事実は映画よりも奇なり

乳がんで余命2週の告知もキリスト教の27歳の裏千家師範は延命薬で百八夜を内鍵付きの病室にて戦うも・・・

4/6 時効は停止した

2012年07月26日 00時16分25秒 | 朝顔 「椿灰」 

 

 


2010年01月30日


 5/6  6/6

Twitterは美術館。絵を読む。アイコンは第一印象。化粧にネクタイとも通じている。妥協するは曝け出す弱み。
斜に構えて椅子に踏ん反り返った写真だけでなく頻繁に出没する軌道上の内容はピンポンダッシュ。ヒットラーどころかナポレオンばりの人物から飛び出るCMには蕎麦猪口を置いての自然体で解除ボタンも押したくなる〇放だ。

このブログの左の縦列には〝色〟付けありません。右でも下に置いております。なぜか、この私の内容では読みやすいから。しかし、このブログも初期、といっても去年8月21日ですが、ここからしばらくの間は投稿自体に絵文字が頻繁に使われております。まず自分から切り刻む苦しみを和らげてくれる穏やかで優しき作用がありました。

アイコンに背景から感じる印象が最も重要な位置付けとなるTwitterの設定。ここで嫌われれば先細りも避けられない。が、やり直しは何度でも利く。「フォローする」積極性を持てば。。。
左から読み始める文章と内容に全体像で深く投稿者本人を抉られるのがブログの怖さ。一行の失敗でも管理される。追放される。後は無い。
私は美術商。甘受しなければならないアイコンは内容と合体して針の筵に座らされるTwitterと化す。
私にはみんなのように才能がない言葉遊びより美術館として絵を読む感覚でTwitterを大切にしたいとの感受性にウイルスとなる。
魂を侵されるのはイヤだモン。

今日の投稿は昨日まで四回続いたTwitterとは全く関係ありません。ここらで四回分を纏めて置きたかっただけ。スランプは脱出できましたので本筋に戻ります。

何故ブックマークには知人・友人なく第三者しか置かないのでしょうか。
 →巻き込みたくないから。ネット上でのメールからダイレクトメッセージも同じ宿命を背負って、私は生かされていく。



  ☆ ☆ ☆



12月19日投稿 3/6 官に民に個々に の続きです。


2000年2月7日から「ここは何処。わたしは誰」だった記憶を取り戻し始めるのです。
まず病室における性暴力を思い出し、死の真相、財産の行方など詳細で健全な主体性を取り戻し始めていた。

熊本県警本部は2002年4月11日付け(熊監第83号)で私に郵送した公式文書にて、
「暴力団の支配下にあった自治会の告訴を受け、私が抗争を止めるべく物的手段とした設備で私を書類送検した」
と、図らずも認めてしまった。

続いて熊本県公安委員会までもが、2004年1月8日付け(熊公委第2号)で、同じく認めた。はっきりと。

2005年7月5日、福岡地検に出した手紙で呼び出されたあと、書類送検された時の検察官を懲戒請求したら、一人一官庁は辞職された。
流石、警察なんかとは質が違う。

熊本県警のアホ馬鹿コンビも、自治会の小中学校長夫妻に歯科医も、義兄の医院も、それぞれの組織に懲戒請求しました。が、それっきり。

依頼人は私なのに義兄側へ寝返っていた弁護士と〝結果として招いた事件の諸々から、院長に追随した挙句で勃発させる都政最大となった〇〇〇抗争〟等々の責任問題については、2000年2月16月から福岡県弁護士会に相談していたが、梨のつぶて。

2005年11月29日(時効成立)になって、この弁護士本人から、義兄との間で1985年3月13日作成の和解調書とやらが送りつけられたが、
「そんなもの無い」と私には言われていた。

事情を知らない、案件さえ忘れてあるだろう裁判官でも不審を抱かれるに違いない、
「法廷で公開」なる私には身に覚えの無い偽りの文言が調書には記入されていた。
だから、そこだけを質問状にして地裁〇〇〇に送ったが、すでに退職されてあった。

県弁護士会へは2006年1月10日から、そして日本弁護士連合会へと懲戒請求、異議申し立て、綱紀審査申し出、と動線のごとくに行動した。

結果、2007年3月22日に「3年で除斥」との、これ以上は無い「決定」が第三者委員会で下るが、おかしい。。。

時効は、百億は握り締めた院長の国外逃亡という名のアメリカ移住で停止したままだ。
日本に残された関係者は逃げ回るしかないのか。






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