚いている。指揮する偉いさんも首を傾げていた。まるでピクニックだ。
小柄な刑事が私という人間を「(院長から聞いた話とは人間像が)違うでしょ、と囁くと偉いも頷いている。こんな中でも偉いは手錠まで私に掛けようとする。笑った私に偉いは諦めた。
二率会の自治会による刑事告訴を受理され、私は書類送検(平成5年第27号 水道設備損壊罪)された。それも、罪状は私が地域社会を守り抜くべく “一般の自治会員との約束事を履行した件” で。
偉いさんの命には「何故ここまで」と訝りながら、苦しみつつも二人の刑事は調書を書き上げた。上から「前日の10日に身柄を確保しなかった」と二人の刑事は、かなり喝を入れられたみたいだ。かわいそうだった。
偉いも帰っての所轄署では、まるで客人として扱われた。「敵は取ってやる」と二人の刑事に心の中で約束した。ゾロゾロと刑事部屋に戻ってきた他の刑事たちも二人の苦悩を知っており、その夜は飲み会になった所轄署の面々である。

、、、7月2日、この自治会から今度は民事訴訟を起こされる。
訴状には “二率会を八王子抗争に追い落とした張本人の名まで自治会員として記されていた”。
自治会まるごと二率会に組み込まれてしまったのは既得権益の渦と欲望に付け込まれた院長に因る罠、小市民の性。

、、、7月12日、私の依頼人弁護士(大先生)より返信(葉書)あり。

、、、8月20日、私利私欲に走りすぎた自治会長の江藤氏個人の事を焦った失敗で、またしても一方的に民事告訴を取り下げてきた。一人相撲を取っている。

、、、11月15日、書類送検されての呼び出し状が届いた熊本地検宮路支部に「警察の脅しでしょ」と電話を入れた。

、、、11月24日、立野駐在所に譲っていた書類の閲覧にて、一周忌に阿蘇の地を購入した理由の日付けの記憶だけを断片的に取り戻す。

、、、11月25日、地検宮路支部で検察官から取調べを受ける。が、隣室で盗み聞く奴が居る。こいつは盗み聞きに気付いた私の前に仕方なく現れた。そして、とんでもない失敗をやらかす。
“院長の関与”を、私が昨日で取り戻せた記憶の師範を持ちだせた質問の内容から言葉尻で本人自ら認めてしまったんだ。この手合いは下手に出ると何処までも木に登ってくれます。で、落ちる羽目になる。
加えて、八王子抗争勃発さえも知らなかった。組織の手先に成り果てた警察の末路です。

、、、12月27日、地検支部は大掃除の最中でした。この中における質疑応答にて、不起訴という完全なる不問に終わってから私は “師範殺し及び勃発した抗争の真の牽引車たる院長”を、まず “二率会に組み込まれた自治会”から逆に告訴しようとしたのですが、“私は告訴されたのではない” と検察官は嘘を言われ、私の告訴を受理してくれなかった。
そもそも告訴したのは私が 「詫び」 を二率会の自治会やら師範殺しの院長に入れて 「告訴の取り下げ」 を哀願してくる、と踏んでの恐喝行為だったんです。
そこで「何かしらの条件」を出す腹積もりだったんだ。が、私が平気だった時点で 「告訴した意味も何もかも」水泡に帰していた敗北者だったのです。

 

 

原点回帰 「 第六部 記憶 94 - 106 」 から 4/6 眼に沁むトラウマ 歳月を必死になって巻き戻した。考えるだけだと知らず知らずに安易な方向へと逸れていく。だから書いてった。何処かに何か大変な何かが隠されているに違いないんだ。そうじゃないとここまで権力が攻めかかって来る訳が無い。それも随分と子供じみている。国家権力がだ。後ろめたいからこその相手の焦りの色は、私に自信を形で見せてくれた。

 

 

1994年(平成6年)
、、、6月28日、姉妹の後見人と私の代理人弁護士に説明として93年2月から急いで書き上げただけの560枚もの事実関係を書き記す原稿用紙のコピーを郵送する。
後見人の奥様は一ヶ月くらい後に倒れられ、一年ほどの闘病生活にて亡くなられた。
弁護士も翌年1月20日の訃報を新聞で知りました。

、、、8月25日、師範の命日です。
騒々しい。どんな依頼を誰から受けたのか、若い女性たちばかりで我が家を訪ねてくるようになった。雨の日も三ヶ月は日々に絶えること無く続く。が、私は一度も会ってはいない。顔も知らない。 
やがて女の子たちの訪問は週明け、月曜の7時だけとなり、何時かしら止んでいる。
同時に盗聴もされていた。こんな中から、どんな話が在ると言うのか。
おしなべて原稿を仕上げるのに邪魔で呼び鈴も鳴らないようにしていた我が家。
女性たちの件は近所のおばさんたちから聞いたのです。 

(これらの訪問していた理由は、翌年の4月14日に知る。やっぱり身勝手さ故の所業だった)

 

 

1995年(平成7年)
、、、1月末、所轄の高森署から突然の電話。電話してきた刑事の慇懃無礼な口の利き方は脅しに他ならぬ。
今更逃げを打ったって、手遅れだ。腹立つ熊本県警もこれが最後っ屁となった。

、、、3月15日、姉妹の医院に手紙を出す。

、、、4月14日、警察官ばりのサバエなる男からの電話。
「(手紙の内容に)どういうことだ。◯◯氏は医院を代替わりして娘さんの後を追い、アメリカに移住された。奥様は1991年の1月?ごろに亡くなられてある。(姉妹の)あの家はもう無い。だから、もう関係ない。子供は三人だ。◯◯氏が養子だとは知らなかったんだろう」
との調子づいての卑しき笑いだ。この手の情け無い、取り巻き連中に共通する心と笑い方です。
「(師範は)殺しだ」とだけ、一言だけ教えてやった。
驚いていたが、これっきり音沙汰なし。

、、、4月16日、二率会に属する連中を除いたグリーンヒル南阿蘇自治会員全員に手紙で八王子抗争を勃発させた自分たちの罪状を説明する。

、、、5月11日、後見人の医師会長からの返信(葉書)あり。

、、、7月12日、熊本県警本部、高森署、地検宮地にも渡るようにして暴力団を除いて刑事事件の捏造どころか民事事件まで作り上げて私を葬り去ろうとした29名に檄文の六枚を郵送する。

、、、8月、熊本県警本部と地検宮地に6枚で説明文を送る。

、、、8月21日、宮地区検で私を担当された検察官から、電話が入る。

(この年の二月から、去年の1994年の夏以降に訪問してきた女の子たちとは異なるのであろう陰気な卑しい女たちによる嫌がらせ電話が始まったのでした。1996年の1月に、5月25日へと。1997年へと。1998年1月19日へと続いていくのです。このように住む世界が違いすぎる人たち相手で言葉が苦手になった私は活字でしか伝えられない)

 

 

1998年(平成10年)
、、、3月、三年半を費やし改稿の444枚から部分的に抜き出しての郵送で 「攻め」に転じる。

、、、8月24日、新たに依頼したいと考える弁護士に接触する私でしたが、すでに手が回っている。

、、、9月、銀座七丁目の画廊に 「帳簿」の間違いから精算を指摘する手紙を郵送する。

 

 

1999年(平成11年)
、、、5月、佐賀県警の狂犬病に警告する。

、、、6月28日、新たに依頼したい弁護士へと相談に出向くも、、、

 

 

 


111 3/6 官に民に個々に 

 

訴状として告発状として試行錯誤する魂の雄叫びで院長の犯罪事実を申告し、九州戦争後の八王子抗争の真因を暴露し、処罰を文書で面会で求め続けてきました。

以下はその記録です。
告発した郵便物に関しては 「書式に則っていなかった」 たる指摘を一部で受けましたので、一切 “郵送” とだけ記します。

  

 

病院へ行こう: 19年も淡交会の師範に関係する記憶を喪失していた

 

 

2000年(平成12年)
、、、2月7日、師範に “余命2週の告知” から “乳がんの細胞を作った義兄の犯罪行為” 亡父の母校の大学病院においての義兄たる院長の手になる “毎週末の性暴力と描写” 姉との毎夜の性の描写、動機は “師範と私から財産を奪い取る” 根幹に舞い戻った姉妹との記憶、そこに在る八王子抗争および国外逃亡を取り戻し始める。

、、、2月9日、関連の各医師会に郵送。

、、、2月16日、県弁護士会に郵送。

、、、7月24日、福岡地検に郵送。

、、、9月4日、境界杭を間違えての発端を成す建設会社に郵送。

、、、11月30日、院長の所轄署に郵送したら、ブーメランみたいに静かななりで送り返してきた。

 

 

2001年(平成13年)
、、、1月9日、熊本県警本部監察官に郵送。

、、、1月24日、長陽村役場に郵送。

、、、1月31日、境界杭の犯罪に加担した九州産業交通に郵送。

、、、5月29日、福岡県公安委員会に郵送。

、、、12月10日、同委員会から〝通知書(福岡県公安委員会発第2036号)〟が送付されてきた。

 

 

2002年(平成14年)
、、、1月8日、熊本県警本部長に郵送。

、、、1月9日、私の代理人だった弁護士に郵送。

、、、3月18日、福岡県公安委員会に再度、郵送。

、、、4月8日、同委員会に、郵送。

、、、4月13日、熊本県警本部長から〝回答書(熊監第83号、11日付け)〟が届く。

、、、4月17日、熊本地検宮地支部に郵送。

、、、5月24日、同支部より〝回答書(日 記第80号)〟が届く。

、、、6月5日、福岡高検に郵送。

、、、11月29日、警察庁に郵送。嫌がらせの電話が酷くなる。

 

 

2003年(平成15年)
、、、7月12日、

、、、8月18日、福岡県警監察官に郵送する。

、、、9月22日、福岡地検次席検事に郵送する。

、、、9月29日、警視庁に郵送する。

、、、10月27日、熊本県公安委員会に郵送する。

、、、11月4日、熊本地検次席検事に郵送する。

、、、11月27日、九州管区警察局事務局から丁重なる電話を頂ける。

 

 

2004年(平成16年)
、、、1月8日、熊本県公安委員会から〝通知(熊公委第 2 号)〟が届く。

、、、1月26日、警視総監に郵送する。

、、、3月15日、宮地区検に郵送する。

、、、3月22日、県弁護士会に郵送する。

、、、3月29日、福岡高検に郵送する。

、、、4月5日、「売れ残っている三軒のマンションを渡すから手を引け」 なんて物凄い口調での脅迫を受ける。何も喋らないままで叩っ切った。

、、、10月22日、「グリーンヒル南阿蘇自治会 一同」 と称しての返信あり。

  

 

カネを前提にしか考えられない頭の人たちって、哀れだ。それに物質も残り物に変えて。こっちまで、寂しくなる。
このあたりから私の相手は、好むと好まざるとに関わらず〝官から民が主体になっていく〟
例外もあります。福岡県宅地建物取引業協会から福岡銀行に西日本鉄道株式会社、区役所もあった。

嫌がらせ電話は酷い酷い。毎日です。ほとんどは女。淡交会の裏千家師範に対する病室での性暴力を何だと考えてんだろうか。
男からのは分かるが、女からのはホントーーーーー、に情け無い・・・・・。

 

2000年3月22日、鳴り分けコールの機能付き受話器に買い換えていた。番号非通知では呼び出し音すら鳴らないように設定しているのに、後でチェックしてみると、まあ毎日毎日、お疲れ様です。

 

 


112 4/6 時効は停止した 

 

2000年2月7日から「ここは何処。わたしは誰」だった記憶を取り戻し始めるのです。
まず病室における性暴力を思い出し、師範の死の真相、財産の行方など詳細で健全な主体性を取り戻し始めていた。



熊本県警本部は2002年4月11日付け(熊監第83号)で私に郵送した公式文書にて、
「暴力団の支配下にあった自治会の告訴を受け、私が抗争を止めるべく物的手段とした設備で書類送検した」と、図らずも認めてしまった。
続いて熊本県公安委員会までもが、2004年1月8日付け(熊公委第2号)で、同じく認めた。はっきりと。



2005年(平成17年)
、、、4月27日、、、25日付けにて送付した告訴状について九州管区警察局総務監察部監察課から

、、、7月5日、福岡地検に出した手紙で呼び出されたあと、書類送検された時の検察官を懲戒請求したら、一人一官庁は辞職された。
流石、警察なんかとは質が違う。


九州戦争の終結宣言が行われる日時の揉み消しから、熊本県警の刑事たちも、自治会の小中学校長夫妻に歯科医も、国外逃亡への手段として代替わりした医院も、それぞれの組織に懲戒請求しました。が、それっきり。

依頼人は私なのに寝返っていた弁護士と、結果として招いた事件の諸々から、院長に追随した挙句で勃発させる都政最大となった八王子抗争、等々の責任問題については、2000年2月16月から福岡県弁護士会に相談していたが、梨のつぶて。

 

、、、9月21日、福岡県弁護士会(会長 川副正敏)より、9月16日付けにて提出していた「(私が依頼した弁護士に対する)懲戒請求の受付通知(平成17年 綱 第23号事件)」が届く。

、、、11月29日、その依頼していた弁護士本人から(時効成立になって)、院長との間で1985年3月13日作成の和解調書(昭和60年3月8日成立)とやらが送りつけられたが、寝耳に水だ。「そんなもの無い」 と言われていた。が、論点が違いすぎる。何の役にも立たない。それに事件前の成立じゃないか。
この和解調書とやらは、抗争へと走らせ、捜査を担当した所轄の高森署でさえ私には何の罪科もない、と判断しているのに書類送検へと捏造させた熊本県警本部の犯行を後押しさせた根拠にはなるであろう。罪の上塗りだ。 

事情を知らない、案件さえ忘れてあるだろう裁判官でも不審を抱かれるに違いない、
「法廷で公開」なる、身に覚えの無い偽りの文言が調書には記入されていた。
だから、そこだけを質問状にして地裁久留米に送ったが、すでに退職されてあった。

 

、、、11月30日、福岡県医師会より丁重なる助言を頂く。 

、、、12月1日、熊本県歯科医師会から“回答書(熊県歯発第368号)”が郵送されてくる。

、、、12月15日、福岡地検特別刑事部直告係より、検察官に対して懲戒請求を申し出た書面が返戻されてくる。

(すでに辞職されていたのでしょうか、それで懲戒請求では問題外だったのでしょう。それに性暴力から境界杭から暴力団に至る犯罪を申し出たのではなかったから。が、国家権力を後ろ盾どころか後押しされた結果が都政最大の抗争です。発端の院長から全てを闇から闇なんて容認しない) 

 

 


2006年(平成18年) 
、、、1月10日、県弁護士会へ、そして日本弁護士連合会へと懲戒請求、異議申し立て、綱紀審査申し出、と動線のごとくに行動した。

、、、1月17日、福岡県弁護士会(会長 川副正敏)より“懲戒請求の受付通知”が郵送されてきた。

、、、2月27日、熊本県教育庁より“通知(教人第1669号)”が郵送されてくる。 

、、、4月25日、

、、、5月23日、福岡県弁護士会へと阿蘇において境界杭を打ち直して隣地を奪った建設会社側の二人の弁護士へと新たな懲戒申立書を提出する。

、、、5月30日、福岡県弁護士会より、「三年の除斥期間が経過している」との通知書が届く。 

、、、6月16日、私の代理人弁護士に対する日本弁護士連合会からの審査開始通知書が届く。
内容は「貴殿申出の異議(弁護士会の対象弁護士等を懲戒しない旨の決定に対する異議)について、綱紀委員会に審査を求めたので通知します。本件は、綱紀委員会第1部会で審査されます」
本件事案番号 平成18年綱第240号 
審査開始日 平成18年6月15日」

、、、9月6日、

、、、10月18日、再度、日本弁護士連合会(会長 平山正剛)へと綱紀審査を申し出ていたが、綱紀審査開始通知書が届いた。
内容は、「貴殿から弁護士法第64条の3第1項の規定による綱紀審査の申出があり、綱紀審査会に事案の審査を求めたので、弁護士法第64条の7第2項及び綱紀審査会及び綱紀審査手続に関する規定第22条の規定により、通知します」
事件番号 平成18年(コシ)第164号
対象弁護士等 _________ 
綱紀審査会に綱紀審査を求めた日 平成18年10月16日 

 

 

2007年(平成19年)
、、、3月22日、日本弁護士連合会から、「綱紀審査の申出に対する決定について」 配達証明が郵送されてくる。
日本弁護士連合会 事務総長 明賀秀樹 名にて決定書の謄本として送付されたのは、議決書と決定書です。
議決書の主文は、本件は福岡県弁護士会の懲戒委員会に事案の審査を求めることを相当と認める旨の議決が得られなかった。(理由は省略)
決定書の主文は、本件綱紀審査の申出を棄却する。(理由は省略)
事件番号 平成18年(コシ)第164号

 

結果「3年で除斥」との、これ以上は無い「決定」が第三者委員会で下る。
が、おかしい。弁護士って三年逃げ回れば、なんでもありなのか。弁護士会との書類の遣り取りだけで三年以上は流れたではないか。 

そして、この弁護士は県弁護士会会長に就任する。
時は、、、

時効は、逃亡という名のアメリカ移住? で停止したままだ。
日本に残された関係者は逃げ回るしかないのか。

 

、、、4月21日、熊本県警察本部監察課へと対象警察官は 「110 2/6 国外逃亡。から 1993年(平成5年)への高森書のカラシマ刑事と地検宮地における盗み聞きの男」 との二名に対する 「懲戒請求申し出書」 を郵送する。

内容は 「九州戦争の延長線上として八王子抗争へとグリーンヒル南阿蘇自治会を隠れ蓑とする東京の暴力団の二率会を誘導した。それも露天風呂における女性たちとの混浴を邪魔されたとの恨みからであり、暴力団の前に立ちはだかった私を、、、(記憶で投稿するわけにはいかない。院長と絡む提出した二枚目の文面は探しています。そのうちに出てくるでしょう)、、、書類送検までした」

、、、5月7日、熊本県警察本部警務部監察課長より、この 「懲戒請求申し出書」 が返戻されてくる。
内容は 「該当する事実が認められませんでした」 

 

 


113 5/6 肉を斬らせて骨を斬る

 

2009年7月中旬、それまでの郵送に頼る追及の手をブログに切り替えるべくパソコンを購入しました。このgooブログの開設は8月18日です。
今日の投稿では、2007年6月11日から09年7月5日に郵送を終えるまでに投函した分について触れたいと思います。


師範殺しの義兄が院長を勤める〇〇〇市の開業医は勿論のこと、周辺市町村の病医院長にも、私の顧客名簿の先生方だけに限らず殆ど送達させて頂きました。医師会は県内全て、御中でも会長名でも。医療機関の従事者、関係先にも。
当事者たる大学病院に限らず、県内の大学病院には全て。学長どころか病院長から、長の肩書きにも片っ端から。
あの義兄から詐欺の被害に遭われた先生宅は勿論です。この先生の御長男も、師範が入院していた大学病院に〝まさにその時〟において、研修医でした。だから前回投稿した〝叫び〟についても知ってあった。口にしたくは無い様子だったので、私も〝それ以上〟は聞けなかった。

医界は狭い。陰気で閉鎖された特権階級的な意識も強い。

境界杭を打ち直すという犯罪に加担した弁護士に加え、周辺の弁護士にも、当然、弁護士会にも。これについては投稿済みです。

行政機関は福岡県庁の関係部署から県知事。同様に県内ほとんど全て。暴力団事件が勃発した周辺市町村の自治体の首長、対策の行政組織から関係部署にも。

警察は本部どころか私と師範殺しの所轄署にも。その医者の所轄署に至ってはブーメランみたいに前もっての連絡もなく無言で送り返されました。公安委員会には他の話の中から“無言”注意した。
もちろん、警察庁から警視庁も。関係した地検から福岡高検も。

裏千家の関係先。当然、京都の総本部にも。

報道機関は全国紙だけでなくテレビのネット局にも。地元紙は、あの医院の店子にされている西◯◯鉄◯の子会社であり、福岡は城下町。ここの系列に逆らって存在できる会社は皆無だろう。

暴力団員と親交者を除くグリーン〇〇南阿蘇自治会員は全員と、村役場から職員などの関係先。

画商としての取引先から、例の銀座の画廊どころか業界内、関係先、倶楽部にも。


以上、千通以上なのは確かですが二千なのか何千通になるのか、さっぱり分かりません。

結果、生まれたのは私を黙らせる勢力が強大になっただけ。
原因を闇に葬る福岡では、発生する発砲事件、凶悪事件と比例するかのように。
これが福岡の土壌、風土、土地柄だろうか。

 

 

2009年7月中旬、それまでの郵送に頼る追及の手をブログに切り替えるべくパソコンを購入しました。このgooブログの開設は8月18日です。逃しはしない

 

 


114 6/6 秋霜烈日

 

三年で除斥とは、おかしな三年です。私の告発は何時でしたっけ。後始末まで押し付けられた私が今、こうしてここに活動する。

日弁連の綱紀審査会委員長の姓が重大な過失ある福岡県警現職警察官から司法試験に合格して弁護士になった人と同じなのは偶然の一致ですか。不思議だ。珍しい姓なのにね。
この弁護士はまだ若くして他界されていた。これも最後まで、日弁連に行くまで福岡県弁護士会は隠し通した。

除斥との決定が下されて直ぐ後、私が審査を申し出たこの弁護士は県弁護士会会長に就任する。
裁判員裁判が始まろうとする、法曹界内部での下準備で誰も成り手がいない大変な時だったらしい。
弁護士会との取引か、押し付けられたのか。次の会長も関係者たる弁護士だった。
この流れ・・・何なんでしょう。

八王子抗争の舞台となった道警、警視庁、山陽道の各県警、並びに検察は何処を如何捜査されたのか。
暴力団を使用した師範殺しの院長から南阿蘇の闇を暴かないどころか、一般社会に姉妹の医院まで命を賭して守りぬけた私を、暴力団の意に沿って犯罪者に仕立てあげようとまで行動した。

国外逃亡という名の米国移住させて一切合財が闇に葬られた。
が病室の百八夜に比べると、戦争から抗争を生き抜いた九年間の史実なんて片隅に小さく内容も無い三面記事だ。
私にとっては彼女の殺され方が全て。
きっちり、はっきり、すっきり、したい。
わたしの頭には警察と法曹界と戦う場面しか設定されていない。
そして勝とう、勝ちたいとも考えていない。
正々堂々と戦いたい・・・それだけ。

次回は最も忌み嫌うカネを書かねばなりません。
貴方は幾らだったら御自分の奥様の妹に癌細胞を植え付けて殺し、死を待つ床も聖処女を犯せますか。
それも彼女がまだ乳幼児だったころから一つ屋根の下で一緒に暮らし続けた嫁入り直前の尼僧の娘を。
それも余命二週の宣告に付け込んで。どうせ死ぬんだったら楽しませてもらう、と。
それも、医者で。

 

辞職された、、、

 

 


115 医院を代替わりできても米国移住できても

 

考えた通り余命いくばくも無い“二週間”で大学病院に搬送された二十七歳も未婚の乳房を肉体を、
「どうせ死ぬんだったら終わり、楽しませてもらう」
と、自分の医院が休診となる毎週末もで犯し続けた義兄も院長は、私から暴力団抗争までの一部始終を告発されるや否や、たった数ヶ月で、あの医院を長男に代替わりすると共に、米国に何故か移住できた。
私から母から取引先から騙し取ったカネを日本に代替わりという名の医院に残して。米国に抱えて。
八月二十五日早朝まで百八夜の性描写で記憶を失った私でしたが、阿蘇における何人もの女性達の温かさに触れて自分を取り戻せました。
追求の手を緩められるはずもなく。

 


・・・そんなこんな活動の2009年春。そこなる市長に郵送した数日後の出来事、、、

我が家の周りに数台の警察車両が集まるが暫らく待機していた後に離脱してしまう。

凄かったのは次の夜。かなりの仰仰しさで道路を占有するパトカーに警察官の頭数の多さを通りがかりに目撃した親戚から一報が入りました。報道まで居たんじゃないでしょうか。
「(わたしを)捕まえに来たとよ」
親戚は笑いながら心配していた。

しかし、この時には既に私も知っていました。二時間近くは騒々しかったからね。
警察の現場責任者に一言、申し上げます。
「携帯で指示を仰ぐ際、被疑者扱いの私に電話での話し声を聞かれてどうするんですか。うちの窓際にまで歩いて来て電話するから筒抜け。落語みたいでした。ビルの間は響くんですよ。特に夜間は。以後は気を付けるように」
このまま、静かななりで、解散と相成ってしまいました。ガソリンまで消費しておいて。

骨を斬る、だなんて私も調子に乗って本音を書き過ぎました。
警察に呼び出されての「性犯罪」から「詐欺」に「国外逃亡」と本筋を辿るつもりだったのに、もう期待できそうにありません。

「応える立場」じゃないと、核心となる部分を性描写が占める犯罪において全貌を明らかにするのは精神的に苦しくて難しいんだよ。
一度Twitterで楽しちゃったから尚更だ。緩んだ気持ちを引き締めて元に戻れるや、否や。
自信、ない。
包容力が欲しい。
一人じゃ多分、挫ける。

 

 衆人環視の中での警察の最後の足掻き。。。こんな活動の2009年春。そこなる市長に告発文書郵送した数日後の出来事。我が家の周りに二夜連続して警察車両が物々しく集結するが数時間も待機した挙げ句に退散

 

 

原点回帰 「 第八部 鶴翼 118 - 完結 」

 

 



116 ここまでの登場人物・団体、一覧。原稿の山から書類から確認しつつの投稿になりますので文章から固有名詞まで日々に書き加えることになります。小さきは記しません。

 

【あ】

相浦照吉
阿蘇国立公園管理事務所
荒木新一 (1995年、平成7年1月20日 没) 
奥田邦夫
大島竜眠
岩田屋本店
岩田屋久留米店 
オリエント・リース 
大牟田医師会

 

【か】

小林画廊
グリーンヒル南阿蘇 
グランディア 
九州三井不動産販売
九州管区警察局 
九州産業交通 
九州厚生局 
久留米大学
久留米大学病院
久留米市医師会
久留米市長
警察庁
警視庁
熊本県庁
熊本県警察本部
熊本県公安委員会
熊本県警高森署 
熊本地方検察庁
熊本地方検察庁宮地支部
国家公安委員会 


【さ】

実吉安弘
実吉安英 

 

【た】

長陽村役場 (現・南阿蘇村役場)
田邉宜克
田島昭彦 (昭和63年5月16日 没)
竹中土木
東京美術倶楽部 

 

【な】

西鉄久留米駅
西日本鉄道株式会社
二率会 
永田恒久 
日本弁護士連合会 
日本皇民党 

 

【は】

博多大丸
福岡県警察本部
福岡県公安委員会
福岡県警久留米署
福岡県警西署
福岡地検
福岡高検
福岡県弁護士会
福岡地方裁判所久留米支部
福岡簡易裁判所
福岡県医師会
福岡市医師会
福岡県知事
福岡市長
福岡銀行 

 

【ま】

三井ホーム
三浦啓作

 

【や】

山口組
柳川組 

 

【ら】

 

 

【わ】

 

 

 

 

原点回帰 「 第八部 鶴翼 117 - 完結 」

 

 

 

 


原点回帰 「 第一部 純愛  1 - 23 」

2013年01月10日 21時28分29秒 | 原点回帰 

「別宅で良い」 と答える妹に、「夜には妻子の元に帰さなければいけないのよ」 戒めても、
「それでも構いません」 わたしたちに伝えられる姉が高ぶる感情のあまりに思わず口を滑らせるは、「自分が別宅の子だから」 この失言に、ハッとして私を覗き込まれる。(2 出生の秘密 より)

 

原点回帰 「 第二部 殺人 24 - 43 」

原点回帰 「 第三部 告発 44 - 59 」 

原点回帰 「 第四部 言霊 60 - 80 」

原点回帰 「 第五部 薫陶 81 - 93 」

原点回帰 「 第六部 記憶 94 - 106 」

原点回帰 「 第七部 法治 107 - 116 」

原点回帰 「 第八部 鶴翼 117 - 完結 」

 


1 余命2週も、まだ27歳でした

カネで買えないものはない

 

とある年、大昭和 (ご存知ない方は国立美術館の収蔵作品が売りに出た、と考えられれば解りやすいでしょう) の経営危機により美術品が放出された。
息子さんが経営される銀座の画廊は全国規模で売却を展開する。

九州での販売を一任された私はオープンしたばかりのニューオータニでの展覧会が終わったばかりの半年後、今度はグランドホテルでも同じく最も大きな会場となる『翠玉の間』で開催した日本画・洋画展に来会されたのが、昼休みを活用された院長であった。

この日まで名すら聞いた記憶もない医院です。

私邸を訪問した夜が彼女との初対面でした。

妻子持ちは足繁く通いだした。出入り業者として。

 

ウグイスのホッペ

もうたいへんだった朝帰り

チェックアウトの時間帯

サクランボの哀しい詩

 


2 出生の秘密

 

「あなたを妹が好きになってしまったらしい」

いきなり何を言い出されるのか全く理解できない。
立場に落ちてった。
私は妻子の写真を肌身離さず持ち歩いている。

「貸してください」との姉。
1枚を預かる姉は別室で待つ妹の下に戻られ、
「忘れなさい」と忠告されるが、
「ますます好きになりました」 と社会的な立場にある身としても下したらしい。
力なく戻られる姉は、
「逆効果でした。こんなにあの子が強いとは思いませんでした」
たじたじの体で院長と私に報告される姉は少し涙ぐんでおられる。

「別宅で良い」 と答える妹に、
「夜には妻子の元に帰さなければいけないのよ」 戒めても、
「それでも構いません」

わたしたちに伝えられる姉が高ぶる感情のあまりに思わず口を滑らせるは、
「自分が別宅の子だから」 

この失言に、ハッとして私を覗き込まれる。

 

ふたりぽっち

 


3 鈍感な私

 

彼女に名を聞いた。
「◯◯です」
です。にて行き違う踏み込めない連れなさに即座に、
「下の名前」と尋ねたら、
「啓子です」
間合いなんて計らず、即座に心から掻き続けてくれる。

なぜ彼女が〇〇家の姓を名乗ったのか、この時点では無理がありますが、後々に悩み苦しむときに何故思い出さなかったのか、悔やまれてならない。

嫁入りされた姉(奥様)が連れ子とされたのなら◯◯姓では、おかしい。
なにより、なぜ◯◯姓をわざわざ名乗って強調したのか。
◯◯家に来ている私に、その家の女性が。

いつも一緒に居たい

 


4 ご近所の夜を切り裂く声、2回

三人の天女と一つ屋根の

 

私の機嫌をとられたり、ノルマを課せられるかの姉、私を買い被る彼女の立場と共に重圧の〇〇家は、春ではあるが冬でも伸し掛かる。
こんな一つ屋根の下、姉妹に姪の誰も居なくなり、私と院長との二人だけになった会話では途端に姉妹の話を打ち消したり正反対の本音を吐露されるようになる。

そして姉か彼女でも入り組むと同時に、そこまでの本音の話はそっちのけで私の妻と一人娘を彼女の下敷きとした話がどんどん進む。

結論は、私は妻子持ちであり院長を相手取る出入り業者だとはっきりしていた。彼女の義兄と見て、姉のご主人と見て〇〇家に出入りする者でもなかった。

無視されて進む話は現実離れしすぎ。この家には信じられない世界が二つもあったし、この二つとも私の世界とは余りに懸け離れている。
私は仕事において物腰の技巧で隠れ蓑を着慣らしても、空言で混濁させる面の皮なんて仕立てない。
彼女を笑われ草にして早仕舞いの義兄だ。なにくそとも抗弁できない。

院長との場に、温度差の姉妹が何時もの決まった話で割り込む同席では院長への優先順位にて誤魔化しなりの自失、うそ笑みで放熱する私を、わたしは創るようになりだしたみたい。

 


5 嫌われてしまった

 

そうこうしている状態が覚めやらぬ夜、

「妹のマンションを買っていますので、そこに住んでください」

前もって嫁入りの支度がしてあり、妹が私と出会う取り組みの温度を見計らうように姉は求めてこられるが、まだ手さえ取ったことなどなかったのに。

「(私達夫婦の)仲人をされた方(福岡県医師会の重鎮である伯父)や(私の母から妻にまで)会いに行っても構いませんから」

とまで姉が折り込まれた途端、

分け入ると感電しそうな対局に聞き入り黙り込んでおられた院長が並大抵ではない表情で震え驚かれた。

私にも、先生を無視して経済的な問題を第一に持ってこられる彼女の家は、別宅生まれの異母妹(「2、出生の秘密」にて投稿済み)を連れ子に嫁入りされているのにの奥様は益々もって分からなくなっていく。

この、囚われている私の思い込みを彼女は悟っていた。
だからこそ、姓を名乗っていたのです(「3、鈍感な私」にて投稿済み)。
気付いてあげられなかった。 

 


6 カネは不幸を退ける道具物

 

姉の真意は妹との結婚を前提とした離婚の求めと慰謝料の支払いにあった。私の気持ちなんて考えてはおられなかった。

一業者に過ぎずに覚束ない私はといえば紛れも無く脳みそは干からび始め、蝋人形めかされた私は何様かの雛壇でぷかぷかに生かされてしまう。

私のほうから先んじて行動に起こさなければならなかった、たる苦汁をなめる。
が、何を、どうすれば、そもそも彼女は〇〇家の何、なぜ嫁ぎ先に離婚の慰謝料まで出させるのか、それも嫌がってあるばかりか略奪婚。
煙りわたる難解さは半鐘の火災視だった。

自分のなかでの結論はいつも一つ。
“先生に申し訳ない”

この頃には、カネ欲しさに妻と別れたりしません、と考えるどころか、はらわたが煮えくり返る感情が一度も込みあげてくる事はなかったといえばウソになる。
彼女が如何なる大器であろうと、妻を娘を母を家庭を大切に守らねばならない責務は済し崩しようが無かった。

ではあるが、彼女は好きだった。抱きたくなっていた。姉の言動は彼女を慮っての純粋なものと、はっきりしていた。妹が好きになってしまった相手がたまたま妻子持ちだったからに他ならない。
そして姉とは余りにも異なる彼女の純な心根が際立つばかりであり、ただ単純に“欲しい” これだけでした。あの、バスタオルを巻きつけた身一つの彼女だけが欲しかった。
それに彼女自身が別宅を望んでいたのは偽らざる裏千家師範としての本心です。

が・・・・・
その立場、あの地位にまで二十歳過ぎで到達した子だ・・・・・
とてもじゃないが堅苦しそうな生活になりそうで重荷だし・・・・・
重荷なのは私の方でも用意しなければならない支度金も・・・・・ 
そんなことより愛人になんて出来るわけない。
私自身が社会的に非難の的にされて仕事が出来なくなる。 

 


7 習い事

 

日本最年少で、その立場、あの社会にまで到達した子から「別宅で良い」なんて何の前触れもないどころか何もしていないのに唐突に申し込まれて・・・・・
〇〇家としても認められた状況下から更に必要な金銭も出しますと一方的に行動を起こされて素直に喜べる男なんて居るのだろうか・・・・・

姉は姉で 「妹が可愛そう」 涙の底に身を沈めておられた。
「なにがなんでも妹を幸せにしてあげなければなりません」
手の中の珠を四六時中で抱き上げられて真っ直ぐに向かってこられる。

が結局は「習い事ではもう支出はありません。収入になっています」
カネの話に戻ってしまうんだ。
よる夜中のテレビみたい、わたしも砂嵐。

彼女を師範にまで上り詰めさせてくれた院長の財力と苦悩には感謝も負い目もあった。

私は自身でも「買い被りです」とだけ、こっそり胸の中に忍ばせている。
そして、据え膳には萎える自分だった。

喉まで出かかった言葉があります。
「ねぇ、なぜ貴女はお姉さんの嫁ぎ先であるここで赤ん坊の頃からお世話になってるの?
何故お金を先生に出させるのですか?」 
聞けるはずなかった。 

 


8 今日は訪問しないでください 

 

でも義兄は、

「妾の子の引き取りを反対したが姉は言うことを聞かなかった。それから育ててやって、ここに住まわせてやっている。今までに〝習い事〟では幾ら掛かっているか金額を聞いたら驚くぞ。
医院では苦労して集めた若くて綺麗な看護婦ばかりを他より高い給料を払って使っている。急に辞めても困らないように人数も余分に確保している。化粧もしない妹は人手も余っていて要らないが姉に言われて仕方なく使ってやっている。家に一人で居ても退屈だろう。給料も払っているが、これをみんな教会に寄付している。必要なカネは何時も一緒の姉が出すから要らない。
これは俺が働いたカネだ。
茶会がある日曜は朝早くから教会に行くが、遠いのでハイヤー代が掛かる。免許も取らない。何もかも俺に出させている」

辛くも、
「車の購入費やら維持費のほうが高くつきますよ」
助太刀できただけ。

そういえば、医院には25過ぎな女性は居なかったし、飛びっ切り可愛い子たちばかりでした。終業の五時前には医院の横の道はデパートの従業員口にまで迎えの車がかかり、いつもズラリと列を成していた。

あまねく、
「働いても二人でみんな使ってしまう。何のために働いているのか。妻が使うのは良いが妹に使われるのは腹が立つ」

涙ぐまれる。

同情しまくりでした。

 


9 悲しい生い立ち

 

新婚旅行での限りなく小さな生命を分娩室で失い、
「もう子供は産みたくない」 姉は錯乱状態になられたみたい。
この子への憐憫の情をも熱情的な高ぶりに増幅されて彼女は可愛がられる。

一方の院長は、
「妹が居てくれて良かったのはこの間だけだ。国際基督教大学(当時の福岡女学院は短大)に行って居ない4年間は良かった」
事も無げに言い捨てる。
「(濡れわたる色事に差し障り) 新婚生活がなかった」
度を越した恩着せがましさで息籠る言いざまも多岐にわたる。

私たち夫婦も新婚のときから実母との同居どころか妹の幼子まで預かっての妻が面倒を見てくれておりましたので嘆かれる不満が理解できない訳ではなかった。院長の言い方は強烈でしたが。謎は、危険信号と判明している新婚旅行での妊娠を急いだ理由だった。
まだ乳飲み子の異母妹を嫁ぎ先に連れて来て、先生の収入も大変な額を妹たる彼女に注ぎ込む姉はおかしかった。
みんなおかしかった。わたしまでおかしくなってった。
明け暮れを夫婦愛だと思い違いされておられる姉が使い盛る紙幣の分量と、煽られる彼女で考えると種々雑多な妄想に引っ掻き回されてしまうんです。

おかしいと言えば昨日投稿した20人以上もの看護婦さんや職員さんについてですが、警察官は結婚相手に困っているからとの事情で集団見合いさせられていた。当時で少なくとも10年以上は続いていた。ここに彼女までもが加わっていくのも分からなかった。
飲酒運転で検問に引っ掛かっても身元が判明すれば敬礼までして見送ってくれたそうだ。

こと資金においては何らの問題も疑問もなく院長に同情していた。
離婚と姉妹と資金について三竦みの私は、とうとう大変な決断を下す事態に陥る。

 


10 謙遜と服従

 

気が狂ったかの義兄。
一体全体なんだって言うのか。
お忙しかったんでしょう、うろたえる姉が台所あたりから内間を突っ走ってこられた。

驚いたのは姉の態度だった。
一言も言い返されない。ゆえに際立つ。

「彼が好きだから気になったのよ。彼の前でそんなに叱らなくても良いのに----------。妹が可哀相・・・」

何が起こったのか何一つご存知ないのに先生の言い分だけを鵜呑みにされる。
反論どころか確認もされない。胸の中に夫だけを、ストン、落とされた。
どこに引っ掛かることなく、容認。

ただ、悲しまれる様子が甚だしいってこと、だけ。
彼女に 「奥へ」と目配せされる。
それだけ。

これ、なに?
「違うでしょ」 かなりイラついたし、腹が立った。
院長には勿論だが、姉までがこうでは彼女が余りにも可哀相。

反論しかかった差し出口の私へと、

「口をはさむなっ-----」

すっげえ威喝声がおっかぶさる。

反論する私に驚愕される姉の驚きが、置き忘れられた姉妹愛を思い出された眼差しが、目に入った。
妹に代わって畳に両の指をついて土下座された姉が、私を横目に恥ずかしげに見られる。ただ正座していただけの私を、その横顔は、浴びる罵声に耐えつつ意識されておられる。

「わたしから良く言っておきますから」 姉の 〆

反抗した私を見られるは、私の前で自分までと傷つく誇りの奥様でした。
姉も立ち去られた後、今度は私が説教される番だ。執念深かった。

「二度と逆らうな」
「小さい頃から躾ている」

絶対服従する姉妹は信じられない家を私にも信じさせる。
彼女の場合には修道会の教義もあったが、分からないのは姉でした。ここまで従順なのは如何考えても納得できなかった。

この理由、のちに(数日後の投稿)合点の行くところとなるんですが、

 


11 我が家は糟糠の妻

 

妻はエンゲル係数が高すぎるにも関わらず、結婚してくれた。
結婚後、半年位あとに先が読めない状況下での独立を余儀なくされるんですが、お客様の方々に恵まれて可愛がってくださいました。お陰で順調な日々を送れていたんです。
糟糠の妻だし、私のベタ惚れである。子供は幼稚園に入園したばかりの女の子が一人いてくれました。

 

「ボクに縁談が持ち上がった」と妻に言った

 

ネオンに群れ飛ぶ蝶に私がもてたとしたら理由は一つしかない。妻の悪口を言わなかったからだ。
仲を聞かれたら、良いところばかりを挙げる会話から横道に入る。

天気の良い日でした。
洗濯物を側に置いた妻は陽だまりの縁側で幼い娘に、高い高い、している。
何時ものどうってことない会話から、
「ボクに結婚話がある」と発表した。なんたって一大事な営業になっていた。
「分譲マンションが買ってあるらしい。-----。奥様が会いたいんだってさ。離婚の慰謝料を払われるんだろう」
朗らかにあしらわれた。明るく笑われた。
つるべ打ちに語り合った。
そこに居た母は最初は冗談としてしか受け止められなかったが、妻は私が真剣な話をしていると次第に受け止めている。

怒り出した母にも私は言った、
「なぜ(異母)姉が嫁ぎ先の財産からこんなカネを支払うのか、おかしいだろっ」
と二人に投げもした。
濯ぐは大人の、のりやすい妻でもあり、
「たくさん貰えるんだったら良いわよ。ふたりでやり直すから」 言いながら娘に頬ずりしている。眩しそうに寛ぐ妻を照らす光の約束、私たち二人の結婚の誓いは揺るぎようが無かった。

和やかに庭の老椿に青葉を眺めて一家団欒する幸せな普通の家庭でした。
「結婚相手を見損なった」 なんて考えさせる言い方に私ではなく、見損なったと言う明るいホームドラマの粗筋を説明してあげるような、隠し事しない夫婦の会話に過ぎなかった。

ひとり、母の怒りようだけは激しくなっていくのでした。

 


12  主語なき人生相談

 

新鮮味が歳月に取り込まれて豊潤となった割烹着の妻であり、「別れてくれ」と遠回しに摩り替えたかった本音でもない。夫婦として健全な行進曲に日々の一齣です。
ましてや財産目当てで三行り半を出すなど有り得ない。長女も可愛くって将来が楽しみでした。こんな私だとは読みを誤る恋女房ではない。
会話にした私でさえ、「手さえ触れてもいない女性相手に何でこうなるんだろう」な素朴な疑問で終わっていく。
ぱさつく頑固で寒い月の夜なんてのが生白く照らす我が家ではない。無尽の構造へと頑張り、支えあう家族があった。

疎ましく嵩張りだした離婚やら結婚を一方的に求められる粗筋が、どうすればそんな風に発展するのか知りたくなって、仕事仲間や得意先に相談した。
が、彼女の社会的な立場から院長の専門も素性も公に出来ず、相談にならなかった。
 
〇〇家の名は出せずに困っている内容だけで相談した私への仕事仲間の結論は、
「ブスなのか」 「うまく運べば凄い画商になれる。信用もあがり人脈で繋がっていける」
と、大体こんなところでした。
利益追求で収まるから尚更嫌らしくなってしまう。逆効果。闇は更なる闇を重ねる。

お客様からの意見は、姉妹の〇〇家という名を挙げた途端に顔が曇られる。皆さん一様に、判で押したように同じ反応だった。

とどのつまり深みにどっぷりはまってしまいました。底なし沼だ。

 


13 とうとう「養子縁組」で申し込まれた

 

「妹の前では 『私たち夫婦の仲が良い』 との奥様の話は止めてください」
姉に叱られてしまいました。やんわり、お断りしていたつもりだったのに。

私が「妹との結婚を断る。妻とは離婚しない」なんて決心するとは夢にも思って居られなかったみたいです。

いつも前後に脈絡なく、結論を押し出される姉でした。この日も突然に、
「養子に入っていただけないでしょうか?」
不可解さに慣れっこになっていた私に理解できたのは、この瞬間に見知った院長の心底です。
「姉に見事なまでに裏切られた」 と私に告げている。
私が訪問して来るって言うんで、何か話し合われていたんでしょう。それが「引っくり返った」と、ま、こんなところの院長の心でした。当たらずとも遠からずです。

あっちの話になる夜もありました。
男性経験の有無について、姉は、
「知りません。男の人たちは・・・」 睨まれた私と院長です。
私たちには分かっていた。ない、と。
そっちの話 「ほんとに良いのかな」 考えている私だと姉に分かったとき、
「分かっています。どうぞ」 差し出されました。 

わたしは初物嫌いです。信じられないとかじゃなくって、半信半疑とでも言ったら良いのかな。とにかく、夢みたい。良い夢なのか悪い夢なのか、そこから分からない。

 


14 彼女が毎朝で洗濯した

 

押し捲られる奥様から、
「分かっています」 腹を立てられたって試されているみたいでした。加えて、どうしたら良いのかさえ分からなくなっていくのです。
・・・・・だって、まだキスさえしてないんだから・・・・・
「子供じゃないんですから」 とまで姉に付け加えられたって、
「はい」 って、抱ける女性ではなかった。

かみ合わなかった。根幹に慰謝料やらの大金という汚い病巣がある。
普通、慰謝料ってのは少なくとも肉体関係のあとで発生するのに、最初っから出されてある。
それも女性のほうも家族から。
「はい」ってな訳にはいかないよ。

彼女にしても、夜に男と女は何をするのか位は知っていたでしょうが、姉夫婦のシーツを何故毎日洗うのか不思議がってたんだから。
 
やり損なえば私の仕事柄、信用も失って生き残れなくなる。
なんたって私は院長を相手取る出入り業者なんだからと、ここから出した私の考えは、今まで通りに仕事で出入りするのか、彼女の相手として出入りするのか、です。
淘汰されたくはなく慎重にならざるを得ない社会的な視野に立つと、取りあえずはこうなった。
あとは決断。

 


15 鳶に油揚げ

 

「妹と一緒になってください」 

姉に口説かれて遠からず承諾したら、
「(姉妹が)何んと言おうとオレが許さなかった」

不始末をやらかしたのではないし、それは院長も承知してあったが、姉妹と反社会的な男女関係で癒着させているかの気分にさせられる。

「持っていかれるのは腹が立つ。ここまでカネを使われて別宅だなんて」

とどのつまり仲立ちされる姉は、私の首を縦に振らせられないままで1年以上もの月日が流れているから、先生は怒り心頭でした。

頑是無い私の一人娘まで引き合いに出される。
「娘から妻子持ちへと別宅でいい」 と言われたらどうする。
「鳶に油揚げだ」

責め問われても、甘受しなければならないと努力した。
暗たんとした心は自然に泣いている。
そこまで言われ続ける月日にて、

「もう承諾しても良いぞ」

白々しい。試されていた。

それでも不平不満ばかり鳴り物にされる中から彼女について聞かれると、
「好きです」 はっきり言えた。
もう、嫌いではありません、な言い方ではなかった。いとおしくなっている。

「無理をしなくてもいい。姉妹には俺から言ってやる」

これでもう良いのに、

「(三顧の礼で迎えられて) 妻に気があるのか。歳だし、子供も3人産んでいるから(アソコは)もう汚い。昔はきれいだったぞ。まさかとは思うがーーーーー」

魂消た。

「娘に気があるのか。娘はやれない。医者に嫁がせる」

 

 


16  25年間も毎夜で欠かさなかった

 

我が家の産婦人科に視診やら触診を羨ましがった先生が何やら言われ出す。
「----------」

「(アソコが) きれいな人は来ないんじゃないでしょうか」
即座に正しい方向に向かおうとしたんですが、

「(着付けで晒しを巻く彼女の大きな胸を見てから強い関心を抱きだす) 妻の妹に手を出すわけにはいかない」

時を同じくして、生理や出張で家を空けられる日を除いて、新婚旅行から毎晩欠かさない姉とのその夜毎を聞き済ませてしまいました。

・・・・・姉のアソコに院長が顔を埋め・・・姉が腰を上下させ・・・院長の顔が濡れそぼち・・・姉が拭き・・・院長にパンツを穿かせ・・・ふたたび風呂に入られる姉・・・・・(これ以上事細かに書く必要はないが、これだけでも書いておかないと後々の投稿が意味不明どころか支離滅裂に感じられるかと思われます)

家事一切を賄う彼女は、何故お風呂に二度も入る姉なのか、何故シーツを毎日洗濯するのか訝しがっていた。この子の睡眠時間は三時間とか四時間でした。

私は姉の顔、とてものことにまともには見られなくなってしまいました。それどころか顔を伏せてしまうのです。その場面が蘇るのです。まるでテレビに見入ってしまうかのように。

毎晩で欠かさない理由は、姉の昼間の出来事から考えを、その最中に聞き取る、言わせる、抱かれている時には隠しようのない本心が現れるから、と信じてある。洗脳の夜勤でした。

所有される同じビルで部屋は異なるも一日中一緒に働いてあるのに、
なのに、マンションや慰謝料に養子縁組の肝心要の決意は聞き取れなかった。
・・・・・その最中でも姉は言われなかった。それで先生は焦ったんだ。

彼女が学生の頃、先生は原野商法に引っ掛かって土地(この土地から所有者から住民を私は良く知っている)を騙し取られたことがあったらしい。この時まだ子供の彼女から言われた言葉を未だに根に持っておられた。
「妾の子のくせにむかつく」
この時に難を逃れた一等地(現在はデパートの新館が建つ)の使い方については立ち入れない先生であったらしい。姉には彼女の考えが第一となっていた。他にも何度も苦い思いをされたらしい。彼女への恨み、そして不動産にはおどろおどろした考えをもってありました。

聞き取れなかった驚きと恨みが妹への八つ当たり、私への憂さ晴らし、姉との夜を更に深めていった。
姉の声に姿態は今も忘れられない。こびりついています。25年以上も毎日、信じられない。
それも一方的。姉はただ・・・・・つまり、絵に描いたような正常位、眼下に標的となる夜景を眺めつつの単独の夜間飛行・・・。
もう何もかもが私なんかには全く理解できない世界。
そして、カネ、カネ、カネ。嫌な家だった。つまり私も、そんな目で見られるってこと。
だから尚のこと彼女が気になる。連れ出してあげたくなっていく。

「(姉は自分からは) 何もしてくれない。毎晩毎晩が大変だから「大人のオモチャ」を買ってきてくれないか。(有名すぎる) 俺は買いに行けない」

「夫婦で使うものではありません」 はっきり断った。

 


17 電気は点けますか消しますか

 

後見人の任に当たる方が、姉妹には居られた。
医師会長を何期も務められる全国でも著名な重鎮である。
この方は姉妹の家に対して、「(私の本家)には気違いの血が流れている」 なんてとんでもない嘘を流された。 
彼女に私を諦めさせる方便だったのでしょうが、これで最も傷ついたのは彼女です。
「気にしていませんから」 普通に微笑んでいたが。華々しい世界で追い詰められていく。
(ここまでに投稿した姉妹と私については全てを把握してある) 後見人は「時が解決してくれるだろう」 と安穏に暮らした。姉妹の家から商品を担保に借金してもあったので清算してあげた私。
意見できない後見人では困るからだ。後見人も私も、姉妹を大切に考えていた。
ひとり・・・・・・・・・・除いて、みんな心配していた。

「(アノ時) 寝室を明るくしたいが (姉は)拒否する」

「大人のおもちゃを買ってきてくれ」 と頼まれたのに断ったばかりの私でした。あとの事が気がかりです。

「(明るくなってから) 朝にされたら」
埋め合わせのつもりだったのでしょう。助言してしまった。

「やってみよう」

ここに至る私の助言が先生にとって都合良き脚本で書き直されたらしく、姉が私を厭らしい眼差しにて避けられるようになられたのは秋も深まる頃、彼女が倒れる半年ほどまえでした。
オモチャを使いたいという欲望が内分泌の逆鱗に触れ、余りにも激しい「初めまして」の面立ちに院長はびっくり仰天されたらしい。私を悪者にされた院長だと想像するに何の障害もありません。
最低の私には逆立つ気配で対峙されるようになられた姉。穿った肉体文学のナレーターは院長。あられもない夜景が焼きついたのは私。
じぐじぐした譜面をうろ覚えでもしてしまう後ろ汚さは間男な、姉色は青空教室で惑いあう歳月の夜の場に濡れしょぼたれる。顕著に、ひょっとこやら天狗やらで夢幻に暴行にビデオめかして観てしまいました。

ここからの彼女の気持ち、ここからの半年に思い巡らせると堪らない。

18禁が続いて心苦しいんですが綺麗事で一から十を済ませる恋愛では何も残らない、のと同じです。愛した女には憎しみも存在する。それを人は絆と呼ぶ。親子とは異なる絆である。優しさは易しさとも異なる。

 


18 第六感は正しかった

 

初めて訪問した夜、この屋敷に邪気を感じ取ってしまいました。
全身がすくんだ。服を貫き通す脊髄への予兆どころか、どっと身の毛のよだつ寒さです。空気も暗かった。
一件の商いでも多額の現金で決済する私の仕事では最も重要な、大事を取る感覚だとは骨の髄まで承知している私です。 

これ以前の展覧会では初対面の先生から 「カネで買えないものはない」 なんて発言をも耳にしていたことでしたし。
なんの遠慮もなかった。だから、はっきり御夫妻に質問できました。初めて訪問された方にそんなことをはっきり言われるとはと、ご夫婦はひどく驚いておられる。

私にしてみれば、そんなこと知ったこっちゃ無い。人生を賭けた仕事なんだ。懸念が確信に変われば帰る。相手にしない。目先のカネなんかより大切でした。

 

天使に道なき道 上

 

第六感で猪突猛進に、邪気を、この屋敷に出入りする者の素性に置き換えて私は言い表した。
初めての商取引も矢先の自営業者の表現に院長夫妻は憤りというよりも呆気に取られてあった。
しかし、内向きに秀でた奥様が道理を通し、あからさまに慇懃無礼な私ごときに、礼に則って答えられたので吹っ切れてしまったんです。
私の失敗は、この感じた過去を葬り去ってしまった無能ぶりだ。

新婚旅行から25年以上も毎晩で欠かさなかった、その夜。
・・・これを信じてくれる人、居ないかもしれない。今の私でも信じがたいんだから。が、真実だ。どうしようもない。
夜の営みやら大人のオモチャで院長に助言した事によって今度は私が陥れられる。
11月頃からの姉は私にぴったりと、それまでみたいに張り付かれなくなっていた。
年が明けてからは浮かぬ顔でも、私を落とそうとはされなかった。
死の宣告まで、ここから半年、六ヶ月近くもある。
私と彼女との出会いからは、邪気からは一年と十ヶ月後の宣告だった。

わたしも酒の席なんかで相手に合わせるどころか自分から下ネタを披露したりもするが、相手が特定できるような言葉は使わない。
ましてや妻との夜は、想像される単語さえ控える。
ほとんどの男性はそうじゃないでしょうか。
なのに度を超えていました。こんな人が居たのか、と信じがたかった。
「言わないで下さい」って止めようとしたって、滑らかに続くんですから。 

彼女にとって姉は 「私を落とす」 唯一無二の拠り所でした。
この姉の誇りから尊厳どころか存在を根底から卑しめる私とされたのである。
彼女にしても立つ瀬が無かったと思われる。
わたしに会いたくない姉を理解できたでしょうし、それまで姉に任せっきりでしたから従わざるを得なかったでしょう。
・・・どんなに寂しかったことか。
ひとりぽっちで空知らぬ雨、涙に濡れていた空に知られぬ雪、散る桜だったに違いない。

のべつ幕なしの動悸で雪隠詰めにされた彼女。
どれだけ女心を痛めつけたのでしょう・・・・・うかがい知るのは簡単なだけに・・・・・居た堪らない。

 


19 天使に道なき道 中

 

12月、わたしは私で師走に入る頃には一大決心を固めていた。
それは、離婚と結婚を二人の女性の間で繰り返しつつの生活でした。
俗に言うところの東京妻と福岡妻なる、ふたつの地域に女性を置く形態です。
まず離婚しての結婚しての離婚する。そして今の妻と再婚。あとは子供が出来るとか、必要な時に必要な方で籍を出し入れすればいい。

これしか解決法は思いつかなかった。 
秋には準備を始めていた。必要な資金繰りでした。

 

見なし重婚 上

 

あの家から早く彼女を連れ出してあげたい。解決策は重婚まがいの漫画みたいな方法しか思いつかなかった。
姉が差し出された慰謝料やマンションなんか義兄たる先生の資産による出費は断ると決め、必要な資金は自分で用意し始めた。
といっても、あの立場に史上最年少で到達した彼女を手に入れ、かつ妻を東京に置くわけだから金額にしても小さくは無い。
院長の家とは出入り業者だった私の仕事に区切りを付け、彼女を相手とする男になる決心も固めた。仕事とは切り離さないと院長とは対等の口が利けない。
こうすることがもう一年以上も離婚とか結婚とか訳分からずに求められ続けている私にとっては自然のことと思えていた。

初春になっている。ツリー、飾り付ける頃から姉妹とは会えない日々が続いていた。
明るくなっての朝に大人のオモチャから発展した先生の思惑通りだった、という事でしょう。

姉妹にも、わたしの収入からの生活費は半分づつに分けると言わなければならない。半分といっても大台には乗っている。
この決断、妻には話した。
姉妹にはある程度の準備が終わってから報告するつもりだった。
そうこうしている内に2月になる。仕事の目処がついた。見做し重婚への資金の手当てもつきました。

今夜こそと満を持して訪問した日も初釜とかで姉妹ともに泊りがけの不在だった。
この夜に限らず、ことごとく会えなかった。

 


20 愛と清貧の戒律 上

 

逃げ込み婚だったのかも知れない。が、考えないようにしていく。
父みたいな愛を知らず知らず求めていたのかもしれない。
異変を察知する澄んだ瞳と白い歯の母性本能が、無自覚に子育ての呼吸で手繰り寄せたんだ。
答えられなかったオトコ。
この子は四季を問わず長袖にロングのワンピースでした。会服を体現していたのでしょう。自宅では食事でも寝る前でも祈りを欠かさなかった。ロザリオも人の目に付かないように肌身離さなかったフランシスコ修道会。

この思う子の寛容さ、普段は音叉みたいに端正な風姿で色めき立つ。
「欲しいものを買いなさい」 言っても、
「何も欲しがらないんです」と、姉は困っておられた。

なんでも買ってあげたかった・・・・・
問題は仕事上のお付き合いとしてなのか、自分の 「おんな」 としてなのかでした。が、これも自分の連れ合いとしてと決めたばかり。

毎週日曜の大〇別荘における茶会にて、
「お弟子さんから 『この頃綺麗になられて』 と言われる妹はすごく喜んでいます」
との一番弟子たる姉の 「お分かり?」を、意味を引きつらせてしまう。
目鼻立ちが端正な色香へと張り切って嬉しそうな眼差しは撫子の若葉の色に訪れて好し微風で撫で上げたい。
ひとひら、すればふたひら、花の蕾の清んだ声で弾むと赤み走ってしまう。

小さくない胸は帯では見苦しいと晒しで締め上げていました。
「まともにぶつかってきてください」 誘発してたんだ。

姉なる奥様の美しさは凄かった。もう40代なのに、とても見えない。あれほど綺麗な女性を私は後にも先にも、邦画にも見たことがない。毎夜の営みも焼き餅焼きだと聞きかじった先生だから、と考えてた私。
娘さんもキレイな20代前半でした。
彼女は、師範はポッチャリ、かわいかったぁぁぁ
芍薬、ユリの花、蕾む牡丹。。。 

梅暦にて捲られる辛夷が散り掛かる花便りみたいに折れ目の色が焦げっぽく観て取れた夜もあったんです。
        
変わりなく穏やかに私の前に座ったんですが、ふたひらが、唇の色艶が尋常ではなかった。
広い応接室に位置としては正三角形になるみたいに、院長との三人は座ることになるんですが、彼女が座った途端、院長は私に対して自分の横に座りなおすように指示された。
2~3メートル以上は動いた私です。
院長と私は二人して彼女を、まるで攻め立てるように彼女の正面に並んで座ったのです。
わたしからは院長の顔は読めない。

態度の彼女はにこやかに微笑んでいる。
唇の異常を私は院長に知らせた。

気づいていた。
「野点のせいだ」 と一笑に付す。

私としては、それ以上突っ込めなかった。

静かに、柔らかく、座っている。 

 

「もう行きなさい」 と義兄は退席を促した。

「はい」

「(来ているのを知り、私の居る部屋に一人で)来るなんて珍しい。よほど好きなんだな」


なにも言えなかった。なんにも出来なかった。
これが永久の別れになろうとは・・・・・・・
ワンピースの後ろ姿が焼き付いている。

 


21 大学病院 上

 

その夜の彼女、二十七歳。
唇の色の余りの変わりようを院長に合図したが、一刀両断に切り捨てられてしまいました。それも無表情に。有無を言わせない力が言葉にこもっていた。
つまり 「変だ」 「してやったり」 とは確信していた。

直感を何故わたしは何やかやと何んで騒ぎ立てなかったのか、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないことばかり。

四月にもなる。

GWに入る。

明けた。

甚だしい痛みを訴える叫びに寝入りばなだった姉が部屋に駆け込まれるのは、八十八夜も去って立夏を迎え入れたばかりの沖縄が梅雨入りする頃、連休明けの夜更け 5月7日でした。
踵を返し、救急車が呼ばれる。サイレンが一晩を切りさいなむ。

ブラは着けないパジャマ姿の胸を掻きむしっているのに・・・・・隊員の手まで借りて着替えさせられた・・・・・

大学病院に搬送されたのです。もう、日付は変わっている。
針が回っても、その日の夜、前もっての約束どおりに私は彼女の家を訪れました。
八時ごろだったと思います。

「病院へ行きますっ」

邪魔したソファにテーブルを蹴っ飛ばして立ち上がり、一人で留守番しておられた院長に、なおの仁王立ちで夜間出入り口の場所を聞いた。

ジロッ・・・・・・ッ
端々まで烈しく睨みつけられての詰め、

「慌てるなっ」

低き定着も攻め支度にて怒鳴られ、
おっちょこちょい、を相手にする不愉快さで何から何までを蔑まれた。

「面会時間は過ぎているし、麻酔で寝ている」

「じゃ明朝一番に行きます。何時から面会できるんですか」

「明日は朝から手術で、終わっても麻酔が効いて寝ている。結果は昼間に連絡が入るようになっているから、夜、自宅に来れば良い。教えてやる」

制止させられる。

完全に見透かされた。

 


22 余命二週の乳がん

 

直感した雪と墨を、風や手で折れた辛夷の真っ白い花びらが土気色に黒ずみ腐りゆく様子に悲しみを思い出していた自分自身を、愚かにも打ち捨ててしまった。

・・・・・それほどの、彼女の、唇の、色、でした・・・・・
大学病院に救急搬送される、一ヶ月以上は前だった。

彼女にとって、私を落としてくれるはずの妙薬な姉は、気骨が折れる延々とした私への大気圧に加えての院長との板ばさみにあって疲れておられたのでしょう、油断しておられたのでしょう、見過ごしてしまいがちになる月日だったのでしょう。


わたしさえ動いていれば、医療機関にしろ相談先にしろ普通の人たちが想像できる以上に持っていたのに・・・・・

院長の指示に従い、彼女が搬送された当夜は病院に駆けつけるのを控えた。

・・・考える。

・・・胸を痛がっていたらしいから・・・???

胸に走る熱い火に寒くなる。
病名なんて想像も付かなかった。
後悔していた。

「一ヶ月、打ち明けるのが遅すぎた。だけど遅かれ早かれ今月中には快気祝いだ。重婚まがいを申し込む」

身を奮い立たせて考えすぎるのを鎮めるのに死に物狂いでした。

「明日の夜に出直して来い」

言われたとおり、診断の結果が聞ける、その夜を待ちました。

で、院長の待つ彼女の家に出向くのです。
・・・長かった。

聞き覚える。

「乳がん。あと2週間の命。医者の判断だった。病室には内鍵を取り付けたし、面会謝絶の札が掲げてあって行っても会えない。俺が伝えておいてやる。妹には教えない。最期まで隠し通す。家族の問題だ。口を出すな。もう関係ない。『(執刀医が言うには)手遅れ。メスを入れただけで手の施しようが無く、そのまま縫合した。一ヶ月早ければ。痛みはあったはずだ。きれいな胸だった』 」

・・・・・・・・・・きれい!? 余計な手当てだ。

ここからだ。おかしくなっていくのは。

 


23 見なし重婚 下 

 

見做し重婚への資金の手当てもつきました。
GWになる。
明ける。
5月8日・・・乳がん、27歳なのに余命2週の告知となってしまいました。
愚図ついた私が悪い。支度金も都合がついたんだから強引に動いてれば二~三ヶ月も前には診察を受けさせられた。
それに、あの夜がある。この後ろ姿に声をかけていれば。。。
院長に逆らってさえいれば。。。 

  

天使に道なき道 下

執刀医は、「一ヶ月早ければ。痛みはあったはずだ」 とも付け加えられた。
この半年間の重さ、大切さは計り知れない。
無為無策に流したのは、誰だ。
・・・私に他ならない。
これはもう殺人だ。少なくとも未必の故意である。
では殺したのは、誰だ。 

 

 

憑かれしは逝くの朧な雲母の駅

 

 

 

 


みんなと過ごす1月9日(水)

2013年01月10日 09時03分16秒 | みんなと過ごす作品展 
 

お子ちゃまね吉田くん(^_-)-☆ RT @yoshida_justice: ちょ、ちょまって!うわっ!お・・・お・・・おかぁあああさぁああああんんん! RT @YukieKawamura: 2月に発売になるDVDオプショット。グアムの海 bit.ly/UG8xIS 

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Twitter の今日、みんなと過ごす作品展。内容案内 blog.goo.ne.jp/goo60xyz/e/bef… 

 

109さりながらさりながらとてくりかへす 日常に降る銀の秋雨  108向井理が 107「夏の七草」 106片瀬海岸は 105寒中見舞い 104ご遠慮願います 他400件以上

写真展中は展示写真の紹介をしてきます^_^まずは「厳冬の南八ヶ岳、大同心と横岳」圧倒的な存在感と、厳しくも美しい冬山の景色が感じられる所が気に入っています。大きく引き伸ばしたらより一層映える写真です。 pic.twitter.com/wl33h8mh

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前進座劇場千穐楽、無事に終了いたしました。終演後には中村梅之助からも挨拶させて頂き、前進座が次のステージへ前進することを固く誓って幕となりました。30年間のご愛顧まことにありがとうございました。 pic.twitter.com/rj89SpJU

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Twitter 108 東京都薬用植物園で「万葉集と薬草」 。京都十六社朱印巡り
Twitter 109 さりながらさりながらとてくりかへす 日常に降る銀の秋雨 mytubaki.blogspot.jp 

 

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みんなと過ごす1月8日(火) blog.goo.ne.jp/goo60xyz/e/8d8…  

 

@bombon_sawa 黒木瞳さまと朝から餃子 @4travel 「八重の桜」鶴ヶ城  @satovich0427 鬼夜

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