goo blog サービス終了のお知らせ 

おかあちゃん(高齢者のガン)私のオッパイ(石灰化)??? とワン子

2006年8月母は肺がんと診断される。完治目的の定位放射線治療を受ける。

あきらめなくてよかった。

2007年09月21日 15時45分16秒 | 母の事(肺がん) そして絆
              *****天王寺動物園 キリン*****

母の検査は続いた。
肺以外に病がないか調べた。
脳・骨等 PETもした。
母には負担だったと思う。よく頑張ってくれた。
肺以外には異常はなかった。

治療方法を決めなくては。どんな方法があるのか。
母の身長は138センチ 体重35.5キロ 年齢80歳
体力はない。体に負担のない治療方法。
手術は体力がもたないと。先生が言われるには手術は成功する。
だけどその後、寝たっきりになってしまうかもしれない。
それでは、本人が可哀相ではないか。私も同感だ。
苦しめることはしたくない。
私なりにホームページで調べ図書館にも行って肺に関する沢山の本を借りてきた。
その中の治療法方等聞いてみた。
抗がん剤・放射線等。先生は抗がん剤はやめた方がいい。
苦しみが大きい。体力が持たない。
放射線がいいだろうと。私のイメージでは放射線は髪の毛が抜けたり、吐き気がしたり脱力感で体力の消耗があるのではと。
今の放射線はそんな事はなく、高齢者の方も外来でいらしゃるとの事。
何回くらいするのか聞いてみた。60回。月曜日~金曜日で3ヶ月。
気が遠くなる。しかし放射線でも種類があり4日~5日でいいものがある。
何としてもその放射線をしてほしいとお願いする。
京都の大学病院にある。先生に紹介状を書いてくださるようお願いする。

あの日諦めなくてよかった。「お母さんはお年ですから何もしないという方法もありますよ。」と言った先生を変えてよかった。
あの日 あの日諦めていたら・・・・・。よかった。
帰宅後、一人泣いた。
(2006年8月)

涼しくなれば・・・・・

2007年09月21日 15時40分00秒 | 母の事(肺がん) そして絆
母の担当医を変えてほしいと伝えました。
何故かと聞いてくるので、常勤の先生でない事、今月いっぱいで辞められる事等々そして先に調べておいた先生を担当医にお願いしました。
受付は何人かでヒソヒソ話をしています。
私は、しっかりと意志を伝えました。
先生は「分りました。これからは私が担当になります。」と仰って下さいました。
第一段階を突破しました。
これからは、この先生と治療方法等 話し合い決めていけばいい。
嬉しかった。
先生も、「これから、お母さんの体の負担にならないような治療方法を探して行きましょう。」
と言って下さった。

この日から、母の戦いが始まったと思いました。
検査、検査が続いて行きます。

(2006年8月)

--------------------------------------

この頃の母は、歳のせいでしょうか。
あまり外に出ず、大半は寝ています。
食欲もあまりありません。
栄養になるものと考えて作ってもほとんど食べてくれません。
暑いしね。お母ちゃん 秋になって涼しくなったらきっと食べられるよ。

私の病院との交渉が始まりました。

2007年09月21日 15時35分58秒 | 母の事(肺がん) そして絆
       *****ミニトマト たくさん出来ました。*****

母はその後も変わりなく私に接していました。
何で。泣けばいい。苦しい、悲しいと私に訴えてくればいいと思いました。

私の活動が始まりました。
すぐにかかりつけ医師のもとへ行きました。
詳細を話しました。
そして、他に方法はないのか聞きました。

医師は「そんな事はない。何故、そんなに小さいのなら手術をしないのか。
手術が出来るか、どんな事なら出来るのか調べるだけでもしたらどうか。
体に負担にならない検査をしたらいい。」と言ってくれました。

私はすぐに叔母に一緒に聞いてくれるように頼み病院の担当医師を尋ねました。
私はこのまま、放っておいて悪化して死を待つだけになる事には耐えられません。
母は私の命です。苦しんだりするのをただ見ていることはできません。
希望を断ち切らないで下さい。年寄りだって生きたいはずです。
母はいつもと変わらず生活しています。けれどきっと生きたいと思っています。
切々と医師に訴えました。叔母も援護射撃をしてくれました。
医師は「分りました。では検査を始めましょう。」と言ってくれました。
終りではなく、始まったのです。

かかりつけ医師に報告に行きました。
「よかった。病院の担当医師の名前は。」と聞かれました。
私が名前を告げると先生は調べてくれました。
そして分った事は、その先生は毎日来られている医師でない事です。
私の心は 週に1回のアルバイト的な先生に母の命を任せられない。という事です。

もう一つ分った事は先生はこの月いっぱいで辞めるという事です。
もう数日なのです。
何でそんな先生が私の母の命を決めるのか、納得がいきません。
私の病院との交渉が始まりました。
(2006年8月)

母の決断(ガン告知)

2007年09月21日 03時40分40秒 | 母の事(肺がん) そして絆
母へのガンの告知はいきなりでした。
CTの結果を待っていました。
私はどうかガンでありませんようにと祈っていました。
母の順番がきて、診察室に呼ばれました。
入っていくと、医師は「ガンが見つかりました。」
私は涙が止まりませんでした。
私が泣いたのは、医師が母に直接ガンを伝えた事でした。
むろん、最後まで隠すつもりはありませんでしたがワンクッションおいてから私自身なり、医師から伝えたかった。
この時点での、医師の告知の仕方は残念でした。


医師は続けて母に言いました。
「お母さんはお年ですから、つらい治療をしないという方法もありますよ。」
これは、死を待つだけの宣告に思えました。
ただ、何も出来ず泣いてばかりいる私の横で母は言いました。
「治療はしません。私はこのままでいいです。」
母は涙も流さずそう言いました。
医師は「分りました。では、治療はしないという事で。
では、これで終わりです。」
私は次はいつ診てもらえるのかを聞きました。
もう診断にも来なくていい。後は何もしない。医師ははっきりそう言いました。
私はパニックになりそうでした。母は病院から見放されたのです。


私は、きっと母に合った治療方法があると思いました。
そして、これからいろいろと調べはじめました。