事実は映画よりも奇なり

乳がんで余命2週の告知もキリスト教の27歳の裏千家師範は延命薬で百八夜を内鍵付きの病室にて戦うも・・・

介護 【 病室の母 】 と 私

2013年01月17日 20時38分11秒 | 介護   

1月17日
一昨日の夜にツイート終わってパソコン閉じたあと、、、体調不良
玄関口どころか電話にも出られない 

 

1月10日
考えすぎてた。新たなる年を迎えたのだから、と。

土台から書き直したりせずに書類に日記紛いを漁っての書き込む作業に戻りましょう、、、
体調不良の中から、、、
便秘なだけなんですけれどね、、、

タグ付けを丁寧に、
地道にコツコツやりましょうかTwitter。。。

 

 

1月7日
明日が仕事始めです。 
本年もクリスマスまで、宜しくお願いします。

今日から 「北の国から」の再放送が始まりました。
一回目の放送が観たいと常々思っていましたので運良く番組表に見つけられて嬉しかった。
放送開始は1981年だったのですね。 
その年は、原点回帰における彼女が逝った年であり、阿蘇を終の棲家として生活しだした年です。互いに季節も秋から。
知らなかった。私が見始めたのは1990年に福岡に舞い戻ってからの再放送でしたから。
どおりで、ストンと胸を打ち一杯になったわけです。

阿蘇に住み始めた数ヶ月は私も電気も水道も無く沢の水を使いランプの生活を楽しんだ。
電気が来てからも冷蔵庫は野菜に酒にビールなどを凍らせないための温蔵庫でした。
懐かしい。
さ、明夜から再び、ポチポチいかせて頂きます。

夜露死苦!

 

 

2013年(平成25年)1月1日

あけましておめでとうございます。 

 

 


 

 

12月28日
今年は「吾唯足知」を熟成させる年だったみたい。
さて来年は、、、楽しみ。 

 

12月25日
クリスマスも終わります。
今年も 「原点回帰」 にてお騒がせする中、お付き合いくださいまして感謝の念に堪えません。
ありがとうございました。
2012年も、あと一週間です。みなさま、良い年をお迎えください。 
年末年始も原点の投稿は休みなく続けますが、七日までツイートでの使用は控えます。

平成25年も宜しくお願い申し上げます。 

 

12月08日
ほぼ大掃除も終わり、新しい部屋も居心地良いです。 
が、しろうおなお手々をハイターに殺られ少しヒリつきます。
7月7日に退院した母とはそれっきりですが何の連絡もないのは元気にしている証でしょう。 

 

11月24日
原点回帰も第七部に至って、とうとう写真なりを使用しなければならない投稿と思われる書類に打ち当たる。
二代目のパソコンと共に真剣に考えねばならないのだが購入以前の問題山積だ。
電話の盗聴から発展したパソコンとの接続妨害を回避したい名義もだが、ネット関連の口座振替が既に四ヶ月は引き落とされていないのだ。どうなってんだろう。 
振込の口座が代わったとしか思えないのだが、私は手続きどころか何もしていない。代わったとしても、どこの誰の口座に移ったのかも、不明。 
考えられるのは、母だが。今はもう、・・・なので、調べるには母に心配どころか、苦しめる話になってしまう。いや、私が何を言いたいのかも理解できずにパンク状態になるでしょう。
困った。 

 

11月17日(土)
このところ着信専用にしている固定電話への「探り」が「脅し」が激しさを増している。中には10年以上に亘って続く番号も入っている。まともなのは一本もありません。
番号通知しないと鳴りもしない電話ですが、それでも受信拒否に入れるブラックリストは満タンだ。
すべてが「買います」やら「保険」に絡みつけての卑しきカネ。それと解ると一刀両断に断るのですが、向こう側からは「ひそひそ話」やら「聞いた話と違うといった独り言」で、その場は収まる。が、数日して再び同じ人間で繰り返す。
はっきりした悪で断罪できるが故か、幼稚さから抜け出せないらしい。
よって、これ以上の相手先電話番号はブログに掲載する、と警告する。
この人達は黄泉の国に至っても気付けないんでしょうね。大切なのは必要なのは何かに。
そして国家権力との間で苦しむのか焦りを垣間見る。

母が穏やかに天寿を全うしてくれるまでは少なくとも私から波風を立てての身体で動くことはない。 
いや、それでも動かないだろうから放っといてほしい。
信ずる道さえ閑けきに勝る安らぎはないよ。

 

11月01日
原点回帰 の投稿では必要と思われる日記に原稿に書類などなどを押入れから選び抜いた山脈はいいものの標高30センチ。 
一ヶ月経過の今日になっても登り切ったのは厚さ数ミリのコースター。
机に椅子の回りはジャングルジム、、、
少し片付けないとホットカーペットも出せない、、、
何時になったら解放されることやら溜め息ボンベ、、、

 

10月19日
このところの病院通いですが、原因の第一は食生活の乱れらしい。きちんと食事する時間を設定しましょうかね。

 

10月7日
昨日だったかな一昨日か、待ちに待ったブログへの訪問者が来てくれた。
私の知人ではない。師範の、です。
こういう方の来訪を待ち望んでいたのです。
やっぱり、ツイッターでも繰り返しツイートしなければならない、と痛感しました。 

 

10月04日
アイコンは言うまでもなくツイートからRT分も動く画像をTLに流されるのは遠慮してください。アイコンの場合はブロックさせて頂くしかありません、、、by 普通でも目が悪くなるのも当たり前の老人。 

 

2012年7月30日
七夕の7日に退院した母は女の家に居ます。
音沙汰無いから元気にしているのでしょう。 よかった。
こんど会うのはお正月でいいからね。 

 


 

母と子の看取り看取られ 2012年4月27日に再び倒れてから6月22日まで。

6月20日から、
? さる女優さん張りに唇が腫れてるな、と思ったら言語療法にて発声練習した後でした。
毎日の自主トレも今日は車椅子で外に出ての 「あいうえお。がぎぐげご。ぱぴぷぺぽ・・・」
昨日とは全く違って聞き取りやすい母でした。流石に療法士さんです。 

(ここでページが二枚に分かれてしまったのはブログの容量の問題だけです)

 

6月24日から7月7日の退院に至る まだ会えない娘に伝える看取りの家 となります。

7月4日から、
「もう救急車は呼ばない」 そうです。
この趣旨の答えを何度私は聞かされたことでしょうか。 
4月27日に搬送された二度目の今回は「寝たきりとおむつの余生で介助決定した」と諦めかける私でした。
が、7日土曜には吸い取りパット無しのリハパンで退院です。

看護師、療法士、助手、病院関係者の方々には心より御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
三度目も貴方方のお世話になるかも、わかりません。
よろしくお願いします。
その時には又もや肉体労働者の出番となるのでしょう。
それまで英気を養います。

 


 

パーキンソン病に2005年の「右外傷性大腿骨頭壊死」から2010年10月22日に左半身不随の脳梗塞後遺症を患い2011年7月までの回復期リハビリテーション病棟に至った八ヶ月間ですが一日も休まずに毎日で二人三脚する母との介助日誌ならぬ漫才記、だけに終わる予定でしたが、またもやの二ヶ月半が加わるのでした。

 



 

【 女の家 】  
2011年7月10日 母が私へと連発する 「ばかちん、、、バカチン、、、馬鹿ちん、、、
これには深い意味があります。

父の医院跡地に母がコツコツと汗して働いたお金でやっと建てた家を「あの眼医者」に騙し取られた恨みが込められているのです。
「眼医者」は妻への慰謝料さえ未払いだ。
母と妻は仲も良かった。会えなかったが会いに来てくれた孫娘同様に気にかけている。

「 十一夜 家族 」 に詳細。

 

 

 

病室の母 「看護計画」    
内容については互いに同じ心構えで為すべき行動計画でしょう。少なくとも完全看護だとして病院側だけに押し付けられる類ではない、ことだけは確かである。

病室の母 「ありがとう」   
〈 母を治療・看護・援助してくださる全てのスタッフに捧げます 〉

 

 

 

病室の母 6月17日-7月6日 (2011年 退院)
1日から、、、ここ二三日は夜に下痢気味らしい。寸前でアウトになるところを機敏な看護師さんに助けられているみたいだ。

母子漫才、、、パジャマの巻。「(妹が買ってきた)それ小さかし胸が空いとうけん交換してもらうと」「(きれいに畳もうとしたら)もう名前がマジックで書いてあるよ」「あ、そうね、、、アハハハハ・・・」

 

六月の母 01-16 
16日から、、、本日の母子漫才も歩行練習で、、、
数メートルですが杖なしの歩行練習は、、、
お手手のつなぎ方から、
「みぎ、、、ひだりぃ、、、みぎっ」
まるでフォークダンスだっぺ、、、
はずかちぃっ

「リハパンを普通のパンツに戻す」と言い張る。そして今日、リハパンから自分勝手に進歩させてのババ色ババパンに穿き替えてた。トイレ介助で気付いたので「勝手なことしたら駄目」お尻を ペン したら、チビったぁ

 

五月の母 17-31  
31日から、、、30日は美容師さんが病院に来てくれる日でした。
わずか10分遅れてるだけで、
「死にたいと。。。死なせて。。。」
もう大変。顔も真っ赤に泣き出して、、、
「こんなこと(リハビリ)しても治らん。。。」
、、、大泣き、、、
私は手鏡を持って、ウロウロ、、、
耳はどうの、、、後ろはどうの、、、
ボソボソ、、、ぼそぼそ、、、
「かわいくなった」
みんなに言われて、、、ご機嫌。。。
もう笑った。

 

五月の母 01-16 
15日から、、、 テーブル上に「眠前薬」 眠る前に飲む薬が置いてあります。
ぷるぷる震える右手一本しか使えない身体。起き上がれないし寝返りもうてないし腰を90度以上深くにも曲げられないから何かを取りたくても大変だし、、、
何もかもが一人で何処まで出来るのか出来る可能性があるのか探求から練習の毎日毎日なんです。
薬の袋を片手でもハサミを使って切り、服用できるように看護師さんがいろいろ考えてくださいます。

「おやすみ」 少なくても二回は病床の母に言い直して帰路につく日々が続きます。多いときには五回、行きつ戻りつ、後ろ髪を引かれる夜が訪れます。。。あの娘が大学病院に搬送されたのもGW明けでした。ここから108夜を闘ったの

 

四月の母 13-30 
30日から、、、 患者として入院させたんだからカネを払ってんだから何事にしても病院は全てに責任がある完全看護なんだから対処するのが当たり前、、、だと御自身を誤魔化し社会をも煙に巻こうとしてはいけない。信頼関係の構築です。保険やら年金やらで当たり前だとか押し付けてはいけない。コミュニケーション、、、細やかに大切です。

差し入れの品が重なった。テーブル上にそれらのタッパに皿に袋を箱を置き直しては食べ、食べては並び替え、少し位置をずらしては中身を確認し、同じタッパでは何度も何度も中を聞き返しては食べた。御機嫌にも満面の笑みを浮かべ

 

四月の母 01-12 
12日から、、、 テイッシュは使い捨てだって何時も言っているのにパジャマのポケットなんかに貯めこむんです。洗濯すると辺り一面の牡丹雪、、、きれいですよ、、、な訳ないでしょ。

今日の、ばぁば、、、「ひよこ」を頬張りながら一言も二言も。。。だから「ひよこ と 千鳥饅頭は形が違うだけで一緒だろ」 って言ったら 「皮が違う」 。。。そんな違いが解る婆さんだったら、下半身も早く元気になっておくれ

 

三月の母 12-31 
27日から、、、「2011年03月20日、わざわざ遠い地から娘がブログを参考に「やぶれまんじゅう」とか色々持って病院に母を見舞いに来てくれました。なのに10年ぶりの母どころか20年ぶりの私も会えなかった。「 十二夜  一人娘も一人っ子 」 に詳細。 

母は孫の後ろ姿を見つけて名前を叫んだが、あの声です。とても遠くまで届く声ではない。孫を見た職員の方々に様子を聞き回り「確かに孫だと確信した」 私に後ろ姿の見たままを事細かく教えてくれた。娘へ。ありがとう。すごく喜んで

 

 

平成23年
2011年3月11日 午後2時46分頃
東北関東巨大地震発生 M9,0

 

 

三月の母 01ー10 
10日から、、、 病棟の患者さんたちの態度、気配り、心遣いは一般社会では有り得ない素晴らしさを創造されたりするのです。
御自分の今から他人に対する接し方を、゛人への思いやり゛を創っていかれる。
感じ入る瞬間が多い私なのです。
考えさせられる自分の部分に恥じ入ります。
あらためて心に留め置く一人ひとり、ひとつひとつの体験です。

 

二月の母 17-28 
22日から、、、ここ数日、あたいの来るのを待つどころか、まるで時間が停止しているかのように途中まで行動に起こした状態で待ち構えている。「もう来る頃だと思っていた」と、にたにた、、、笑ってやがる。

少し伸びているのが気にかかり、ちょっと、「ぎゃーーーーーーっ」 隣りの病室から看護師さんが駆けこんでこられた。が、居合わせた5~6人全員どころか当人も笑い転げているので安心される。ちょっと爪切りの刃を当てただけなのに


二月の母 15ー16 
16日から、、、おはよう。。。躊躇せぬ恥なき介助で歩みたいと450から1000チョイの安物ばかりに身を落としているのに、便座と間違われての手に始まり、坊主頭へのシャワーやら顔へは水鉄砲です。今日こそ身支度を役立たせてよね。

毎日毎日うんちうんち。丸一日出ないだけで看護師さんに求める。昨日、私が行った時には「もう入ってました」 それもトイレ前で待機しているのです。看護師さんから報告されて駆けつけると情けない顔で手を握りしめて来ましたが見る


二月の母 01ー14 
14日から、、、今日は 「介護の日」
母が倒れたのは去年の10月22日でした。今日から介護を学びます。ベッドに座らせ肩を支えながら二人並んでテレビ観ました。当日まで元気だった頃の母には憎たらしさもあったのに、介護からテレビからマッサージから食事から何から何まで、今は愛おしく、可愛くって堪りません。何時までも教えられる息子だ

うがいさせたら少し聞こえましたが。ペッ、顔に飛んできた。それだけ後ろに首を傾けられたということで、どれだけ戻せば良いのか分からなくなってる。少しづつ本来を取り戻してくれます。好きなだけぶっかけてくれっ


一月の母 06-31 2011年 
29日から、、、 
本心から食べてくれそうな、それでいて栄養ある物を探して色々持っていくのだが、好き嫌いってか我が儘が酷くなってきた。そんな中、「いらない」と言っていた物が「少し気になったので」、、、「ひょっとしたら」と思って買い求めたら、、、美味しそうに食べてくれました。“価格”です。高い物を遠慮している。。。かわゆいやっちゃ。。。

 

1124-1231の母 2010年
、、、その方(黒木メイサ)、あんなに有名なのにブログで投稿した「湯たんぽ」を読んで下さり、スタッフに置き換えるばかりか可愛い写真まで添えてツイートしてくれました。(突然の介護に混乱する私を応援してくれたのです)感謝の気持ちは忘れません。とことん恩返しします。(テレビドラマも見たことないし、曲さえYou Tubeでしか聴いたことがない、、、なんてここだけの秘密です)

ベッドに座らせ肩を支えながら二人並んでテレビ観ました。当日まで元気だった頃の母には憎たらしさもあったのに、介護からテレビからマッサージから食事から何から何まで、今は愛おしく、可愛くって堪りません

 

 

2010年10月22日 夜 女の家にて風呂上りに倒れる。すぐに孫(姪っ子)が気付いてくれました。

この一ヶ月、急変をおくびにも出さずにTwitterする日々でした。
一日に800ccは水分を補給しなければならないのに飲んでくれず、飲んでもらうのに一苦労です。
ゴックン、、、できない。飲み込める力さえ、、、ないんです。
肺に入らないように水にはトロミをつけてあるんですが、これが不味いらしい。
最も恐れるのは肺に水が入っての、、、肺炎でした。
そうなれば、神に委ねるしか、の生命らしいので。
体力は気力から。
そこへと大切なのは、怒り、喜び、笑い。。。

新聞やニュース等でよく聞きかじる死因の 「肺炎」 二文字に包括された恐ろしき内実を知りました。

 

 

 

母(原点) 【気】 2005年
元来のパーキンソン病に、この2005年の足を取られての「右外傷性大腿骨頭壊死」、、、2010年10月22日に左半身不随の脳梗塞にて後遺症をも患い現在のリハビリです。

大腿骨を骨折してしまった。救急車で運ばれた病院で信じられない位に、声も、何から何までが“最期”を“感じ取っている”とさせる母をみました。そこで、「急いで下着とかバスタオルやらタオルケットを取り出してきたから、紫のバンツ

 

 

 

 

ふくおか医療情報ネット http://bit.ly/iezK0T 現在診療中の、いろいろな条件で、医療機関を探す。休日夜間急患センター在宅当番医を探す。医療情報を見る。子供の医療相談。予防情報、保険・医療・福祉情報。かしこい医療機関のかかり方。電話・FAX案内サービス。等