事実は映画よりも奇なり

乳がんで余命2週の告知もキリスト教の27歳の裏千家師範は延命薬で百八夜を内鍵付きの病室にて戦うも・・・

4/6 眼に沁むトラウマ

2010年01月19日 20時12分59秒 | 朝顔 「椿灰」 

 5/6

歳月を必死になって巻き戻した。考えるだけだと知らず知らずに安易な方向へと逸れていく。だから書いてった。

何処かに何か大変な何かが隠されているに違いないんだ。
そうじゃないとここまで権力が攻めかかって来る訳が無い。それも随分と子供じみている。国家権力がだ。
世界遺産で散った娘が教えてくれる後ろめたいからこその相手の焦りの色は、私に自信を形で見せてくれた。

めきめき思い出せたが腱鞘炎にもなった。
頭蓋骨の後ろでは右から飛ぶ弾が何かにぶつかり、左の脳を震動させる。
こんな毎日なのに、たまに思い出した小さな他愛無い歓びが勇気づけてくれる。
それをバネに体験した事実を積み重ねていく。日本語から学ぶ、小学生からの再出発となった。
再認識どころか、自身を自分の自由な意思で積極的に追い詰める。

男の姿を借りた看護尼僧が比翼塚として生きた聖地。体験記の筆跡から解読は、しんどかった。ここに強い意志の力が求められたのです。
聖域で一番大切だったのは、自分を信じ通せる強き心。
自身の過去を意識して隠そうとしない顔が刻む、他人からの第一印象。人から何を何んと言われようとも、恐ろしい組織に相手に合わせつつも「言えません。忘れました」と無心の心で接することができる自然の日常。
これが、御山とした南阿蘇の真相となって、今にブログを産んでくれた。

18ヶ月後、尻の肉も落ち、ジーパンも引っ掛からなくなっていた。
慌ただしく書きなぐっただけの、でも毛筆にした五百六十枚が書ける。
1994年も6月の終わりでした。

とても公表できるとは思えない幼稚な文章、かちかちの死んだ老人語。
ここからが、始まりだった。もう、やり直し、後戻りできない過去の引き出し方をしてしまった。それは顔の造作にも、身体つきにもなっていたでしょう。

ここまでにしたって、それまで数段階を経て思い出せた内容にも、犯された裏千家師範の病室やら奪われた私の資産は含まれてなかった。
それだけ凄惨な、という精神的外傷です。あれだけ遊びまわった私がだ。

姉の死にて生まれた〝書いて良いのかも〟たる思いが、それらの犯罪した流れを突き止めていく。自然に「書ける」と。



   やすらぎの席にくちづけ横たわり忘れな草のいつまで草の



実しやかに生きた自分の面の皮が剥げる。
妻子を捨て、安全圏に逃げていた。そこから(トラウマ)から逃げたい、逃げられたと思った筈の〝御山に今という時に〟酔い痴れていた。
ここにこそ真相が未来が尊厳が隠れていたのに、大事に抱え、素面で酔っぱらってた。

自分に何が欠けているのか、何かが隠れているのは分かっていたのに、それを抉り出そうともしないで楽な生き方をしてしまった。

自然な時の移ろいに甘えていた。探してくれない隠れん坊でも甘んじていた。
第三者には簡単な、突然も三面記事の殺され方なのに。。。

その、二十世紀も今年限りとなった二月七日の朝、無性に繊毛が見たくなる。何故かまでは分からないし、そこまでは考えない。自分に正直に生きていた。

パッケージが見え難い老人になっていた私は、テレビではカットされてしまうシーンをビデオから〝ここ〟と見て取りたいオヤジとなり、なんとなく、そんな感じの一本を選り抜いた。
普通の棚に並べてあったんです。アダルトコーナーの存在は耳学問していたが、そこまでのモノは見たいと思わなかった。ただ、ぼかされていない、カットされていない繊毛が見たい。そこだけの欲望でした。
パッケージの写真はズレとボケから何気なく手に取った。
表題の「張り込み」というタイトルから連想する刑事物も影響していた。


家に帰り、しばらくしてから、差し込む。と・・・・・

・・・・・なんか、おかしい・・・・・

  すぐ止めた。やたら腹立ってくる。押さえられない・・・・・