朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

奇跡を、生きている 横山小寿々さんのこと

2023-06-29 07:56:48 | 本 感想
本が手の届くところにないと
落ちつかない。笑

横山小寿々氏の作品
小寿々氏は
ある日突然、筋肉に激痛を感じ
フライパンを落としてしまいました

筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群
という病が小寿々氏を襲いました

この作品は
20年間セラピストとしての
経験と
確たる治療法のない病気に
なった経験を経て
作者が自身との対話を
重ねた実話である

小寿々氏は云う
「わたしは、確かに病気ですが、
かわいそうでもなく、絶望も
してません」

この言葉を書くまでに
どれほどの、葛藤や絶望が
あっただろうか

たしかに、小寿々氏の真横には
「死」という気持ちが絶えず
あったのです

ですが、
なぜ、そのように思えるのか
いや、思えたのか

この作品は
ハウツーではない
ひとりの人間として
自分との「間」
家族との「間」
本創りの「間」
間は、関係性、リレーション
自分の人生に真摯に向き合い
気負うことなく、書かれた作品です


読者の心の、いや精神の
襞にある痕跡を残すだろうと思う

いま、苦しい、希望がない
深い悲しみにうちひしがれている
方々、眠れね夜中、ひとり
寂しく部屋でいる人たちに
手に取っていただけたらと思います

そこには
「雲の向こうは青空」と云う
等身大の横山小寿々氏が
そっと、寄り添い、ほほえみを
浮かべてくれているだろう

また、この病がどういうものなのか
体験者して、伝えてくれる

これらは
わたしの百人百様の読書ですが
みなさんは
どうお感じになられるでしょうか

末尾に、わたしが勝手に
思っている小寿々氏の
別名を記したいと思います

慈しみとほほえみの人
それは
静かなる虎
「静虎(せいこ)」と呼ぶ



反逆

2023-06-27 09:21:36 | 本 感想
侍は
侍る(はべる)とも読めます

時代は中世下克上まで
さかのぼる

この時代は、江戸期と違い
主君への忠節、忠義はない
あるのは
「利」のみ

主人公は、荒木村重という
摂津国の太守と
近江の明智光秀

たんなる筋書きだけならば
この二人の魔王信長に対する
謀叛の歴史小説となる

家臣が利のために、侍るのなら
主君も己が利となるものを
登用(活用)し、利なしとなれば
古草履のように棄てる
時代であった

自身を神として、崇めることを
求めた魔王

己の力のみを信じ、その判断に
絶対的服従を求め、反すれば
一族郎党、妻子をことごとく
「成敗せよ」とかん高いひと言で
皆殺しにする絶対王

荒木村重と明智光秀は
その天才的な頭脳に舌をまきつつも…

この小説でとくに
印象が濃く残るのは
荒木村重の二番目の妻となる
「だし」さま
荒木村重の嫡男村次に
嫁いだ「さと」さま

だしさまは、信長が寵愛した
側室吉乃の連れ子
さとさまは、明智光秀の長女

そして、浅井長政の死から
柴田勝家の妻となった「お市」さま
お市さまは、信長の妹

これら、三人の奥方は
敗者側であり
その最期は死しかない

ですが、その最期の記述は
人を人として、信じることが
できず、できないが故に
孤独と向き合った男たちに
戦国人ではなく
ひとりの、人間としての
情愛を伝え
人として、どう生きたかを
伝える、極めて重要な影の主人公
であろうかと思う

ちなみに、準主人公ともいえる
竹井藤蔵は
遠藤周作さんの母方の祖先となる
人物となります

岡山県吉備高原の美星町という
夜になると、人工の光がいっさいない
類まれな星の町の生まれという








百人百様

2023-06-24 07:02:17 | 本 感想
好きなことはなんですか?と
聞かれることはまずない

50を越すと尚更ない
なので、自問するしかない笑

自室で寝ながら、肌合いのあう
作家の本を読むこと
これだけ。

以前、読書の楽しみという
拙文を記しました

世の中で「いい本」と呼ばれてる
ものが、その人にとっての
良書ではない
問題意識を疼かせるものが
その人の良書と結びました

表題に百人百様としましたが
読書は百人百様であると
思っています

純文学、大衆文学
ドキュメント、エンターティメント
ハウツー、漫画、その他もろもろ
が、存在し、年間の新刊発行は
1万7千冊にもなります

活字離れといわれても
この冊数です

乱読も否定しません
真の喜びは、その人にしか
わからず、乱読のなかに
喜びや楽しみを見いだす方も
いらっしゃるでしょう

自身も、乱読したときがありました
あくまで、私の百人百様ですが
心のひだに残らなかったのですね

なんでかなー?と思うと…
ひと言でいえば
頭が混乱したんでしょうね

古典を読もうと思い
今日はドストエフスキー
明日はヘーゲル
その次は、アーサーミラー
次は原民喜……
などを読んだことがありました

心のひだひだに刻印を残さないな?
なんでだろう?と考えたのです

あとで、わかったのですが
作家に「飲まれてる」
と思ったのです
混乱するのですね

ついていくのがやっとで
精神に痕跡を残さずに
精神的な影響も受けずに
苦しいだけの読書になっていたのです

そこから、若いときまでに遡って
精神に刻印を残した
フレーズはなんであったか
思い出そうとしました

それが、わたしの場合は
遠藤周作さんのエッセイにあった
人の寿命ということへの
フレーズだったのです

本の題名は覚えてないのですが
当時、肉親の死に遭遇し
「死とは」「生きるとは」に
深く悩んでいた時期がありました

後に知ったのですが
遠藤周作さんは、数々の大病を
なされ、手術中に心臓が一時とまった
こともあったそうです

わたしは、当時そのようなことを
知らずに、氏のエッセイでの
「人の寿命」についての
フレーズをうろ覚えだったのですが
覚えていたのですね

そして、その本を探しました
でも、みつかりません
だって、題名を覚えてないんです
もの笑

うろ覚えなんですが
そのときのわたしの心境は
「そうか、そういうことか」と
心のひだに、ぐっと痕跡を残した
ものでした

そこから(約2年前から)
遠藤作品を読みだし
彼の人生を少しずつですが
奪うような感覚になってきたのです

これは小説にかかわらず
ほかのことでも
あるかと思うのです

音楽、絵画、創作品
ひとりの人間が、生涯を賭けて
創りあげたもの

それらの何に
興味をもつかは、その人の自由だし
その時のおかれた環境や
精神状態によって、様々です

確固とした読書法はありません
あるとすれば
「この人の創ったものがなければ
オレはつらい」
「楽しみがなくなる」かも
しれません

皆さんには、どんな
百人百様がありますか?

限界

2023-06-23 11:19:58 | 日記
以前、たまたま立ち寄った
古本屋で、吉行淳之介さんが
書いた
「ぼくふう人生ノート」という
文庫が目にとまり買い求めた

好きな作家である遠藤周作さんの
畏友の方だと知っていたので
目にとまったのだろう

その本のなかで
「どんな人間でも、限界のない
人物はいない。もしいるとすれば
それは化け物である。限界がある
ことに、失望しすぎないことが
必要だ」とあった

これには、前段がある
氏はご自身の10代後半をこう語る

「とにかくなにをやっても駄目だった
当時自分ではまだ、気づいていない
いくつかの特質は、どの社会的分野に
も不適合だった。
私は劣等感の塊だった。
だから、私は、何をやっても駄目な
才能のない人間と思いこんでいたの だ。」

その劣等感の泥沼から這い出す
きっかけとなったのは
萩原朔太郎のエッセイであったという

朔太郎は、そのエッセイのなかで
詩人という種類の人間がどういう
ものなのか詳しく書き記して
いた

そこで、吉行淳之介さんがご自身を
もてあます要因となって
いる数々の事柄は、そのまま
特性として挙げられていた

心臓のまわりを取り囲んでいる
セルロイドの殻がみるみる溶けて
消えていく
ようだったと。

吉行淳之介さんは
続ける
「この時の劇的な心持ちは
私は詩人になれると思ったことでは
ない、そんなことよりも、私のような
人間にも、ちゃんと場所が与えらてい
るという発見の喜びである」

吉行さんは、小説家であるので
話しが小説に片寄っているかも
しれないがと、註解を与えているが
あらゆる分野にもあてはまると
書く

おそらく、吉行さんは
言葉につくせないほどの
劣等感をもっておられたのだろう

そして、このことから
劣等感は薄れたかもしれないが
消えはしなかっただろうとも
思う

劣等感を持ちつつも
書きつづけたのは
自分の限界はあると思い
その限界に失望しなかったで
あろうことを氏の目を通して
伝わってきたのです。

最後に、引用させて
いただきます

「角度をかえてみれば、才能がなく
ても、人間としての、美質があれば
それで十分なのである」

ある痕跡

2023-06-21 05:45:08 | 本 感想
「小説家は自分以上のものは、
決して書けないものだと思うんですね。
そして、作品にあらわれる、主人公は
その作者自身となんらかの
関係なしには書けないんです」

細部まで記憶してませんが
主旨はこのようなものでした
この引用は、遠藤周作氏が
エッセイで書かれていたものです

まだ、全作品を読み通したわけでは
ありませんが


遠藤周作氏の作品の主人公の
心理や行動
などを観察すると
やはり先生自身ではないかと
意を強くするのですね

「沈黙」の吉次郎
「侍」の長谷倉六右衛門
「男の一生」の前野小右衛門
「鉄の首枷」の小西行長
「反逆」の竹井藤蔵
「王の挽歌」の大友宗麟
「私が、棄てた、女」の吉岡
「スキャンダル」の勝呂
「海と毒薬」の私
「満潮の時刻」の明石
「深い河」の磯辺、沼田、木口、大津

小説だけではなく
作品や創作品は、その作者が
生涯をかけて創りあげたものと
思っています

また、作品や創作品など
興味もない方々もいらっしゃるとも
思います
例えば、一生本を読んでないとか

それでも、人間は
その言葉があらわすように
人に「間」があると昔の人は考え
ました

「間」は関係性でしょうね
若いときから、自立せよと
叩き込まれたように思いますが
最近、思うのは自立なんてありえない
と思うんですよ

どんな人でも
人と人との相互関係によって
成り立っているのだと。

なので、一生涯、作品や創作品に
触れない方々でも
人との関係性は必ずあるわけで
そこで、人生の目や考え方や
感性を奪い、自分の人生に
痕跡を残しているかと思うんですね