朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

テキーラボンで粉砕する

2021-05-21 13:31:28 | 旅行
ブログのタイトルにもございますように
自称酒呑みですが…

外国で撹乱というかのたうち回った事は
2度ございます。

1度目は20代の前半釜山の食堂で、人生初の韓国焼酎「眞露」を15、6本空けた
翌日。1本が約360mlなので15本としても約5L強空けた勘定になります。
のたうち回った結果ベッドから3度ほど
落ちた記憶があります。

外に出て初めて訪れたパスポート上の祖国の香辛料の香りに身悶えし、片岡鶴太郎氏の「胃液吐くまで」の歌同様に、戻して、戻して、戻し倒して涙が出すぎて白目が真っ赤に充血し胃液もでない空戻しをした事がございます。

祖母にボロかすに怒られながら飛び込んだうどん屋で「とにかく香辛料の入ってない素うどんを頼んでくれ」と涙ながらに祖母に通訳を頼んだことがありました。
(出てきたうどんは唐辛子で真っ赤かでしたが、笑)

あの状態で動けたのだから20代はやはり体力の地力が違ったのでしょう。。

2度目は35、6?の時でした。

当時の私は衰えてきたとはいえ、週に5回は約1時間程度速歩し、懸垂を30回5セットしそれなりに年齢からくる衰えを維持しようともがいていた時期でした。

タバコをやめていたのもあり、ほとんど息切れをすることもなかったように思います。

そんな折りに米国シカゴに出張となり
現地の工場、主にフライス盤やマシニングセンタ、5軸加工機を扱うユーザーに
現地代理店の方と売り込みをする機会がありました。

営業が終われば工作機械国際展示会のアテンド員として商品説明や有力な引合い案件の受注活動を行います。

翌日で展示会が終了となることもあり
工場訪問の相方であった現地代理店の元3A野球選手と通訳担当の後輩が加わり現地レストランで、クアーズの生ビールとリブステーキで胃袋を満たし、元3Aが行きつけとするバーに飲み直しに行ったのですが。。

登場したのが、なんでしょう?
テキーラボン!
ショットグラスにテキーラと少量の炭酸ソーダを入れて、グラスの表面をコースターで覆い持ち、カウンターにカン!と置く。
中の炭酸がボン!と吹き出すタイミングで一気飲みする飲物です。
テキーラの度数は40度か45度だったと思います。
これを元3Aの相方と延々30杯あおりました。
相手は192cm125kg
私は179cm80kg
体格差とアルコールを分解する酵素の量?働き?が西洋と東洋とは圧倒的に違うと感じたのが30杯だったと記憶にあります。

その後はどこをどう帰ったのか気づくと
宿泊先のベットで目覚めたのですが、
とにかくお腹が空いてそれも宿酔なので
汁ものが欲しいのです。

宿に朝食はなく近場のコンビニでヒヨコ豆のメキシカン風スープがあり(日本のコンビニでおでんをテイクアウトするような感覚)それを飲み干し、展示会の最終日に向かいました。

ところが、段々と宿酔が宿酔ではなく
立っていることが困難となり、顔面は蒼白冷や汗が全身から噴き出し、頭はクラクラし呼吸も荒くなってきたのです。

見かねた上司が「レンタカー内で休んでよい」と言ってくれ休みに行くと
横になっても身の置き場なく
持参したポリ袋に喉から出血するほど
戻し倒す羽目となり車の後部座席で
のたうち回ったことがございます。
(多分急性アルコール中毒だったと思います)

元3Aの相方は、まったく平気で私とのテキーラボン!をやったあとに、まだ飲んでいたそうです……

上には上があると経験したものの
あれから20年近く経過しましたが
今も酒を欠かさないのは酒呑みというか
酒好きなのでしょう。

もう二度と海外には行けないでしょうが
旅の思い出はやはり失敗談が印象に
残ると思っています😂😂

お酒はほどほどにならぬのが酒の魔力
かも知れませんね……


【終】故郷について

2020-01-18 09:11:09 | 旅行
チェジュの宿は韓式の旅館であった。
日本なら民宿といったものだ。

床はオンドル(床暖)仕様でポカポカと暖かい。季節にもよるだろうが、外気が少々冷えていても比較的薄手の寝具で寝れる。

翌日は韓国最高峰の山。
漢拏山(ハルラサン、ハンラサン)へ馬に乗りに行った。

山の麓に乗馬コースがあると言う。
韓国馬は蒙古馬で、西洋馬より体高も低く、足も短い。
ポニーに属するようだ。

体高は120~140程度か。
乗ってみたが、視線が高くかつ揺れて
馬上でバランスがとれない( ^_^ ;)

映画やドラマで、馬で駆けているがとても駆けるなんてなものは無理で、バランスをとるのがやっと。
ほうほうの体で初体験を終える。

その後、祖母と叔父とで先祖のお墓に向かう。
そのお墓は土葬であり、1mほどの凸を持った楕円のお墓であった。

供物のリンゴ、ミカン、柿、バナナを供えて韓式の拝礼を行う。
先祖と言われてもピンとこないが、叔父→私→祖母の順で拝礼をする。

むしろを引いて、お下がりの焼酎を飲みながらしばらくそこに留まる。

焼酎は漢拏焼酎である。
チェジュの地焼酎で、度数が21度とソウル、釜山の度数より高い。

その間、叔父は写真を撮り、祖母はコサリ(ワラビ)とヨモギを採りに場を離れた。コサリ(ワラビ)はテールスープに入れて、ヨモギはヨモギ餅を作るようだ。

テールスープの元になる牛のしっぽは
昨晩から親戚の台所で煮込んでいた。
牛のしっぽは、オスではなくメスを調達している。
メスの方が肉質が柔らかく美味しいとのことだが、しっぽでオスメスの目利きをする祖母に驚いたものである。

ご先祖のお墓参りを終えて昼食に向かう
海岸線沿いにある、食堂に入る。
言葉に不自由しないのでどこにでも行けるのが祖母との旅である。

出てきたのは、海鮮鍋(ヘムルタン)であった。

大きな真鍮鍋に、アワビ、ハマグリ、サザエ、車海老、わたり蟹、鯛、河豚の白子、タコ、イカ、白菜、がどっさり盛られてグツグツ煮て食す。
唐辛子は抑え気味だ。
全て採れたてなので、これまた味は抜群であった。

祖母も叔父それに私も、よく食べる。
韓式の錫製の箸に手こずりながら(滑る)、三人が無言でひたすら食べる。

ちなみに韓国では食事の時は箸と匙である。日本と違い匙で米をいただく。

今ではアルミ製もあるが、基本、錫で作ったメシ茶碗であるので、特に炊きたてご飯の場合は熱伝導がよい為に熱くて持てない。故に匙で食べると教わった。
スープも匙でいただく。
スプーンでもなく、レンゲでもなく、匙である。
持ち手が長いので鍋に持っていっても手が熱くならない。

途中、親戚のジヨンさんが来て先ほど採ったコサリ(ワラビ)を取りにきた。
アク抜きをして、テールスープに入れる為だ。

食事を終えて、腹ごなしに海岸線沿いを散歩する。

遊歩道近くには、新婚旅行でチェジュを訪れた人達が各々写真撮影に励んでいた。女性は皆、チマチョゴリを着ている。
皆さんベッタリでいかにも新婚さんいらっしゃい~と当時の桂三枝に言われるようだ。

ここは西帰浦(ソギッポ)と言う所で、済州島四.三事件の慰霊碑が建立されている。
1948年発端~1957年の完全鎮圧までに島民80,000人が当時の韓国政府軍及び関係者に虐殺されたという歴史がこの島にはある。

私の祖父はこの虐殺から逃れる為に日本に渡ってきたようだ。
大阪には在日コリアンが多く定住しているが、済州島出身が多いのはこの為である。

歴史の闇を知った一人の在日コリアンの私だった。祖父も祖母も父親もこのことは伝えてくれなかった。
この地に来て初めて、涙ながらの祖母から聞いた。

気を取り直し、さらに海岸を一人で歩く。祖母と叔父は別の親戚に会うために私と別れた。

夕飯までに、ジヨンさんの家に戻ればいいので時間には余裕がある。

季節は4月の中旬で厚手の上着は要らないがスィングトップは必要かという気候であったが、実はバッグに海パンとバスタオルを入れていた。

砂浜を求めて地図も無しに歩く。
30分程歩くと砂浜が見えている。
松林の影で着替えを済まし、海パン姿の男がやおら現れたので、地元の方が怪訝な顔つきで私を見たのを思い出す。

寒い😷、水も冷たい。。
が、次チェジュに来れる可能性はわからないので頑張って泳ぐ。

帰りのタクシー代を入れたバッグが盗られないようそこへは注視していた。

20分程度海にいたが、寒さで体温が下がってきたのであがる。

そそくさと着替えをして、もと来た道を戻り、自販機でホットコーヒーを二杯飲んだ。

ホットコーヒーは砂糖何杯入っとるんや?とツッコミながら飲んだのを思い出す。

タクシーに乗りジヨンさんの家の住所を書いた紙をみせる。
到着すると、祖母が濡れた頭を見て何をしてたんやと聞くので、海で泳いできたと答えるとジヨンさんも周りにいた親戚にも大笑いされた。

私も笑いながらにも、これで当初の旅の目的は果たせたと満足だった。
一、ご先祖の墓参り
二、チェジュで泳ぐ
ともに果たせた笑

夕餉は祖母特製のテールスープである。
骨から身をとりスープの中に骨はない。
コサリ(ワラビ)と牛身が同色になっているので、かつ歯ごたえが似ているのでどちらが肉でどちらが山菜なのかわからん。

これは貧しかった頃、コサリ(ワラビ)を牛のしっぽに見立てて作ってみたところ思いのほか、評判が良かったらしくそれ以来、チェジュに来たら必ず作る鉄板メニューだったそうだ。

夕餉を終えて、縁側に腰掛けチェジュドを回想してみた。

風と岩の島。たくさんの燕。
新鮮な食材。澄んだ大気と美味しい水。

来て良かった。

あれ以来30年が経過したが
チェジュには行ってない。

お墓参りと海水浴が出来てよかった。






〖続〗故郷について

2019-12-27 04:57:52 | 旅行
タイトルが故郷となっているが、単にルーツが韓国にあるというだけである。

他に思いつかないので故郷としている。

さて、掘っ建て小屋の絶品鱈&チャミスル明けの翌日はボロボロの二日酔いである。

うどんしか喉を通らない。

釜山はトランジット的に経由したので
チェックアウト後には空港に向かう。

国内線でソウルへ。
金浦(キンポ)空港へ到着すると
祖母の親戚の方が迎えに来てくれていた。祖母はソウル出身である。

ソウルの印象は、道路がだだっ広い、空港も含めて街の至るところに軍人がやたら多く睨みをきかせていた。
そして目が痛かったことか。
学生運動鎮圧の為の催涙弾の影響だ。

道路がだだっ広いのは(片側5~6車線)
いざ北朝鮮と戦争が始まったら戦闘機の離着陸としての想定をしていると、親戚に聞いた。

途中、昼食を取ろうと言うことで親戚の
知る參鶏湯(サンゲタン)専門店に連れて行ってくれた。

いまでは韓国料理に馴染みのある方も増えていると思うが、当時の私は韓国料理と言えば、お盆や正月、亡くなった祖父の命日に行う祭事(チェサ)で出るくらいであった。

家が寿司屋だったので、ニンニク、キムチはご法度であった。

參鶏湯は、黒い羽毛と白い羽毛の2種類あると知らされた。無論羽は処理している。どちらを食べたのか記憶にはない。

鶏のサイズはひな鳥程度で、縦長の壺にグツグツと煮られて出てきた。
鶏は1羽丸ごとで内蔵が処理され、
もち米、ナツメ、クコ、ニンニク、高麗人参が詰め込まれている。
鶏の入った壺と一緒に粗塩と胡椒が置かれた。

スープをひと口飲むと、なるほどスープの旨味だけで味がついてない。
粗塩を適量掘りこみ食す。
釜山ではうどんがやっとであったが、
まだ若かったので食欲は出てきた。
お肉は硬すぎす柔らかすぎず、よく煮ているので骨からスルッと身が取れる、それに粗塩をつけて食べると粗塩が肉の甘みを引き出してうまい😋

肉ともち米、ナツメ、クコ、高麗人参を一緒に食べる。いまから思うと薬膳料理だ。

その後、オリンピック公園に行ったが観光をした記憶はあまりない。

親戚の家に荷物を預けると、祖母が市場(シジャン)に行こうと誘った。
足を向けたのは、魚屋であった。
祖母は一世なので言葉には不自由しない。
生きた渡り蟹を買う。
なんでも親戚が祖母の作る薬念(ヤンニョム)で漬けた渡り蟹が好物なのだそうだ。

祖母は私の幼少期に焼肉店をやっており
大阪場所が始まると、お相撲さんがよく来るそこそこの人気店であった。

薬念(ヤンニョム)は、ご存知だと思うが韓国料理の下味の総称みたいなものである。
うろ覚えだが、あの時のヤンニョムは醤油、酒、みりん、砂糖、粗塩、少量の刻んだプッコチュ(青唐辛子)だったと思う。出刃でぶつ切りに落とした渡り蟹をヤンニョムの中に漬け込み冷蔵庫で冷やす。

蟹に味を馴染ませる為にすぐには食べれないので、親戚にこの辺に風呂屋はないかと尋ねると徒歩三分であると言う。

行ってみると、サウナ付きの風呂屋であった。日本と対して変わらぬ、違ったのは洗い場(カラン)にイスがなく、立って洗い、上からのシャワーで流すとこであった。

親戚の家に戻ると、酒盛りをしていた。
昨日撃沈された、チャミスルがドーンとテーブルに置かれており私は一瞬逃げよかと思ったのだが、無論出来るはずがない。

しかし、若干の抵抗を示しHITEビールでごまかす。

今でもそうだが、韓国のビールはライト感覚である。軽くてあまり苦味も強くなくスルスルっと入る感覚だ。香辛料を使った料理には合うと思う。

頃合いをみて先程の渡り蟹が出てきた。

今でも鮮明なのは蟹の新鮮さであった。
とにかく身が締まって甘い。
そこへ、祖母のヤンニョムが絡まりまた蟹の甘みが増す。殻は割って食べる、中国料理で言う上海ガニの紹興酒漬け(酔蟹)に近いかもしれない。

親戚の伯母さんの息子の嫁さんがヤンニョムのレシピを祖母に教わったのだが、どうしても同じ味にならなかったようである。
そらそうだ。祖母にレシピはない。勘だけである。全て食材とその量に合わせて変化させる勘がレシピなので、紙に書いても伝えようがない。

大人も子供、日本から来たハングルを理解しない遠い親戚の私も無言でバリバリ食べる。いつのまにか手元にはチャミスルのグラスが置かれ、この日も撃沈の夜であった。

次は済州島(チェジュド)に向かう。

(続)








故郷について

2019-12-26 05:30:41 | 旅行
1988年のソウルオリンピックが終わり
その2年後の1990年に初めて韓国を訪れた。

帯同者は父方の祖母であった。
あと父親の弟、叔父が遅れて合流した。

父親も含めて3人はこの世にはいない。

私は在日韓国人3世として、日本に生を受けた。

この旅は、釜山→ソウル→済州島であった。
当時は伊丹空港が国際線として稼働しており、伊丹→金海(キメ)空港に降りた。

初めて見た釜山の街では、車のクラクションが鳴りっぱなしの街であった。
せっかちな大阪に生まれたわたしであるが、度肝を抜かるとはこのことのようであった。
それに加えて、運転者同士が大声で怒鳴りちらすのでこちらは気が気でない。
よくあれで殴り合いにならないものだと思った。

夜になると私は1人で街に出て、海雲台(へウンデ)の中心街ではなく路地裏を歩いた。

掘っ建て小屋のような店に入り、メニューを見てもハングルなのでさっぱりわからぬ。OBビールを飲みながらボーッとしてると隣りにいたお姉さんが腹は減ってるのか?とゼスチャーで聞いてきたので、イエスと答える。

店のアジュンマに注文を通してくれて
暫く待つと、真っ赤っかの魚の固まりが出てきた。

魚は鱈であった。もともと鱈は淡白であるがこの時食べたものは、脂が乗っており絶品であった。
日本風であれば鱈の煮付けである。
鱈の皮と身の間に脂があるので、韓国風の唐辛子味でも辛さがビリビリこない。

そこへ隣りのお姉さんが、一緒に飲もうと焼酎を持ってやってきた。
現在のチャミスルである。
アルコール度数は17~18度であるが、これを焼酎用のショットグラスに注ぎストレートでぐいぐいあおる。

韓国人で酒を飲む人は強い。
私は焼酎は割って飲むものと思っていたが、今でも韓国人はあまり水で割ったりしない。
ビールの小瓶位のボトルが何本テーブルに乗ったであろう。

とにかく異国であるので、潰れてはならないと気合いを入れて飲み続けたことを思い出す。

途中、アルコールを抜く為にトイレに戻し行ったのだが、トイレは水洗ではなく戻すに戻せず引き返した。(お食事中の方申し訳ありません)

その後どのようにして宿に戻ったか、まったく記憶がない。

覚えてるのは、初めての韓国焼酎で潰れてベッドでのたうち回り、ベッドとトイレを何度も往復したことと、祖母にえらく叱られたことだ。

当時の韓国焼酎には甘味料にサッカリンを入れてることを翌日に祖母から聞いた。

なにはともあれ、初日の釜山は終わった。

続)