朱禪-brog

自己観照や心象風景、読書の感想
を書いてます。たまに映画も。

祭祀(チェサ)について

2020-02-19 06:38:44 | 雑記
祭祀(チェサ)

法事のことである。

子供の頃は一世達が存命だったので
ご先祖の命日や盆、旧盆、正月、旧正月と行われた。

正月は別にして、大概は平日の夜に行われる。
その日の仕事終えてめいめい集合する。

サン(テーブル、ご先祖が還るところ)に様々な供物が並べられるのだが、いま思うといったいどれくらい金がかかっていたのだろう…

りんご、梨、バナナ、みかん、柿、ぶどう、桃、夏はスイカもあった。
スイカは洗濯機に氷と水を入れビールと
冷やしていた。

鶏の丸焼き、鯛の塩焼き、牛肉と豚肉の串焼き(チョカル)、蒸し豚、豆腐を胡麻油で焼き串焼き、椎茸のチヂミ、鱈チヂミ、ネギチヂミ、モヤシ、コサリ(ワラビ)、ほうれん草、人参、大根、ワカメのナムル、朝鮮餅5種、ごはん、ワカメスープなどなど…

ざっと思い出すだけでこれくらいである。
因みに、唐辛子とニンニクは祭祀の供物には使用しない。

無論、一世達の仕切りなのでこれら一切の準備は集まった女性が行う。

その供物を故人とご先祖とふたつに分けてサンをつくる。

サンが出来ると、一族の長が祭祀を取り仕切る。
供物の一つ一つに拝礼ごとに箸を置きかえる。
これにも順番があり長老は作法をマスターしている。

そして、当事者の家族の長男から順番に拝礼を行う。
この際、女性陣は拝礼には入らない。
参集した男が全て拝礼したのちに女性となる、男は一人一人拝礼するが女性陣はまとめて拝礼となる。

まったくの男尊女卑文化である(苦笑)

故人、先祖への拝礼が済むと
供物をお下がりとしての酒宴が始まる。

男たちのほとんどが、底辺の労働者であった。
皆、日焼けしゴツゴツした手でビールを
あおり、豪快にバリバリ食べる。
女性陣は台所で女性だけで頂く。
私の妹も同様だ

ビール、日本酒はふんだんに用意されていたがウイスキーがあった記憶はない。

ここからが私の憂鬱の始まりである。
皆、鯨の如く酒を飲む。
さながら「鯨海酔民」であった。
故郷を偲ぶノレ(歌)が始まるとエンジン全開だ。
飲むほどに酔うほどに、声がむちゃくちゃ大きくなる。
日本では、三人集まれば文殊の知恵というが、コリアンは三人集まれば喧嘩が始まると言われる 笑

普段は、その訛り故バカにされる日本語を使わざるを得ない環境にあるのでこの時ばかりは済州島弁、釜山弁、ソウル弁が飛び交う。
ハングルの波状攻撃だ、笑

釜山とソウルの言葉は、標準語と関西弁みたいなものなので、そこそこ通じるのだが済州島弁は沖縄の方言の如くまったく通じぬ。

「貴様!年長者に向かってなんたる言い草か!!」

「へっ 酒飲んだら誰でも一緒じゃ
年上ぐらいでエラソーに抜かすな」

「何をっ!」

「○○ちゃんとこ行きたいんやろ?
はよ行ったらどないや」(浮気をバラされた)

「貴様っーー!」

となり、神聖な祭祀は阿鼻叫喚の
修羅場と化す。
女性陣がここぞとばかりに止めに飛んでくる。

子供の私は、「またや またや また始まった」と思い、一番年長だったので年下のいとこや親戚を呼び外へ連れ出す。

そして仕上げのサンが始まる頃に戻る。
サンは2回するのだ。
2回目は略式になるが、それでも炊きたてご飯とスープなどを用意する。

先ほど、喧嘩した2人も頭を垂れて拝礼を行う。

私達子供は、トック(米で作った平餅)スープで空腹を満たす。

思い出すと、私の母、伯母、いとこ以外は全員故人となった。

あれほど憂鬱だった祭祀だが皆、やり場のない感情や矛盾や希望と絶望を抱えていたのだろう。と今では思う。

祭祀の時くらいしか自己表現出来なかったかもしれない。

だから、あれほどつかみ合いの喧嘩をしても、また同じ顔ぶれで次の祭祀にも来たのだろうと思う。(また喧嘩するが)

あれは男も女も含め一世達の文化だった。

そして、いま四世の子を持つ親であるが
祭祀をすることは無く、昔を懐古をし
遠いご先祖との命のバトンを受継ぐのみだ。

全ての一世達へ
貴方たちは集まったらすぐ喧嘩はするわ、茶卓はひっくり返すわ
大酒飲んで警察沙汰なるわ
むちゃくちゃやったけど
マグマのような馬力で生きてたねー


花園ラグビー場について

2020-02-17 06:11:25 | ラグビー
昨年のワールドカップで日本代表は世界のベスト8という結果を残し、今シーズンのラグビー人気向上の下地となっている。

ラグビーは、ゲームセットではなく
ノーサイド。試合が終われば勝者も敗者もない
お互いの健闘を讃え、定期戦などでは
試合後アフターファンクションでの交流もある。

しかしである。
やはり勝たないといけない。
負けたら悔しいからだ
周りに対してではなく自分に対して。

先に綴ったが、私の通った高校は2期生の時に花園の土を踏んだ。
そして一つ上の6期生、二つ下の9期生と3回花園の舞台に立っている。

6期生時代は主力メンバーに私たちの世代(7期生)がメンバー入りしていたこともあり、春季大会から負けたのは私学の強豪校2校だけであった。

秋の本予選でも、クジ運さえよければ
全国大会出場は堅いと思われていた。

大阪はいまでも全国大会への枠は3枠あり、高校ラグビーにおける西高東低の一翼を担ってる激戦区である。

クジ運は?
春に負けた私学の強豪校枠であった。
順当に行けば、準決勝であたる枠であった。

負けるつもりで練習しないので、照明も満足にないグランドで毎日練習を積み重ねた。

15人制のラグビーであるが、フォワード(FW)8人、バックス(BK)7人の構成だ。

FWは前3人が第1列、中2人が第2列→
「前5人」とも言われる。
後3人が第3列で構成されている。
私はFW第2列であった。

準決勝前のチーム状態だが、今から思うと「前5人」以外は私学に負けていなかったと思う。

勝負は「前5人」とハッパをかけられたものだ。

そして、11月の準決勝。
憧れの花園ラグビー場である。

現在の芝生と違い、当時は冬枯れのする芝生で、枯れた芝生の舞台に挑んだ。

バックスタンドには平日で授業があるのに、同級生達が大挙して応援に来てくれていたのが驚いた。
先生方の粋な計らいだったのだろう。

笛がなりキックオフ。
最初のスクラム
相手は高校日本代表候補を有する重量FWだ。

対して、私達は平均体重70キロ台。
重さで言うと、20キロ近いハンデがある。

組む。いけると感じた。
重さは感じず、押されることもない。
が、こちらが押し込むまではいかず
五分の組み合いである。

そして、ボールをグランド外に蹴り出すとボールがタッチラインを越えたところから、タッチラインと直角に両チームが向かい合い、そこへボールを投げ入れて競り合う「ラインアウト」。

スクラムと並ぶFWのセットピースである。

私的には、ここで負けた。
当時178cmで、公立高の選手としては並より少し高い位であったが、バレーボールをやってた事もありボールの最高到達点でキャッチするのが得意であった。

事実、ここまでの予選での私のラインアウト獲得率は100に近かった。

彼らは研究していた、というか
老獪であった。

私にボールを集めることはわかっているので、徹底的にマークされた。
踏み切る瞬間にレフリーの目に触れないように私の肩を下に押す。
ジャージの袖を引っ張る。
わざと当たりにきて、バランスを崩す。

捕れない…
これでは、ラインアウトからのBK攻撃が仕掛けられない。

1番悔やむのは、ボールを入れるスローワーにその事を伝えられなかった事だ。

私にマークが集中してるのを逆手にとり
他のジャンパーに合わせたら獲得率は上がったのだ。

特に押されてという実感もなく、じわじわと得点を重ねられる。

主将がこの時まで練ったズラすディフェンスをやめて、シャローディフェンス(前に出る防御スタイル)に切り替える。
流れは変わったが、後半の終了間際である。
相手陣でペナルティを得る。

主将のとった選択は「ハイパント」。
ボールをトライ可能なインゴール地点に高く蹴り込む選択である。

この時点で20点差以上あり勝負の趨勢は決まっていた。

内心私は「嘘やろ」と思った。
私の仕事はハイパントを追い、獲得することだが実はこれが苦手であった。

毎日の練習の締めで、このハイパントが行われるのだが毎回うまくキャッチ出来ずに、メンバーに申し訳ない気持ちでいっぱいであった。

ボールが蹴られた。
私はボールだけを見つめながら、懸命に楕円を追う。
気がつくとレフリーの笛が鳴っていた。

トライだった。
まぐれである。たまたま腕の中にはまっただけである。
いまでもそう思う。

ノーサイド。圧倒されたとは思わなかった。
が、負けは負けである。
彼らは笑っていた。
そして全国大会に出場し、ベスト4には入ったのではないか。

この試合でラグビーはやめるつもりだったが、彼らの笑顔と私達の涙からくる悔しさで、進学してラグビーを続けると決意した。

そして、京都、衣笠の門を叩くことになる。







外祖母について

2020-02-08 06:57:08 | 雑記
以前綴った祖母は父方の祖母である。

母方の祖母を思い出したので、少し綴ってみよう。

数え年100歳で無に還った祖母は、済州島1番の美人と言われていたそうだ。

実際の写真を見たが、なるほどべっぴんさんである。目元は一重まぶただが瞳は大きく涼やかでキリッとしている。顔は面長、おでこに丸みがあり顔に立体感がある。

大正5年生まれで身長は160cm。
当時の栄養状態からすると、かなり大きい人だ。(ちなみに私の母は168である)

前にご紹介したが、虐殺からの日本移住であった。
これも私が韓国旅行から帰り、祖母に問いただすと渋々答えてくれた。

婦女子は強姦されてから、殺されるので
祖母の父が土地を売って日本に渡る費用を工面したと聞いた。

私は祖母にとって初孫である。
男子8人を産むも、ことごとく0歳児で病死し、9人目と10人目が私の母と伯母であった祖母にとって、待望の男子は文字通り溺愛の対象となった。

子供の頃は、赤い服ばかり選んでの着せ替え人形状態であった笑

私が物心ついたころ、祖母は「スタンド」を自営していた。スナックとサロンの中間。ざっくり言うと女の子のいる飲み屋である。

女の人が横についてお酌をするので
営業に関しては警察の管轄になる。

祖母は文盲で、話し言葉はできるが日本語の読み書きは100%出来ない。

それを単身所轄の警察署に行き、営業許可に関する書類を警察官に書かすのだから警察官もたまらんかったであろう。

祖母からすると、なんら不思議ではなく
読み書きはできないが、こうして体ごとやってきた。だからそちらで書いてくれの一点で通す。これは役所でも同じことだった。

私が中学生2年か3年位からは、私が代筆するようになった。

警察官が3ヶ月に1回位10名ほどで、店に来るのだが、飲めや騒げやとすこぶる下品な酒の飲み方をしていたなと今となってはよくわかる。

もちろん接待も兼ねてるので、飲み代はただである。しかし、この事は近所にいたヤクザを牽制する意味もあったのだろうと今となっては思う。
祖母の世渡りだったようだ。

お盆によく連れて行かれたのが、淀川であった。
済州島は周囲を海に囲まれているので、
祖母曰く、「海の神さん」にお参りする風習がある。

祖母にとっては神事であり、この時は厳粛な雰囲気が全身からみなぎる。

むしろを引き、お供えの果物、もやし、ぜんまいのナムル、牛肉と豚肉の串焼き、焼いた鯛、酒を盛り祈る。
線香を焚き、ロウソクを立てる。
祈りながら紙で作ったコヨリを燃やす。

祈りの終盤になると、供え物を少しずつちぎって川に撒く。
酒はグラスに小指を入れて、小指についた酒を親指で弾いて 撒く。
私は後ろで見守り、祖母の祈りが終わると韓国式の三拝を行う。

これに伴って、今はもうないが桜ノ宮の川沿いに廃品回収をする在日がいて、そこにも行った記憶がある。

ここでは「海の神さん」もしたが、
「クッ」と呼ばれる儀式を祖母が依頼して付き添ったことがある。

日本でいうとイタコに相当するだろうか。

韓国ではムーダンという。
自分や身内に不幸が重なると、先祖に降りてきてもらうのだ。
ムーダンは女性で銅鑼の音から儀式が始まり祈りだす。
祈りが高まるに連れて銅鑼と鐘の音が激しくなり、立ち上がり徐々に踊り出す。
祖母は必死に手を合わせて祈ってる。

踊りとともにムーダンは祈りを言葉に出しながら激しく跳ねるように踊る。

完全なトランス状態である。
全身汗みずくでひたすら踊り続ける。
子供の私は怖くてたまらぬ。
(今でも思い出すと怖い)

やがて長い踊りが終焉に近づくとムーダンの表情が一変し、男の顔に変わる。
踊りを終えたら、ムーダンがハングルで祖母に話しかける。声音も男に変わっていた。

祖母はボロボロ泣きながら、降りてきた先祖の言葉を受ける

私はひたすら怖くて早く逃げ出したかったが、膝が抜けて立てない。

話しが終わるとムーダンの表情が元に戻り、祖母の顔は憑き物が落ちたようになっていた。

ある頃から、行かなくなったが私が中学卒業あたりまでは、なにかあると行っていた。

食べ物に関しては、お米を食べていた記憶があまりない。

魚、肉(豚肉)、豚足、うどんそのもの(うどん屋の生のやつ)、あと魚も肉もサンチュで巻いて、野菜をよく食べた。

酒は一切やらず、タバコはやめてからこれも遠ざけ、毎朝4時に起きて家の外をほうきで掃き掃除してから、行きつけの喫茶店にモーニングを食べに行く。
96歳まで近くの公園をウォーキングしに行く。

晩年は車椅子になったが、自力歩行している時は背中は一切曲がってなかった。

立ってる姿が美しい人であった。

あの立ち姿は、身内ながら見事だった。

言葉が通じず、卸売市場の生ゴミからその日の糧を得て、のし上がり、ヤクザに対しても毅然とした態度をとり、いわれなのない偏見をものともせず、読み書きできずとも、数え100まで生きた。

最後の骨上げの際に、焼き場の職員と坊さんが、こんな見事な骨と歯は見たことないと言った。

ばぁちゃんは、自分の人生を生ききって
向こうへ還った。

俺がそっち行ったら、また会おな
ばぁちゃん。
その時は、ほっぺたにぶちゅ〜てチューしてもええで笑






ラグビーを始めたきっかけについて

2020-02-06 04:42:07 | 雑記
中学生の頃はバレーボール部に所属しそれなりに好きだったので、高校進学後もバレーボール部に入部したが、女性監督に嫌われて、嫌われてまで続ける熱意がなかったのでドロップアウトした。

私が通った公立高校は、公立でありながらも、ラグビー、柔道、レスリング、剣道などは全国大会に出場する力を持っている学校であった。

当時のラグビー部はヤンキーが多く、中学生からの経験者が数多くいて、私にとっては近寄りがたい雰囲気があり、私もヤンキーだったが、何か馴染めないと思いどちらかと言えば敵愾心を持っていた。

かといって、ありあまる体力を持て余すので放課後は1人グランドを走り、トレーニングをしていた。

1年の終わりに、友達が調達してきたバイクを無免許で運転していた所、警察に捕まって、そのバイクが盗難車である事がわかり、私は犯人扱いされてしまったことがある。

幸い留置場行きとはならなかったが、警察から学校の風紀指導者に連絡が入り
私は母親に付き添われて、風紀指導の先生に面談に向かった。

停学は必至と思っていたのも事実である。

その先生はサッカー部の顧問で、沖縄空手の有段者でスキーのインストラクターもこなすスポーツ万能の方であった。

処分より先に、鉄拳を喰らうことを覚悟していたがその先生はなんのお咎めもせず、この事はご自分の胸の内にしまってくださった。

但し、1つ条件があると。
「ラグビーをしなさい」
言われた瞬間「はっ?」と思った。

当時私は、喧嘩三昧で1週間毎日殴り合いしていたこともあり、その中にはラグビー部の面子も含まれていた。

通学中には他校の生徒と喧嘩する。
学校にはバレてないだけであった。
しかし、素行問題児としてあとから聞いた話では、2年に進級する際に誰も引き受けしたくない生徒だったようである。

「私が顧問の先生を説得する」と言い、
私も従わざるを得なかった。

結果的にこのことが私の人生を変えたことになる。

牧歌的な時代も残っていたのだろうが、
この先生のお陰で、ラグビーと出会い、
喧嘩をやめ、本当の身体や心の痛みを知ることになった。

ラグビー部の顧問の先生は、まだお元気だが、この先生の行方は同期からも伝わってこない。

お礼がしたいのだが…