朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

再び風呂屋について

2020-01-24 03:16:59 | 雑記
このブログを始めたきっかけは、贔屓の風呂屋さんの仕事っぷりに感銘を受けたことが大きい。

その風呂屋の近辺は土地柄、風呂屋激戦区である。
何軒か回り今の風呂屋に行き着いた訳だが、何故定期的に通うかと今一度振り返ってみた。

お湯の清潔さも含めた風呂屋としての衛生管理もあるが、店主(齢察するに75~80歳)のお父さん筆頭にパートのおばさんに至るまでの仕事の丁寧さだと思う。

風呂を管理、維持して行く為の所作が好きなのである。

お母さんも番台に座るが、定期的に番台は息子さんやパートのおばさん、お父さんなどと交代する。交代すると必ず浴場に来て風呂桶や椅子を定位置に戻しお湯でカランや床を流す。

その際の物の扱いが丁寧なのである。
ガサガサとせわしなくもなく自然体であるようでかつ意識しての姿はいつもながら美しいと思う。

前にも綴ったが、営業時間は朝6時~夜12時である。
私はどの時間帯もまんべんなく通っているが、時間帯関係なくお湯が綺麗かつ薬風呂の濃度も変わらないことを疑問に思い尋ねたことがあった。

3台の濾過器で常に濾過し循環させていると教えてくれた。

お父さんが、「うちはサウナもないし、店が大きい訳でもないので、せめてお湯や水風呂の水はいつも綺麗なお湯と水
で入って欲しくてね」とおっしゃっていた。

湯船のお湯を常に縁ギリギリまで溢れさせてるのも、お湯が汚れないようにとの配慮であった。

ある日、お父さんが浴場に入ってきてお湯をじっと見つめていた。
何か探し物ですか?と聞いたら、湯垢が浮いてきてないかの確認であった。

濾過器を常時回転させているものの、機械任せにせずご自分の目で正常に濾過しているか確認しているのであった。

こういう姿を見て、自分はいまある仕事に丁寧に向き合っているかと自問自答したりなんかもする。

すると、何か改善策やもっとこうすれば
丁寧かつ正確、迅速にできたのではないかなどヒントが浮かぶ。

風呂でスッキリして、仕事への気付きも与えてくれる贔屓の風呂屋である。


【終】故郷について

2020-01-18 09:11:09 | 旅行
チェジュの宿は韓式の旅館であった。
日本なら民宿といったものだ。

床はオンドル(床暖)仕様でポカポカと暖かい。季節にもよるだろうが、外気が少々冷えていても比較的薄手の寝具で寝れる。

翌日は韓国最高峰の山。
漢拏山(ハルラサン、ハンラサン)へ馬に乗りに行った。

山の麓に乗馬コースがあると言う。
韓国馬は蒙古馬で、西洋馬より体高も低く、足も短い。
ポニーに属するようだ。

体高は120~140程度か。
乗ってみたが、視線が高くかつ揺れて
馬上でバランスがとれない( ^_^ ;)

映画やドラマで、馬で駆けているがとても駆けるなんてなものは無理で、バランスをとるのがやっと。
ほうほうの体で初体験を終える。

その後、祖母と叔父とで先祖のお墓に向かう。
そのお墓は土葬であり、1mほどの凸を持った楕円のお墓であった。

供物のリンゴ、ミカン、柿、バナナを供えて韓式の拝礼を行う。
先祖と言われてもピンとこないが、叔父→私→祖母の順で拝礼をする。

むしろを引いて、お下がりの焼酎を飲みながらしばらくそこに留まる。

焼酎は漢拏焼酎である。
チェジュの地焼酎で、度数が21度とソウル、釜山の度数より高い。

その間、叔父は写真を撮り、祖母はコサリ(ワラビ)とヨモギを採りに場を離れた。コサリ(ワラビ)はテールスープに入れて、ヨモギはヨモギ餅を作るようだ。

テールスープの元になる牛のしっぽは
昨晩から親戚の台所で煮込んでいた。
牛のしっぽは、オスではなくメスを調達している。
メスの方が肉質が柔らかく美味しいとのことだが、しっぽでオスメスの目利きをする祖母に驚いたものである。

ご先祖のお墓参りを終えて昼食に向かう
海岸線沿いにある、食堂に入る。
言葉に不自由しないのでどこにでも行けるのが祖母との旅である。

出てきたのは、海鮮鍋(ヘムルタン)であった。

大きな真鍮鍋に、アワビ、ハマグリ、サザエ、車海老、わたり蟹、鯛、河豚の白子、タコ、イカ、白菜、がどっさり盛られてグツグツ煮て食す。
唐辛子は抑え気味だ。
全て採れたてなので、これまた味は抜群であった。

祖母も叔父それに私も、よく食べる。
韓式の錫製の箸に手こずりながら(滑る)、三人が無言でひたすら食べる。

ちなみに韓国では食事の時は箸と匙である。日本と違い匙で米をいただく。

今ではアルミ製もあるが、基本、錫で作ったメシ茶碗であるので、特に炊きたてご飯の場合は熱伝導がよい為に熱くて持てない。故に匙で食べると教わった。
スープも匙でいただく。
スプーンでもなく、レンゲでもなく、匙である。
持ち手が長いので鍋に持っていっても手が熱くならない。

途中、親戚のジヨンさんが来て先ほど採ったコサリ(ワラビ)を取りにきた。
アク抜きをして、テールスープに入れる為だ。

食事を終えて、腹ごなしに海岸線沿いを散歩する。

遊歩道近くには、新婚旅行でチェジュを訪れた人達が各々写真撮影に励んでいた。女性は皆、チマチョゴリを着ている。
皆さんベッタリでいかにも新婚さんいらっしゃい~と当時の桂三枝に言われるようだ。

ここは西帰浦(ソギッポ)と言う所で、済州島四.三事件の慰霊碑が建立されている。
1948年発端~1957年の完全鎮圧までに島民80,000人が当時の韓国政府軍及び関係者に虐殺されたという歴史がこの島にはある。

私の祖父はこの虐殺から逃れる為に日本に渡ってきたようだ。
大阪には在日コリアンが多く定住しているが、済州島出身が多いのはこの為である。

歴史の闇を知った一人の在日コリアンの私だった。祖父も祖母も父親もこのことは伝えてくれなかった。
この地に来て初めて、涙ながらの祖母から聞いた。

気を取り直し、さらに海岸を一人で歩く。祖母と叔父は別の親戚に会うために私と別れた。

夕飯までに、ジヨンさんの家に戻ればいいので時間には余裕がある。

季節は4月の中旬で厚手の上着は要らないがスィングトップは必要かという気候であったが、実はバッグに海パンとバスタオルを入れていた。

砂浜を求めて地図も無しに歩く。
30分程歩くと砂浜が見えている。
松林の影で着替えを済まし、海パン姿の男がやおら現れたので、地元の方が怪訝な顔つきで私を見たのを思い出す。

寒い😷、水も冷たい。。
が、次チェジュに来れる可能性はわからないので頑張って泳ぐ。

帰りのタクシー代を入れたバッグが盗られないようそこへは注視していた。

20分程度海にいたが、寒さで体温が下がってきたのであがる。

そそくさと着替えをして、もと来た道を戻り、自販機でホットコーヒーを二杯飲んだ。

ホットコーヒーは砂糖何杯入っとるんや?とツッコミながら飲んだのを思い出す。

タクシーに乗りジヨンさんの家の住所を書いた紙をみせる。
到着すると、祖母が濡れた頭を見て何をしてたんやと聞くので、海で泳いできたと答えるとジヨンさんも周りにいた親戚にも大笑いされた。

私も笑いながらにも、これで当初の旅の目的は果たせたと満足だった。
一、ご先祖の墓参り
二、チェジュで泳ぐ
ともに果たせた笑

夕餉は祖母特製のテールスープである。
骨から身をとりスープの中に骨はない。
コサリ(ワラビ)と牛身が同色になっているので、かつ歯ごたえが似ているのでどちらが肉でどちらが山菜なのかわからん。

これは貧しかった頃、コサリ(ワラビ)を牛のしっぽに見立てて作ってみたところ思いのほか、評判が良かったらしくそれ以来、チェジュに来たら必ず作る鉄板メニューだったそうだ。

夕餉を終えて、縁側に腰掛けチェジュドを回想してみた。

風と岩の島。たくさんの燕。
新鮮な食材。澄んだ大気と美味しい水。

来て良かった。

あれ以来30年が経過したが
チェジュには行ってない。

お墓参りと海水浴が出来てよかった。






〘続々 〙故郷について

2020-01-07 03:30:16 | 日記
ソウルの滞在を経て今回の旅の最終地である済州島(チェジュド)に向かう。

父方の祖父がチェジュの出身となるので
私の戸籍は今でもチェジュの役所に存在する。

空港で叔父と合流した。
タクシーで親戚宅へ向かう。

市場近くでタクシーを降り、祖母が海苔屋に向かい、店のアジュンマ(おばさん)
になんやら話かけると、アジュンマは黒電話をとり、どこかへ電話する。
電話を終えると二言三言話のやりとりをして、祖母が財布から円を出してウォンと交換していた。

闇の両替屋でした。レートがいいのだろう。

そこから徒歩で親戚宅へ向かう。
親戚といっても遠い遠い親戚なので、私から見れば他人に近い。
祖母と叔父は度々、チェジュに行きこの親戚宅を訪ねているので、今では気心のしれた関係であった。

そこには、姉弟がいて姉の方が私と同じ歳であったこともあり私の案内役を買ってくれた。

なんの前知識もなく、チェジュに行ったがチェジュが火山島であることは知っている。

海の中に熔岩が流れてそれが固まっている。うろ覚えではあるがその形が龍の頭に似ているので、名称は龍頭岩であったかと思う。
その岩の真ん中にくぼみがあり、そこから水が湧き出でいたのだが
ジヨンさん(案内役の姉)が身振りで飲んでみろと言う。

恐る恐る口をつけると真水でありかなりビビった笑

今でもチェジュは韓国のハワイと言われてるのだろうか。
李朝時代には遠島島流し、流刑の島であったと聞く。
両班(ヤンバン)、日本で言う貴族層の政治犯が多く流刑にあったと聞く。
その両班が島の女性と結婚し、家庭を持つ訳だがもとより勤労意欲がない。
いきおい、女性が仕事に出ざるを得ない。

火山大地のため、土地は肥えておらず
周囲は海で囲まれているので、漁業で生計を立てる。
案内中でも多くの海女さんに出くわした。

とある海岸線に行き、砂浜に降り立った。
ジヨンさんが時計を指さして、目の前の遠浅の海を見ていろと言う。

しばらく見ていると、海の真ん中が割れて左右に海水が流れて道ができている。

天童よしみの珍島物語をまじかに見てここでもビビった。

海はエメラルドグリーンでとても澄んでいたのを思い出させる。

途中腹が減ったので、何か食べようとなり食堂に入る。
ジヨンさんにあなたにおまかせしますと身振りで頼む。

出てきたのは、( „❛ ֊ ❛„)んっ?
「茶粥か?」と思われるものである。

香りを嗅ぐと、磯の香りとふゎぁとした胡麻油の香りが…

なんやろと思い匙をとる。
アワビ粥であった。今でもこのアワビ粥に勝る粥は食べていない。
アワビのワタを身と一緒に煮込んでいる。
ワタの臭みはなく、匙をとるたびに磯の香りが鼻腔をつく。アワビ自体は淡白なので、ワタと胡麻油がうまく絡んで濃厚な味だ。

うまいうまいと言いながら、結局三杯オカワリして食堂のアジュンマを笑わした。

当時、180cm、88キロであった私の食欲に火がつき、もっとないかと聞く。

で、次にでてきたのはテナガタコのぶつ切りであった。
生きてるのでぶつ切りにしても、動いておる。
それを胡麻油と粗塩かコチュジャンのどちらかで食す。

アワビもそうだが、採れたてなので鮮度が桁違いである。

吸盤が口蓋に吸いつく。
喉の奥で吸いつかれるとたまらんので
充分に咀嚼していただく。

これも三人前を食べて、同行のジヨンさんも笑うしかない。

大人男子の手のひらサイズのタコが一人前に五匹なので十五匹食べたことになる。

あとで祖母から聞いたが、日本人があんなに食べるのは初めてみたと、食堂のアジュンマがジヨンさんに言っていたそうだ。
在日コリアンであるが、現地の方から見たら日本人に見えるのだろう。

たらふく食べ、円で、2000円でおつりがきた。今はそうもいかないと思う。

チェジュに降り立った印象は、ツバメが
数多く飛んでおり人々もせわしくなく
ゆったりしている。
空気が澄んでおり、水がとてもうまかったこと。
草原に牛と黒豚がいたこと。

チェジュ初日が終わる

【続】