トンボが言うには 小さいころ体が弱くすぐにジンマシンが出たため
近所に住む看護婦さんが 定期的に注射を打ちに来ておりました。
そのうち道具一式を彼女から預かり 父トンボが注射をしたそうで
今では考えられない 違法行為となります。

そのころの歩き遍路は 今と違ってボロボロの着衣で 1人や2人連れで
各家の門口で鈴を鳴らしお経をとなえ 家人はお礼として米1合や味噌を
与えた といいます。
海が近い集落のため 釣ってきた魚を干物にし 自宅用に保存していた
ものを与える家もあったようです。
歩き遍路は男だけでなく 親子のような女2人連れもいたそうです。
彼女たちは目は十分に見え 門口で三味線を弾き 門付芸人のように
米や味噌 ときには数十円もらってお遍路をしていた とトンボは言います。
当時の歩き遍路は 夜はお寺や小学校に泊まり もらった米を 持参している
飯ごうで炊き 翌朝はつぎの集落へ移動していった と言います。
たまに 橋の下などに寝ているお遍路を見かけると 集落の者が自宅に
連れ帰りご飯をふるまい その夜は泊めたそうです。
トンボが小学1-2年のころ トンボの父が野宿しているお遍路さんを連れ
帰り泊らせ そのお遍路はお礼に と言って農作業を手伝い3日ばかり
逗留したそうです。
幼い息子に注射をする父親を見て そのお遍路は
「 赤紫蘇の実を ホウロクで炒って食べさせなさい 」 と言い残し翌朝には
立ち去りました。
農家ですので赤紫蘇の実はたくさんあり 半信半疑で言われた通りにしたところ
あんなに親子で悩んだジンマシンが 不思議なことにピタリと止まったそうです。
家へ泊めた乞食のようなお遍路さんは あれは弘法大師ではなかったのか!
父トンボは のちのち繰り返し言っていたそうです。
この話を直接 義父から聞いておくべきでした。
今では当時7-8歳のトンボの記憶だけとなった 昭和29-30年ごろの話です。
野宿しながらの歩き遍路 と聞けばすぐに頭に浮かぶのは 松本清張原作
野村芳太郎監督の 『 砂の器 』 です。
親子のお遍路が歩く美しい風景と 重い宿命は忘れることができません。
60年前の歩き遍路 それを温かく見守った集落の人々 今では考えられない
彼らの宿泊を許した小学校の教室 集落の家に泊めても泥棒にあった家もなく
貧しくとも だれもが心豊かな時代でありました。