朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

今日の風散歩

2021-09-27 01:20:05 | 日記
生まれ育ったのは大阪の西方
此花区だったんです
今日は(あ、もう昨日か)天気が危ういかなと思いつつ、愛機「黒王号」(北斗の拳ですね笑)電チャリなんですけど
此花区まで行ってきました



JRの西九条駅から南に数分歩くと
安治川に当たります
そこには、日本で唯一の自転車と歩行者が無料で対岸の港区に渡れる
「安治川隧道」があるんです。
エレベーターで自転車と歩行者が一緒に乗れます

私が子供の頃は、車専用のエレベーターもあったんですけど
昭和52年に閉鎖されました

また、この安治川隧道と並行して
ポンポン船(渡し船)もあったんですよ
自転車と歩行者が鈴なりになって
わんさか乗ってましたね(笑)
揺らして船頭さんにめっちゃ怒られたりもしましたけど(すんません)

安全上のことだったんでしょうか
このポンポン船もとっくに廃船と
なっています

安治川隧道を使わないと、港区に自転車や歩行で行くのに結構迂回しないとならないので今でも利用される人は多かったですね(隧道の写真撮るの忘れた、汗)

午前中はこの辺りをフラフラして
なぜか少年時代を振り返ってると
なんか気弱で恥ずかしがり屋のくせに
無理に強がったりして
この岸壁に何時間も座って
メソメソ泣いてた少年の私と再会したようです(笑)

あー俺もほんまにええ歳したオッサンに
なったんやなーと苦笑いしてしまいました

日付変わりましたが
皆様お疲れ様でした。

寝ましょうか
おやすみなさい🍀
いつもありがとうございます



人生に参考書はあっても…

2021-09-26 01:41:43 | 日記
「人生に参考書はあっても答えはない
生き様は自分で創れ」

毎日、湯に浸かりながら
亡くなった父親と妹に
「今日も一日終わったで、ありがとうな」と心の中でつぶやきます

亡くなった人を思い出すとその人達に
花が降りそそぐと何かで読んだんですけどそれを知ったのはつい最近のことです

当たり前のことですけど
私は死んでないので死後のことは
知る由もありません

ただ、一番身近だった肉親を想い
感謝を述べるだけです

冒頭の言葉は父親が私に言った言葉。

普段思い出すことは、ほとんどない言葉ですが、父親のことを考えてると
降って湧いたように先程思い出しました

いずれ父親のことを自分なりにまとめてみたいと思うのですが
これがなかなか厄介でして(笑)

死後25年過ぎてあと1年で父親が亡くなった年齢になろうとしていますが

なんでしょうね…
未だに越えられへんのです(笑)
根は優しい真面目な人でした
それでも、多分私が男だったからか
あるいは一族の長兄だったからか
よくわかりませんが、とかく厳しかった
ですね

妹は成人してからも父親の膝の上に乗ってボーッとしてて、父親もニコニコしてたんですけど(笑)

色々想いがありすぎて、やっぱりなかなか書けません(笑)

言葉の解釈ですけど…
自分の決断したことは、たとえそれが
間違いや失敗であったとしても
自分を責めるな、考えたり行動した
過程をみよ

人に優しくすることは大事なことだが
自分をないがしろにする人にまで
その優しさを向ける必要はない

終わりなき始まり
最後の最後まで自分を信じて
自分らしく生き抜けでしょうか…

男(私)にとっては父親というのは
高い壁なんですね

それだけある意味、口でも態度でもなく
守られていたんでしょうか…

ここまでがやっとです(笑)

読んで頂きありがとうございます。
感謝致します😊




なぜ日本語で書くのかについて

2021-09-25 04:33:52 | 日記
なぜ日本語で書くのか
思い当たったので少し自分なりに
考えてみました
以下独白になります

生まれも育ちも教育も日本という環境だ
税金も支払う義務もある
また、コロナで全国民に特別給付金が
給付されたがその給付も受けた

仕事上ではあるが給付申請書もお届けさせて頂いた
最近は取り立てて告白?することもないが、どうだろう?
20~30代頃は、親しくなった人に
自分が在日韓国人であることを
話すことがあった

その際に決まって言われたのが
「あ~やっぱりそうだったんだ」
「なんか日本人ぽくないと思っていた」
だった

自らの存在価値と言えば大げさだが
アイデンティティを問うた際には
国籍という生まれた時から持ったものがある

普段は自分の国籍が大韓民国済州道特別自治州朝天面新興里にあることを
振り返ることもない

ましてやいまは海外出張に行く機会もなく、パスポートはとっくに切れたままだ

しかし、その時の私はやはり知人に
告白という心境で話したようだ

悪いことでもなく、自慢することでもなくだが、本来の私を知って欲しいという人には自らの出自を明かした

もっと若い10代の頃は、お付き合いしていた女性に何ヶ月も悶々と悩み、
結果的に告白したこともあった

「えっ?知ってたで」と言われたことも
あったが(笑)

今も、この独白を綴る際にも
私の思考は日本語であり、思考そのものを日本語で書いている

生活においても然り
ハングルでは疲れたとかしんどいを
「ピゴナダ」「ヒンドゥロ」と訳すが
「ヒンドゥロ」(しんどい)が先にきて
「しんどい」にはならないし、なり得ない

言わば、脳のヒダの奥の奥まで
日本語が染み込んでいると言ってよい

私の叔父は生きていれば82、3歳ですが
大学を出て、東京のある小さな出版社を
受けた時に
「朝鮮人は学業及び入社試験が優でも
とらない」と言われたそうだ

スポーツ万能で高校時代はバドミントンの個人戦で大阪府内で優勝し、
国籍ゆえにインターハイに出れなかった
叔父は
その出版社の社長宛に直々に手紙を
送ったそうだ
単に手紙を送ったとしか聞かなかったが、このことが社長の目にとまり
入社が叶ったという

今から60年前はこれらが高い壁となっていた時代も事実としてあった

その叔父がよく言っていたのが
「アイデンティティを問う」と
「根無し草」だった

アイデンティティに立ち返った際に
おのずと事実として屹立するのは
国籍
根無し草に立ち返った際には
日本が祖国なのか韓国が祖国なのか
わからなくなることだと解釈している

現実的に今の私が国籍上の祖国へ
行き、そこでの生活を立ち上げることは
非現実的だ

国籍上の故郷、済州島に行った時に
入管で質問されたが、言葉がわからず
呆れた仕草で「もういいから、行け」の
ゼスチャーを受けた時に
俺は何人なんや?とも思った

そんな時に叔父の言ってた
「根無し草」がピンときたのが思い出される
根をはっているようでそうでない
しかし、自らのアイデンティティは
失ってはならない

仕事中に中学生や小学生の下校時間に
出くわすことがよくある

中国系の生徒はその同じ国籍を持つ
友達と流暢な北京語で会話する
フィリピン系、ヴェトナム系、ロシア系
の生徒達も然り。
そして、親御さんとも流暢な母国語と
日本語を交えて会話する

正直、「凄いなー」と思う

私は日本という国が嫌いではない
自分の肌感覚でだ
そして、パスポート上の祖国も
嫌いではない
しかし、そこに「生きる」という
肌感覚はない

独白なので、うまく伝えれない
しかし、この伝えれないと思うことでも
書くのが
今の私の
「なぜ日本語で書くのか」というのかも
知れない







ある鉄クズ屋でのできごと

2021-09-23 08:03:28 | 雑記
毛馬洗堰(あらいぜき)から天満橋まで
続く大川沿いの遊歩道は春になると桜のスポットとなる大阪でも有数の桜並木です。



しかし、私にはJR桜ノ宮駅から歩いて
祖母に連れられての鉄クズ屋の印象が遥かに濃いのです

桜ノ宮駅近くの大川には
バラックで作られた小屋が点在していました。
主に鉄クズですが、廃品回収を生業とする在日一世達が住んでいたのです。

祖母は数え歳100で世を去りました。
私が小学校時代は祖母が
墓参りに行く、石切さんに行く、
生駒聖天さんに行くなど祖母の行事には
ことごとく一緒に連れられて行きました

その鉄クズ屋に行くことも祖母の行事のひとつでした。

鉄クズ屋には、シャーマン(巫女)と呼ばれる、あの世にいる亡くなった方が憑依し、その言葉を告げる儀式を行う女性が
いたのです。

ハングルではこの儀式を「クッ」と言います。

おそらくその身にふりかかった厄払い的な祖母の行事だったのでしょう。

五色の衣装を着たシャーマンが
銅鑼や鐘、鈴、チャンゴ(朝鮮式太鼓)の音に合わせて祈りだします

銅鑼などの鳴り物のテンポがつぎつぎと早くなってくると、シャーマンは立ち上がり、テンポに合わすのではなく
自分のテンポで踊りだし、その場で軽く軽く跳ね上がっていきます。

鳴り子はシャーマンの踊りに合わして
テンポを変えていくのです。

最後はほとんどジャンプする状態が
続き表情が恍惚としてくると
(多分トランス状態だったのでしょう)
祖母も一心不乱にブツブツと祈り続けています。
私は恐さを感じながらも黙ってみていました
その内にバタとシャーマンが、床にうつ伏せに倒れます。

おもむろにもたげたその顔は
本来のシャーマンの顔ではなく
男性の顔と声に変貌していました。

そして、祖母にハングルで
何かを伝えます
祖母は一切私生活ではハングルを使いませんでしたが、言葉は知っています。

シャーマンの男声音を聞きながら
祖母は普段滅多に見せることのない
涙を流し「うんうん」と頷くのです。

やがて、シャーマンが本来の女性の顔に戻ると祖母の顔は憑き物が落ちたような
顔になります。

そして、「たぁ坊、帰ろうね」言うのです

先日、戦友と大川沿いを通過しましたが
それら鉄クズ屋は全て消え去っていました。

今から思うと、現実的なことではないと
思いますが、祖母にとっては必要な
儀式だったのでしょう。

ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


焼鳥屋④

2021-09-23 03:40:40 | 雑記
おおっ!ドクターイエローか!
前日の夜、後輩から納めた商品の
割れによるクレーム処理の電話を受けた
私は朝一の東北新幹線で人生初の
ドクターイエローをみた。

ドリル、エンドミルと呼ばれる切削工具を保持する保持工具を製作するメーカーに所属していた私は当時、営業でしたが
7割は他の社員のクレーム処理担当を
やっていました。

「おそらく錆からくる材料の劣化やろ、あと切削条件がキツすぎる、社長さんは言わんかったけど、刃物何本も折れてるはずや」
クレームは、こちらに非がないことを伝えるのではなく
相手が何に困っているかに着眼して
問題解決をはかる絶好の機会だ。

丸半日かけて、相手の言い分を聞き
こちらの対案と材料分析をすることで
持ち帰る。

「ほな、帰るで、気ぃつけて運転しぃや」
あー、とりあえず終わった
福島駅から東北新幹線に乗る
「17時か、龍にいけるな」

---

(こんばんは)

「あら、いらっしゃい、どうしたの?
疲れた顔しちゃって」

(ええ、ちょっと東北まで行ってきた帰りなんです)

「まあまあそれは、お疲れ様
瓶ビールでいい?」

(ええ、お願いします)

ママとも親しくしてもらい
ますますホッとするL字カウンターの奥で、キュッとビールを空ける

「朱禪さん、何からにします?」

(あ、そうですね、造り(刺身)はなんかありますか)

「うん、わかった
ちょいとあんたシロがあったでしょ?」

焼き場で炭の火加減を整えていた
親爺に声をかける
「え?あったっけなー?」
「あるわよ。あんたが後で一人で食べてるのも知ってるわよ」

アカ(赤)は鶏肝
シロ(白)は背肝、腎臓だ
取り出すのに手間がかかるが新鮮な
鶏の背肝は生がうまいことを親爺は知っている

「アカもシロも出しちゃいないさ
まったくもう…なんだって自分の酒の肴にするんだから」

「へいへい、わかりましたよ(笑)」

親爺はママにベタ惚れなのだ
元山男の峻険な風貌もママにかかれば
孫を見つめる好々爺に変わる

「あいよ、お待ち」

鶏肝は何度か食べたが、背肝の造りは
初めてだ
刺身用の醤油とおろし生姜と極薄にスライスしたにんにくが添えらており、
かたわらには削った岩塩があった。

岩塩を少しだけネタにつけ食べる
塩の甘みとネタの甘みが見事にマッチし
生臭さはなく、口の中プツっと弾けてはとろける…

(ははぁ、そら親爺も自分で取り込むわな)と思いつつ、くろうまで舌を洗いながら食べる

「どうですか?お口にあいますか?」

(ええ、いま親爺も店で出したないわなと思いながら食べてました(笑)おいしいですよ。ありがとうございます。)

「そうよかった。ゆっくりしていってくださいな」

あんなにおいしい鶏の内臓はもう食べれない。

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43から47まで丸3年酒を断ち
いまでは格段に酒量が落ちましたが
相変わらず、仕事が終われば毎日飲んでいます。

ふとした時に親爺とママを思い出すのです。

ここまで読んで頂きありがとうございます。