goo blog サービス終了のお知らせ 

世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

グローバル化の足跡,1977/CS打上げ->1989/カテーテル

2018-10-20 14:51:06 | 連絡
2010/4、5/D、昭和の宇宙に咲くCS「さくら」の開発から学んだこと
―東京オリンピックからCS開発計画の誕生まで―
昭和52年(1977年)12月15日にMDAC(現在ボーイング)製ソー・デルタ2914ロケット によって、NASA(39代ジミー・カーター大統領1977.1->1981.1)ケープケネディ宇宙センターからCSの打ち上げが成功し、9日後のクリス マスイブ12月24日の早朝に赤道上空東経135度(東経135度(GMT+9:00)の時刻が 日本の標準時)の位置に実験用中容量静止衛星開発(CS)さくら(福田赳夫内閣1977.11->1978.12)が誕生しました。静止軌道位置・周波数と通信放送サービスエリアとが密接に関係することから、衛星軌道と周波数の国益確保のために、アジアやオセアニア太平洋地域における各国主官庁 や通信放送事業者との協調と連携及びCCIR(現ITU-R)標準規格の開発寄与等、電波行政と通信放送事業に関する国際化。
http://satcom.jp/67/eiseiyowaj.pdf
(+)2013/08/09, "I Love You, California" - Prince's Orchestra (1914) California State Song,
"I Love You, California" was published in 1913, and at the height of its popularity was adopted as the official song for the Panama-Pacific International Exposition held in San Francisco in 1915, as well as for the California-Panama Exposition held simultaneously in San Diego. https://www.youtube.com/watch?v=sjJiN_e4DZQ
(+)2013/05/25, State Song of Florida, Old Folks At Home (Suwannee River) / Stephen Foster / David Ball.
https://www.youtube.com/watch?v=uweoegT29Cs
(+)2012/11/29、さくら(独唱) 森山直太朗‬‏
桜(さくら)の花は日本人共通の季語であり、別れと出会いの代名詞、
今年も桜が見れた。 この命に感謝!
https://www.youtube.com/watch?v=NM6q5bOqKd4
2011/7/26,1985年(昭和60年)3月17日、イラン・イラク戦争のさなか、サダム・フセイン元イラク大統領は、「48時間後、イラン上空を飛ぶすべての航空機を撃墜する」と突如宣言しました。 当時、日本の航空会社にはイランへの路線がなく、安全も保証されないため、政府(第二次中曽根康弘内閣1983.12->1986.7)は救援機を出すことをためらっていました。他の国の航空会社は、自国民を優先するため、在留邦人は取り残されていったのです。しかし、タイムリミット直前に、ついに、トルコ(45、46代トゥルグド・オザル首相1983->1989)航空救援機が215名の日本人を乗せ、危機一髪のところでイランを脱出した。http://junperial-shop.jp/?mode=f3
2018/7/24、林 友直(東京大学 名誉教授)(1927―>91歳)「宇宙への夢、果てしなく」、1910年のハレーすい星観測手段は望遠鏡でしたが、76年(1910年+76=1986年)後に、ソビエト連邦(ソ連共産党書記長ゴルバチョフ1985.3->1990.3)が2機、アメリカ(40代大統領レーガン1981.1->1989.1)がICSE探査機、ヨーロッパが1機、日本(中曽根内閣1982.11->1987.11)が「さきがけ」「すいせい」2機の探査機、合計6機の探査機がハレーすい星の周りを群がって探査しました。1986年(昭和61年)はまだ冷戦時代でしたが、国際的な観測発表会が、ハレーすい星を描いた壁画が残るイタリア(ベッティーノ・クラクシ42、43代首相1983.8->1987.4)パトバ教会で行われました。https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/07/blog-post_24.html
1987/M/D,さだまさし 風に立つライオン,アフリカ・ケニアで国際医療活動に従事した実在の日本人医師・柴田紘一郎をモデルに作られた曲。1987(昭和62)年は日本(中曽根内閣1982.11->1987.11、竹下内閣1987.11->1989.6)がバブル景気のただ中。https://www.toho.co.jp/movie/lineup/kaze_lion.html
https://www.youtube.com/watch?v=feLgF-SFgg0
https://www.youtube.com/watch?v=FTPPTlZdlIE
2018/2/1、東海メディカルプロダクツ、「このおカネ、心臓疾患を抱えた娘(23歳没)のために使えなかったけど、同じような子供を助けるためにも心臓病を研究している施設に寄付したらどう?」と言われました。1989年(平成元年)に国産(竹下内閣1987.11->1989.6、宇野内閣1989.6->1989.8、海部内閣1989.8->1991.11)初のIABP(大動脈内バルーンポンピング)バルーンカテーテルを完成させることができました。カネの亡者」から医療の道へ、国産初のカテーテル開発に成功、小児用のバルーンカテーテルを開発しても、国内では年に20~30例しかないものもあります。その数では経営的には採算をとることが非常に難しい。モンゴルでも、小児用PED ( Pediatric Patients with Heart Disease)バルーンカテーテルを使って、一人の子供さんの命を助けました。、海外に輸出したい。そうすれば、市場は拡がります。http://toyokeizai.net/articles/-/95739
(+)2000/M/D,日本小児循環器学会雑誌 16巻 4 号 650~653頁(2000年),小児用下大静脈閉塞バルーンカテーテルの作製と使用経験, http://jspccs.jp/wp-content/uploads/j1604_650.pdf

グローバル化の足跡, 1951/サンフランシスコ講和条約->1961/ベトナム戦争

2018-10-20 14:47:35 | 連絡
1951/9/8,1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって、日本国との平和条約、サンフランシスコ講和条約、Treaty of Peace with Japan、が署名され、同日、日本国(吉田茂内閣1948.10->1954.12)とアメリカ合衆国(33代ハリー・S・トルーマン大統領1945.4->1953.1)との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。
国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。連合国構成国であるソビエト連邦(共産党書記長スターリン1922->1954)は会議に出席したが条約に署名しなかった。連合国構成国の植民地継承国であるインドネシア(スカルノ大統領1945.8->1967.3)は会議に出席し条約に署名したが、議会の批准はされなかった。連合国構成国である中華民国(1~4代蒋介石総統1948.5->1975.4)および連合国構成国の植民地継承国であるインド(1代ネル―首相1947.8->1964.5)は会議に出席しなかった。その後、日本はインドネシア(1958年1月平和条約、第一次岸内閣1957.2->1958.6)、中華民国(日華条約、1952年4月28日調印、1代蒋介石総統、吉田茂内閣1948.10->1954.12)、インド(日印講和条約1952年6月調印、1代ネル―首相1947.8->1964.5、第三次吉田内閣1949.2->1952.10)との間で個別に講和条約を締結・批准している。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84
2010/8/10,渡辺はま子は、1952年(昭和27年)にフィリピンの日本人戦犯が提供した曲(作詞、元フィリピン憲兵隊少尉代田銀太郎。作曲、元大日本帝国陸軍将校伊藤正康)「ああモンテンルパの夜は更けて」をレコーディングし、モンテンルパ収容所での慰問コンサートを実現させました。渡辺はま子の尽力が、フィリピンのキリノ大統領に日本人戦犯の全員釈放を決断させたことは社会的に大きな話題となりました。http://yokohama-now.jp/home/?p=1341
2011/01/10, ああモンテンルパの夜は更けて
https://www.youtube.com/watch?v=dgDpWBdDcJQ
2018/2/12,1953年(昭和28年)キリノ大統領は、日本(第四次吉田内閣1952.10->1953.5、第五次吉田内閣1953.5->1954.12)からの助命嘆願の中、国内のモンテンルパにBC戦犯として収監されていた、元日本軍兵士105名に恩赦を与えました。
http://negros-francisco-xavier.blogspot.com/2018/02/blog-post_12.html
2013/7/D, 東郷賢、ベトナム戦争と東アジアの経済成長、「日本のベトナム特需(1961:アメリカ「軍事顧問団」派遣~1975:サイゴン陥落)は65年(昭和)の4百万ドルから69年(昭和44年)には5.1億ドルに増加したと報告している。」
http://www.musashi.jp/~togo/articles/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7%20working%20paper.pdf#search=%27%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%8C%E6%B8%88%27
Y/M/D, 1964年には東京オリンピックが開催された。日本の成長は64年開業の東海道新幹線に代表される技術革新に支えられていたが、アメリカ(35代ジョン・F・ケネデェイ1961->1963、36代リンドン・ジョンソン1963->1969、37代リチャードニクソン1969->1974、38代ジェラルド・F・フォード1974->1977)がベトナム戦争期(1961~1975)にあたり、日本(第二次池田勇人内閣1960-1961、第三次池田勇人内閣1963->1964、第一次佐藤栄作内閣1964->1965、第二次佐藤栄作内閣1967.2―>1967.12、第三次佐藤栄作内閣1970->1971、第一次田中角栄内閣1972.7->1972.12、第二次田中角栄内閣1972.12->1973.11、三木武夫内閣1974->1976)の輸出が増大したことが大きな要因であった。この1964年には、日本は、「先進国クラブ」といわれる経済協力開発機構(OECD1961年改組設立、)に加盟し、貿易の自由化に踏み切ることとなった。日本の経済成長がアメリカ合衆国経済の相対的低下をもたらし、1971年(昭和46年)のドル=ショックの一つの要因となった。代わってヨーロッパの統合(欧州為替同盟1972、欧州通貨制度1979)が進み、日本が高度成長を遂げた結果、1970年代には世界経済は三極構造といわれるようになった。https://www.y-history.net/appendix/wh1602-098.html

グローバル化の足跡,1938/防諜研究所->1941/プロスペクト理論

2018-10-20 11:50:54 | 連絡
Y/M/D,情報戦の最前線に立ち続けた軍人:秋草俊(1894-1949 、モスクワ郊外ウラジミール監獄で死去。享年54歳。墓地は、ウラジミール監獄に隣接する市民墓地で、加藤泊治郎中将と共に葬られている。)は、周囲の関係者にこう語ったという。「陸軍中野学校(岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として<1938年(昭和13年)3月>に「防諜研究所」として新設)(田中義一内閣1927->1929、第一次近衛文麿内閣1937->1939)が10年早く、1928年(昭和3年)にできていれば、戦争は起きなかったであろう」:の数奇な生涯, http://tskeightkun.blog.fc2.com/blog-entry-1258.html
2014/1/25、「<1945年(昭和20年)>満州ハルピンに侵入したソ連軍は第一番に秋草少将を捕まえ、ハバロフスクの収容所に送った。ソ連(共産党書記長スターリン1922->1954)通の秋草少将が米国(ハリー・S・トルーマン1945.4->1953.1)に連れ去られるのを恐れた、とも言う。」ボーイ・スカウトの創設者であるロバート・ベーデン=パウエル卿は、「諜報活動こそ、男子の一生を傾けるにたる愉快なスポーツである」と言っている。」。「スカウト」とは、「偵察」とか「斥候」を意味。
http://blog.jog-net.jp/201401/article_6.html
(+)2008/04/25ハバロフスク小唄、林伊佐緒,先日、ハバロフスクへ一人で行ってきました。 慰霊碑と日本人墓地を巡拝。https://www.youtube.com/watch?v=6jd2aWuoG_Y
Y/M/D, 陸軍秋丸機関による経済研究の結論,秋丸中佐は1939年(昭和14年)9月に陸軍省経理局課員兼軍務局課員着任後に岩畔大佐から、ノモンハン事件(1939年)での敗戦を機に英(英国60代首相ネヴィル・チェンバレン1937->1940、61代首相ウインストン・チャーチル1940->1945、英国国王ジョージ6世1936-1952)米(米国32代大統領フランクリン・ルーズベルト1933->1945)との戦争の可能性を考慮して経済戦の調査研究を進めたいとして、「経済謀略機関」の設立を命じられた。 http://jshet.net/docs/conference/79th/makino.pdf#search=%27%E7%89%A7%E9%87%8E+%E7%A7%8B%E4%B8%B8%E6%A9%9F%E9%96%A2%27
2018/8/15,2つの選択肢のうちどちらが望ましいか。(A)昭和16年(1941年)8月以降はアメリカ(米国32代大統領フランクリン・ルーズベルト1933->1945)の資金凍結・石油禁輸措置により日本(近衛文麿内閣1940.7->1941.10、東条英機内閣1941.10->1944.7)の国力は弱っており、開戦しない場合、2~3年後には、確実に「ジリ貧」になり、戦わずして屈服する。(B)国力の強大なアメリカを敵に回して戦うことは非常に高い確率で日本の致命的な敗北を招く(ドカ貧)。しかし非常に低い確率ではあるが、ドイツ(ナチスドイツ、アドルフヒットラー1933->1945.4)がソ連(共産党書記長スターリン1922->1954)に短期で勝利し、英米間の海上輸送を寸断し、日本が東南アジアを占領して資源を獲得して国力を強化してイギリス(61代英国首相ウインストン・チャーチル1940->1945、国王ジョージ6世)が屈服すれば、アメリカの戦争準備は間に合わず、講和に応じるかもしれない。「プロスペクト理論に基づけば、現状維持よりも開戦した方がまだわずかながら可能性があるということになるのです」 牧野氏は「『開戦すれば高い確率で日本は敗北する』という指摘自体が、逆に『だからこそ低い確率に賭けてリスクを取っても開戦しなければならない』という意思決定の材料になってしまった」と指摘する。http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13643?page=3

グローバル化の足跡,1922/シベリア出兵撤兵->1938/ユダヤ難民特別列車

2018-10-20 11:49:33 | 連絡
Y/M/D,第一次世界大戦(1914~1918)が終了するも、平和は長く続きませんでした。さらに悲惨な第二次世界大戦(1939~1945)が勃発します。暗号解読の重要さがさらに増し、暗号を解読できるかどうかが闘いの勝敗を決するといっても過言ではありませんでした。http://www.mitsubishielectric.co.jp/security/learn/info/misty/stage4.html
2018/8/14,1922年初夏、シベリア出兵(1918~1922)における日本軍の撤兵について、日本(寺内正毅内閣1916.10->1918.9、原敬内閣1918.10->1921.10、高橋是清内閣1921.11->1922.6、加藤友三郎内閣1922.6->1923.8、山本権兵衛内閣1923.9->1924.1)とソ連(人民委員会議長レーニン1917->1924、共産党書記長スターリン1922->1954)代表の協議が大連で開かれたが、交渉は決裂した。ソ連代表(外務人民委員チチェーリン、ヤコフ・ヤンソン極東共和国外務大臣、同志ペトロフ、同志アントーノフ、陸海軍人民委員兼共和国革命軍事会議議長ト ロツキー、コミンテルン執行委員長のジノヴィエフ、極東共和国代表団にソヴェト・ロシア代表のヨッフェ、)が引き上げた後のホテルの部屋から紙くずが回収され、そこからソ連の暗号電文が発見された。電文のコピーを送り、ポーランド(ポーランド共和国第二共和政8代アルトゥル・シリヴィンスキ首相1922.6->、9代ユリアン・ノヴァク首相1922.7->、10代ヴワディスワフ・シコルスキ首相1922.12->、2代ユゼフ・ピウスツキ大統領1919.2->、3代ガブリエル・ナルトヴィチ大統領1922.12->、4代スタニスワフ・ヴォイチェホフスキ大統領1922.12->)参謀本部に研究を依頼したところ、資料到着後約1週間で全電文を解読したと報告された。 これを受け陸軍参謀本部が調査すると、ポーランドは1918年に独立を回復したばかりだったが、ポーランド・ソ連戦争(1919年~1921年)でソ連(人民委員会議長レーニン1917->1924、共産党書記長スターリン1922->1954)の暗号を解読し、戦況を有利に進め休戦に導くなど、高度な暗号技術を有することが分かった。実際、第二次大戦中にドイツ(ナチスドイツ、アドルフヒットラー1933->1945.4)が使っていた有名なエニグマ暗号も、ポーランドが解読の端緒を付けており、ドイツのポーランド侵攻後もポーランド人技術者がイギリスで解読を続けるなど、暗号技術で進んでいた。https://news.yahoo.co.jp/byline/dragoner/20180814-00093026/
http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/jssrh/pdf/2008/hara1005.pdf
T/B/D,藤本和貴夫:「東北アジアにおける日ソ関係」, 「1920 年代を中心に」、1925 年 1 月 20 日、北京で芳沢・カラハン(初期ソヴェトのアジア外交ではカラハン外務副人民委員、ロシア共産党内きって=初期の党上層部でおそらく唯一=の東アジア通)。両代表によって「日ソ基本条約」が調印、ソ連はポーツマス条約の効力を認め、漁業協定の改定、北部サハリンにおける油田・ 炭田の利権供与を認め、日本は 5 月 15 日までに北部サハリンから撤兵することを約束した。こうして日本はソ連を承認し、日ソの国交が樹立された 。http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/vol_13/sentences/1.fujimoto.pdf
2017/9/26,樋口季一郎中将(1888~1970年、82歳没)は、1938年3月10日、彼は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。(ユダヤ人難民事件(オトポール事件))。 第二次大戦後、ソ連(共産党書記長スターリン1922->1954)極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。しかし、マッカーサー総司令部は樋口(東久邇宮内閣1945.8->10、幣原喜十郎内閣1945.10->1946.5、第一次吉田茂内閣1946.5->1947.5)の引き渡しを拒否した。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省(大統領:ハリー・S・トルーマン1945.4->1953.1、ドワイト・D・アイゼンハワー1953.1->1961.1)を動かした。https://www.sankei.com/column/news/170926/clm1709260007-n4.html
(+)Y/M/D, 日本人外交官、杉原千畝(1900~1986、86歳没)、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、<1940年(昭和15年)7月から8月>にかけて、外務省(米内光政内閣1940.1->1940.7、第二次近衛文麿内閣1940.7->1941.7)からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救った。その避難民の多くが、ユダヤ人系であった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
http://kankou.yaotsu.jp/2016/02/01/sugihara,

グローバル化の足跡,1900/無線電信調査委員会->1914/栄養研究所

2018-10-20 11:48:27 | 連絡
Y/M/D, 海軍(第二次山縣有朋内閣1898->1900、第四次伊藤博文内閣1900->1901)の海軍大学校は,新橋の逓信省および電気試験所に隣接していましたが(現在の築地市場の位置),別々に研究していてはマルコーニに追いつけないと判断し,逓信省との共同研究を提案し, 1900年(明治33年)に無線電信調査委員会(委員長外波内蔵吉中佐)を設置し,電気試験所の松代松之助と第2高等学校の木村駿吉を海軍技師として招聘しました.帝政ロシア(ロシア皇帝ニコライ2世1894->1917)の南下政策と呼ぶ植民地拡大の動きに警戒する欧州,とくに英国(49代英国ロバート・ガスコイン=セシル首相1895->1902、英国女王ビクトリア1837->1901、国王エドワード2世1901->1910)は1902年1月に日本(第1次桂太郎内閣1901->1906)との間に同盟を結びました.日英同盟です.さらに同年同月,英国のビクトリア女王が死去し,エドワード7世が王位に就きました.これに伴い翌年6月に行われる戴冠式に日本も招待され,参列者を乗せる遣英艦隊が編成され,巡洋艦の「浅間」と「高砂」がこの任に就きました.この遣英艦隊がマルタの英国地中海艦隊司令部を表敬訪問した際,英国の国家機密に属する「新型無線電信機」(最新のマルコーニ無線電信機)の見学が許されました.さらには日英同盟が功を奏し,この新型無線電信機を使わせてくれました.そのうえ通信品質を最も支配していたコヒーラ検波器を英国到着まで特別に借り受けることができました.巡洋艦 高砂では山本英輔中尉を中心に,この英国製コヒーラを使って航海中に実験を繰り返し,その成果を帰国するまでに70ページに及ぶ報告書としてまとめました.
,RFワールド、http://www.rf-world.jp/bn/RFW41/samples/p135-136.pdf
Y/M/D,日本(第二次松下正義内閣1896-1898、第1次桂太郎内閣1901->1906)は、マルコーニ社に無線通信機の購入を交渉しましたが、法外の価格を示されたため、やむなく独自に開発することを決意し、電気試験所の松代松之助電信主任や東北大学の前身校である旧制第二高等学校の木村駿吉教授の努力もあり、1897年(明治30年)には品川沖で無線実験に成功しました。1902年に横須賀の田浦(船越)海軍工廠に通信技術者を集めて無線機開発に取り組ませた。この結果、1903年(明治36年)に通信距離が1,000kmに達する三六式無線機が誕生。ただちに全艦船に搭載するべく、無線機工場を設置し、昼夜兼行で製造しました。日(第1次桂太郎内閣1901->1906)露(ニコライ二世1894->1917、1代ロシア帝国大臣会議議長セルゲイ・ヴィッテ1905->1906)戦争における1905年(明治38年)5月27日に始まるの日本海海戦では、仮装巡洋艦信濃丸がバルチック艦隊を発見し、三六式無線機にて「敵艦見ユ・・・」を打電しました。この通信は戦艦厳島を経由して旗艦三笠が受電し、海戦の先手を打つことに成功し、圧倒的勝利を得る原動力。http://www.yrp.co.jp/facilities/exhibition/zone-2.html
(+)2015/08/28,【日本海海戦110周年】井上和彦の「三笠」艦内レポート[桜H27/8/27] https://www.youtube.com/watch?v=AGpQbFQZusY
2017/3/D,佐伯矩(1876-1959,急性肺炎、83歳没)は、アメリカ合衆国政府の農商務省技師など、アメリカで研究職に就く。佐伯は1914年(大正3年)に私立の「栄養研究所」(東京芝区白金三光町)(第一次山本権兵衛内閣1913-1914、第二次大隈内閣1914->1916)を設立。栄養を対象とする世界初の研究機関。佐伯は栄養研究所の資金を捻出するために、ア ミノ酸醤油の試作や、栄養飲料「ビータ」(朝鮮人参エキスなどを原料)を製造。佐伯は、これまでの歴史の中で食糧が戦争の原因のひとつとなったこと、そしてその原因を 栄養学の進歩と実践でなくすことができること、さらに人が目先の欲や無知などから破壊しが ちな内部環境である自分自身と、自らもその一部である外部環境との間に、よき平衡状態を保 つために、自然科学の発達が望まれることを強調。並松信久,栄養学の形成と佐伯矩,ACTA HUMANISTICA ET SCIENTIFICA UNIVERSITATIS SANGIO KYOTIENSIS, SOCIAL SCIENCE SERIES No. 34, MARCH 2017, file:///C:/Users/sakura/AppData/Local/Temp/AHSUSK_SSS_34_25.pdf
2011/07/01, 00002 00001, https://www.youtube.com/watch?v=bmvj6pbtSHg&feature=youtu.be