朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

小説感想 孔子 井上靖

2022-03-25 12:11:30 | 本 感想
いつも、小説を読むと思うのは
読み方も感じ方も
百人百様であるというもの。

どう感じようと、仮に影響されようとも
それは、それを読む人々の背景や
その時々の、境遇からくるので
何がいいとか悪いとか評価されるもの
ではないと思っている。

言わずもがなの孔子
どんな人か詳しくは知らなくても
その名前は2500年経っても
廃れていない人物。

物語は、孔子の架空の弟子
えん薑(えんきょう)という人物の
語りで始まり、語りで終わる。
いや、終わるというより
終わりなき始まりが、ぼくにとっての
読後の気持ちだ。

伝記でもなく、孔子を論じるでもない。
歴史小説であるが、想像力の小説かも
しれない。

孔子没後、33年が小説の舞台となる。
よって、論語というのは、この時点
では編纂されていない時代

哲学者、聖人、教育者、儒者
様々な名を持つ孔子であるが
何となく、説教がましいと思っていた
のが、ぼくだ。

100ページぐらいまでは、しんどかった。
孔子に対する、イメージが堅苦しい
のと、著者の文体に馴染めなかったと
思う。

春秋戦国時代で、文字通り動乱の時代
であり、亡国、国を亡くす棄民が
当たり前の時代である。

その時代に、孔子は不幸な人が
ひとりでも少なくなるように決意する。

著者は、架空の弟子「えん薑(えんきょう)」を通じて、人の死生、命を
一緒に考えませんか?と語りかけて
いるように感じる。

どんなに努力しても
正しい行ないをしても
正しくない行ないをしても
成らないものは成らず
成ものは成る

それとこれとは別。
それが、天命と言われたようだ。

だからといって
自棄になるのではなく
成敗や裁きは、度外視して
死ぬまで、嘆こうと嬉しかろうと
笑おうが泣こうが
「自分は自分流で、自分を汚さないで、自分の手足を動かして生きていこう」

何ものも、受け入れて
川の流れがとどまらず、幾つもの
川が混じり合い、やがて大海にそそぐ
ように、歩いて行けばいいと
思うのが、正直な気持ちだ。

「終わりなき始まり」が
一言でいうなら、ぼくの感想となる。






忘うじがたし想い出

2022-03-25 08:18:56 | 日記
井上靖さんの「孔子」を読んだ。

本についての感想は別に持ちたいと
思う。

この本は、亡くなった父が最晩年
絶えず携行していたものだった。

早いもので没後、26年となり
当時、30歳だったぼくは、とうとう
父と同じ歳に寄った。

遺品という訳ないが、生きている人が
亡くなると、役所やら弔い事やらの
事務的な作業に没頭せざるを得ず
喪主という立場もあり、悲しむ暇が
なかったと言ってよい。

小さな骨壷となって、還ってきた
父を前にして、遺したものを整理して
いる時に、見つけた本だった。

本音を言うと、この本は26年間ずっと
読めなかった。

未だに、父はその姿を見せずとも
越えられない高い高い壁だ。

膂力で言えば、高校2年か3年辺りで
超えていたと思う。

動物の世界で言えば、若い雄が、年の
寄った雄を駆逐するのだろう。

読めなかったのは、辛かったろう
闘病を口に出さずに
コツコツと身辺整理をしていた情景が
ありありと浮ぶからだった。

なぜ、孔子なのだろうとも思った。

ぼくは、医師から余命は半年と聞いて
おり、それでも、男からすると
絶対的位置にいる父が死ぬはずはない
と、およそ、ガキのような世間知らず
の考えで、その言葉を信じてなかった。

果たして、一年後の七夕の日に、
ぼくが、一旦、勤務先の東京に戻った
翌日に、帰った事を見届けるように
逝った。

最期に入院した時には
がん細胞が、脳に転移して、手の施し
ようがない状態だった。

病室で最期に言葉を聞いたのは
「はよ、帰りや」だった。
その後、一言も話せる状態ではなかった。

一言だけ、本について…

孔子を読んで
ずんときたのが
「自分は自分流にいて、自分を汚さずにいて、自分の手足を生きて行こう」
と、弟子がいう場面がある。

同じ本をぼくも購入していて、ぼくは、ぼくの本でそれを読み、ずんときた。

勤務先では、父の遺した本を読んでいて、その部分に、父が鉛筆で傍線を
引いていたの発見した。

高い高い壁ではあり
その時の、父の精神状態とも違う。

しかし、全く予期せぬところで
父と出会い、父と同化したような
気持ちになったのも事実だ。