朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

小説感想 雷鳴 梁石日(ヤン・ソギル)

2022-03-31 01:05:54 | 本 感想
27年振りに再読となる。
1995年の刊行と本の奥付きをみると
印刷されており
月並みであるが、まったく歳月の寄るのは、はや過ぎる。

作者は在日二世であり
ぼくの父も在日二世
当たり前だが、ぼくは三世となる。

日本統治時代の済州島の下級両班の
ひとり娘李春玉(イチュノギ)が
主人公
この女性のモデルは作者のご母堂の
ようだ。

そこに、小説としての虚構と創造が
入り、主人公を生身の人として
生き生きと峻烈で過酷であるも
自分で選択する、凛とした人物像に
描いていると感じる。

10歳の男に嫁ぐ
およそ、現代で想像もつかない
婚姻というのは存在した

主人公春玉は選択する権利はない
抗うのも不可能である

朝鮮では、パルチャ(八字)という言葉
あり、これは運命と直訳する

そして、この言葉を表現するのは
非業や悲運、不運という天から降って
きたものに出会った際に
胸をダンダンと叩いて「パルチャだ」
と呟くのが多い
悲しみもあるが諦念に近い

悪人がいっぱいでてくるのも
より主人公の存在感を増す

この本を、また、読んでみようと
思うまで27年かかった

ぼくが若くはないが、今ほどには
人生の峻烈さと残極さを知らず
そして、愛情や自分で選択してるようで
選択させられていた頃に読んだのだが、
主人公に対する感情移入が過ぎて
「よくもこんな仕打ちをするな」と
憤り、その時はとても後味が悪い印象が残ってしまった
「もうあんな思いは嫌や」と思っていたから。

しかし、今は違う
この主人公春玉(チュノギ)に
共振し、共感し、とても身近であり
実体があるとしか思えない

小説の主人公に恋のような気持ちに
なるのは、生まれて初めての経験を
させて頂いた。

作者の梁石日氏に
ありがとうございますと言いたい。








送別会の口論について

2022-03-29 04:50:31 | 日記
日本は四季があり
その春 夏 秋 冬で自然は
様々に変化する
この事を思うと、物言わぬ自然は
自分に能力があると思っていないと
思う。

先日、38年勤め、65歳満期除隊となった、先輩の送別会を行った。

その時に感じた気持ちを述べてみたい。

郵便の仕事でも、そうでなくても
能力に応じて、生産性が高い、低い
仕事量の多い、少ないはあると思う。

事の発端は、相互応援だった。
相互応援をして、業務の平準化を
計ろうと、よく管理者は言う。

ぼくの、正直な気持ちからすると
「相互応援なぞございません」となる。

なぜか?
ここからは、郵便の仕事限定になるかも
しれないが、
応援に回る人は常に応援に回り
応援される人は常に応援される
よって「相互」は成り立たない。

今回、口論となったのは
どちらも応援に回ることのない
二人だった。

しかし、AはBを
いつも応援されて、仕事ができない奴
と思っており
BはAを始業前や昼休み中の
早着手ありきで業務を行っていて
自分だけの仕事してると思っている。

ぼくからすると
Bは、能力は高くないタイプ
Aは、能力はあるのに
その能力を他人には使いたくないタイプだ。

冒頭に自然は、自然に能力があると
思っていないと述べたように
ぼく自身は、人を「能力」のみで
判断したりレッテル貼りを嫌う。

どんな人でも、長所短所があり
人柄も人間力も持っている。

それを物差しでも当てるかのように
単純に能力だけで決めつけたくない
からだ。

話を戻す
この口論の間に
Bの細君が割って入った。
細君も、別の局で郵便の仕事を行って いて、今回の送別会に客人として
招いた。
前から、面識があったのだが
仕事の話をすると、応援してる人やろな
と思っていた。

AがBに「結局、応援されてばっかで、
応援したことねーんだろ?」
Bは言い返せない。
ここで、細君が切れた。
「さっきから黙って聞いてたら好き放題言いやがって、あんたは応援したことあるんか?!」
「自分が、さも仕事できるかのように
言うてますけど、自分だけの事して
さっさと帰るのに偉そうに言いな‼️」

「それ、見たのかよ?なんだ?こいつ?」とA。

場がシーンとなり
「こいつてなんや?、ウチにも名前あるわ!!」
「協調もせんくせに、協調、協調言いな!!、そんなんは普段から協調してる人が言うことや!!」

確信を突かれたAの
こめかみに青筋が浮ぶ
周りのお客さんも店員さんも
戦々恐々として、成り行きを見ていた。

もう潮時やと思い、細君を連れ去り
とにかくなだめる。

昨日、Bは夜勤者であったが
Aにおよそ考えらない量
(日勤者が配達するべきもの)を出され
私怨を果たされていた。

冷静に考えても、今後AとBの関係修復
はなかろうと思う。
もちろん、細君も今後Aと会うことも
なかろう。

結論が私怨となると、感情論になり
どうしようもない。

個人の能力だけでの意見、見解は
やはり、言うことではない。

応援する、応援しないも
全て、自分の意思で決めていいと
思う。

ただ、ぼくの経験から言うと
応援されて、ほんとに感謝したり
助かったと思えば
その恩は、物言わず返さないといけない。

心で応援する人は、見返りなぞ
思っておらず、ただその時の感謝の
心を恩返しするだけでいい。

個々の集団が組織であるが
それには、人間関係や力関係が
つきまとう。

いつになっても、難しいものだと
思う。






小説感想 冷静と情熱のあいだ(青) 辻仁成

2022-03-26 02:52:09 | 本 感想
このような恋愛は、ぼくにできた
だろうか?
と読後、考えてしまった。

主人公の2000年で30歳は
ぼくの34歳でもあり、それから
22年の歳月が流れた。

恋愛を捨てるというより
恋愛しない環境で、この作品を
読むと、恋愛は残酷でもあるし
過去に縋るようでもあり
それでいて、その時の
気持ちをどこかにポイっとおくも
捨てるもできずに
卵を抱えてるようなものだったな…
思う。

主人公は冒頭から結末に至るまで
かつて、別れた女性が肌の薄膜に
まで、張りつき忘れられないでいる。

ぼくからすると、主人公とその女性
よりも、別れてから主人公に
寄り添った女性に魅力を感じ
その女性は、主人公の内面を肩代わり
していたように感じる。

なぜなら、主人公がかつて、愛した
女性は、主人公の独り言のような
過去への追憶の中でしか
その容貌を表さず、不可思議にも
思えたから。
実体はある。確かに。

が、2度目の恋愛と言っていいか
わからないが
その女性は、間違いなく主人公を
愛していたと思う。

もう恋を捨てた男としての感想に
なるが、ぼくなら2度目の女性と
結ばれたと思う。

次は
江國香織さんの「赤」バージョン
ですね。
江國さんは、どう書くのだろう。





小説感想 孔子 井上靖

2022-03-25 12:11:30 | 本 感想
いつも、小説を読むと思うのは
読み方も感じ方も
百人百様であるというもの。

どう感じようと、仮に影響されようとも
それは、それを読む人々の背景や
その時々の、境遇からくるので
何がいいとか悪いとか評価されるもの
ではないと思っている。

言わずもがなの孔子
どんな人か詳しくは知らなくても
その名前は2500年経っても
廃れていない人物。

物語は、孔子の架空の弟子
えん薑(えんきょう)という人物の
語りで始まり、語りで終わる。
いや、終わるというより
終わりなき始まりが、ぼくにとっての
読後の気持ちだ。

伝記でもなく、孔子を論じるでもない。
歴史小説であるが、想像力の小説かも
しれない。

孔子没後、33年が小説の舞台となる。
よって、論語というのは、この時点
では編纂されていない時代

哲学者、聖人、教育者、儒者
様々な名を持つ孔子であるが
何となく、説教がましいと思っていた
のが、ぼくだ。

100ページぐらいまでは、しんどかった。
孔子に対する、イメージが堅苦しい
のと、著者の文体に馴染めなかったと
思う。

春秋戦国時代で、文字通り動乱の時代
であり、亡国、国を亡くす棄民が
当たり前の時代である。

その時代に、孔子は不幸な人が
ひとりでも少なくなるように決意する。

著者は、架空の弟子「えん薑(えんきょう)」を通じて、人の死生、命を
一緒に考えませんか?と語りかけて
いるように感じる。

どんなに努力しても
正しい行ないをしても
正しくない行ないをしても
成らないものは成らず
成ものは成る

それとこれとは別。
それが、天命と言われたようだ。

だからといって
自棄になるのではなく
成敗や裁きは、度外視して
死ぬまで、嘆こうと嬉しかろうと
笑おうが泣こうが
「自分は自分流で、自分を汚さないで、自分の手足を動かして生きていこう」

何ものも、受け入れて
川の流れがとどまらず、幾つもの
川が混じり合い、やがて大海にそそぐ
ように、歩いて行けばいいと
思うのが、正直な気持ちだ。

「終わりなき始まり」が
一言でいうなら、ぼくの感想となる。






忘うじがたし想い出

2022-03-25 08:18:56 | 日記
井上靖さんの「孔子」を読んだ。

本についての感想は別に持ちたいと
思う。

この本は、亡くなった父が最晩年
絶えず携行していたものだった。

早いもので没後、26年となり
当時、30歳だったぼくは、とうとう
父と同じ歳に寄った。

遺品という訳ないが、生きている人が
亡くなると、役所やら弔い事やらの
事務的な作業に没頭せざるを得ず
喪主という立場もあり、悲しむ暇が
なかったと言ってよい。

小さな骨壷となって、還ってきた
父を前にして、遺したものを整理して
いる時に、見つけた本だった。

本音を言うと、この本は26年間ずっと
読めなかった。

未だに、父はその姿を見せずとも
越えられない高い高い壁だ。

膂力で言えば、高校2年か3年辺りで
超えていたと思う。

動物の世界で言えば、若い雄が、年の
寄った雄を駆逐するのだろう。

読めなかったのは、辛かったろう
闘病を口に出さずに
コツコツと身辺整理をしていた情景が
ありありと浮ぶからだった。

なぜ、孔子なのだろうとも思った。

ぼくは、医師から余命は半年と聞いて
おり、それでも、男からすると
絶対的位置にいる父が死ぬはずはない
と、およそ、ガキのような世間知らず
の考えで、その言葉を信じてなかった。

果たして、一年後の七夕の日に、
ぼくが、一旦、勤務先の東京に戻った
翌日に、帰った事を見届けるように
逝った。

最期に入院した時には
がん細胞が、脳に転移して、手の施し
ようがない状態だった。

病室で最期に言葉を聞いたのは
「はよ、帰りや」だった。
その後、一言も話せる状態ではなかった。

一言だけ、本について…

孔子を読んで
ずんときたのが
「自分は自分流にいて、自分を汚さずにいて、自分の手足を生きて行こう」
と、弟子がいう場面がある。

同じ本をぼくも購入していて、ぼくは、ぼくの本でそれを読み、ずんときた。

勤務先では、父の遺した本を読んでいて、その部分に、父が鉛筆で傍線を
引いていたの発見した。

高い高い壁ではあり
その時の、父の精神状態とも違う。

しかし、全く予期せぬところで
父と出会い、父と同化したような
気持ちになったのも事実だ。