どんなに物凄い権力の寄せ集めでも根底にどす黒く横たわるのは、カネ。カネである以上、叩き潰せる。 、、、現実、、、 余りの不可解さに記憶を取り戻せた私。一番大切だったのは 【自分を信じきれる心】 これがなければ潰れていました。(117 百億持ち米国逃亡の国際問題と原点 下 より)
#母子家庭
2012年(平成24年)10月22日 一回目の投稿日
「原点回帰」 一気に仕上げる国語力どころか体力までなくなりました。
かといって立ち止まっていたら何時までも前に進めない。
出来るだけ毎日で書き込みつつの完成に近づけたいと考えております。
2012年10月7日
待ちに待ったブログへの訪問者が来てくれた。私の知人ではない。師範の、です。こういう方の来訪を待ち望んでいたのです。やっぱり、ツイッターでも繰り返しツイートしなければならない、と痛感しました。
あらすじ 【 朝顔 】 これは記憶喪失からの回復過程で投稿したページを羅列しただけでしたが、現在の投稿段階で軽薄も猪突猛進に反発される方には、まず日本史を学び直して頂ければ有難いのですが。
上記を読まれてない方は目を通してからにしてください。この物語は三流以下でも推理小説な内容なんです。
そして、挿入する私のは句に詩に非ず折れそうな心の接着剤です。
タイトルに挿入するリンク先は原文。
117 百億持ち米国逃亡の国際問題と原点 下
憎い彼女でした。そして愛おしかった。なぜだろう、逆らえない。
忘れていた素直だったであろう幼子ではの自分になる。
男と女の心の奥に日々で運動する凹凸の波が何かの弾みで、ピッタリ収まってしまった。湿り気で膨張した桐の箪笥の引き出しみたいに離れなくなってしまう。それだけのこと。
ただ、だから、彼女は逝った。応えなければ、男ではいられない。
こののち何人もが殺された今も、院長を告発した途端に医院を息子に代替わりして、本人は米国移住なんてので今に至るも、カネも何もかも犠牲にして社会を守り続けた私の過去に後悔はない。が家族は違う。
が法治国家としては、これで済ませてもらっては困る。なぜ、移住できたのか。この問題が公になって喜ぶのは裏社会の人たちです。だから捜査も打ち切りでは納得できない。
「あなたは妹があんなに好きになった人なのよ」 この言の葉、
「姉は守ってください」 との彼女の遺言にしてしまっただけの私。
単純なこと。『姉だけは・・・』 こう言い遺されては、どうしようもない。だから悔いもない。
が、母に元妻に娘は、家族は、別だ。
人脈。連携を保ち、
背景。犯罪を重ね、
経緯。手足になって働き、
世間。風評もカネまみれで流布させた結果、
歴史。戦争の続きとした抗争勃発、
抹殺。全てを揉み消そうと、
原動力。犯罪者に仕立て上げようとするも失敗、
何も、何ひとつご存じないままに姉も彼女の下に逝かれた。
雲の上から観られている私です。恥ずかしい死に様はできない。
どんなに物凄い権力の寄せ集めでも根底にどす黒く横たわるのは、カネ。
何十億だか、百か二百か三百かは知らないがカネである以上、叩き潰せる。
現実。余りの不可解さに記憶を取り戻せた私。
一番大切だったのは 【自分を信じきる心】
これがなければ潰れていました。
118、憎しみで植え付けてはいけない 下
愛娘にはまだ会えない。セーラー服さえ私は見てない。怒っている、でしょう。何一つ聞かされてないんですから当然です。
会うには、まず過去から説明しなければなりません。
それも思考回路の過程で裏千家から師範から姉から院長への怒り憎悪が生まれるとしても、映画を観た終わりには 「消えていく」 感想で娘には、したいと考えてます。
会話から入るのは無理だ。
ブログが最も適している、と思いつきました。
静けさを覚える自分の時間から、じっくりと噛み締めてほしい。
ですから、ブログの初めての投稿から、内容は私自身を抉る書き方に傾けていくのに苦悩しました。
二つのブログからツイッターの存在理由の第一は、ここにあります。
娘への謝罪から説明に尽きる。
119、
120、下の妹へ (2010年07月25日 投稿より)
医師会、財界、法曹界、居心地良き上流社会でしょうが、母が心配している。
師範殺しから抗争に関係した社会が何故、私から貴女へと取り巻いていったのか。
貴女は私の情報を得たい勢力に最初っから利用されていた。
今は私を周辺から圧力を掛けて黙らせる為に、母から苦しめようとのホンモノのワルに成り果てた上流とやらに操られている。
それと知っていても何故わたしは何も言わなかったのか。それは嫁入りした貴女だから。
私を恨んでも構わない。だが母は切り離して考えなさい。そうやってワルは何でもかんでも一緒くたに受け止めさせ、枝葉なのに、さも当初からの根幹めかして太らせる。
東京もんから馬鹿にされ続ける田舎の構図だ。あなただって東京から福岡に帰ってきた当初は嫌っていた社会の在り方でしょう。思い出してください。
医師会長周辺との付き合いがそこまで深まったのは何時ごろからなんですか。
そこの会長の娘さんが貴女に対して偉そうに語る様子が目に浮かびます。あの家で私は商取引した実績はありません。それどころか姉妹から絵画を担保に借金してあったので清算してあげました。はっきりいって五百近くを捨てたのですが、後見人の座を捨てての過去は消えない。それも、担保としての価値は借金の3分の1程度しかなかったし、手持ちの売れる絵を一点出されれば円満解決していたでしょうに。
そして、とある年に高額所得者番付も一位へとポーンと躍り出たのは、何故? (笑)
さる先生の夫人を、姉妹は言葉にはされないが、嫌って居られた。そこの先生は私にとって得意先も最も大切な方のお一人でした。診療科目は違えどもスープの冷めない距離での開業でもあり、◯◯だから仲を取り持ってあげたくて1000近くを捨てました。が、双方ともに、私の行為をご存知ない。
カネで人を助ける時には、それと知れては、表に出してはいけないのですよ。
九大在学中に司法試験に合格した弁護士の夫人と知り合った切っ掛けは? そしてそれは何時? 何故私の依頼人だったその弁護士が会長になったのか。「112 4/6 時効は停止した」 に、2006年5月23日からで記載。
キリスト教関係は? 誰からの影響なんですか。外科の開業医でしょ。
私が丁稚奉公している時代における、何か勘違いしての悪評を娘さんはバラまいているみたいですが、途中で入室してきての思い違いも甚だしい。
なぜ、傘は売れたのでしょうか。(笑)
全てが関係先あるいは周辺のご婦人たちではありませんか。
「110 2/6 国外逃亡」 の1995年に記載。2000年3月22日からの分については卑しい電話番号の記録も着信専用電話にて保存しています。
このブログの内容に貴女の周辺で起きた関連する出来事と 原点回帰 「 第七部 法治 107 - 117 」 の年表とを日付けから照らし合わせてごらんなさい。
何が観えてくるかな?
わたしは、なにひとつ、助けてあげられません。
が、、、画商として知り得た情報に対する守秘義務は、私には、、、ない。
たとえ50億相当の当時は裏金だった美術品に大なり小なりの詳細でもね。(笑)
その老椿は
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2012年7月7日
この七夕さまの日に母は退院しましたが、ここへの三年、いや十年、院長に通じて逃げまわる術を求め続ける人たちに聞かせたくない真実には須らく偽りを母に話さなくてはならなかった。
情け無い。
この件に関して貴女と話す席はありませんでした。これからも、ないでしょう。
嫁入りした家として自分たち家族で苦しみ、解決させなければならないのです。
それが、妻であり母の務めです。
2012年10月29日
「私を止めないと(お兄さんを止めてくれないと)、 刑務所送りになるから、「子供たちの(特に姪っ子は医療関係だから伯父が前科者になれば)将来に影響を及ぼす」と脅されてから何年になるんですか?」
私が知り得てからでも、三年は過ぎます。
いえ、貴女の周辺では1994年も終わり頃、少なくとも1995年には始まっていたのでしょうね。
(ここまでは 「 122 の 愛娘 」 と同時進行になります。ここが肝心要だと思うのですが、妹も甥も姪も、私のTwitterからブログの存在を、知らない!)
121、
122、愛娘からの便り (20100921投稿 非公開)
一人娘が検索から私を見つけて名乗り出てくれたんですが、なんといったら良いのか突然で、まだ言葉が出ない。
なんてったって、二十数年ぶり。
まず、メールから、少しずつ焦らずに。
娘にとっては、「両親の離婚から家族の過去を、何があったのかをブログで知る」大変な苦労が降り掛かる今日からなんです。
心配です。
ブログを開けてくれれば、あらまし程度には解ってくれると思いますが、
信じられない思いが強く働きすぎてるんじゃないのかな。
だけど全てが現実なんだ。
黒猫の女性とは山小屋の建設中に一~二ヶ月一緒に居た。
あなたが電話してくれた時に受話器を取ったのが、その女性でした。
受話器を取ったのを後悔していたよ。
2月22日と〇月〇〇日は毎年、、、
ブログは焦らずに、一から、ゆっくり読み進んでください。
それと、みんな元気だよ。
「私に捨てられた」って教えられているのは、あなたとお母さん、女二人で強く生きていくための方便だと思います。
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追憶の日々 (20100928投稿 非公開)
消息不明だった一人娘がブログを見つけてくれました。
悩み苦しんだ末の十九日夜にメールを寄せてくれたのです。
そこから両親の離婚から何から何までの真相を一気にブログから読み解く辛く悲しい時間が回り始め、メールだけですが何通も交わしました。でも五日目となる二十四日夜に途絶えたきりなんです。
思い出したくないのでしょうか心配でたまりません。
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旅立ち (20100929投稿 非公開)
離婚した妻は旧姓を名乗っている。だから娘もです。
当時は寂しかったが、こうなってみると本当に良かったと思います。
明後日から仕事ですね。毎日祈っていきます。
歩み、頑張りすぎないようにね。
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初出勤 (20101002投稿 非公開)
01:07 from web
今日からだね、無理しすぎないようにね。何時でも、メールしてねっ。。。手紙でも何でも貴女の思うがまま、気の向くままで良いんだよ。。。
08:43 from web
☆ おはようございますっ ♪ いってらっしゃい ♪♪ 横断歩道は右左よく見て渡るんだよ ♪♪♪
13:11 from web
娘のメールアドレスは知っています。でも嫌がるかものドアに偉ぶるノックは、したくない。Twitterを活用させていただきますので宜しくお願いします。
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介護 【 病室の母 】 と 私 三月の母 12-31日 から
2011年03月26日
娘へ、、、ありがとう。。。
「おいしかったぁ」って目を輝かせてたよ。。。瞳の奥には孫を写す解りやすい表情で、、、
って、今日から甘い物は一日一個に制限されたってさ、、、あはは。。。
だいたい、この十年以上もは甘いもの好きも度を超えていたから当たり前どころか糖尿病にならなかったのが不思議なんだから。。。
これで“やぶれまんじゅう”を買いに走らされそうな心配しないで済みます。。。
、、、苺は別らしい。。。良かった。バナナも一日一本ね。。。
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2011年03月27日
20日、わざわざ遠い地から娘がブログを参考に「やぶれまんじゅう」とか色々持って病院に母を見舞いに来てくれました。なのに10年ぶりの母どころか20年ぶりの私も会えなかった。
孫が見舞いに来てくれたと知らされた母は車椅子をリハビリの男性職員に押してもらって必死で追いかけたのです。何も知らない職員は驚かれたでしょう。この職員の方を呼び捨てに「グズグズしているから」って悪態ついておりました。。。「申し訳ございません」
母は孫の後ろ姿を見つけて名前を叫んだそうですが、あの声です。とても遠くまでは届く声ではない。振り絞ったのでしょうが、、、
あとも大変です。孫を見た職員の方々に様子を聞き回り、「確かに孫だと、私の娘だと確信したそうです」 私に後ろ姿の見たままを事細かく教えてくれました。
娘へ。。。ありがとう。。。すごく喜んでいたよ。。。
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母からの伝言。 「娘へ」
あの時やきそばを作ってあげなくて、、、と言って泣いてました。私には何の話だか分かりませんが、「やきそばを作って」 せがまれたのに作ってあげなかったらしいのです。それを思い出して凄く後悔していた。作ってあげればよかった、、、と。
「いつか会えるよね? 会えるよね?」 わたしに同意を求めてくるのです。もちろんです。それを楽しみに手術から術後からリハビリを頑張るハリが出てきたみたい。
結婚は、してほしい。
もう10年も見てないから写真がほしい。
いつでも帰ってきなさい。待ってます。
欲しいものがあったら送ります。
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上の妹の長女、つまり姪っ子とメール交換しているらしい娘でしたが、去年末(2011年)か今年の春頃、それも途絶えたらしい。
2012年10月29日
「120、妹へ」にて書いた「私の情報を知るために母に近づく貴女への対策」として、私は母にも偽りごとを、聞かれたら話さざるを得なくなりました。
それは上の妹へも、その姪っ子たちにも伝わり、メール交換する私の娘にも伝わる。
結果が、娘と姪(この姪も医療関係)においても途絶えたメール、でしょう。
さみしい。
(ここまでは 「 120 の 妹へ 」 と同時進行になる投稿です。ここの妹も二人の姪も私のTwitterからブログを知らない)
123、
どこまで、、、
医師会の重鎮だった亡父側の親戚にも長年にわたって圧力というか迷惑な話を持ちかけていたみたいだ。
「伯母と連絡が取れなくなった」と母が嘆き、心配している。ご高齢だから「入院でも」と。
途絶えた理由がまたしても 「あの医者にあるのだろう」 とはとても言えない。
病院へ行こう: それぞれのテーブルマナー 「撮影禁止に紅組のTL」