朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

読書の楽しみ

2023-05-25 07:46:29 | 随筆
売れている本と
読まれている本があると思う

前者は、あえていえば
ベストセラー本となりましょうか
後者は?
考える…
味合う本(文章)だろうか
古典は、歴史の風雪を経て
読まれている本の部類に
入るかもしれませんが

いきなり、古典から入るのは
やや苦しい読書になろうかと
思のです

味合う本(文章)は、食欲をそそる
でもいいです、それは
その人にとって、おいしいもので
あって、他の人と比較できるもの
ではないと思います

また、良書が万民にとって
良書なのかと、いえば
それも違うと思う

人はさまざまな、人生を歩んでおり
その人生は、他人との関わりなしには
生きていくことはできません

またそこには、その人なりの
問題意識もひそんでいます

実生活において
人は生活の仮面と
人生の仮面をもっています

生活は、社会生活を送るうえでの
仮面であり、道徳や常識などの
仮面です。
友人、知己、家族
組織、などでの振る舞いにあたる
でしょう

人生の、仮面は
自分の心の奥の奥に隠れている
自分も知らない
仮面ともいえます

それは、渾沌とし、決して
美しいものでもなく
むしろ、醜く、薄汚れた
惨めなものなのかもしれません

自分のなかに痕跡を残したもの
それは、たった一度の出会いにも
かかわらず
深い痕跡を残すこともあり
自分のみならず、相手にも
自分の知らないところで
その痕跡を残すでしょう

そういう痕跡をいわば
人生の痕跡を読書は
あたえてくれるのではない
でしょうか

読書をしていて
「あっ、これは自分肌合いが
あいそうだ」
と思うことないでしょうか?

肌合いがあえば
その作家の著作をどんどん読んでいく
一度ならず、二度、三度
繰り返し読んでいきます
四度、五度でもいいです

そうすると、一度目で気づかなかった
その作家の人生や自分とは違う視点
わかってくると思うのです
小説、エッセイ、書簡集など
全部読んでいきます

すると
他人の、眼鏡をとおして
別人の人生を知ることができ
自分自身の人生が膨らんでいきます

まったく別の人格をもった作家
ですから、肌合いがあっても
読み進めていくうちに
「少し、違和感があるかな」と
思うことも、あるでしょう

それでも、自分が「惚れ込んだ」
なら、それを越えて読んでいくと
ピッタリと自分の体に馴染んできます

途中、他の作家に目移りがしても
じっと我慢して(決意)、読み進めると
枝葉、枝葉がひろがっていき
「この作家に影響をあたえた人は
どんな人だろうか」とか
「静かな感動」や「苦しみの分かち合い」などが理解でき、読書に
幅がひろがります

そして
何度も繰り返し読むことで
その作家に関しては
人並み以上に知っているぞと
思うようになると思います

「惚れ込む」

「いい本が良書ではなく、人の
問題意識を疼かされるものが、その人
にとっての良書」であることに
気づけば
読書は楽しいものになるのでは
ないかと思うのです





言葉

2022-12-20 01:14:05 | 随筆


言葉

先日、なぜ書けないのか?
問うてみたが、どうも「言葉」の重みというか
その意味は
どこから発生するのかという壁のようなものに
出会った、いや、感じた、これも違う
考えさせられたのだろう。

書くことは、内省や内観にもつながると思うが
それは、自分の日記でもじゅうぶんです。

日記を習慣としていたわけではないが、振り返ると、
ここふた月ほどまったく書けていない。

書けなくなった発端はわかる。
10月から仕事が、かなりハードで、机に座ることさえ
できなかったのがずるずると持ち越してしまい、
書いても書かなくても一日は過ぎるし
ノルマというのも、嫌うのでいつかまた再開するだろうと思っていた。

しかし、一向に再開の兆しはない。

では、いまなぜノートとペンではなく
この機械をたたいているのだろうか?

内省や内観の記録であるなら、紙とペンでじゅうぶんである。

わざわざ、起動までさせて、ブログを立ち上げる必要もない。

まして、人様になんか言いたいとか伝えたいとかもない。

と、ここまできて、あ、「言葉」かとわかる。

世の中、言葉にあふれている
しゃべり言葉、書かれた言葉、音楽からの言葉、動画音声としての
言葉。
天気予報すら見ず、ましてニュースすらまともにみない
日常であっても言葉の氾濫というのは、感覚としてわかる。

普遍という言葉がある
時代の移りかわりがあろうと、かわらないことであろう。
外に普遍を求めると、少々やっかいである。
内に普遍を求めるとどうだろう?

生と死 生き物である以上のこの言葉からは逃げることはできない。
表裏一体というか、生まれてからいつ訪れるかわからぬ、
死に向かって生きているのが
あらゆる生命にとって等しい。
考えてみれば毎日が臨死体験といえる。
これも普遍といえば普遍である。

外に普遍を求めると厄介であると書いた
時代時代においての道徳は、そのおかれた状況によってかわる。
疫病以前と疫病発生後の道徳が変化していることでも明らかである。

では、どこに普遍をみるか?
いまを生きているすべても人々は、その人にしかないかけがえ
のない過去の経験がある。
これは、時代背景がかわろうと、世代がかわろうと、普遍である。
そこに寄り添うのは、「言葉」であり、その「意味」を知ることでは
ないだろうか。

意味をしるのは、考えることと言っていい。
どう生きるか?よりも
生きているのはどういうことか?

これには答えがでない。。。
しかし、答えのない問いを考えることそのものを
「言葉」の力といってもいいのではないだろうか・・・

これは、内側から外に貫く。




読めても…

2022-12-18 10:49:16 | 随筆
文章を書くのは、難しいことなんだろうか・・・?

そも、何のために書くのか、目的はない。
あえていうなら、自己確認作業になるのだろうか

読書の楽しみは、その作者(作家)が書いた(書こうとした)テーマを知り
その作品から、人生の深淵をのぞき、その言葉の意味を読み手である
自身が知ることになるかと解釈する。

ある時は、驚きであり、体ごと揺さぶられるような情感であったりする。
そして、何のために読んでいるのか?もたまに わからなくなる。

暇つぶしなのか、一種の逃避なのか、楽しみなのか、知りたいという希求なのか
たんに、活字としてみれば
それは、紙に印刷された活字の列記でしかない。

手にとる本はほとんどが、故人となった作家の作品であることが
多い。

これもよくわからない・・・
が、発見もある
それは、その作家のある種の一貫性を垣間見るとき。

言動(書き物であるが)に一貫性が見えるときである。

それは思想とかではなく、人間や人生対する思いなのかもしれない。
処世訓とは違う。その作者の骨肉からほとばしる思いとなる。

思いは、受容、受け入れ、ともあらわされ、それは情感ではなく
愛だと云われる。
また、苦しみや哀しみをともに共感するのは、人のどういう行いなのかと
考えさせられるときもある。。。


ときには、食べるために生きているのか?
生きていくために、食べるのか?とも問われる。

いまここにある、存在は過去の集積であり、どんな人にも その人しかなしえなかった
歴史とその人はつながっている。
過去は、すぎさったものではなく、いまの自分そのもであると・・・・

こんなことを感じ、考えされ、もっと知りたいなどと思ってると
容易に書けない自分がいるのも、事実だろう。







自然

2022-12-12 05:42:50 | 随筆
最も身近な自然はどこだろう
わざわざ自然を感じようと、みにいく
必要もなく。

それは、いまここにある
自分自身となる。

こころのはたらきを、制御するのは
脳のある部位によるものだとなる。
が、なぜそのような制御がおこるの
だろう…
オンオフでもあるのだろうか

その脳は、いや
人間のあらゆる臓器、神経細胞は
どうして、その位置におさまって
いるのだろう?
なぜ、脳の神経細胞は140億個ある
のだろう?
そもそも、なぜそのように
創られたのだろう…

こんなことを考えていると
いまここに存在する自分は
自然の叡智そのものではなかろうか
などと、思い
自分という人間の存在の不思議さに
包まれるのです。


歴史

2022-12-06 09:58:51 | 随筆
歴史とは?
いま、ここにあるのも歴史の
一歩となりますが
例えば、学生時代に学んだ歴史の
授業はどうだったろう。

おもに、何年に関ヶ原の戦いが
起こった
いついつ、いつにローマ帝国が
崩壊したなどなど
記憶(暗記)するが歴史の授業だったと
思う。

有史以来は、人間が言葉を使うように
なって以来と解釈しているが
有史以来、変わっていないのは
どんな歴史的事象があれど
そこに、静かにひっそりと
書物やまして歴史の教科書には
てでこない人々がいたという
事実となる。

想像してみよう。
日本においては、先の大戦で
300万人が亡くなり
日本の内乱だけでも、いったい
いかほどの、名もしれずに
日々を生きてきた人々がいたろう。

それらの、人々はどのような思いで
その時代を生き、何を考えて生きて
いたのだろうか?

歴史物となると、そこには
主人公となる人物が現れるが
その人物の成した功績よりも
むしろ、苦悩や懊悩を想像するのは
どうだろうか。

言わば、生身の人間となり
自分と一体になって、想像してみる。
これは、豊かである。

それにもまして豊かなのは
決して、言葉の歴史として
語られることのない
ひっそりと死んでいった人々に
思いをはせることだと考えます。

彼ら彼女は、どんな人々だったろう。
語るものもなく、語られることもなく
その時代時代を生きる(生きた)。

そこに、たまらなく魅力を
感じるのです。