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ノア・ロマン・・・3

2006-04-10 | 大事なお知らせU+203CU+FE0E
■箱舟の写真を撮った男

 アララテ山の北東側斜面のこのアホーラ峡谷で、ノアの箱舟の発見報告が、その後も相継ぎました。 一九五二年の夏、ある石油会社のヘリコプターが、資源探査の目的で、アララテ山周辺を旋回飛行していました。
 やがて北東側斜面にさしかかったとき、同乗していた石油技師ジョージ・グリーンが突然、氷の下から船の巨大なへさき状のものが出ているのを発見したのです。彼はパイロットに命じ、ヘリを物体から三〇メートルほどの近さにまで降下させました。そして、カメラのシャッターを切りました。帰ってからさっそく現像してみると、高い断崖と絶壁にはさまれた峡谷に、雪か氷河の下から一端をのぞかせた船形の物体が、「船体の層状をなす板の継ぎ目まで」はっきりとわかるほど、明瞭に写っていたといいます。
 グリーンはアメリカに帰ると、友人、知人にその写真を見せてまわりました。そして箱舟探検隊を組織しようと、資金を集め始めました。しかし、その志を果たせぬまま、英領ギアナの鉱山会社に仕事で出張中、彼は一九六二年に何者かに殺されてしまいました。そして例の箱舟写真も、以後、行方不明になってしまったのです。けれども、グリーンの友人が写真をもとにスケッチを描いていたので、そのスケッチだけは残っています。それを見てみると、確かに、箱舟と思われる巨大な物体が描かれています。


■持ち帰られた箱舟の材木の一部

 つぎの?箱舟発見報告は、フランスの実業家フェルナン・ナヴァラによるものです。ナヴァラは、氷河の氷の下に埋もれた箱舟から、木材の一部を持ち帰ったと主張しました。彼はまたその分析を、数カ国の大学や研究所に依頼しました。ナヴァラが初めてアララテ山に登ったのは、一九五二年でした。これは、前述のグリーンが箱舟写真を撮ったという年と同じ年です。
 ナヴァラは、トルコ政府から登山許可を得て、登山家仲間五人と共に、たいへんな苦労をしたすえ、アララテ山の登山に成功しました。アララテ山は、トルコ語で?苦痛の山?(アーグリ・ダーフ)と呼ばれるほど、寒冷地の高山特有の自然の暴威に満ちています。また、反政府ゲリラの活動もあり、じつに様々な危険を覚悟しなければなりません。しかしその困難を突破し、アホーラ峡谷付近を標高五〇〇〇メートルまで登ったとき、ナヴァラ一行は奇妙なものを発見しました。氷河の氷の下に、何かがすけて見えました。それは船体の輪郭によく似た、細長い黒ずんだ巨大な影だったのです。斜めから射す太陽光が光の反射を減らして、氷の透明度を高めているためか、ほかにも太い梁(横げた)らしいものが、何本も見えたといいます。
 ナヴァラたちは、氷河の表面に降りて、物体の影の長さを一二〇~一三〇メートルと歩測しました。この長さは、聖書の記述による箱舟の長さと、おおむね一致します。彼は自著『ノアの箱舟発見記』の中で、こう記しています。
 「こんな高所のこんな氷原の下に、いったい何があるというのか? 建物、教会、山小屋や人家がここにあったなどとは、どんな文書にも書いていない。伝承にもないし、ここでそんなものを見たという人もいない・・・・。まぎれもなくこれは"箱舟"の残骸であって、ほかの何物でもあり得ないと、私は認めざるを得なかった」。
 けれども、彼らはこのときたえず落石の危険におびやかされていたので、それ以上の調査は断念せざるを得ませんでした。
 翌年、ナヴァラは再度、トルコの友人と共に現場を訪れました。しかし、このときは高山病におかされ、ほとんど何も写っていない写真を撮っただけで、またまた下山を余儀なくされました。
 しかし、ナヴァラの執念はついに三度目に実りました。とうとう箱舟に遭遇できたのです。一九五四年、彼は妻子を連れてトルコに入国しました。真の目的は、もちろんアララテ山に登って箱舟の決定的証拠を入手することでした。
 しかし、名目の上では家族そろっての観光旅行をよそおっていました。それは、経験からいって外国人の登山許可取得ははなはだ面倒で、そのうえサンプル採取が目的と言えば、拒否されると思ったからです。
 また、この年はちょうど地球測地年にあたり、世界の氷河が数十年周期で最高の溶解点に達する年でした。ナヴァラ一家は、アララテ山の西側の裾野を車で行けるところまで行ってから、キャンプを張りました。そして、ナヴァラと一一歳の息子のラファエルの二人だけで、登山を始めました。
 二人は、四日四晩を山中で過ごし、吹雪や雪崩などの危険をなんとかくぐり抜けて、ようやく目指す氷河に到達しました。運よく、それは晴天の穏やかな日でした。
 氷河は、以前よりも割れ目やクレバスが多く見られました。穴の底では水の流れもあり、溶解がかなり進んでいました。そんなクレバスのひとつの底に、船体の一部の黒ずんだ梁が露出しているのを発見しました。
 彼は、ラファエルに手伝わせて、たらしたロープを伝って降り、突き出たその材木を動かそうとしました。しかし、それは船体内部のどこかにまだつながっているためか、ビクともしませんでした。やむなく、彼は木目沿いに一メートルほどの部分を、苦心さんたんのすえ切り取るだけであきらめました。
 キャンプまでそれを持って帰り、三分割して家族の荷物にもぐりこませました。厳密には違法行為だったので、当局に見つかって没収されることを心配したのです。
 下山すると、すぐトルコ軍の検問にあいました。しかし警備兵は、その材木をキャンプ用のたきぎと思い、見とがめもせずに通してくれました。
 こうして箱舟の木材の一部は、首尾よく国外に持ち出されたのです。木材は、エジプトのカイロ博物館考古学部、エジプト農務省、フランスのボルドー大学、スペインのマドリード大学、アメリカのカリフォルニア大学、それにペンシルヴァニア大学の六カ所で、放射性炭素一四法などによる年代測定にかけられました。
 その結果は、どうだったでしょうか。カイロ博物館によれば紀元前三〇〇〇年~紀元前四〇〇〇年、エジプト農務省は紀元前五〇〇〇年、ボルドー大学とマドリード大学は紀元前二〇〇〇年~紀元前三〇〇〇年程度と出しました。
 ノアの大洪水が起きた年代は、聖書の文字通りの解釈によれば、紀元前二五〇〇年頃です。したがってこれらの年代測定結果は、多少の誤差を考慮すれば、大体ノアの大洪水の年代と一致しているように思えます。
 しかし、その一方で、カリフォルニア大学は木材の年代を今から一二五〇年前、ペンシルヴァニア大学は一四〇〇年前と出しました。紀元後のものとしたのです。こうした食い違いは、年代測定の技術的な難しさを示しています。また、ナヴァラが持ち帰った木材の材質を調べた結果は、昔の木造船に多用されたオーク(カシ属、シイノキ属の総称)であることがわかりました。
 聖書には、箱舟は「ゴフェルの木」(創世六・一四)で造られたと記されています。これは「イトスギ」と訳されたこともありますが、ゴフェルの木は現在のホワイトオークを指すと考える学者も多くいます。とすれば、これに関してもよく一致しています。


■本当に箱舟の一部か?

 こうして、これらの結果は、持ち帰った木材が事実ノアの箱舟の一部であるとのナヴァラの確信を、一層強めるものとなりました。しかし、木材破片を調べた学者の中には、次のように述べて箱舟説に否定的見解を示す者もいました。
 「発見地点の高度を考えると、漂着した船とは到底考えられない。紀元前のヒッタイト人、バビロニア人、またシュメール人がつくった神殿か何かが、氷河に押しつぶされたのでは?」
 けれども、このような高山の上でのノアの箱舟の発見は、決して不思議なことではありません。
 レムナント誌でこれまで述べてきたように、聖書によればノアの大洪水の際に、「山は上がり、谷は沈んだ」(詩篇一〇四・八)という世界的な地殻変動が起きました。それによって大洪水後の地表の起伏は激しくなり、山はさらに高くなり、アララテ山もさらに高くなったのです。
 大洪水以前においては、地表は現在よりもずっとなだらかでした。しかし、大洪水以前の地球上空に存在していた水蒸気層(創世一・七)が、ノアの日に大雨となって落下してきたとき、地表は大洪水によって洗われました。
 ノアの箱舟は、当時の最も高い山の一つであったアララテ山に漂着しました。その後、地殻変動によって「山は上がり、谷は沈み」、地表の起伏が激しくなりました。山はさらに高くなり、谷はさらに深くなりました。こうして、水は低くなった谷や低地に流れて海を形成し、海面上に残った部分が陸となったのです。
 とくに陸地上で突出した高い部分は、現在のような高山となりました。アララテ山も、標高五〇〇〇メートル以上の高山となったのです。これらのことを考えれば、標高五〇〇〇メートル以上の現在のアララテ山上で箱舟が発見されたとしても、決して不思議なことではありません。
 一方、アララテ山から半径一〇〇〇キロ以内にはホワイトオークが存在しないことを理由に、ナヴァラの持ち帰った木材に関して疑いをはさむ人々もいます。しかしノアの箱舟は、大洪水後の時代に造られたのではなく、大洪水の前――大洪水が間近になった時代に造られたのです。当時の生態系は、現在のものとは大きく異なっていました。その当時の生態系の中で、箱舟が建造されました。したがって、現在のアララテ山から半径一〇〇〇キロ以内にホワイトオークが存在しないからと言って、この木材に疑いをはさむ理由はありません。


■その後も箱舟の発見者

 その後、一九六〇年にも、アララテ山の北東斜面で箱舟の発見報告が相継ぎました。この年、米ソ(現ロシア)の冷戦激化にともなってトルコ駐在の米空軍機が、国境監視任務のために、連日アララテ山のソ連側すれすれを飛んでいたのです。
 そのひとり、第四二八戦術飛行中隊のグレガー・シュイングハマー大尉(目撃当時は少尉。現民間航空の機長)は、二人の同僚とともに飛行中、北東斜面のアホーラ峡谷の鞍部で箱舟を見た、と証言しました。
 それは、氷雪になかば埋もれて横たわっている、「巨大な有蓋貨車か、長方形の平底船みたいな黒味がかった物体」でした。
 後日、彼の口述にしたがって、知人の画家が現場と物体のスケッチを描きました。そしてそのスケッチは、前述したジョージ・ハゴピアンの証言に基づいて描かれたスケッチと、まさに瓜ふたつだったのです。
 スケッチが描かれた時点では、どちらの目撃体験もまだ研究家以外には発表されてはおらず、お互いに相手の存在を全く知りませんでした。それなのに彼らの目撃談は、箱舟の形だけでなく、発見地点や地形までも含め、すべてが一致していました。
 このように、箱舟の発見報告は、アララテ山の北東斜面の、アホーラ峡谷付近に集中しています。こうして見てみると、ノアの箱舟は北東斜面のその場所に実在しているのではないか、と思えてきます。しかし、じつは箱舟発見報告がもたらされている、もう一つの場所があります。


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