ほんとうのことを本事に

真相は深層に、隠れているように見えて、そばにある

袴田巌さんを犯人とする証拠は全てねつ造だ!

2014-04-18 10:45:58 | 告発 袴田事件

袴田巌さんを犯人とする証拠は全てねつ造だ!
「赤みそ一年物」は既に造っていなかった・・・「王こがね味噌」

袴田さんを犯人とした・・「証拠は全てねつ造」

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1966・--------------------------~----------1967・・・・・・~---------1968・--
--6・30----8・18--9・9----11・15--~---8・31----------9・12---~--- 9・11 ---
事件発生----逮捕----起訴---- 公判開始--~--五点の衣類出現--家宅捜査-~--結審判決
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---------赤みそ一年物の仕込み-----------------赤みそ一年もの搬出-----------------
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「赤みそ一年物」という前提だからこそ、「五点の衣類をねつ造」する「辻褄が合っていた」が、実際は「赤みそ一年物を作っていなかった」のだ。だから、NO1タンクには三ヶ月ものや半年ものの「樽買い」で浜名味噌などから購入した「色付けようの味噌」が何度も「搬入・搬出」して、それこそ「何度もタンクの底が見えていた」のである。その事を従業員が知らないはずはないのである。それを知らない振りをさせてきた事になるのである。それには、強烈な脅しが必要であった。「箝口令」(かんこうれい)を破ったものに対する強烈な脅し、それが望月倶輔さんの死と繋がっているのか。

ーーーーーー死の連鎖ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1966(S41)年 6月29日-----------橋本扶示子(昌子)・橋本ちえ子・橋本雅一郎(藤雄)
------------------------30日-----------橋本藤雄(自殺)
1966(S41)年 9月06日-----------橋本藤作(こがねみそ無限責任社員、火災後の残金不審) 
1967(S42)年 8月08日-----------水野豊司(こがねみそ代表取締役、会社の解散問題不審)

1981(S56)年12月29日----------平垣安治(藤雄の友人66/6/29に3人で会合、藤雄の死に不審)
1984(S59)年04月16日----------平垣圓一郎(平垣安治の弟、兄の死・資産略取に不審)
               望月倶輔(こがねみそ・技術課長、袴田冤罪・疑惑で不審)


2014(H26)年03月28日----------橋本昌子(佳代子、警察に出頭して真実を話したい・服殺)  
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おなじねつ造でも・・・・従業員の発想ではない
 味噌の醸造の仕事に関わったものが「考えられない事を考えた者」の仕業である事は間違いない。味噌という食品を造っているものが「考えられない事を考えた者」の仕業である事は間違いない。
食品を造っている「味噌会社」をつぶす事を何とも思っていないものの仕業である事は間違いない。それは誰なのか。「死体を動かしたメンバー」であり、藤雄の最後を見ているものであり、藤雄のきていた着衣をわすれることができない者である事が分かるズボンとスポーツシャツの色合い、しかも、袴田さんがはいていたブリーフの色を知っている者であり、わざわざ古いのを探してきた王こがね味噌のサービスマッチ(海野さんが知っているか)・工場事務室の救急箱内のものと同類の絆創膏・味噌金山寺用の大豆や米麦を入れてきた麻袋などを使用している小細工が満載なのである。これはもう、捜査情報を十分に知っている者である事が分かる。その一番のポイントは「絆創膏」である。袴田さんが、火災の際の消火活動でトタンで指にけがをしている事、その時に絆創膏を使っている事を承知している者なのである。

「死の連鎖」を・・・・早く止めろ

もう終わりにしろ、元従業員全員が勇気を出して止めさせろ!

冤罪事件についてまわる「死の連鎖」

2014-04-16 10:02:37 | 告発 袴田事件

冤罪事件についてまわる死の連鎖は検察・警察の責任
5点の衣類は、「犯行着衣でもなく」「袴田さんのものでもない」
「5点の衣類はねつぞう」の証拠
検察・警察が袴田さんを犯人だと特定した唯一の証拠が「5点の衣類」なのです。
 その「5点の衣類」というのは、事件が発生した1966年6月30日から1年2ヶ月経った、1967年8月31日にコンクリート製のNO1味噌タンクから味噌出しをしていた水野源三さんが発見したという事になっています。その時の状況を次のように記載している。「昭和42年8月31日王こがね味噌工場において、従業員水野源三が工場内の一号タンク内の味噌を搬出中、タンクの底部に麻袋(南京袋)に入った血痕付着の衣類を発見した旨所轄清水署に届出があったので直ちに清水署においては捜査幹部を工場に派遣するとともに、県本部に報告があったのであったので、県本部から刑事部長以下捜査幹部を工場に派遣して、現場の見分等の指揮にあたらせた。」と捜査記録は書いている。1966年8月18日に警察は袴田さんを逮捕しました。そこで、「赤みそ一年物」という「設定」で、タンクが空になった時に犯行着衣をタンクに隠したのだ、としたわけです。ところが、その時逮捕した根拠は「犯行着衣は袴田さんのパジャマ」だったはずです。公判が始まって、一年近く経過した段階での状況は、「犯行着衣としてのパジャマが成り立たなくなってきていた」のです。パジャマに返り血が付着していると云ってきていたのだが、鑑定の結果血液の付着が認められない事が明白になってきたのです。そんな時に、たっぷり血の付いた「5点の衣類」がでてきたという事から、「袴田さんは、自分の無実が明らかになった」と喜んでいたのです。 それがどういうわけか、青天の霹靂のごとく「5点の衣類は袴田巌のもの」と断定してきたのです。その理由はこうです。1967年「9月12日 袴田の浜北の実家を家宅捜索した結果、発見されたズボンの裾を切った共切れを発見し(シングルで既製品のズボンであるため長い裾の部分を切断した共切れ)たので、ズボンの製造元および縫製元を捜査した結果、縫製状況、生地、切断状況などが完全に一致し、さらに裁判所の職権で科捜研において同一かどうかの鑑定を進めている。」というもの、また「白ステテコ、白半袖シャツ、スポーツシャツ、グリーン色パンテーの出所についても慎重な捜査を進めた結果、それぞれの製造元、卸問屋、小売店が判明し、ステテコ、白半袖シャツ、スポーツシャツについては、別居生活中の先妻レイ子が買い与えたものであり、パンテーは母親が買い与えた事がそれぞれ証明され、いずれも証拠として採用された。」と捜査記録は書いている。
 いま読んでも、なんと強引な、なんと勝手な事を書いているのだろうと身震いするものです。再審開始決定が出され、その報道の中で「五点の衣類」が映像として出されているので見てください。

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 この報道で、「五点の衣類が犯行着衣か否か」ということを、証明するために「DNA 鑑定」が行われました。「五点の衣類に付着している血液が、被害者の返り血の血液であるかどうか」また、「白半袖シャツの肩についている血液は袴田さんのものとしているので」それを DNA鑑定で確認しようとするものです。
 わたしは、「再審請求の枠」にはめられる必要がありませんから、旧証拠を使って「死体は動かされた」事を証明して、犯人は袴田さんではない事を普通の人に理解できるようにしました。
 そして、この五点の衣類問題についても、ごく普通の事実、ごく普通の証明で明らかにできると思っています。ただ、「再審請求」という異常な「法制」が、それを利用するものに有利にしている分、冤罪者にとって大変不利にしているのです。
 ごく普通の事実・ごく普通の証明ですが。
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1966・6・30---8・18---9・9-----11・15-------~----1967・8・31---9・12----~--- 1968・9・11
--事件発生------逮捕----起訴------公判開始-----~-----五点の衣類出現--家宅捜査--~---結審一審判決
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「王こがね味噌」の「橋本藤作商店」では、1966年当時「赤みそ一年物」というものは製造しておりません。
ですから、五点の衣類はねつ造です
 当時県内で六十数社の味噌製造企業の中で、販売シェアーをトップで走っていたのが、「カネ十味噌」で、今日まで続いています。その専門分野の人々に取材し、調査した時にも「あそこで赤みそ一年物を作っているとは思えないがねー」というものでした。そして、「王こがね味噌」「橋本藤作商店」の技術課長をしていた「望月倶輔」さんに聞いてみたのです。技術屋さんですから、自分が導入した「味噌醸造の促醸法」で「2~3週間で醸造できる方法があれば、どんどん売れる」「ただし、色合いが薄いので、3~6ヶ月ものを他社から購入して、それで色付けすればよい」というもので、味噌樽の醸造室で室温を40数度程に上げて、北里研究所の指導を得ながら醸造菌を開発した結果、県内63位から県内3位にまで急成長したのだそうです。望月さんは、素直に話してくださったのです。
 ずいぶん後になってから聞いた事でしたが、私が「望月倶輔」さんからお話を聞いた半年後くらいに亡くなったというものでした。いま考えてみると、あまりにも私自身が鈍感だったんだなあと反省している。そこから分かったのは、今にいたるまで「元従業員に対する箝口令」は、命がけなんです。
 そして、「冤罪」を作ったものは、次から次へと犯罪を続けているという事なのです。検察・警察の罪は重いですよ。