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世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

弧状列島,共助,日本の洋食文化に欠かせない デミグラスソースの開発

2020-09-05 15:14:03 | 連絡
HJハインツ社のグローバル経営の基礎をつくったオライリーは、1996年から2000年にかけて相次いで社長職、CEO職、そして会長職を退任し、ビル・ジョンソンに引き継ぎました。 ハインツが日本に上陸したのは1961年ですから、その間にハインツ社では3代目社長のジャックから6代目のビル・ジョンソンまで4人の社長を経験したことになります。
1961年、ハインツは日魯漁業(現在の株式会社ニチロ)との合弁会社、日魯ハインツ株式会社をスタートさせました。初代社長は雨宮栄蔵、2代目はカナダ人のモーリス、3代目はアメリカ人のマーガス、4代目はオーストラリア人のバールと外国人社長の経営が続きましたが、設立後10年間は経営を軌道に乗せることができませんでした。
1970年に5代目社長の浅井和夫が就任。この年にハインツ日本はデミグラスソースの商品化に成功します。これが現在の当社の基盤を作ることになりました。この本格的なデミグラスソースの開発の指揮をとったのが、ヨーロッパでシェフの修行をした後、1964年にハインツ日本に入社した稲田英男です。
ハインツ日本の業績を心配した米国本社は、シェフで米国司厨士協会会長の経験を持つポール・レスケを送り込み、日本ではどんな商品なら売れるのか、その調査をさせました。このとき彼を助けたのが、全日本司厨士協会の会長でレスケと交友関係にあった斎藤文次郎氏でした。
2人は斎藤氏の案内で日本のレストラン、料理店を食べ歩きます。その結果、「日本で成功するには、日本人の舌に合う独自の商品の開発が必要だ」という結論に至ったレスケは、斎藤氏に日本人シェフの仲介を依頼します。当時、丸の内ホテルの総料理長だった斎藤氏は自分の部下で全日本司厨士協会の第1回欧州派遣団から帰国したばかりの稲田を推薦したのでした。
ハインツ日本に入社した稲田は、さっそく商品化の候補を検討しました。そして、最初に注目したのがデミグラスソースでした。
デミグラスソースを厨房でつくるには、まず牛の骨やスジ肉、香味野菜などでダシ(フォン)をとり、別の鍋で小麦粉と油脂を焦がさないように微妙な温度調整をしながら長時間、炒めてブラウンルゥを作ります。このフォンとブラウンルゥをあわせてソースエスパニョールをつくり、それを煮詰めます。半分の量になるまで丁寧に煮詰めることで光沢が出て鏡のようになることから、フランス語の“半分=デミ”と“鏡=グラス”を合わせてデミグラスソースという名前がつけられたのです。
このように膨大な手間と時間とコストがかかることから、稲田自身もプロの料理人として「デミグラスソースが最初からあったら、いつでも料理にとりかかれるのに・・・」という思いを抱いていました。そこで、米国のハインツ本社でも着手していなかったデミグラスソースの商品化に着手したのです。
気さくで温和な人柄であった稲田ですが、仕事では緻密で妥協を許しませんでした。そしてシェフだからこそ限りなく厨房に近い作り方にこだわりつつ、それを工場の生産工程に置き換えるという困難な作業に挑戦したのです。
特にハインツのデミグラスソースの大きな特長であるブラウンルゥの製造は困難を極めましたが、和菓子の餡(あん)を煉るのに使われていたレオニーダーという機械の導入により問題を解決。ついに1970年に、業務用デミグラスソースの発売にこぎつけました。そして 1972年には、家庭用のデミグラスソースとホワイトソースを発売したのです。以来、ハインツのクッキングソースは日本の洋食文化に欠かせないものとなりました。
ハインツ日本の現在のデミグラスソースとホワイトソース、そして、そこから派生したさまざまな洋風ソースには、今も稲田英男が最初にデミグラスソースを開発したときのプロの料理人としての味づくりのこだわりが受け継がれてます。

 

東大陸,世界化 創業者 ヘンリー・ジョン・ハインツ

2020-09-05 15:04:24 | 連絡
H.J.Heinz社の創業者であるヘンリー・ジョン・ハインツは、1844年10月11日、アメリカのペンシルバニア州ピッツバーグで、煉瓦工場を経営する父親と、家庭菜園を営む母親の長男として生まれました。決して子供を甘やかすことのなかった母親の影響を受け、ヘンリーは幼い頃から母親の菜園で収穫した野菜を売り歩き、生涯にわたって従事した食品事業の基礎を身に付けていくのでした。 
生まれながらに商才が長けていたヘンリーは、12歳になる頃には家庭菜園を拡大し、収益の一部を馬や馬車に投資することにより、家族により多くの収入をもたらしました。その後、15歳になったヘンリーは、売れ残った野菜を無駄にしないよう、瓶に詰めて保管することを考えます。 
ヘンリーが暮らす西部ペンシルバニア地方は、上質のホースラディッシュ(西洋わさび)の栽培に適した環境。各家庭で余剰となったホースラディッシュは、常備食用として緑色の瓶に詰められ販売されていましたが、ヘンリーはこの「緑色の瓶」に疑問をもちます。濃い色の瓶では製品の純粋さを伝えることができない、と考えたのです。実際に、当時の瓶詰め西洋わさびは、材料として他の野菜が代用されたり、着色料・防腐剤が添加されることがありました。
ピュアな製品作りにこだわったヘンリーは、製品にごまかしが無いことを証明するため、中身が良く見える透明な瓶に西洋わさびを詰めて販売しました。当時でも自然なもの・純粋なものへの共感は大きく、ヘンリーの西洋わさびは消費者に大好評を持って受け入れられました。


 


東大陸,世界化,Music Machine GO! GO!☆ ザ 人物伝 ヘンリー・ジョン・ハインツ

2020-09-05 14:56:00 | 連絡
パーソナリティ:小林克也
「小林克也流」音楽のエッセンスがつまったブログラム。ラジオだからこそ楽しめる音楽の世界を、土曜日の朝たっぷりお届けします。

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介護予防 死因7位誤嚥性肺炎予防 喉トレ 死因10位血管性認知症予防 脳トレ 田原俊彦の「悲しみ2ヤング」

2020-09-05 12:23:51 | 連絡
田原俊彦の「悲しみ2ヤング」