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ノアロマン・・5(大洪水)その2

2006-04-10 | 大事なお知らせU+203CU+FE0E
●化石は大洪水によってできた

 次に、大洪水と地層、および地層内の化石との関係について見てみよう。進化論者はこれまで、全世界をおおっている地層は非常に長い年月をかけてゆっくり堆積してきたものだ、と主張してきた。そしてその中に見いだされる様々な化石は、各地層が堆積したとき、その時代に生きていたものが化石となったのであると。しかし今日では、この考えが誤りであることが示されている。地層は長い年月をかけてゆっくり堆積したのではなく、ノアの大洪水の際に一挙に形成されたのである。また地層内の化石も、その多くは、ノアの大洪水の際に形成された地層内に閉じこめられた生物の遺骸が化石化したものである。
 まず最初に、地層が長い年月をかけてゆっくり堆積していったような場合は、化石は決して形成されない、という事実に注目する必要がある。化石は、大洪水のような「激変」的過程がないと決してできない。科学者が述べているように、「動植物が、崩壊しないようにすばやく葬られ、そしてその後・・・・・温存されなければ」化石はできない。もし、ゆっくり土砂が堆積していったのだとすると、生物は化石になる前に腐敗し、分解されてしまい、骨格をとどめることができない。すなわち「風化」してしまうのである。
 たとえば、犬が地面の上で死んだとき、それがゆっくり土の中に埋もれて、そのまま化石になることは絶対にない。それは化石になる前に腐ってしまうからである。また魚が死んだとき、それが静かに海底に沈んで、化石になることも絶対にない。それは化石になる前に腐敗し、分解してしまうのである。
 だから、化石が形成されたということは、生物が何らかの激変的過程によって厚い堆積層の中に「すばやく葬られ」、空気とバクテリヤから遮断され、高圧力下に置かれたことを示している。この激変的過程として、ノアの大洪水は最も適切な説明を与える。大洪水は、様々の動植物を急激に「葬り去り」、その後それらを厚い土砂の堆積層内の安定した高圧力下に置いたからである。



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●地層の形成は急速な土砂の堆積によった

 米国ミネソタ大学の水力学の教授であり、ICR総主事(現・名誉総裁)であるへンリー・M・モリス博士は、その研究の中で、世界の地層は長い年月をかけて形成されたのではなく、急激な土砂の堆積によって短い時間内に形成された、と結論している。

「明確に区分された各層は、急速に堆積した。なぜなら常に一定の、一群の水流が働いた状態をあらわしており、このような水流状態が長く続くことはありえないからである。どの累層をとっても、各単層は急速に堆積したに違いない。そうでなければ不整合の証拠、すなわち、隆起とか浸食の期間が、異なる層との界面に認められる筈である」
つまり地層は一時代のうちに急速に形成された、と考えるべきである、と述べているのである。
 読者は理科の実験で、ビーカーの中に水と泥を入れ、それをかき混ぜてしばらく放置すると、やがてその水の底に土砂の水平な層ができ上がるのを、見たことがあるに違いない。それと全く同じように、現在の地表をおおっている地層の水平な堆積は、大洪水によって洗われた土砂が急激に堆積してでき上がったものなのである。
 また地層が急速に堆積したことは、たとえば世界中で掘り出されている植物の葉の化石を見てもよくわかる。何でもいいのだが、たとえばシダ植物の葉の化石を見てみる。地層内に化石として見いだされるシダの葉は、現在地上に生きているシダの葉と全く同じ形をしている。葉の形までくっきり化石に残っている。
 ここで実験をしてみる。生きているシダ植物の根を切り、数日間、放置してみる。すると、それはもはやしおれてしまって、美しい葉の形をとどめない。ところが、地層内に化石として見いだされるシダの葉は美しい葉の形をとどめている。これは地層が急速に堆積したからである。葉がしおれる間もなく、生きたまま急速に地層内に閉じこめられたからである。




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●なぜ「下には単純・下等な生物、上には複雑・高等な生物」か



移動性に優れた動物は高い所
へ移動した
 さて、世界の地層を調べてみると、一般に地層の深い所には単純な生物の化石が発見され、上に行くに従って高度な形態を持つ生物の化石が発見される。「下には単純・下等な生物、上には複雑・高等な生物」という原理は、ある程度まで、一般的に世界の地層に見られることである(後に見るように例外はある)。
 進化論者は、このことは進化の各段階を示しているのであり、この化石の配列は生物が次第に進化発展してきたことの証拠であると主張した。しかし、これは進化の各段階を示しているのではない。地層内における化石のでき方は、むしろノアの時代の大洪水に関連しているのである。
 創造論者は次のように説明する。まず、水には「ふるい分け作用」がある。細かいものは下に沈澱し、大きなものはその上に堆積する。大洪水の際、生物の死骸は水流によって混ざり合い、その後沈澱し、堆積していった。そのとき一般に、細かい小さな生物は下に沈澱し、大きな生物は上に堆積していった。土壌細菌等の微生物を最下層に、その上に藻類や貝類などの海底生物や、その他の海生無脊椎動物などの化石が形成されていった。魚類や両生類などは泳ぐことができたので、その上に堆積していった。一方、鳥類や哺乳類などは海の生物より高い所に住んでいるし、洪水前の雨の期間に次第に水かさが増していった時、さらに高い所へ移動していくことができた。だから、それらは海に住む生物より上の層で発見される。また人間は、高度な移動性と、水から逃れるための知恵を持ち合わせていたので、一般に最も上の層で発見される。
 実際、今日あちこちで発見されている化石の大規模な墓において、私たちは大洪水の爪痕を見ることができる。ある所には、何百万もの化石が互いに積み重なり、ときには死のもがきのままを示すかたちで、存在している。それらは魚であり、哺乳類であり、ときには混ざり合ったものである。シチリアの大量のカバの骨、ロッキー山脈の哺乳類の大きな墓、ブラックヒルズ山地やロッキー山脈やゴビ砂漠の恐竜の墓、スコットランドの驚くべき魚の墓、等々。
 これらの生物が、こうした山の上などの高所に集中して集められたのは、なぜだろうか。「創造か進化か」の著者トーマス・F・ハインズは、こう述べている。

「水が徐々に増してくる。動物たちは、高い所へ高い所へと移動する。やがて山の頂上へ群がることとなろう。そして押し流され、多数の堆積物とともに沈澱される」
このように、移動性に優れた動物たちは、水から逃れるために高所に移動していったので、高所で発見される。したがって通常、下の層に単純な生物が見いだされ、複雑・高等な生物は上の層で見いだされるという事実は、進化を示しているのではなく、ノアの大洪水の際の「水のふるい分け作用」と「移動性の高い動物は、高所へ移動していった」という事実に基づいているということがわかる。


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●化石はなぜ急に現われるのか

 地層および化石が、ノアの時代の大洪水によって形成されたという考えは、進化論では説明できなかった数多くの諸事実をも、適切に説明する。たとえば進化論者は、時代を様々の「地質時代」に分け、それぞれをいろいろな名前で呼んでいるが、それらの一区分として「カンブリア紀」というのがあり、それ以前の時代は「先カンブリア時代」と呼ばれている。そして進化論者は、「カンブリア紀」の地層には様々の化石が見いだされるのに、そのすぐ下の「先カンブリア時代」の地層(最も下の地層)になると全く化石が見いだされなくなる、という事実に困惑している。スタンフィールズ著『進化の科学』には、次のように記されている。

「カンブリア紀に、今日知られている動物の主要なグループのほとんどすべての代表が、突然出現している。まるで巨大なカーテンが引き上げられて、そこには実に変化に富む生命の群がった世界が、姿を現わしたかのようであった。・・・・・・この問題は(進化論にとって)今もなお問題である」
先カンブリア時代の地層には化石が見いだされないのに、カンブリア紀の地層になると急に多種多様の化石が見いだされるという事実は、進化論の立場から見ると理解しにくいことであり、「この問題は今もなお問題」なのである。
 けれども、大洪水によって化石を含む地層が形成されたとする創造論の立場からすると、このことも容易に理解される。つまり、大洪水以前の地層(進化論者が「先カンブリア時代」の地層と呼んでいるもの)の上に、大洪水による地層が堆積していったので、そこには急に多くの化石が見られるのである。
 また先カンブリア時代の地層と、カンブリア紀の地層の境界面が「不整合」になっているという事実も、非常に重要である。地層が同じような状態で連続堆積しているとき、それらの地層は「整合」であるといい、そうでない場合を「不整合」という。じつは、先カンブリア時代の地層とその上にある堆積層とは、全世界にわたって「不整合」なのである。
先カンブリア時代よりも上の地層は、みな水平に横たわっているのに、その下の先カンブリア時代の地層だけは、全世界にわたって山あり谷ありの状態になっている。井尻正二、湊正雄共著『地球の歴史には、こう記されている。

「世界各地のカンブリア紀層をみると、カンブリア紀層は、はげしく変質したり、あるいは褶曲したりしている原生代層(つまり先カンブリア時代の層)の上に、ほとんど水平に横たわっていることが観察される。・・・・・カンブリア紀層と、それ以前の地層との関係は、世界中どこへいっても、両者は不整合であって、いまだかつて整合関係のところは知られていない。この事実は、いったい何を意味するのであろうか」
 そう述べて、この「不整合」の事実に対する率直な疑問が提出されている。進化論の立場からは、この事実は決して説明できないからである。しかしこの事実は、ノアの大洪水を認める創造論の立場からすれば、全く当然のこととして理解できる。
 「不整合」というのは、その下の層と上の層とは連続的にできたものではなく、時間的なギャップがあったことを示しているのである。進化論者が「先カンブリア時代」と呼んでいる地層は、じつはノアの大洪水以前の地層である。つまり、地球誕生時からすでにあった地層である。その上に、ノアの時代になって、大洪水による地層が新たに堆積した。
 進化論者は、これを誤って「カンブリア紀」とか、それ以降のものと呼んでいる。しかし、それは大洪水によってできた地層である。これらの上の地層は水の作用によるものなので、水平に堆積した。はじめに、大洪水以前の褶曲する地層が存在し、その後その上に、地をおおった全世界的大洪水によって水平な堆積層が形成された。従って、不整合の界面の上の地層には急に様々の化石が見いだされるのに、その下の地層には化石がないという事実も、これによってよく理解できる。
 ノアの大洪水によって上の水平な堆積層が形成されたのだとすれば、カンブリア紀の「化石の急な出現」も、その下の「地層の全世界的不整合」の事実も、全く当然のこととして理解できるわけである。


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●ノアの箱舟はどのような舟だったか

 つぎに、ノアが建造した箱舟はどのような舟だったかを見てみよう。聖書によると、箱舟は長さが300キュビト(1キュビトを44センチメートルとすると、約132メートル)、幅が50キュビト(22メートル)、高さが30キュビト(13メートル)であった。(創世記6.29) これは今日の大型客船に匹敵する巨大な舟だったことがわかる。
 また箱舟は、航行の必要はなく、ただ浮けばよかったので、今日の船舶のような流線型ではなく、ほぼ箱形だったであろう。長さ・幅・高さの割合は30・5・3で、形としては比較的細長い舟であった。船体は、短いと安定が悪く、逆に長すぎれば、大波に乗ったとき真ん中から折れる危険がある。これは幅についても同様である。さらに、高さが高すぎても安定が悪く、低すぎても具合が悪いであろう。
 実は、NTTの元会長であった真藤氏は、NTTに入る前には造船会社の社長をしていた。氏は大型船の理想的な形を研究するよう、研究チームに命じた。その結果わかったことは、タンカー級の大型船にとって最も高い安定性と強度を持つ形は、長さ・幅・高さの比率が30・5・3である、ということだった。以来、造船界では、この比率は「真藤比」とか「黄金比」と呼ばれ、タンカー級の大型船の主流となっている。そしてこの比率は、ノアの箱舟の比率と全く同じなのである。ノアは、このように理想的な舟を、ろくな造船技術もない時代に作ってしまった。まさに、そこには神の導きがあったとしか考えられないではないか。
 箱舟は、上部には天窓、側面には戸口が設けられた。内部は三階構造に作られ、幾つもの部屋に区切られた。それらの区切り用に使われた材木は、箱舟を丈夫にするためにも役立っていたことであろう。材木としては「ゴフェルの木」が用いられ、防水用に、舟の内と外は瀝青(ピッチ、アスファルト)で塗られていた。箱舟は、大洪水に備えるために、きわめてよく設計されていたのである。.........


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●箱舟は発見されたか


ナヴァラが持ち帰ったという木材の一部
 聖書によると、箱舟はアララテ山(現在のトルコ、アルメニア地方にある)に漂着した。 この山のふもとには、ナクスアナ、またはナキチュパンという町があり、ノアの墓だと言われている。この町名は、「ここにノアが来て住んだ」という意味である。
 ある出版物が報じたところによると、ロシア革命(1917年)の起きる直前に、ロシアの飛行家が、近づき難いアララテ山上の氷河に、巨大な舟の残骸を見たと発表したとのことである。当時のロシア皇帝は彼らの報告を受けて、探検隊を組織し、隊員は舟を発見して、大きさをはかり、作図し、撮影した。しかしその頃、ロシア政権は無神論革命者に打倒されており、それらの報告はついに日の目を見ることはなかった。
 また1954年に、フランスの登山家フェルナン・ナヴァラは、アララテ山の標高約5000メートル付近の万年氷の下から、箱舟の材木の一部を切り取って持ち帰ったと主張した。彼はこの木材について、『わたしはノアの箱舟を発見した』と題する本に発表し、話題をふりまいた。木材の年代は、マドリード山林学調査研究所、およびボルドー大学自然科学部等の調査によって、約5000年前ないし3000年前と推定された(ノアの大洪水は約4500年前)。その後も、箱舟らしいものを撮影したという報告が、幾つか届けられた。しかし、箱舟はアララテ山に起きた地震のために、現在は地中に埋もれてしまっているのではないか、と主張する人もいる。いずれにしても、多くの人々を納得させられるだけの決定的な証拠は、まだつかめていない。
 アララテ山への登山や調査には、政治的な問題もからみ、また標高5165メートルもあるこの山の山頂付近が常に氷に閉ざされていることが、それを困難にしている。早期に本格的な調査が行なわれることが期待されるところである。
 


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