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黒い瞳の藤子…

2014-01-14 | 諸行無常…let it be
連休を終え、2014年が本格的に始まった。

早いもので、もう1月も中旬になる。

毎年、あっと言う間に、来月の今頃になり、 ギリチョコや、ギリのギリチョコ、ギリ孫、玄孫チョコをほうばり、2月を照れ笑いしているころだろう。

花粉症を乗り越えると、神田川沿いは、桜が満開となり、GWも終わりに近づくと、もう半袖が当たり前になり、やがて、夏が終わると、僕は、また一つ年をとる(ーー;)


今年も、日々慌ただしく過ぎていく時間を見送りながら、ふと足を停めてみたくなること。

それが、唄になるのだ。


時々、藤子は公園近くの、住宅を仕切る、ブロック塀にあがり、そこから、早稲田通りを行き交う、人や車を眺めていることがある。

ただ眺めているだけで、特定の何かを見ているわけではないようだ。

遠くを見ている。
そんな目をしていた。

もしかしたら、藤子は、こんな人口的な都会の喧騒の中で、生まれたのではなく、緑豊かな、静かな湖畔の森の木陰にある民宿で生まれ、民宿のオヤジの事情で新宿のペットショップに辿り着くことになったのかもしれない。

遥か遠くの山々や、海の彼方を懐かしがっているのだろうか。

でも、確かに思うことは、藤子は、何かを待ちながら、確かに、誰かを待っているようだ。

藤子と同じ目線に並び、通りを眺めてみた。
早稲田通りは、人と車と、あらゆる雑音が一直線に、ただ行き交うことをする、ただ、その繰り返しだった。

はたして、猫の視界から、見えるこの世界とは、どう映るものだろう。

もしくは、猫にも客観性はあるのだろうか。

そもそも、我輩が猫である自覚など、猫にあるものだろうか。

僕は、猫には今さらなれないし、偉い動物学者でもない。
ましてや、漱石でもない。

だから、到底理解不可能なのだが、藤子をじっと観察していると、藤子に関しては、自分が猫であることに、どうやら、気づいているような気がする。

なぜなら、僕が近づくと、毛嫌いするわけでもないかわりに、毎回、"あんた、なに⁉︎…"みたいな目線を僕に向けるからだ。

つまり、人による、と同じで、猫による、ようだ。