月刊パントマイムファン編集部電子支局

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第9回(アジアマイムフェスティバル主催・小島屋万助さん(3))

2012-04-05 01:37:17 | スペシャルインタビュー
佐々木 出演者を集めるのには、全然困らなかったんですか?バブルが終わって90年代後半になると、景気も悪くなって大変だったかと思いますが。
小島屋 出演者そのものは、作品の稽古を除けば、付き合うのは長くても1週間じゃないですか。あと、今でもそうだけど、舞台ができる環境というのは、あんまりないじゃん。だから、企画を説明して頼めば割とみんな快く来てくれたね。あの頃は、営業というかイベントの仕事をやっている人も多くて、営業と舞台とをはっきり分けている人が多かったんだね。で、1週間程度は割ける時間もあったんじゃないかな。まず仲間から声をかけてもらって、出演をお願いしたりもした。あと、年代もあると思う。出演者は、みんな、20代、30代なわけだから、一番油が乗り切って、色々な事をやりたがる頃だったんじゃないかな。
佐々木 そうですよね。本当にうらやましいなあ。今は、不景気の影響もありますが、新しい表現や企画をやってみようというのが、ちょっと弱いですね。
小島屋 そうだね。今は、結構やり尽くしちゃってるということがあるかもね。うちらの年代って、やろうとしている事が絶対誰かが前にやっているようなことでも、“俺が初めてやるんだ”と思えるような錯覚が多かったんじゃないかな。
佐々木 開拓者みたいな気持ちがあったんですね。
小島屋 僕なんか研究所(東京マイム研究所)を出てすぐに好きなことをやろうと思って、まず最初の公演で地方巡業に行ったもん。で、そのあと、突然韓国に招待されて行ったんだ。韓国には、はじめは向こうに呼んでもらったけど、次からは自分で助成金を申請して貰って行ったこともあった。韓国で今こんなネタをやっているのは俺くらいしかいないと思うのって楽しいじゃん。それで、次はタイや香港で公演してとか、そういう楽しみがあったね。
佐々木 すごい。勇気、パワーがありますね。

佐々木 話を戻しますが、観客はどうやって増やしたのですか。
小島屋 チケットは基本的には手売りだった。東部町公演では実行委員会の方々が手分けしてポスター張りや事前の宣伝、チケット売りに尽力してくれたんだ。公演直前には僕らも地元の新聞社やテレビ局とか、マスコミ関係を全部直接回って宣伝してもらったね。イベントは、1週間くらいやるんだけど、まず学校などへの訪問公演から始まるのね。そこでパントマイムを紹介するプリントを配ったり、商店街や最寄りの駅前に宣伝用のブースを出して、宣伝パフォーマンスをしたりした。それでも、特に劇場での公演は700人ほどの客席があまり埋まらなくて苦労したんだ。これでは、東部町の実行委員会も演芸のようなわかりやすいものをやった方が良いという意見もあって、その辺の議論が結構あったね。

佐々木 そこは苦しいですよね。
小島屋 基本的には東部町の実行委員会がメインだったので、意見のすり合わせが難しかった。こちらはやりたい事をやってるので楽しいけど、東部町の実行委員たちは、事前の宣伝とか当日の駐車場係とか裏方の仕事をやってくれているわけじゃない。どうしたら彼らにも満足してもらえることができるのかということが一番大変だったかもしれない。結局それはできなかったかもしれない。ただ、舞台が良くてお客さんが喜んでくれれば、関係者はみんな感動してくれたんだけど。

佐々木 フェスを続けている中で特にアクシデントはなかったんですか。
小島屋 幾つか大きなアクシデントがあったよ。忘れられないのが97年に、公演準備に向かう途中、自動車が一台交通事故にあって、スタッフが怪我をしたこと。自動車は友達から借りていて、信越自動車道を東京から東部町に向かっていたとき、急に車がスリップしてガードレールにぶつかって大破したんだ。スタッフは骨折と軽い打撲とムチウチですんだ。もしかしたら、死んでいたかもしれないような状況だったけれど、幸運にも何とか無事だったんだね。でも、自動車は弁償しなくてはならなくて、その年は経済的にも大変だった。あと、2年目には韓国人出演者とスタッフ15人のビザが下りない事件があったね。
佐々木 それは、どういう事だったんですか。
小島屋 手続きのミスで韓国人チームのビザがおりなくて来日できなくなって。来日予定の前日に連絡があったので、とにかく外務省や法務省と交渉して、日本領事館が閉まる1時間くらい前にビザが出た。
佐々木 ひぇーっ。
小島屋 ビザが下りたっていう連絡があって、全員で良かったーって言って泣いたね。

佐々木 あと、実行委員の金井祐子さんからお聞きしましたが、インド人が来日しなかったという事件があったのでしょうか。
小島屋 ありました。インドのアショク・チャテルジーさんというマイミストを呼んだんだけど、なんと彼以外の15人くらいのスタッフがついて来そうになった事件だね。まあ想像するに日本に来たらそのままいなくなって働こうとしたんじゃないかな。まあわかりませんけど。困っていたら案の定、インドの日本領事館がビザを出さなかった。結局アショクさん一人で来日し事なきを得たんだ。やれやれだったね。

佐々木 フェスティバルを続けていくと、マンネリというかパワーが落ちたりしませんでしたか。
小島屋 同じことをやるとマンネリになるから、毎年新しいことをやったんだ。毎回負荷をいっぱいかけて同じことはしなかったね。それは総合演出の吉澤耕一さんの発想かな。いつも新しいことを考えていたんだ。
佐々木 これだけのイベントを毎年やったというのがすごいですね。2年に1度とか3年に1度ならともかく、毎年の負担は相当大きかったんでしょうね。
小島屋 でもね、2年に1度なら逆にできなかったかもよ。毎年やると決めちゃったから、指折りあと何年で終われるかなというのが、僕の気持ちだったね。1回やって1年空いてしまったら、もう止めちゃいたいと思ってたかもね。続ける勢いもあるよね。

佐々木 なるほど。99年になった時は、もう止めようという状況だったんですか。
小島屋 そうだね。99年の時は、東部町の実行委員会も疲れてたんですよ。向こうは、僕よりちょっと年齢も上の人たちが委員だったけど、みんなも疲れていて。フェスティバルは、大道芸もそうだけど、ほうっておいてどんどん盛り上がっていく質のものでもないので。最初に決めていたから、石にかじりついてもこの年まで頑張ろうよという気持ちがあったと思う。でも、止めるって宣言したら、東部町の方は、もうちょっとやりたいという意見がけっこうあったんだ。それは、とってもうれしかったね。
佐々木 最後はすごい盛り上がったのですか。
小島屋 うん、盛り上がった。予算が足りなくて本公演は1日限りの3部構成。全部で5時間余りの長丁場だったけどね。お客さんは最後までじっくり見てくれた。パントマイムの振興のためとかアジアのマイミストとの交流のためとか、一応そういう目標はあったけど、結局みんながお祭りのような場で盛り上がりたかったということなんだろうな。ただ、盛り上がるためには、こんなに苦労が必要なのかというのが実感だな。これは、僕の感想だけど。他に色々な考えがあったと思う。とにかく、僕とずっと戦ってくれた人たちが本当に偉かったんだな。
(つづく)


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