ぼこ爺のまだら雑記

じじいがブログをはじめました

「若もんは 窓拭きやらずに スマホ拭く」 といったご時勢かね

2012-12-21 14:47:23 | 日記

 

        

    年末掃除には、窓ガラス拭きは欠かせない 

 

あるテレビのCMで、年末に向かって大掃除で「窓吹き」をしている親やジジババたち。
そしてその近くに座り込んで夢中になって「スマホ」のモニター画面を指で撫でている子供ら。
それを親たちは何も言わずに、冷たい風を受けながら黙々と窓ガラスを拭いている。
そんな2つの異なる場面を観ていたら、憤りに近いものがこみ上げそうになってきた。

拭き取り用具のCMでも、極端に違う場面展開だ

その途端に下手な川柳ができた。

 ・・・・若もんは 窓を拭かずに スマホ拭く・・・ 

 だが,単なるCMだからでは済まされんがね。
戦後の始めに生まれた、いわゆる団塊の世代と言われる人たちは、普段から掃除や片付けたりなどの用事を手伝うのは当たり前のこととして過してきたと思う。
もちろんボコ爺のような戦前生まれの者たちは、当然の義務として育ってきた。

 そんな気持ちを抱いていたとき、ご存知の夜回り先生のコラムが新聞に掲載されていた。
「機器の奴隷になるな」のテーマで青少年に警鐘した内容で、読むうちに一つ一つに共感を覚えた。
そして先生が指摘されているなかで、これは大人にも当てはまるのでは・・・とボコ爺の見解をチョッと記したい。

 「われわれ人類は道具を作り、利用することで文明をつくってきた」と先生の冒頭の言葉である。たしかに他の動物には出来ない。人類の特権だ。今はさらに優れた道具が発明され、活用して恩恵を受けている。だが人類は、殊更に無意識な感覚で道具を使って生活している。 至近な例では、パソコン、ケータイ、スマホやゲーム機など。使ってみれば確かに娯楽性や便利性があることは言うまでもない。

 だがほとんどは、ただ単に使うことだけの知識だけで、その機器の原理や仕組みは知らないし、覚えよともしない。確かに機能が思う様に働けば、その必要はないだろう。そして慣れてくると、「取扱説明書」には目を通さない。技術者ではないからそんな必要はない。だが使う以上は「なぜ?」ぐらいの疑問は持っていてもいいと思う。

 例えば、自動車は便利牲と危険牲が表裏一体だ。
ただ運転ができればいいというものでは
ない。
だから自動車のエンジンや駆動関係の仕組みも知っておいて運転する段階を経て免許される。
その為に自動車学校で教習をすることになる。
そして、異常が起きても最小限度の対処ができる。

 ボコ爺も16年間、高学年の小学生対象に「科学のモノづくり」を指導してきたが、ただモノをつくるだけではなく、原理、仕組、働き、そして危険を伴うものには、しっかりと教えてきたつもりだ。
かって昭和の初期、チャップリンの「モダンタイムズ」の映画は、機械文明が発達して、使いこなした人が、やがて機械にこき使われて、人間性が失われていくといった内容であった。

 つまりは、先生の言う「機器の奴隷」になってしまうということである。ボコ爺も年賀状の書面と宛名までパソコンでやってしまう安易さに溺れてしまっている。 率直に言って、頂いた年賀状の中で、すべて手書きで、筆文字のハネやトメの美しさに思わず目が止まってしまうのがある。そこで思う。も一度原点に戻って、皺だらけの手によって、作り、書くといった原点に戻れるだろうか?・・・と。

  モニター画面の

    ガラスばかり拭かないで