朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

辛いな 苦しいなと思うとき

2023-09-06 04:48:47 | 日記
こんばんは🌛
朝の早い人は、おはようございます
かな?…

朝夕は少し過ごしやすく
なってきたと思いきや
昨日(9/5)は、早朝5時頃から
ムンとした湿度をまるで体に
刷毛で塗られたようでした

こう暑いと
汗の出しすぎで、一日終えれば
ヘロヘロになりますね、笑
プールに入ったあと
どっと疲れて寝てしまうような、笑

早く帰って、風呂なりシャワーで
さっぱりしたいですよね╮(´•ω•)╭

いま、辛い、苦しい、なんとなく
不安、葛藤、あーなんでこうなるの?
などなど
生きていると、いいことばかり
ではなく、あんまりこう思いたくも
ないですが
いいことと、悪いことの
繰り返しで、なんとかもがきながら
生きていっているのかな?
と思ったりもしますね

特にね
思うんですけど
自分に必要な1ヶ月の生活に
かかる費用を把握して
その範疇で生活してるのにも
関わらず
突然の出費
(あ、洗濯機壊れました)
パートナーの失業
(あ、失業しました)
飼犬が病気になり
うん10万が必要
(はい、病気しました)
持病が悪化する
(いま、心臓バクバクしてます😍)
などなどで

「こら、回らんで(貯金ありません)」
本来循環する道具である

「お金」に困るときって
ないですか?

毎日、汗だして
一所懸命にかつ、どう働きやすい
職場環境にしていけばいいか
そこに苦しみだけではない
目的と楽しみを持って
日々を積み重ねている方は
たくさんおられると思います
それでも

「回らん!💦」

わたしは、最終的には
自分で考えて、自分で決める
問題は解決するのだから
問題として存在する
と思っています

ですが、先にあげたような例は
人それぞれで同じものは
ないですよ

「わー、どないしよ💦」と
思っていることでも
別の人からみると
なんの感慨も打撃もないことも
あるでしょう

それは、それで比較するものでは
ありません

苦しいとき
辛いとき
なんで?と思うときって
心の空白、余白が
そのことに埋まってしまう
堂々巡りみたいになってしまう

そこで
ふと、過去を振り返るのですね
過去を振り返ることができるのは
いま、生きている証(あかし)
過去は人にとっての
経験、体験いわば財産です

そのときそのときで
なんとかしてきたから、いまの自分が
存在しています(*^^*)

存在するは生きているとも云えます
「いま、生きている」
そこに、焦点をあわす

「生きている」
なぜ生きているのか?
生きる意味はあるのか?

「生きる意味なんて探さなくてもいい
です」
「そこにいるだけで、母ちゃんは
幸せだよ」と
著作のなかで述べられた方を
わたしは知っています

サインを書いてくださった
「横山小寿々」さんという
筋痛性脳脊髄炎、慢性疲労症候群と
いう難病で、ほぼ寝たきりの
作家の方です

いま、この拙文を書こうかな?と
思ったのは
横山小寿々さん
ご自身のアイコンをみて
心に空白、余白がなかったと
気づきました


こういうときですね
人は苦しいとき、辛いときの
根っこは孤独感かなと…
そして、自立なぞない
他者との目にみえない
関係性のなかで生きているかなと…


自分で決める。
それはそれでいいです
ですが
自分で決めたことでも
空白、余白がなければ
冷静に自己観察できずに
決めてしまうのかも?と
思ったのです

感情(ハート)を探る
体はどんな反応をしているか
自分の心と体に意識を向ける

心あたたまる創作を眺める
ぶらっと、ただぼんやりと
散歩する
問題に焦点を合わしすぎない


少しずつでも、前を向きませんか
いままで生きてきた証(あかし)を
信じてみませんか
ともに、たった一度の人生を
生きてみませんか

ありがとうございます

応援しています☺️






限界

2023-06-23 11:19:58 | 日記
以前、たまたま立ち寄った
古本屋で、吉行淳之介さんが
書いた
「ぼくふう人生ノート」という
文庫が目にとまり買い求めた

好きな作家である遠藤周作さんの
畏友の方だと知っていたので
目にとまったのだろう

その本のなかで
「どんな人間でも、限界のない
人物はいない。もしいるとすれば
それは化け物である。限界がある
ことに、失望しすぎないことが
必要だ」とあった

これには、前段がある
氏はご自身の10代後半をこう語る

「とにかくなにをやっても駄目だった
当時自分ではまだ、気づいていない
いくつかの特質は、どの社会的分野に
も不適合だった。
私は劣等感の塊だった。
だから、私は、何をやっても駄目な
才能のない人間と思いこんでいたの だ。」

その劣等感の泥沼から這い出す
きっかけとなったのは
萩原朔太郎のエッセイであったという

朔太郎は、そのエッセイのなかで
詩人という種類の人間がどういう
ものなのか詳しく書き記して
いた

そこで、吉行淳之介さんがご自身を
もてあます要因となって
いる数々の事柄は、そのまま
特性として挙げられていた

心臓のまわりを取り囲んでいる
セルロイドの殻がみるみる溶けて
消えていく
ようだったと。

吉行淳之介さんは
続ける
「この時の劇的な心持ちは
私は詩人になれると思ったことでは
ない、そんなことよりも、私のような
人間にも、ちゃんと場所が与えらてい
るという発見の喜びである」

吉行さんは、小説家であるので
話しが小説に片寄っているかも
しれないがと、註解を与えているが
あらゆる分野にもあてはまると
書く

おそらく、吉行さんは
言葉につくせないほどの
劣等感をもっておられたのだろう

そして、このことから
劣等感は薄れたかもしれないが
消えはしなかっただろうとも
思う

劣等感を持ちつつも
書きつづけたのは
自分の限界はあると思い
その限界に失望しなかったで
あろうことを氏の目を通して
伝わってきたのです。

最後に、引用させて
いただきます

「角度をかえてみれば、才能がなく
ても、人間としての、美質があれば
それで十分なのである」

過程

2022-08-23 10:01:50 | 日記
人はそれぞれがそれぞれの
人生の過程を経ます。

過程と結果を思い浮かべると
結果重視が、昨今の状況かも
しれません。

ここで、ふと立ち止まってみると
結果に向けて、努力、練習するのか
結果ではなく
流れ続ける水のように
川の流れが、海に辿りついたところを
結果と思わずに、ただそこにある
ように。

そして、絶え間ない人生の流れを
過程と考えてみるのはどうでしょうか。

過程を経るとき
スムーズに流れる
困難に出くわす
嬉しさも悲しみもあり
時には怒りや失望もあるでしょう。

そんな過程に対して
今、自分自身はどう感じ
どうつながっているのか、深く
掘り下げてみると
失敗や間違い、思い込み、非難が
あることに気づくのでしょう。

過程は、変化し、流動してるとも
思うのです。

変化、流動に対して
「これ」と「それ」の中間状態で
好き嫌いや執心をなくし
あるがままの状態を
静かにみつめる。

自分自身になるために。
そこには、対立ではない
補完があると思うのです。

私たちの過程は人生そのもの
だと思います。


障害物

2022-08-22 09:04:02 | 日記
人が生きていくうえで
必ずおこる障害物

人間関係、経済的困窮、病、怪我
事故、災害……

意図的、非意図的であっても
およそ、障害物に合わなかった人は
いないと思います。

障害物は、障害物として
そこに存在はします。

角度を変えてみても、裏返しても
障害物はそこにあるだけ。

私たちは、それにどう反応するか
ではないでしょうか。

障害物があっても、なくても
変わらずに在るのは
今この瞬間は変わりません。

今に意識を集中し
自分になにが起こったのか
ジャッジ(判断、審判)するのではなく
見極めること(中立状態といっても
いいかもしれません)
で、私たちの可能性は引き出される
のではないでしょうか。

できれば、障害物や変化は
ない方がいいとわたしは思うときも
多々あります。

ですが、それは絵空事にすぎないと
はっきりと自覚すると、私たちは
前に歩み続けることができる。

最後にブルース・リーさんの
お言葉を拝借します。

「変化とともに変化すれば変化
がない状態に」なる。

時間の切り売りについて

2022-08-04 01:11:54 | 日記
5月末ころから、はたと
筆がとまった。
SNSといっても
わたしは、ツィートかこのブログ
あとは、noteに細々と日々感じたことや、いま考えていること、あるいは
過去に遡り、その時の自分自身との
対話(会話)などを、綴ってきた。

なぜ止まったのか?
難しく考えてる訳ではない。
むろん、顔は見えずと言えど
なんらかの、表現をする以上は
画面の向こうにいらっしゃる方が
いらっしゃる。
わたしの、拙い文章を時間を割いて
読んでくださるのだ。

それらに対して、文責というのもある。
顔がみえないこそ、事実を述べようと
思うし、未熟であっても、真っ当に
正々堂々と、自分の考えや思いは
書いてきたと思う。

しかし、はたと、止まった。
なんの為に書いてるのか?
自問自答、内観、読んだ本の感想
読者に何かを訴えるためか?
それとも共感か?
それとも、ただの承認欲求か?
自分に対しての切磋なのか?

何が何かわからなくなり
アウトプットする気力が失せた…

冒頭に時間の切り売りと記した。
月給制、時給制、年棒制、個人事業。
金を稼ぐ形態は様々だが
どんな職業でも、時給に換算する
ことはできる。

ただ、簡単に一日の給料がいくらと
認識できるのが、時給制なだけだ。

例えば、ツィートにおいても
タイムラインを追うとすると
あっという間に、1時間、ややもすると
2-3時間ということにもなりかねない。

時間を溶かす。
言っておきたいのは、ツィートや
ブログが善か悪かなどというつもりは
ない。

太古、狩りをし、稲作をし
山海へ漁に向かい、集団生活の糧を
まかない。
物々交換をしてきた歴史的な
事実がある。
夜明けとともに働き
日没とともにその日の働きを仕舞う。

時間は、その時からとまらず
人々は、自らの時間をそれぞれの
やるべきことに切り売りしてきた。

わたしは、卑下ではなく
下流と自分を定義している。
真の上流というか、金持ちは
自らの時間を切り売りとするなら
途方もない時給になるだろう。

そもそも、額に汗し、小便に血が
交じるような労働はせずに
ワンクリックで、天文学的な
金銭を動かすのが、真の金持ちだと
思う。

が、わたし自身がその軀を動かし
手足、頭を使い、時間の切り売りを
することは、これからも終生
変わらず、普遍である。

「読書尚友」という言葉を知った。
わたしの、解釈では
古の偉人(書)を友とするに至っている。

古典は歴史の風雪を経て
読み継がれたり、聴き継がれている
思う。

言っておきたいのは
読書や優れた音楽のみを愛し
それに固執するのではない。

事実としてあるのは
それら、古典的なものも
歴史の風雪という
「時」を経てるだけだ。

そのことを、探求まではいかなく
とも、有限の人生、常は無い人生、
貧困、生老病死に重ねて
死ぬことについて
とことん、内観しようと
思ったら、はたと、筆がとまって
しまった。

「終わりある(死)、始まり」と言おうか。
終わりに対して、正々堂々と
対峙するのか、見苦しいさまを
さらけ出すのか。

いまも、これからも
わたしの課題と言える。