Cogito

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朝から

2024-05-21 10:29:31 | 日記
朝起きると、廊下にネズミの死体があった。やや大きい。20㎝ぐらいはある。
とったのは、どっちのネコかな?
トービー、持って行ってくれるかな。

トービーが木にとまっているのを確認して、火ばさみでネズミをつかみ、窓から投げた。トービーはすぐ様下りてきた。よかった。ネズミもこれで役に立った。
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ヤボ用

2024-05-21 08:38:19 | 日記
数日前、学習院桜友会から会報が届いていたが、机の上に置いたままだった。続いて、桜友会小田原支部の総会のハガキも届いた。後始末しなければいけないな。そこで学習院内の桜友会本部に電話して、受取人が亡くなったので、
会報は遠慮したいと申し出た。担当はすごく感じのいい女性で、速やかに事務処理をしてくれた。私が学習院を訪れた時の思い出話をして、二人で盛り上がった。papasanは中学、高校は立正へ通い、大学だけ学習院に行った。学習院には大学院がなかったので、その後また大学院は立正に戻った。

「なぜ学習院に入ったの」と聞くと、当時の蛍雪時代(雑誌)に哲学科を選ぶなら学習院、教授陣素晴らしいと紹介されていたからだそうだ。私も哲学と言ってもギリシャ哲学がメインだったが、その程度の私でもわかるくらい、そうそうたるメンバーの教授陣だった。阿部能成さんが院長だったからして、そうだったんだろう。ついでに小田原支部にも電話して亡くなったことを伝えた。

もう一つ、これはpapasanではないが、私の用事で、鈴鹿市役所に電話していたが、担当がいないので今日になった。数年前我が家にあった佐佐木信綱さんの全集やもう市販されていないような本を、段ボールに詰めて送った。そのお礼なのだろうが、毎年佐佐木信綱記念館から会報が届くようになった。薄い冊子だが中身のある楽しいものだった。

でももう歳だし、字を読むのも面倒、で冊子の送付をお断りした。その時も信綱さんについてたくさんお話しした。子どものころ信綱さんに届け物をするのは私の役目だった。いつも客間で先生といろんな話をした。私が言語学に興味があるのを知って、「万葉集が何語に訳されましたよ」なんて話してくれた。帰りにはいつも先生の本を頂いた。それがたまりにたまっていたので、鈴鹿に送ったのである。

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
「の」ばっか多い、信綱さんのこの和歌だけはよく覚えている。この背景も話に入れた。おおらかな、穏やかな、奈良盆地が目に浮かぶ。

頂いた佐佐木信綱記念館だより(これが最後になる)を読んだ。
信綱さんは明治5年生まれ。同年生まれには、樋口一葉、島崎藤村がいる。それ以上によき先達、よき友、よき後輩に恵まれていたようだ。名前を見るだけでも、歴史に残っている文学者たちの名前が並ぶ。 

熱海時代は74歳から92歳。私がお使いで通ったのはこの時代。お葬式にも父親が病気だったので代理で参加した。
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