小説『雪花』全章

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小説『雪花』第一章-2節

2017-05-18 10:49:44 | Weblog
 

 
玄関のドアを叩く声が聞えた。凡花がそそくさと玄関に走り、ドアを開けた。凡雪は濡れた手で後に従(つ)いていった。現れたのは姚琴(ヨゥオチン)で、母の同僚だった。
 姚琴は長身で、豊かな上半身と、膨(ふっ)くらとした顔立ちで、元気そうな様子に見えた。
 肩には、薄い藍色(あいいろ)のスカーフをさりげなく掛けていて、頭には、銀色のピンで髪を耳の後ろに留めていた。冷静な表情で軽く会釈(えしゃく)した姚琴は、瞬(まばた)きもせず部屋に入った。
 ドアを勢いよく閉め、乾いた音が部屋に鳴った瞬間、不思議な想像が、凡雪の頭を駆け巡った。
 母がどこかで、ゆらゆらと歩く……突然、母の姿が、一抹(いちまつ)の暗い影になり、はっと消えた……。頭が割れそうなほど痛くなった凡雪は、両手で口元を押えて叫び出しそうになる衝動を、どうにか堪(た)えた。 
 オレンジ色の電灯の下で、三人は椅子に座った。凡雪は姚琴に向き、黙って話を待った。
「大丈夫? しばらく会っていなかったけれど」
 姚琴は静かな声で訊いて、凡雪の腕に軽く触れた。凡雪は「うん」と短く返事して、目を姚琴の手に移した。
 しっかりした指、皺(しわ)のよった皮膚に、ほんのり紅色が浮き出ている。
 凡雪は、じっと見つめているうちに、硬(こわ)ばる体に姚琴の温かさが流れてくるような気がした。反射的に膝を後ろへ退(すさ)らせて、「お茶を淹(い)れますね」と椅子から立ち上がった。
「いい、いいの。飲んできたから、座りなさい」
 姚琴は声を落として二人に伝えた。
「朝、喫驚(びっくり)したよ。李さん、あー、あんたたちのお母さん、手錠を掛けられて、公安警察の男二人に引き立てられた姿」
 途端に、凡雪は胸が憑(つ)かれた錯覚に陥った。冷ややかに笑いながら口を開けた烏梅の恐ろしい言葉が、突風(とっぷう)のように頭を掠めた。
 歯(は)軋(ぎ)りするほどの焦燥に襲(おそ)われた凡雪は、荒い呼吸をして、訊ねた。
「姚さん、母がいったい、なにをしたんですか?」
「えっ、なんも聞いてない? お父さんは、まだ帰ってないの?」
 姚琴の表情が一変した。瞬きを三度、繰り返し、真剣な眼差し「ああ、そうか。お父さんもね、昇進したばかりだから」
で凡雪に詰め寄った。
「いいえ、夕方、父さんは私よりも先に帰ってきたよ」
 凡花は夕方の出来事を姚琴に打ち明けた。
 姚琴は顔を顰(しか)めて先を続けた。
「同じ経理室の烏梅がいつ頃からか、帳簿を小細工して、毎月お金を横取りしていたの。これに気づいた李さんは、すぐ烏梅の行動を止めさせたの。だけど、同情してねぇ、帳簿の数字を埋めようと、ごまかしたのよ」
「汚いやりかた!」
 凡花は素っ頓狂( す  とんきょう)な声を出した後、お茶目な顔で二人に「すいません」と頭を軽く下げた。
 不安と焦燥(しょうそう)がごちゃ混ぜで、凡雪は身(み)動(じろ)ぎ一つもなく、黙って姚琴の続きを待っていた。
「結局、上からバレてしまった。烏梅ったらね、自分がやった不正を全部、李さんから手口を教わったと訴えたのよ」
「本当に、ひどいよ!」
 凡花が、ぴしゃりと叫んだ。顔の筋肉が張りすぎたせいか、凡花の顔が猛(たけ)々(だけ)しく見えた。
 いつも明るい妹が、どこか遠くへ去っていったように痛感した凡雪は、胸に深い哀しみが広がった。
「まさか、逮捕ってね」
 姚琴は一回ぎゅうっと唇を噛み、目を伏せたままで続けた。
「今は、ちょうど〝一掃″(政治運動)なんだから、その風に引っ掛かったあんたたちのお母さんは、本当に運が悪いわよ!」
 姚琴の話が途切れると、一瞬、部屋の中は水を打ったように静まり返った。
 チャッ、チャッ、チャッ……。壁の掛け時計の音が、秘(ひそ)かに流れていた。
 不吉を告げる予兆のように機械音が聞えて、凡雪は鼓膜が劈(つんざ)かれるような耳鳴りがした。
 やはり幻覚だ……凡雪は自分に言い聞かせた。
「姚さん、今日、来てくれて、ありがとう」
 凡雪の言葉が、静謐(せいひつ)さを破った。
「いいえ。いいこと。たとえお母さんに、罪があったとしても、あんたたちは、罪がないの。だから、ちゃんと元気を出すのよ」
 この晩、姚琴は菜飯を作ってくれた。三人で簡単に食事を済ませた。
『食べなきゃダメよ。これから先、どうなるのか分からないなんだから、元気じゃなきゃ』
 姚琴が言った言葉は、ずっと二人姉妹の心に残るだろう。
 すっかり疲れきった二人はベッドに入った。
 部屋の温度が下がって来た気がした凡雪は、犬になった烏梅を想像した。
 眦(まなじり)が裂(さ)けるほど狗(コウ)眼(イエン)を見張って、柳の下で腹ばいになっていた。突然、通りかかった誰かが、犬に噛み付かれた。地面が真っ赤な血で恐ろしく染められて、滲(にじ)んでいった……。
 どれほど時間が経って父が家に戻ったのか、凡雪は眠気に吸い込まれる前に、うっすらと気づいた。
 
 つづく