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事実は映画よりも奇なり

乳がんで余命2週の告知もキリスト教の27歳の裏千家師範は延命薬で百八夜を内鍵付きの病室にて戦うも・・・

6/6 秋霜烈日

2012年07月27日 23時02分21秒 | 朝顔 「椿灰」 


 


2010年03月06日



 「十夜  夢想」 から

三年で除斥とは、おかしな三年です。私の告発は何時でしたっけ。後始末まで押し付けられた私が今、こうしてここに活動する。

日弁連の綱紀審査会委員長の姓が重大な過失ある福岡県警現職警察官から司法試験に合格して弁護士になった人と同じなのは偶然の一致ですか。不思議だ。珍しい姓なのにね。
この弁護士はまだ若くして他界されていた。これも最後まで、日弁連に行くまで福岡県弁護士会は隠し通した。

除斥との決定が下されて直ぐ後、私が審査を申し出たこの弁護士は県弁護士会会長に就任する。
裁判員裁判が始まろうとする、法曹界内部での下準備で誰も成り手がいない大変な時だったらしい。
弁護士会との取引か、押し付けられたのか。次の会長も関係者たる弁護士だった。
この流れ・・・何なんでしょう。

〇〇〇抗争の舞台となった道警、警視庁、山陽道の各県警、並びに検察は何処を如何捜査されたのか。
暴力団を使用した師範殺しの院長から南阿蘇の闇を暴かないどころか、一般社会に姉妹の医院まで命を賭して守りぬけた私を、暴力団の意に沿って犯罪者に仕立て上げようとまでした。

国外逃亡という名の米国移住させて一切合財が闇に葬られた。
が病室の百八夜に比べると、戦争から抗争を生き抜いた九年間の史実なんて片隅に小さく内容も無い三面記事だ。
わたしにとっては彼女の死がすべて。
きっちり、はっきり、すっきり、したい。
わたしの頭には警察と法曹界と戦う場面しか設定されていない。
そして勝とう、勝ちたいとも考えていない。
正々堂々と戦いたい・・・それだけ。

次回は最も忌み嫌うカネを書かねばなりません。
貴方は幾らだったら御自分の奥様の妹に癌細胞を植え付けて殺し、死を待つ床も聖処女を犯せますか。
それも彼女がまだ乳幼児だったころから一つ屋根の下で一緒に暮らし続けた嫁入り直前の尼僧の娘を。
それも余命二週の宣告に付け込んで。どうせ死ぬんだったら楽しませてもらう、と。
それも、医者で。
・・・十億?・・・百億?・・・







5/6 肉を斬らせて骨を斬る

2012年07月27日 08時21分50秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年06月06日、7月27日

病院へ行こう: 裏千家について 2009年7月10日金曜日 にてブログを開設してから、もうすぐ三年になります。
警察を沈黙させた功績がうれしい。
自由を与えてくださったブログからTwitterには感謝しております。
それまで、特に阿蘇では事ある毎に毎日のように向かってきていた。
今はピンポンどころか探りの電話さえ皆無に近い。
この開放感は素晴らしい。
生命ある限り服用しなければならない薬が如くに投稿、活動し続けます。 

あらすじ 【 朝顔 1 】 - 事実は映画よりも奇なり

 


2010年06月20日

 

 6/6

2009年7月中旬、それまでの郵送に頼る追及の手をブログに切り替えるべくパソコンを購入しました。このgooブログの開設は8月18日です。
今日の投稿では、2007年6月11日から09年7月5日に郵送を終えるまでに投函した分について触れたいと思います。


師範殺しの義兄が院長を勤める〇〇〇市の開業医は勿論のこと、周辺市町村の病医院長にも、私の顧客名簿の先生方だけに限らず殆ど送達させて頂きました。医師会は県内全て、御中でも会長名でも。医療機関の従事者、関係先にも。
当事者たる大学病院に限らず、県内の大学病院には全て。学長どころか病院長から、長の肩書きにも片っ端から。
あの義兄から詐欺の被害に遭われた先生宅は勿論です。この先生の御長男も、師範が入院していた大学病院に〝まさにその時〟において、研修医でした。だから前回投稿した〝叫び〟についても知ってあった。口にしたくは無い様子だったので、私も〝それ以上〟は聞けなかった。

医界は狭い。陰気で閉鎖された特権階級的な意識も強い。

境界杭を打ち直すという犯罪に加担した弁護士に加え、周辺の弁護士にも、当然、弁護士会にも。これについては投稿済みです。

行政機関は福岡県庁の関係部署から県知事。同様に県内ほとんど全て。暴力団事件が勃発した周辺市町村の自治体の首長、対策の行政組織から関係部署にも。

警察は本部どころか私と師範殺しの所轄署にも。その医者の所轄署に至ってはブーメランみたいに前もっての連絡もなく無言で送り返されました。公安委員会には他の話の中から“無言”注意した。
もちろん、警察庁から警視庁も。関係した地検から福岡高検も。

裏千家の関係先。当然、京都の総本部にも。

報道機関は全国紙だけでなくテレビのネット局にも。地元紙は、あの医院の店子にされている西◯◯鉄◯の子会社であり、福岡は城下町。ここの系列に逆らって存在できる会社は皆無だろう。

暴力団員と親交者を除くグリーン〇〇南阿蘇自治会員は全員と、村役場から職員などの関係先。

画商としての取引先から、例の銀座の画廊どころか業界内、関係先、倶楽部にも。


以上、千通以上なのは確かですが二千なのか何千通になるのか、さっぱり分かりません。

結果、生まれたのは私を黙らせる勢力が強大になっただけ。
原因を闇に葬る福岡では、発生する発砲事件、凶悪事件と比例するかのように。
これが福岡の土壌、風土、土地柄だろうか。

 

 

 

 


4/6 時効は停止した

2012年07月26日 00時16分25秒 | 朝顔 「椿灰」 

 

 


2010年01月30日


 5/6  6/6

Twitterは美術館。絵を読む。アイコンは第一印象。化粧にネクタイとも通じている。妥協するは曝け出す弱み。
斜に構えて椅子に踏ん反り返った写真だけでなく頻繁に出没する軌道上の内容はピンポンダッシュ。ヒットラーどころかナポレオンばりの人物から飛び出るCMには蕎麦猪口を置いての自然体で解除ボタンも押したくなる〇放だ。

このブログの左の縦列には〝色〟付けありません。右でも下に置いております。なぜか、この私の内容では読みやすいから。しかし、このブログも初期、といっても去年8月21日ですが、ここからしばらくの間は投稿自体に絵文字が頻繁に使われております。まず自分から切り刻む苦しみを和らげてくれる穏やかで優しき作用がありました。

アイコンに背景から感じる印象が最も重要な位置付けとなるTwitterの設定。ここで嫌われれば先細りも避けられない。が、やり直しは何度でも利く。「フォローする」積極性を持てば。。。
左から読み始める文章と内容に全体像で深く投稿者本人を抉られるのがブログの怖さ。一行の失敗でも管理される。追放される。後は無い。
私は美術商。甘受しなければならないアイコンは内容と合体して針の筵に座らされるTwitterと化す。
私にはみんなのように才能がない言葉遊びより美術館として絵を読む感覚でTwitterを大切にしたいとの感受性にウイルスとなる。
魂を侵されるのはイヤだモン。

今日の投稿は昨日まで四回続いたTwitterとは全く関係ありません。ここらで四回分を纏めて置きたかっただけ。スランプは脱出できましたので本筋に戻ります。

何故ブックマークには知人・友人なく第三者しか置かないのでしょうか。
 →巻き込みたくないから。ネット上でのメールからダイレクトメッセージも同じ宿命を背負って、私は生かされていく。



  ☆ ☆ ☆



12月19日投稿 3/6 官に民に個々に の続きです。


2000年2月7日から「ここは何処。わたしは誰」だった記憶を取り戻し始めるのです。
まず病室における性暴力を思い出し、死の真相、財産の行方など詳細で健全な主体性を取り戻し始めていた。

熊本県警本部は2002年4月11日付け(熊監第83号)で私に郵送した公式文書にて、
「暴力団の支配下にあった自治会の告訴を受け、私が抗争を止めるべく物的手段とした設備で私を書類送検した」
と、図らずも認めてしまった。

続いて熊本県公安委員会までもが、2004年1月8日付け(熊公委第2号)で、同じく認めた。はっきりと。

2005年7月5日、福岡地検に出した手紙で呼び出されたあと、書類送検された時の検察官を懲戒請求したら、一人一官庁は辞職された。
流石、警察なんかとは質が違う。

熊本県警のアホ馬鹿コンビも、自治会の小中学校長夫妻に歯科医も、義兄の医院も、それぞれの組織に懲戒請求しました。が、それっきり。

依頼人は私なのに義兄側へ寝返っていた弁護士と〝結果として招いた事件の諸々から、院長に追随した挙句で勃発させる都政最大となった〇〇〇抗争〟等々の責任問題については、2000年2月16月から福岡県弁護士会に相談していたが、梨のつぶて。

2005年11月29日(時効成立)になって、この弁護士本人から、義兄との間で1985年3月13日作成の和解調書とやらが送りつけられたが、
「そんなもの無い」と私には言われていた。

事情を知らない、案件さえ忘れてあるだろう裁判官でも不審を抱かれるに違いない、
「法廷で公開」なる私には身に覚えの無い偽りの文言が調書には記入されていた。
だから、そこだけを質問状にして地裁〇〇〇に送ったが、すでに退職されてあった。

県弁護士会へは2006年1月10日から、そして日本弁護士連合会へと懲戒請求、異議申し立て、綱紀審査申し出、と動線のごとくに行動した。

結果、2007年3月22日に「3年で除斥」との、これ以上は無い「決定」が第三者委員会で下るが、おかしい。。。

時効は、百億は握り締めた院長の国外逃亡という名のアメリカ移住で停止したままだ。
日本に残された関係者は逃げ回るしかないのか。





3/6 官に民に個々に

2012年07月25日 00時02分50秒 | 朝顔 「椿灰」 

 

 


2009年12月19日



 4/6  5/6  6/6

軍配が上がるのは私か、それとも・・・・・

訴状として告発状として試行錯誤する魂の雄叫びで院長の犯罪事実を申告し、九州戦争後の八王子抗争の真因を暴露し、処罰を文書で面会で求め続けてきました。
以下はその記録です。郵便物に関しては「書式に則っていなかった」たる指摘も一部で受けましたので、一切“郵送”とだけ記します。

2000年2月7日・・・師範に“余命2週の告知”から“乳がんの細胞を作った義兄の犯罪行為”、亡父の母校の大学病院においての義兄たる院長の手になる“毎週末の性暴力と描写”、姉との毎夜の性の描写、動機は“師範と私から財産を奪い取る”根幹に舞い戻った姉妹との記憶、そこに在る八王子抗争および国外逃亡の発生原因を取り戻し始める。

        9日・・・関連の各医師会に郵送。
       16日・・・県弁護士会に郵送。
    7月24日・・・福岡地検に郵送。
     9月4日・・・境界杭を間違えての発端を成す建設会社に郵送。
   11月30日・・・院長の所轄署に郵送したら、ブーメランみたいに静かななりで送り返してきた。

2001年1月9日・・・熊本県警監察官に郵送。
       24日・・・村役場に郵送。
       31日・・・境界杭の犯罪に加担した交通機関に郵送。
    5月29日・・・福岡県公安委員会に郵送。
   12月10日・・・同委員会から〝通知書〟が送付されてきた。

2002年1月8日・・・熊本県警本部に郵送。
        9日・・・私の代理人だった弁護士に郵送。
    3月18日・・・福岡県公安委員会に再度、郵送。
     4月8日・・・同委員会に、郵送。
       13日・・・熊本県警本部長から〝回答書〟が届く。
       17日・・・熊本地検宮地支部に郵送。
    5月24日・・・同支部より〝回答書〟が届く。
     6月5日・・・福岡高検に郵送。
   11月29日・・・警察庁に郵送。嫌がらせの電話が酷くなる。

2003年7月12日・・・
     8月18日・・・福岡県警監察官に郵送する。
     9月22日・・・福岡地検次席検事に郵送する。
        29日・・・警視庁に郵送する。
    10月27日・・・熊本県公安委員会に郵送する。
     11月4日・・・熊本地検次席検事に郵送する。
        27日・・・九州管区警察局事務局から丁重なる電話を頂ける。

2004年1月8日・・・・熊本県公安委員会から〝通知〟が届く。
       26日・・・・警視総監に郵送する。
    3月15日・・・・宮地区検に郵送する。
       22日・・・・県弁護士会に郵送する。
       29日・・・・福岡高検に郵送する。

     4月5日・・・・「売れ残っている三軒のマンションを渡すから手を引け」という物凄い口調での電話が入る。何も言わないまま、叩っ切った。
カネを前提にしか考えられない頭の人たちって、哀れだ。それに物質も残り物に変えて。こっちまで、寂しくなる。
     
このあたりから私の相手は、好むと好まざるとに関わらず〝官から民が主体になっていく〟
例外もあります。福岡県宅地建物取引業協会から銀行に鉄道会社、区役所もあった。

嫌がらせ電話は酷い酷い。毎日です。ほとんどは女。淡交会の裏千家師範に対する病室での性暴力を何だと考えてんだろうか。
男からのは分かるが、女からのはホントーーーーー、に情け無い・・・・・。
途中で鳴り分けコールの機能付き受話器に買い換えました。番号非通知では呼び出し音すら鳴らないように設定しているのに、後でチェックしてみると、まあ毎日毎日、お疲れ様です。



病院へ行こう: 19年も淡交会の師範に関係する記憶を喪失していた


2/6 国外逃亡

2012年07月24日 09時30分40秒 | 朝顔 「椿灰」 

 

 


2010年01月08日



 3/6  4/6  5/6  6/6

医院の代替わりからアメリカへの移住まで、たった数ヶ月でやらかしてしまった。
なぜ移住できたんだ。グリーンカード(アメリカ永住権)は?

死ぬ瞬間に勝ち組やら勝者で逝けるのは私か、それとも・・・・・

1993年2月11日・・・・・姉妹の後見人に「師範の本を書いております」とだけ、お知らせする葉書を投函している。

      3月9日・・・・・・阿蘇の所轄署に院長の圧力が掛かったのを確認した。担当する若い刑事さんに苦悩の色が滲み出ている。二人一組で捜査するので、もう一人の刑事さんが何か言い含めている。上意下達の哀しい歌だ。

      6月11日・・・・自治会による刑事告訴を受理され、書類送検された。それも、罪状は私が地域社会を守り抜くべく〝自治会との約束事を履行した件〟で。

      7月2日・・・・・この自治会から今度は民事訴訟を起こされる。訴状には〝東京の組織を◯◯◯抗争に追い落とした張本人の名まで自治会員として記されていた〟。自治会まるごと東京の組織に組み込まれてしまったのは既得権益の渦と欲望に付け込まれた院長に因る罠、小市民の性。

      8月20日・・・・私利私欲に走りすぎた自治会長E氏個人の事を焦った失敗で、またしても一方的に民事告訴を取り下げてきた。一人相撲を取っている。

      11月15日・・・書類送検されての呼び出し状が届いた熊本地検宮路支部に「警察の脅しでしょ」と電話を入れた。

          24日・・・立野駐在所に譲っていた書類の閲覧にて、一周忌に阿蘇の地を購入した理由の記憶だけ断片的に取り戻す。

          25日・・・地検宮路支部で検察官から取調べを受ける。が、隣室で盗み聞く奴が居る。こいつは盗み聞きに気付いた私の前に現れた。そして、とんでもない失敗をやらかす。〝院長の関与〟を〝師範を持ち出した質問の内容〟と言葉尻で本人自ら認めてしまったんだ。この手合いは下手に出ると何処までも木に登ってくれます。で、落ちる羽目になる。加えて、〇〇〇抗争の勃発さえも知らなかった。組織の手先に成り果てた警察の末路です。

      12月27日・・・・地検支部は大掃除の最中でした。この中における質疑応答、完全なる不問に終わってから私は〝師範殺し及び勃発した抗争の真の牽引車たる院長〟を、まず〝東京の組織に組み込まれた自治会〟から逆に告訴しようとしたのですが、〝私は告訴されたのではない〟と検察官は嘘を言われ、私の告訴を受理してくれなかった。そもそも告訴したのは私が〝詫び〟を自治会やら院長に入れて〝告訴の取り下げ〟を哀願してくる、と踏んでの恐喝行為だったんです。そこで〝何かしらの条件〟を出す腹だったんだ。私が平気だった時点で〝告訴した意味も何も〟水泡に帰していた負け組だ。

1994年6月28日・・・・・・姉妹の後見人と私の代理人弁護士に説明として半年で急いで書き上げた560枚の原稿用紙を郵送する。

      8月25日・・・・・

1995年1月末・・・・・・・・まず所轄署が〝逃げ〟に走った。電話してきた刑事の慇懃無礼な口の利き方は脅しに他ならぬ。

      3月15日・・・・・姉妹の医院に手紙を出す。

      4月14日・・・・・警察官ばりの男が電話で〝姉の死、医院の代替わり、長女どころか院長までのアメリカ移住〟を私に教えた上で、「だから、もう関係ない」と言ってきた。

         16日・・・・東京の組織に属する人を除いた阿蘇の自治会員全員に手紙で説明する。

      7月12日から・・・

      8月・・・・・・・・・熊本県警と地検宮地に6枚の説明文を送る。

1998年3月・・・・・・・・・・三年半を費やし改稿の444枚から部分的に抜き出しての郵送で〝攻め〟に転じる。

      8月24日・・・・・新たに依頼したいと考える弁護士に接触する私でしたが・・・・・。

      9月・・・・・・・・・銀座七丁目の画廊に〝帳簿〟の間違いから精算を指摘する手紙を郵送する。

1999年5月・・・・・・・・・・佐賀県警の狂犬病に警告する。

      6月28日・・・・・新たに依頼したい弁護士へと相談に出向くも・・・



1/6 埋み火

2012年07月23日 08時41分27秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月23日

全体像は、あらすじ 【 朝顔 】 - 事実は映画よりも奇なり


 


2010年01月10日



 【十夜 夢想】 から

 2/6  3/6  4/6  5/6  6/6

時なるかなと最期に笑って姉妹に会いに逝けるのは私か、それとも。。


1987年・春・・・・・・戦争終結。

      7月・・・・・十三回忌まで御山に棲む決心を固めた。

      8月・・・・・所轄署のK刑事が市内のI内科院長に護衛を依頼されたらしく、連れ立って所有される別荘地の様子見で阿蘇に来る。この時に初めてK刑事と顔を合わせた。

      9月19日から23日・・・・・

      秋・・・・・・師範殺しの院長の謀略に係り、「最新記事の中から【混浴露天風呂に良い人、悪い人・真の姿5/5】の恨み」を受け継いだK刑事どころか、東京の組織から阿蘇の連中から自治会内での内通者となるM氏から誰から誰までの地球上に棲息する欲望という人間の言動が連携を保って私に向かってくるようになる。


1988年2月・・・・・・最初の別荘となるN歯科医の別荘の棟上げ。

       ・・・・・・・・〇〇〇抗争となる双方の組織の初顔合わせ。

       ・・・・・・・・ペンション経営者、死す。

      3月26日・・村民であり小学校校長でもあるE氏夫妻にとって終身年金となる管理費という私利私欲の思惑で自治会の結成に動き出すと共に、私を村八分にするべく教え子から村内総出となる。

      4月24日・・E氏の旗揚げで自治会結成。

      5月12日・・自治会総会。

      6月末・・・・・H氏の別荘が二件目として完成。

      秋・・・・・・・・私は山小屋の工事を再開する。


1989年・春にかけ・・・(秋となり、今こうして生きている私自身が不思議。巻き込まれた〇〇戦争どころの危うさではなかった。この時期を振り返れば・・・・・)

      5月上旬・・・内通者に成り果てていたM氏の丸太小屋の工事が始まる。抗争への道をまっしぐらに走り出す。決定的となった。

      5月15日・・23日にかけて、東京の組織の九州における関係者と言うべきか取り巻き連が近隣の土地を別荘地とした売り出しに動き始める。

       夏・・・・・「連絡してくれ」との電報を◯◯総裁より受け取る。「なぜ東京の組織が手を出してくるのか?」という疑問を質したかったのでしょうが、この方の名前すら記憶を失っていた私です。この◯◯総裁、東京の組織の幹部のT氏に関係者、太鼓持ちの連中、所轄署のK刑事、自治会の内通者となるM氏に会員のアホなオバサンたち。それぞれは自分の不利益となる断片しか知らない。ひとつにまとめられるのは私に振りかかった一件一件の物欲で映画した事実であり、とどのつまり脚本家な院長に行き着く経緯の一切合財となる。
日本の雄と東京の雄、双方の組織とも訳分からないまま、経緯の道程は雌雄を決すべき抗争に突入していく・・・・・、

1990年1月に2月15日から・・八王子抗争勃発。            
      4月・・・・・・終わったとたん、自治会長のE氏が自宅の建設工事に取り掛かる。信じらんない卑らしさ。

      5月12日・・東京の組織のT氏が手打ちで阿蘇に来られる。このT氏を陥れる結果を招いたTさんを探しておられた。私の忠告をT氏が聞き入れてくれなかった最大の要因が、院長の影響下にあった、このTさんの存在でした。二人だけでなくU氏も加えた東京の三人は幼馴染だった。

      6月14日・・T氏を焚き付けていて行方不明だったTさんが宝珠山に現われる。生きていた・・・

      9月15日・・私は下界に下る。

              九州という地域社会は守り抜けた満足感はあるが、東京都民から被害者の方々には何んと言ったら良いのか、複雑です。一人にされても命を賭けて戦わざるを得ない世界に年月での限界を、熊本における著名人という名の内通者どころか警察まで自治会の名を借りた組織の支配下に成り果てた現実で痛感しました。申し訳ありません。力不足でした。



  確かに「旬な話題で投稿」ではありません。昔の話です。
でもこれを計算づくの逃げ得は許されないし、放置し続けた関係機関なんです。
時効も停止しています。
こんななか、やれるだけの事はやった記録だけでも日の目を見せたい良かれ悪しかれ「暴力団対策法」成立前夜の歴史上の事実だと私は思います。
歳月に埋めた生き様、世間に負けた死に様は娘に見せられない。 






「座って半畳、寝て一畳」 の 「国外逃亡」 の起動

2012年07月21日 10時14分15秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月21日

全体像は、あらすじ 【 朝顔 】 - 事実は映画よりも奇なり


 


2009年12月04日



 【八夜 ★抹殺】 から

ひとつひとつ片付けていくのが投稿では読みやすいだろうと考え、【御山】の章を飛び越えていましたので、遡ります。
何回分かはダラダラした、でもこれこそ記憶喪失した私が師範やらクララとなる彼女と一緒に生きた偽らざる日記です。
記憶がどうの亡霊がどうのでなくっても、下界で普通に生活しておられる家庭も幸せは平凡な日常の繰り返しであって似ていると思うのですが・・・。



  空蝉の代ぞ鏡見す扇子腹



いったい何十人が殺されるのか。これで法治国家なのか。このまま有耶無耶、闇に葬って良いのか。
境界杭から差し押さえられた案件で資金調達の一手段でもあった一部の土地の分譲販売が不可能となり、阿蘇の青写真は大きく変わった。

ここはレーシングカートのコースとなる。
照明付きのテニスコートにオートテニス、キャンプ場に整備した。
名は、青春キャンパスとつけた。

彼女が楽しめるCAMPUSは、女でも生きていくオトコの生活空間らしかった。
白いCANVASに沢山の色で色んな感動をそれこそ贅沢に塗り込めていけるのは感泣の逢瀬を重ねる、洗い髪との遊び方も客色です。
剣山など、花を散らせる道具も買った。
年収へのジレンマも抱えて〈国破山河在 城春草木深〉格好つけ、家庭におけるオトコを可能に出来なかった詫びは贅沢貧乏を自惚れだした。
晴嵐の丘に八畳と六畳二階屋のプレハブも二つで置いた。
すすり泣きの木々を久留米の植木市と自宅の庭から調達して、配した。
水盃に、花々も植えた。
目指したのは似たもの同士からの同体化、ふたなりだったらしい。

二階屋を倉庫にして、住むのに使う八畳の前には焚き火にと、太い丸太を井形で積み上げ、似合うからと誰に憚る柵も無く、荼毘と粋がっていく。

怪訝な顔の観光客には、
「過去を荼毘に付してあげる」
真顔で歯を出し、笑いを誘うのだから呆れてしまう。

注がれた性を連想させる態度から息は、霊魂が私の身体を弄んでいる彼女の時に現われる。
裏千家師範からクララが隠れていても心で慕っていられる本色の私の正気では、何も言えないものである。
ときどき、村の消防団がサイレンを鳴らすのでは、と気も小さくなる大きさの小火にも、火柱が天に昇る。
ポンプの容量一杯に汲み上げる井戸は忘れ水へと流しっぱなしだ。まれに虹となる。

周りを手作りの椅子やらテーブルで囲んだ地は、細長い丸太三本を立錐に組んで自在鉤をぶら下げる鍋や、下には金網を置く食事処であり、蠟燭にランプに草、花また華の居場所だ。
離れて、これらをグルリと馬留めみたいな丸太の柵やクロスボーの射的場、銅鑼に下界からの木々で配置した空間の思い入れを、居間と読んでいた。

 

 

「ここは何処 わたしは誰」

記憶喪失といったら良いのか逆向性健忘症といったら良いのか分かりませんが、
「ここは何処、わたしは誰」
と、なっていた阿蘇での生活だったのは本当です。

生きているのか、死んでいるのか。
食事したのは何時だったのか、今日は食べたのか。
陰膳をしているが、誰の膳なのか。
こんなところで何をしているのかも分からない。そんな毎日でした。

こんな私を助けてくれたのが師範の愛弟子との偶然の出会いであり、殺し合いの渦中に叩き込まれての緊張感です。
このどちらが欠けていても自分を取り戻せた今の私は無く、落ちるところまで堕ちていた私だったと思われます。

 

 

 


時速60で車間距離25が30分映画するには何台必要か

2012年07月20日 09時29分51秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月20日

全体像は、あらすじ 【 朝顔 】 - 事実は映画よりも奇なり

 

 


2009年12月25日


 【九夜 ★史実】 から

青春キャンパス前は山道にあってもここだけが100と10メートル続く直線になっている。
たった100でも絶対に60以上は出している九州戦争の終結宣言に集まったベンツの全長が少なくとも3台は入り続ける。
何回置きかは4台が走り抜けた。稀に5台だ。
さて問題です。午前0時15分から38分までの間に何台のベンツが通ったでしょうか。はっきり途切れ出したのは45分過ぎです。
わたし頭わるいから計算できません。

零時の五分前あたりから、交通整理する声が聞こえ始めていた。
私を意識して、感づかれる場所は最後に残しておいたみたいです。
広大な土地があるから離れたところから先に駐車していったんでしょう。
集まってくるベンツは、前もって知らなければ気付けないほどの静けさでした。

一転しての誘導です。
すぐに拡声器での演説が始まった。数人が代わる。
零時9分には静かになります。

そして夜を切り裂くアクション映画。
“単純な反復的な車列だろう”と考える人は、私の書き方が悪いからだ。
ビデオに撮らなかったのを悔やんでいます。
街路灯なんてない。ウチの電気もテニスコートの照明も落としている。
外輪山を走るヘッドライトさえ見えない。つまり真っ暗闇。
この闇を切り裂き、すっ飛んでくる車の数、途切れない。

絶やさない段取りも素晴らしいが、車間距離の無さは、ド迫力。
闇の森の夜から出現し続ける黒一色のベンツの車列。
下る山道の研ぎ澄まされた暗闇に時空を超越して吸い寄せられ、フッ、溶け込んで消え続ける瞬間が永遠の闇を現実に無口な風で刻みつける。
これだけで短編映画になった。

延岡から宮崎方面に帰る車はウチの前を通らなくても“登り”の別ルートで行けますが、それこそ曲がりくねった道を走らなければならない。
観光ホテルのお泊り組がいたら、それも登りになる。
“その家”に少し滞在した車もあるでしょうが、これらは少ないと思われる。
だから終結宣言に集まった殆んどの人たちは、ウチの前をすっ飛んだはずです。

ここでおかしな話がある。
私は1時25分まで起きて、映画の続きを見ていた。不思議なことに“登り”の車は1台も通らなかった。軽も二輪もトラックも。もちろん警察車両らしき普通車も。

市内からは一時間の距離なのに。それも真夜中。もっと早く来れるのに。
私のレコードは昼間ですが、繁華街にあるデパート裏の駐車場からで40分と数十秒。
もっともっとおかしな話がある。
この騒動の通報によって日本の全警察官の半数以上に戦後最大、つまり警察発足以来最大の非常招集が掛かったんですが、なぜ?
高速のインターで検問に入ったらしいが、どれだけ離れたインターで成功しだしたのでしょうか。
笑える。
ま、北海道は間に合ったでしょうね。
半数といっても沖縄に離島に事務職は省かれるだろうから、全員といっても良いんでしょうね。
真夜中に叩き起されたのは何万人になるんでしょうか。
熊本の失態のために。大変な月日を捜査してきた福岡の現場が可哀そうだ。

何故なら、この終結宣言の行われる日時に場所の情報は、六日前の夜の八時か九時の二十分から四十分の間に、私は警察も二箇所に電話で通報してあげたから。
(こんな情報を何故わたしが知り得たのか、それはタイトル「 殺したのは私です 」で事前に投稿する予定だったんですが、まだ一字も書けてません。ごめんなさい。書けたら? その時は投稿しますから)


殺されるかも知れないが知り得た情報を通報するのは国民の義務だろうと死を賭して決断したのに。
現在の私がここまでおおっぴらに警察から法曹界まで含めて対峙できるのは、これら真実と誇りを身に纏っているからです。
この九州戦争が切っ掛けとなって“暴力団対策法”が制定された。

2キロ下った国道57号線で湯布院から大分方面は右折ですが、これ以外の国内は全て左折します。高速に乗らない熊本市内でも郊外でも殆んどがインターまでは同じ30キロ余りの国道を走る道程になる。
遭遇した人たちは驚いたでしょうね。
だいたい信号では止まったんでしょうか。
止まらなかったでしょうね。
いちいち止まってたらもっと大変な事態を招く。
途切れるのを待った車、国道を横切りたい車、市内への同じ車線に入る車、横断したい人に車、どうしたんでしょう。
それもこれも相手は押し並べて黒きベンツ。車種どころか後部座席まで似たり寄ったりの影。
未知との遭遇には目が点? 飛び出た? 覚めた? 据わった? 

一緒に走れば良かった。後悔するなぁ。ビデオ・・・・・・・・・・、もっと後悔している。
ふたつ共に可能だった。
アーーーーー、取り返しの付かない人生最大の失態です。
あんな車列は日本の歴史に残る。おそらく最初でしょう、で最後でしょう。
永遠に語り継がれるんでしょうね。目撃者として光栄ある孤立だ。

一点を全長4,5メートルの車が速度60キロで車間距離は25メートルとして30分間途切れさせない為には何台必要かの映画する冒頭の問題ですが、わたし、ホントーに、わかりません。
誰か教えてください。(約1017台)




殺したのは私です

2012年07月19日 09時50分48秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月19日

全体像は、あらすじ 【 朝顔 】 - 事実は映画よりも奇なり


 


2010年01月09日



 【九夜 ★史実】 から

阿蘇ファームランドが建設される以前、ここには国立牧場の牧草地が広がっていました。
連なる丘、丘、丘の栄養がたっぷりと与えられて維持管理される草本が風と共に生きて四季に伏せる素晴らしきロケーションを鮮明に覚えています。
ランドに遊びに行かれた思い出ある方は、周りの景色を心に蘇らせてください。
丘に車を乗り入れて写真を撮る家族連れ、女性に子供たちの屈託ない楽しそうな声が樹木に谷に外輪山に木霊します。
車の中で朝を迎える男と女の性も多いとまでは言えないが、居ることは居る。
ひとつひとつの丘に、一台、あそこにも一台と数えられても一所に二台はない。
暗黙の了解か。目立つのは夜空に花な車体のシルエットだけ。

数十年ぶりとかの厳しかった冬も三寒四温に始まる春を迎えようと抗う、その日は暖かくなった日曜の朝でした。
寝ぼけ眼で外に出る隠者は20メートルばかり先、木々の横に2頭のドーベルマンを見つける。
ゾッーーー。。。
思いは長いが、血の気は一気に引いている。

唸り出た。
数回だけ、早いが落ち着いて四肢を運動させただけで、もう半分近くも距離を縮めた位置にまで迫っている。

この間、まず私は自分の太股を激しく打っ叩いている。
逃げず、手足を動かさず、ジッとして高い位置から静かに気合いを込めて目だけ、だけを睨みつけてやると直前でも空中でも、犬は必ず止まる、と弁えていた私です。
瞬間で、この行動が実践できました。
時は日常から2秒で死ぬ覚悟が出来てしまう時代だからこその、精神でした。

(これ、狂犬病の犬は勿論のこと、闘犬には使えませんからね。目は二つある。近づきすぎたら左右どちらかに決めて焦点を当てるんです)

硬直しながらも一旦は拳も握り締める。
生卵は二つとも完全に身体の中に逃げ込んでしまったのを覚えても、おしっこしたいのさえ忘れても、心は折れなかった。

早朝の清々しい大気に抱かれるはずだったのに、重く低い唸り声は近頃やたらと森を震わせていた不気味なモノの正体を納得の確認させる。


殺しました。


「放たれたのを恨んでくれ」
左手で拝んだのは、その類にあっても突出した無条件に素晴らしき体型の2頭です。流石は日本最大の組織でした。
そん所そこらの組とは何から何まで違い過ぎ。
たびたび映画で観たシーンのドーベルマンたちが、バック・トゥ・ザ・フューチャーばりに時空間から飛び出してきていた。

のちに聞かされる話ではドイツからの直輸入。価格から訓練費用は正にポルシェもカレラでした。
可哀相な愛玩犬でした・・・・・ごめんね。止むを得なかったんだ。

この朝露は当初、久留米の〝殴り込み〟だと受け止められて大騒ぎになり、熊本県警にも非常召集が掛かった。
関係者も双方の世界で緊張が走った。

ここで冷静に考えて頂きたいのです。

及び腰、逃げ腰だった熊本県警の言い分が、
「九州戦争(確か双方で50人近くが殺害されていたと記憶します)は福岡の事件であって、熊本では何も事件を起こしてはいない。本部長にヤル気がない」
でした。
これが根底から覆るのです。
冒頭に落とした観光客が殺られたら・・・・・。
怖がっていた熊本県警も動かざるを得なくなる。

が、私を野放しには出来ない。面子を重んじる裏社会なんです。
で、終結宣言の情報を態と私に流す事によって、何処かの組織に〝私を殺す大義名分を与える〟
〝殺人〟っていうのは裁判費用から残された家族の面倒まで見ないといけないからカネが掛かるらしい。

一週間を切ったら宣言の中止を求められても間に合わない。
で、六日前の漏洩となっていた。
が、これも熊本県警の逃げで失敗 時速60で車間距離25が30分映画するには何台必要か となったんです。


だから私は空に地に生かされている。
ブログに生かさねばならない使命、余生で与えられたんでしょう。

何の為に。
偉ぶるつもりなんて、さらさら有りません。
捨てた家族への責務。得意先との努め。姉妹の追悼から活かし方、かつ日本に残さざるを得ない医院の在り方かつ移住という名の逃亡を果たした院長の追及。
こんな自分の身の回りだけで手一杯です。
ブログにTwitterに文章の落としかた、葛藤の日々です。


人間の命なんて何処で拾うのか、わかんないものですね。
あの2頭、天国で師範と姉が可愛がってくれているでしょう。

そのうちボクも逝くから。

 

 

 

 

 


混浴露天風呂に良い人、悪い人・真の姿

2012年07月18日 07時41分48秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月18日

全体像は、あらすじ 【 朝顔 】 - 事実は映画よりも奇なり


 


2009年12月12日



 【九夜 ★史実】 から

胸から肩へ腕へ、肋骨を背中へ、肩から背中は尻から太股までをも占める刺青。唐獅子やら観音様、上り竜だの鯉に牡丹か桜か。

正にCanvas。素晴らしい作品で魅せてくれる露天の午後は何時も突然。
露と弾いて煌めき、動きに色彩が筋肉となって生き生きしだすのは芸術でした。
少なくとも、多種多様に走り出して何も見えてこない一部の現代美術どころか洋画ものおぞましき類より確たる厚みがある。
何より所有者に殉じて灰となりゆく価値に価値観が、・・・・・。

むかしは真善美なる純粋なモノだったんでしょう。完璧に理解できます。
ソノ筋のホンモノの人たちは迷惑を考えてくれるし、公衆では気配りも持つ。
法を無駄に受け止めては、いない。
命を捨てる場所に時は〇〇が決めるのでしょう。
自分の命で有って無い世界なのでしょうか。

記述したのは戦争中の話です。



     おやすみのまだ言わないで今朝の夏



戦争中をもうひとつ、

なのに、混浴露天風呂なる公の場で、男と女、三対三、六人のグループが先に入浴していた明るい時間帯に起きたトラブルが、後に〝東京都政最大となる組織的な事件〟を勃発させる一因となった。
この男たち三人は◯◯関係者らしい。
それが東京の組織を後押ししてしまう結果論で裁かれるとは、この時に誰が予想できたでしょうか。今でも信じられない。
抗争にまで発展した原因の全てが、裏千家も師範を二度までも殺した上に私から財産も仕事も家族さえもすべてを奪い去った院長の保身を図る謀略に始まって走り出し、この男たち三人から恨みを受け継いだ所轄署の一人の刑事に誘発されたと言って過言ではない。

私が青春キャンパスでアルバイトしていた近くの東海大の学生たち四人を連れて後から邪魔をしてしまったとはいえ、この六人は湯船の真ん中で横一列になって座り込み、通せん坊した。
子供みたいですが、しかたなく何も言わずに私たちは湯が最も汚れてくる手前でひとかたまりになる上に背中を男女六人に向け、静かに温まっていた。
わたしは煙草を吸った。すると、

「煙草を吸うな。灰が落ちる」・・・・・・・・・・「落ちた」
と、他に二組の中年夫婦も入浴していたのに一方的にケンカ吹っかけてきた。
六人だけで露天風呂に入りたかった気持ちは痛いほど良く分かるが、やりすぎだ。
二組の御夫婦は恐る恐る上がっていかれる。

環境問題を長々と繰り広げだしたのである。
わたしたち五人は一言も口を開かずに黙って聞いていた。
六人も上がりだす。が、中の一人の男が湯を出ての仁王立ちで演説の続きをやりだした。しつこい。
この三人の男たちは肩にしょっているモノを嵩にかかって責めていたのです。
最初っから私は、この種類の臭いに気が付いていた。
環境にかこつけるどころか余りにもしつこい演説だったので、学生たちへの手前もある私は住所氏名を名乗った。
この手の人たちは調子に乗せるとボロをだしやすい。
仁王立ちの素っ裸でさらけ出していた男も例外ではなかった。
私は名乗ったのに自分達が名乗ることはない。
それどころか私の住所から、所轄署が何処になるとか専門的な言葉まで仲間内で大っぴらに話し合い、
“捨て台詞”を残して、やっと立ち去る。



     おやすみのもう言ってくれ初景色



自分たちは名乗らなかったことで安心したのか、連中が陥ったのは何ヶ月過ぎても陰湿でクドイ本末転倒も〝カマイタチ〟を誰に依頼して、私に傷を負わせたのかだ。
この〝誰と誰〟の固有名詞に加えて、私が受けた〝傷の性質〟は、都政どうのの問題とは別に存在し続けているが、ここは後々も最後に近づいた投稿となります。

混浴を邪魔された恨みを環境問題にすり替え、嵩にかかった態度は“所轄署に事を根回しした現実は”私を周囲から切り崩す三年に及ぶ歳月に事実で膨らんでいった。

〝この周囲〟に私が地域社会を守るべく戦っていくことになる〝自治会に潜んだ内通者〟から〝東京の組織〟を組み込んでしまった結果が、まるで純愛モノと任侠モノが自然に合体したドキュメンタリー映画みたいに、都政最大となる〇〇〇抗争への奇なる軌道を走りだす。



    打たせ湯のもや穿つ靄今日の月



こんな権力の構造とさえ戦えないのが私の覇気なら、わたしなど、とっくの昔に師範との生活に入っています。。。

わたしの名は相浦。
阿蘇ファームランドの真ん前に山小屋が在る。
あばら屋となるもグリーンヒル南阿蘇の守り神とした誇りで、今も建つ。
解体したくても私一人ではそれこそどうしょうもない存在理由を抱えて。。。



   忘れ去る優しさありともて鎮み息引くそのへ早や投げ入れよ




ろくろ首と言霊

2012年07月17日 09時57分11秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月17日

あらすじは、【  朝顔  



2009年12月22日




 【九夜 ★史実】 から

何処で寝ているのか、誰かと一緒なのか、生きている世界なのか、目が覚めてから少しの間、ときどき分からなくなる。
飛んでいる。
川を渡っている夢を幾度となく拾う。
言霊か、何時も誰かが追い返した。
臨死体験と言うのでしょうか。

今日に書き記すのは境界杭の案件で建設会社への、
「取立てを(自分たちに)依頼しろ」
と要求してきた、ソノ筋ですが下っ端二人との出来事です。

いつというのも知らぬ間にプレハブで二人もを相手に向かい合っている私が居た。
一人は果物ナイフを握りしめている。
田舎モノなのに慌てない私の態度に錯乱していたナイフです。背広で鍛えた精神では無い身体を激情で使おうとしていた。
一度手にしてしまったナイフは手放せなくなるみたい。
張り詰めた瞬間が経過する時の流れに耐えられず、終わりにしたかったんでしょうか、飛びかかってきた。
ナイフは私から十五センチは下の段差から突き出す位置関係に在った。
興奮して獲物に頼り切っていた。単純に鈍くなった動き。
ナイフは左利きだったのが右利きの私に取っては救いの神でした。
左手首を左手で捕り、左回りに後ろを取れた。
脇を空けて突き出したナイフなど全てが受け方の私には有利な状況を捕れた。
それに私は、キュビスムなる読みの武器を身にまとっていた(これについては長くなるから別の投稿とします)

首を締め上げていた右腕が、いきなり甘くなる。
空気の隙間ができた。
ろくろっ首みたいに急に伸びたんだ。
それも数センチなんて程度では無かった。

が、動かない岩の如くな硬い抵抗だけで両膝を着けていたので、甘くなった分を締め直す意識は働かなかった。
この時、クイッ、チリソースの瓶の蓋を開けるみたいに半月に捻れば“首を折れる”意識が確かにあった。
“折ってみたいような誘惑”にも駆られた。
本当に映画みたいに〝折れるのかなぁ〟なんて実験的な衝動に見舞われてもいた。

連れの、もう一人居た男が、
「死ぬぞ」
叫んだ。

ナイフを握り締めたままの相手の左手首を摑んだ私はそのままの状態を保って、叫んだ男が動けないように威嚇していたのです。
チアノーゼがすごかった。青に紫に斑の気持ち悪い顔、首、でした。
床に崩れ落ちて固まった息を出来ないでいる男と懸命に蘇生させている二人の姿を、眺めていた私です。

いきなり工事現場と思しき不協和音を撒き散らしながら凄い勢いで空気を貪りだした。
勢いのまま、近くにあった受話器を取り、連れが留める間も与えずに110番してしまう。
「殺される」と叫んでいたが、警察の指令との会話の遣り取りでやっと冷静に事の成り行きを思い出したナイフであり、連れからも見放されていた。

電話を代わった指令から「大丈夫ですか」と言われ、やって来たパトカーの人からも「告訴しますか」と言われたが、私は、しなかった。

翌日も来た別の警察官は「ナイフを告訴した方が良い」と何度も忠告してくれました。
告訴していれば警察が“男は同じような事を繰り返すから”といっていた案件は起きなかったでしょうが、告訴して大きくなる刑事事件は別の騒動を起こしたでしょう。なんてったって相手は組織。

チアノーゼも消えれば何事も無かったかのように仲間と顔合わせできる。
傷跡なんて残らないから、二人さえ黙っていれば誰にも知られずに済みます。
怪我を負わせていれば、告訴していた私だったでしょう。

あんな建設会社がやらかした失敗に始まり、上塗りした官民あげての犯罪行為を一番被害を被った私が何故命がけで守りぬいてやらなければならないんだ、って何時も悩み苦しんだ。

行き着いた結論は、死ぬ瞬間。

人は死ぬために生きている。

それは何時なのか分からないが、

死ぬ瞬間は“生きた満足感”が欲しい“自分の為”

と、言霊が教えてくれました。




自殺願望

2012年07月16日 10時44分35秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月16日

あらすじは、【  朝顔  



 


2010年01月12日



 【九夜 ★史実】 から

トライアル・バイクはTY175、マフラーをエンジン部分から外してピストン運動まで丸見えの三輪バギーは爆音のATC200、森の木々の下半身を縫い、目的を持って唸らせるには最適の足でした。
カートと同じで免許なんてのは要らないが公道を走れば捕まる。
「手を出してくれ」と走り回った。
大きな窓に幾つもの黒い影が・・・・・。

胸の高さに張られた有刺鉄線は村民の仕掛けた罠だった。

草刈り機では斬られそうになった。

ユンボで掘られた落とし穴には九十度で突き刺さってしまった。
曲がりくねった下り坂をフロントガラスまでボンネットに倒したジープで走っていたら、右前輪がドラムごとブレーキホースを引き千切って対向車線を後ろに飛んでったタイヤ。
車高が高い分だけ右前方に傾き、崖下を中立ちで握り締めるハンドルで逃げ、咲かせる火花のアスファルトへとサイドブレーキを一杯に引き、間違いなくレッドゾーンに入ったであろう回転数へと次々にシフトダウンさせてった。
カートでも飛ばす山頂への有料道路には傾いて足掻く哀れな廃車置き場への断末魔が延々と走っていた。

怖い時間軸を、木刀を持ったホンモノの人たちが巡回している森の日々に作っていた。
さまざまな組織の人たちが居た。
ここには刑法も道交法も存在せず、法治国家ではない〝シマ〟だった。
たとえ形でも、成績や繕う都合でしか寄り付かない。知らん振り。
先進国と威張っているが、カネに年金なんかを第一として考えるのは、私に言わせれば発展途上国だ。
摘発と庇護なんて、地球儀を見ての比較の空論。


師範の病室、彼女はキリスト教で自殺を禁じられているのに、
「殺して」
姉に頼んでいく。
わたしも実践した哲学、だけのこと。

「戦えるのはボクだけ」
潜在意識で生きる奉仕を、
「その手には乗らない」
責任者は相手にしてくれなかった。
ここでホントウに怖いのは幹部の胸中を自分勝手に酌もうとする上りたい若さ、思想の信仰者、取り入ろうとする親交者です。

幾度と無く比翼塚の御山を下りようとも考えてはいた。
娘に会いたかった。そばに居てあげたかった。

が、
「逃げ帰るな」
墓標や墓碑銘さえ忘れている歳月こそ頭の中に大切に仕舞いこんで動かされているのに気付けず、出て行けなかった。
彼女を師範を捨てられなかった。

互いに抗生物質を作りながら溢れ、トラブルとして繰り返されてった。
戦争は終わった。
しかし新たなる・・・・・、

世は正に1988年、記憶喪失はブルース・ウィルスのダイ・ハードな自殺願望に映画させる時代の私でした。

  今、自殺を考えてる人に、一言。なんて内容にも自然になっちゃう【東京激震の抗争勃発】ここからの体験談です。

世の中に生きた証を残したい、認めてもらいたい南阿蘇での立派な〝死〟なんかじゃない。
ただ死にたかった。ただ殺して欲しかった。
自分の命なんだ、死に急いだって自分で満足できればそれで良いじゃないか・・・
早く彼女に会いに逝きたい・・・
と、そうこうしているうちに生きる目的が勝手に生まれ、やりたいことに知らず知らずに気付き、流れのままに記憶を取り戻し、恥ずかしながら還暦も過ぎてしまいました。
歳を取るのの早いこと早いこと。爪の伸びるのも早くなる。
歳を取れば取るほど、一年一年が早く終わりだします。
焦らずとも、いつか死ぬんだから。

頑張りすぎないで・・・

考えすぎないで。





3/3 裏と表の社会が反転した犯罪

2012年07月15日 08時48分51秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月15日

あらすじは、【  朝顔  

 

 


2009年11月22日



 【八夜 ★抹殺】  【十一夜 ☆家族】

隣地の人たちに、表の社会を代表する行政や企業から境界杭を動かされて出入り口に取り付け道路となる要の土地を奪われたという一件が露見する。

真夜中であり私は寝ていた。
拉致された。
そのボディガード (元・柳◯組 )に。
十人以上は居た。
何も喋らなかった。
途中で逃げ出せた。
所轄署に駆け込んだ。

この件においての対応から処理、この署で勤務しておられた警察官の方々には感謝しております。
しかし警察が私にとって正義の人だったのは、ここまでだ。
異動がある。

カテゴリーから投稿には今後も〝闇〟なる活字が頻繁に出現しますが、少なくとも私の使う〝この闇〟は世間一般に言われるところの、ウラの人たちを表すものではない。
裏社会の人たちとの緊張感は、私が地獄に堕ちる人間に成り果てるのを助けてくれた。
【夏下冬上】にも擬人法で登場していただくが、この社会の一員たる人たちの集団から私を助けてくださった幹部や責任者らしき方たちも存在する。
ある意味、命の恩人と言えるのかも知れない。一キロ四方で住んでいるのは私たちだけになる隣人同士となった逃げられない立場においては、絶対に守らなければならない〝付き合い方〟があった。
幸いにも身に付けていたから、私は生かされている。

嫌らしいのは、逆転した社会から秘密を握る私を抹殺する手段として次から次に仕掛けられる〝えげつなさ〟である。
院長と地域の取り巻き、財閥系から権力の構造、地方行政に身の安全と既得権益を手放すまいとした村八分。ここに影響力で行使された法曹界から警察が加わる。
まるで世界中を相手に、たった一人で戦っているような感じ。

なぜ向かってくるのか根幹の記憶がないんです。
そこに明らかな境界杭が加わっても根幹が揺れているから、揺れが大きくなるだけ。抹殺する手段が酷くなればなるほど根幹の失われた記憶が呑み込んでしまう。大地震だ。

  「みんな守ってあげてください」
天使から命じられていた。
忠実な下僕になれる自分で満足というか、幸福な新婚生活でした。
だから守護天使で居てくれたんだ。


十一月から翌春、戦争勃発。死者四十数人かな、知らないがそんなもんでしょう。日本最後の内戦、と形容されている。
守られている幸せにも気付けない幸せな村であり、日本と言っても良い大きさもちっぽけな社会でした。
ここに上意下達の悲しみが加わる。高みの見物しているだけだった。
ここでの数ヶ月もの間、二十四時間で、目の前で見続け、見えぬ夜の彷徨を私は生きた。
この投稿における文言、これ以上は削除できない。変えられない。それこそ体験から生まれた明日の生き様です。

「熊本では何も事件を起こしてはいない。福岡の事件だ。本部長にやる気がない」
だった。
現在、凶悪犯罪発生率は最悪、検挙率は最低。

戦争は巻き込まれただけです。
だが、この三年後に発生した抗争となると全く違う。
ここまでの表の社会が〝私を抹殺すべく繰り出し続ける手段〟が阿蘇発北海道経由東京行きで飛び火したのです。死者三名。都政最大の組織的と化した事件である。
この真相こそ〝闇から闇〟葬られている。裏社会は最初ッから最後まで完璧に表に利用された被害者ともいえる。裏社会の方たちが気付かなかったのは戦争との関係を警察に知られたくなかったからだ。
だから表には出せないというのは理解できる聖人君子ぶった自分は嫌だし、これに乗じて未だに私を抹殺しようとしてくる人たちには、三つのブログでもって〝質疑応答〟としたい。

わたしさえ抹殺すれば、ままで完結だ。
頑張って。私も頑張る。

 残された母に元妻に娘のために





2/3 法律

2012年07月14日 10時15分18秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月14日

あらすじは、【  朝顔  

 

 


2009年11月17日



 八夜 ★抹殺
 3/3

現在は熊本どころか全国にも名を知られる有名な観光名所が向かいに建っていますが、この阿蘇の場所において境界杭の打ち直しで一つの出入り口を完全に奪われる隣地は分譲会社の倒産によって放置されていたのです。
丘の連なる広大な地なのに建物はといえば管理棟の家を含めても10軒も建ってなかったし、その何処にも誰も住んでいないし利用している気配もありませんでした。

総勢四人もの弁護士、大手私鉄、県庁、村役場はこの現状に乗じた。
この分譲地の放置されている全ての地番には三名の債権者が登記されていた。
三者とも関西である。二社は大手です。〇〇〇〇〇リース、〇〇土木、あとの御一人が個人でした。
二社の有名な名前からも、この個人の方が只者ではないと犯罪を計画した時点で調査するなり取り止めるなりすべきだったんだ。

それに、境界杭の打ち直しを知った私は、この個人の身元を「調べたほうが良い」と何度も忠告した。というのは、この方の名前が〝一般人が名付ける名前ではなかった〟からだが、すべて無視して強引に実行してしまった。

お一人の大物の人物を無視した三者だけで境界杭を打ち直してしまう。この方は最初っから何ひとつ御存知ありませんでした。全国にも名を轟かしておられる此の方を有名にした名言は広辞苑にも掲載されている。

村役場の場合は、ぐるみと言っても過言ではない。何人もの職員に部署が関係してしまった。この放置された分譲地を管理していたのも役場職員であり、私が購入した土地の仲介人であり、周辺の〝水道使用量〟の検針員でもあった。一帯に住む人は〝水〟を自分自身で確保しなければならなかったのです。
私も例外ではなかった。だからボーリングにて自前の水源を得てから購入手続きに入っていたのです。
登山道路自体も、このあたり一帯は大手私鉄の所有地でした。県が借り上げているのです。もっと標高のある観光ホテルまでを終戦後に米軍がブルドーザーで〝ただ通りやすい〟というだけで整地していったので、地番なんて字図は無茶苦茶に入り乱れていたのです。接収した観光ホテルのプールもアメリカっぽい作り方でした。
ちなみに〝やまなみハイウェイ〟も米軍のブルが均した道です。〝登山道〟も〝やまなみ〟も今は〝呼称が違います〟ので。

この境界杭の犯罪、当時の私は普通の事と思っていた。犯罪になるという認識がなかった。
弁護士のやることだし、村に県に大手までもが大っぴらにやるのである。そのまんま、流れに流される記憶喪失は八月のクリスマスに比翼塚の私でした。

このまま【青春キャンパス】と名付ける遊戯施設の本体工事に入った。レーシング・カート、テニスコートなどです。
この景色に、
「妹に見せたかった。連れてきてあげたかった」
「あなたは妹があんなに好きになった人なのよ」
姉の言の葉がある。だから購入した。

  「連れて来たよ」
話しかける
「遊ぼう」 


この景色の土地を阿蘇に探すことになった切っ掛けは、そもそも院長が言い出した、
「妹を思える土地建物の建設」話に始まっている。

ここに投資した資金は裏千家師範としての彼女自身が私への嫁入り支度金で1000弱を出したのである。私は億を超えた。院長のカネなど一銭もない。これは最終決算である。おどろおどろしい謀略など関係ない。

なのに工事中、この墓地を突然に院長が差し押さえてきた。前触れも無く何故あんなことが出来たのか、今でも全く分からない。阿蘇の七不思議があったら入れて欲しい。
それなら私こそ、あの99年間の賃貸契約とやらの駅建物が差し押さえ出来るではないか。


一年弱が過ぎます。
隣地に〝その大物の方の組織〟から幹部の方がボディガードを伴い、引っ越してこられた。
隣地の倒産した分譲会社の債権者から所有者になられる。
境界杭の件が発覚した。

 

 

 


1/3 阿蘇

2012年07月13日 18時46分41秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年7月13日

あらすじは、【  朝顔   

 

 


2009年11月16日



 【八夜 ★抹殺】 から
 2/3  3/3

[土地は見た目通り全てに亘って登山道路に接する]
という、後々に師範が生きた思い出から形見を残す建物を院長と計画した阿蘇では、土地調査から一切を依頼した財閥系の元請となる建設会社がを私に提出していた。
そのむかし荷馬車が通った“里道”の表記なのに“登山道”と間違えて解釈したのである。

見た目には100メートル余りで登山道に接していても、実は隣地の出入り口が細長く入り込んでいたのです。
報告書を受けた一周忌当日での土地の取得後、半年位あとに登山道とは一メートルも接していない飛び地だと判明するが、すでに造成工事に入っていた。
この過程で発覚したのである。

素晴らしい景観の地に今まで何故誰も手を付けなかったのかが、ストンと胸に落ちる。大手も私も騙されたのであるが、土地所有者も仲介人も村役場の人間だった。
この時の自分を振り返れば〝景観に人を重ねて〟良い人と観ていた自分が居た。

この件も院長の問題で依頼していた私の代理人弁護士に任せたのですが、この弁護士は対立相手となった元請側建設会社の弁護士やこの系列下の数社と工夫し合い、隣地との境界杭を打ち直して、13,3メートルの出入り口を私の土地に作った。隣地の出入り口を完全に奪った。
隣地にとって、この出入り口は裏口の存在でしたが、肝心の登山道路に面していた2箇所の道路の一つでした。表となる現在の大きな方の出入り口は500メートルほど上った位置にあった。

双方の弁護士の汚さを物語る書類が今も手元に存在する。
『13,3メートルを奪った後で
私の弁護士は『土地調査報告書によると100メートル有る出入り口なのに13,3しか無かった土地を購入させられた、とする通知書を相手側の弁護士に送達した』
『受け取った元請となる相手側の弁護士は、話し合いに応じる、という回答書を私の弁護士に返送する』
この遣り取りで、『購入時には13,3メートルは在った出入り口の私の土地』となる。

私の代理人弁護士は、
「出入り口を作ってやった」
と私に開き直った。

この元請は財閥系となるが、この財閥が生まれた地は、姉妹の地と重なる。

境界杭を打ち直すに当たっては、接している土地所有者全員の立会いが必要です。関係者は私を除いて四者だった。
地元の大手交通機関。里道を管轄する村役場。国立公園の阿蘇だから、管理する県庁の出先機関。
問題は残りの一人。
この御一人は、日本という国の中でも大物すぎる。
この方を完全に無視して、事を運んでしまったんです。
境界杭を打ち直すという、とんでもない犯罪を一方的にやらかしてしまった。