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冤罪事件についてまわる「死の連鎖」

2014-04-16 10:02:37 | 告発 袴田事件

冤罪事件についてまわる死の連鎖は検察・警察の責任
5点の衣類は、「犯行着衣でもなく」「袴田さんのものでもない」
「5点の衣類はねつぞう」の証拠
検察・警察が袴田さんを犯人だと特定した唯一の証拠が「5点の衣類」なのです。
 その「5点の衣類」というのは、事件が発生した1966年6月30日から1年2ヶ月経った、1967年8月31日にコンクリート製のNO1味噌タンクから味噌出しをしていた水野源三さんが発見したという事になっています。その時の状況を次のように記載している。「昭和42年8月31日王こがね味噌工場において、従業員水野源三が工場内の一号タンク内の味噌を搬出中、タンクの底部に麻袋(南京袋)に入った血痕付着の衣類を発見した旨所轄清水署に届出があったので直ちに清水署においては捜査幹部を工場に派遣するとともに、県本部に報告があったのであったので、県本部から刑事部長以下捜査幹部を工場に派遣して、現場の見分等の指揮にあたらせた。」と捜査記録は書いている。1966年8月18日に警察は袴田さんを逮捕しました。そこで、「赤みそ一年物」という「設定」で、タンクが空になった時に犯行着衣をタンクに隠したのだ、としたわけです。ところが、その時逮捕した根拠は「犯行着衣は袴田さんのパジャマ」だったはずです。公判が始まって、一年近く経過した段階での状況は、「犯行着衣としてのパジャマが成り立たなくなってきていた」のです。パジャマに返り血が付着していると云ってきていたのだが、鑑定の結果血液の付着が認められない事が明白になってきたのです。そんな時に、たっぷり血の付いた「5点の衣類」がでてきたという事から、「袴田さんは、自分の無実が明らかになった」と喜んでいたのです。 それがどういうわけか、青天の霹靂のごとく「5点の衣類は袴田巌のもの」と断定してきたのです。その理由はこうです。1967年「9月12日 袴田の浜北の実家を家宅捜索した結果、発見されたズボンの裾を切った共切れを発見し(シングルで既製品のズボンであるため長い裾の部分を切断した共切れ)たので、ズボンの製造元および縫製元を捜査した結果、縫製状況、生地、切断状況などが完全に一致し、さらに裁判所の職権で科捜研において同一かどうかの鑑定を進めている。」というもの、また「白ステテコ、白半袖シャツ、スポーツシャツ、グリーン色パンテーの出所についても慎重な捜査を進めた結果、それぞれの製造元、卸問屋、小売店が判明し、ステテコ、白半袖シャツ、スポーツシャツについては、別居生活中の先妻レイ子が買い与えたものであり、パンテーは母親が買い与えた事がそれぞれ証明され、いずれも証拠として採用された。」と捜査記録は書いている。
 いま読んでも、なんと強引な、なんと勝手な事を書いているのだろうと身震いするものです。再審開始決定が出され、その報道の中で「五点の衣類」が映像として出されているので見てください。

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 この報道で、「五点の衣類が犯行着衣か否か」ということを、証明するために「DNA 鑑定」が行われました。「五点の衣類に付着している血液が、被害者の返り血の血液であるかどうか」また、「白半袖シャツの肩についている血液は袴田さんのものとしているので」それを DNA鑑定で確認しようとするものです。
 わたしは、「再審請求の枠」にはめられる必要がありませんから、旧証拠を使って「死体は動かされた」事を証明して、犯人は袴田さんではない事を普通の人に理解できるようにしました。
 そして、この五点の衣類問題についても、ごく普通の事実、ごく普通の証明で明らかにできると思っています。ただ、「再審請求」という異常な「法制」が、それを利用するものに有利にしている分、冤罪者にとって大変不利にしているのです。
 ごく普通の事実・ごく普通の証明ですが。
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1966・6・30---8・18---9・9-----11・15-------~----1967・8・31---9・12----~--- 1968・9・11
--事件発生------逮捕----起訴------公判開始-----~-----五点の衣類出現--家宅捜査--~---結審一審判決
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「王こがね味噌」の「橋本藤作商店」では、1966年当時「赤みそ一年物」というものは製造しておりません。
ですから、五点の衣類はねつ造です
 当時県内で六十数社の味噌製造企業の中で、販売シェアーをトップで走っていたのが、「カネ十味噌」で、今日まで続いています。その専門分野の人々に取材し、調査した時にも「あそこで赤みそ一年物を作っているとは思えないがねー」というものでした。そして、「王こがね味噌」「橋本藤作商店」の技術課長をしていた「望月倶輔」さんに聞いてみたのです。技術屋さんですから、自分が導入した「味噌醸造の促醸法」で「2~3週間で醸造できる方法があれば、どんどん売れる」「ただし、色合いが薄いので、3~6ヶ月ものを他社から購入して、それで色付けすればよい」というもので、味噌樽の醸造室で室温を40数度程に上げて、北里研究所の指導を得ながら醸造菌を開発した結果、県内63位から県内3位にまで急成長したのだそうです。望月さんは、素直に話してくださったのです。
 ずいぶん後になってから聞いた事でしたが、私が「望月倶輔」さんからお話を聞いた半年後くらいに亡くなったというものでした。いま考えてみると、あまりにも私自身が鈍感だったんだなあと反省している。そこから分かったのは、今にいたるまで「元従業員に対する箝口令」は、命がけなんです。
 そして、「冤罪」を作ったものは、次から次へと犯罪を続けているという事なのです。検察・警察の罪は重いですよ。

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