蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

ちょっと不愉快な

2006年02月23日 07時17分19秒 | 本屋古本屋
このところ古本屋ネタが続いているけれど、今回も古本屋の話。
川崎駅の東口は首都圏有数の繁華街で、とにかくいつ行っても人通りの絶えたことはない。しかも東京みたように気取っていない、つまり多少の猥雑さがともなった賑やかさなのだ。日常性と淫靡が綯い交ぜになったマージナルな空間と思えばよい。小心者のわたしなどは今でもここに来ると身構えてしまうのだが、そんなところに古書店が四軒もあるというのはちょっと意外な気もする。いや四軒と書いたのはわたしの知っている限りでのことなので、もしかしたらこれ以上あるのかもしれない。
中でも最も有名な店が近代書房で、昔と比べて硬めのものや黒っぽいものが減っているとはいうものの、まだ見ごたえのある品揃えなっている。以前たしかここで国書刊行会の『古今要覧稿』を購入したと思うのだが、古い記録がなくなってしまっているので確認のしようがない。しかしわたしが買ったのだからけっして高くはなかったはずだ。砂子通りの大島書店は最近行っていないがまだあるのだろうか。この店はたしか娯楽本を中心とした軽めのものが多かったが、硬い本も結構あったように記憶している。
ところで近代書房のある新川通りには他に二軒あって、一軒は文庫やマンガ、ムックが中心の小奇麗な店なのだが、あいにくとわたしの興味を引く分野でないので滅多に入ることはない。問題はもう一軒目の店だ。場所としては三軒のうちもっとも第一京浜寄りに位置し、店内も最も広いのではないだろうか。しかも本の量が多く人文系の書籍も探せば結構ある。棚と棚の間が狭いので足元近くの段に並んでいる本を見るのにはちょっとつらいものがあるけれども、かなり見ごたえがある。
今日、久方ぶりでこの店を覗いてみた。平日なのになぜ川崎にいるのかって。じつは体調不良で仕事を休んだのです。体調不良なのになぜ川崎にいるのかって。休む旨の連絡を入れた後、不思議と体調が良好になってしまい、家に引きこもっているのもなんだかもったいない気がしたもので、それならというのでこのところご無沙汰している川崎駅前の古本屋を見て歩くことにしたのです。そんな事情であまり時間的余裕のなかったこともあり、今回は新川通りの店だけをチェックしたというわけだ。で、この三軒目の古書店なのだが、たしかに店名を確認したはずなのだけれども、帰宅したらうろ覚え状態になてしまった。古書籍商組合には加盟しているはずなのでインターネットで調べてみたのだが該当する店は見つからなかった。どうもよく判らない。というのも古書店をやっていくには商品の古書を仕入れる必要があるわけで、もちろん店買いで客から直接仕入れることもあるけれど、大半は業者の市で競り落とすのが普通であり、その市に参加するためには古書籍商組合に加入しなくてはならない。したがって古書店は皆この古書籍商組合の組合員であるはずなのだ。組合員であれば「日本の古本屋」サイトで検索できるにもかかわらず該当する店がない。これは考えるにわたしが見た店名と「日本の古本屋」サイトに掲載されている店名が異なっているからではないのか、そういうことなら納得できる。
さて書きたかったことは、購入本の成果なのではない。件の三軒目には確かに面白そうな品があったのだけれども、値段的にはけっして安くはなかった。他の店と大差がないのならば、わざわざここで買う必要もないわけで、持って帰るのも億劫だ。
そしてここからが書きたかったこと。わたしが店内に入ると奥のレジで女性がなにやら店主らしき男性に声を上げていた。車の話だった。子供の送り迎えがどうの、新車を買うの、日本車はいやで外車がいいとか。もしかしたらの女性は店主の娘なのだろうか。とても他人同士の会話には聞こえなかった。いったいこの店は客を石ころか何かとでも思っているのだろうか。すくなくともわたしだったら見ず知らずの他人がそばにいるのに、あのような大声でプライベートな話はできない。あまりに耳障りだったので途中で本を探すのを諦めてしまったほどだ。一般に古書店は無愛想というのが定番だし、こちらもそのほうが気兼ねなく本を物色できる。しかしこの店の態度は無愛想とは違う。あきらかに別次元の問題だ。店主がもし普通の感覚の持ち主だったら、客がいるのにあのような真似はさせておかないのではないだろうか。客を人としてみていないような店には二度と入る気がしない。

リニューアル

2006年02月21日 23時28分48秒 | 本屋古本屋
リニューアル、近頃よっく聞く英語だがわたしなんぞはこれを耳にするとけつの穴がくすぐったくなってくる。理屈ぬきで生理的不快感がむくむくと沸いてくる、なんとも不愉快な響きの言葉だ。もう考えたくもないのだけれども、わたしの意思にかかわらず毎日目にも入ってくるし耳にも聞こえてくる。だからわたしは二六時中けつの穴がむずむずし通しなのだ。え、そりゃあ回虫の仕業だから虫下しでも飲めってか。なんだか話が穢くなってきたのでこの辺りにしておく。ところで古本屋のリニューアルというのはほとんど見た事がない。だか高度経済成長時代(懐かしいねえ)にはあの神保町でもリニューアルが盛んに行われ、今日日立派なビルになっている店のほとんどがその頃に改築されたものだ。しかししょせんは古書店、どれほど店内の意匠を凝らしたとてすぐに買い入れた本の束で埋め尽くされてしまいそこいらへんの町の古本屋ぜんとしてしまう。雀百まで踊り忘れずっていうか、どれほど気取ろうが古本屋とはそんなものなのだろうと思う。
わたしは何年か前に門前仲町の某所で仕事をしていたことがある。ここにはいろいろな食べ物屋があって「昼食難民」になることはけっしてなかった。そして夜はもっともっと賑やかになる。もんじゃ焼きは月島が有名だけれども、門仲にもけっこう美味い店がある。深川不動尊よりちょっと木場寄りに「魚三酒場」という飲み屋がある。魚介類を肴に酒を飲ませる店で、たしか子供は入店御断りのはずだ。わたしも二三回入ったことがあるが、どうもあの雑然とした雰囲気には馴染めなかった。何よりもわたしは騒音が嫌いなので、わいわいがやがやの店内で立ち飲みするのには耐えられない。まあその分お値段は安いのだけれども。浜松町の駅から第一京浜に出る途中に大きなもつ焼き屋がある。開店前から店の前には客が並ぶような有名店だが、わたしは入ったことがない。いや入る気がしない。ここも雑踏と立ち飲みスタイルだからだ。
はなしを元に戻す。古書店のリニューアルだった。じつはさきに上げた「魚三酒場」の隣に古書店がある。朝日書店というが、この店は十年ほど前までは随分と殺風景な、古書店というよりはエロ本屋みたような、つまりそれほど白っぽい娯楽本や雑誌のたぐいを並べている店だった。神保町は置くとして、町のごく普通の古本屋はマンガやエロ本を置かなければとてもではないが経営的に成り立たないということを、以前ある古書店の主人に聞いたことがある。そうだろうなあ、下町の古本屋の棚に『佩文韻府』を置いたとして、いったい誰が買ってゆくというのだろう。そんなわけでこの朝日書店も要すれば門前仲町という町に適合した商いをしていた。
今日何年かぶりでこの朝日書店を覗いてみた。いやああああ、ビックリした。店内がまるで青山辺りの本屋みたいになってしまってしたのだ。これじゃフランス文庫なんかを立ち読みしようと思っているオジさんにはちょっと入り辛いだろうなあ、そんな感じの店になっていた。でも残念なことに、棚に並んでいる品はむかしと変わらず貧弱なものばかりだった。

絶不調の一日

2006年02月20日 06時43分12秒 | 彷徉
先週の土曜日に都丸支店を覗いてみた。店内の棚にはたいして面白そうな品はなかったが表の廉価本棚を見渡したら"Proverbi Toscani"が見つかった。体裁としては天地左右が260*180、180頁ほどの本なのだが紙が厚めなので束が2.5センチほどもある。題名は「トスカーナ地方の諺集」とでもいうのだろうか、値段が五百円ということもあったので読めもしないのに購入した。このところイタリア語の本を時々買っている。いまはまだイタリア語は読めないが、少しずつ勉強はするようにしているので、いつかは読めるようになるだろう(と期待している)。妙な話だけれども、若い頃より外国語の学習が苦ではなくなってきている。外国語といったって所詮は人間の話す言葉ではないか。例えばアラビア語は世界でも難しい言語の一つだと何の根拠もなくいわれている。だったら日本語はどうなのだ。文字にしても片仮名、平仮名、ローマ字に漢字、しかも漢字には呉音漢音に和音のほか、国字なんてのもある、更に発音に至っては年々変わっている、これほど学びにくい言語もないと思うのだが、そのような言葉を日常的に操っているわたしたちに、最早「難しい」言語なんて存在しない。このような思いが年を取る毎に募ってきているからだ。マックス・ヴェーバーは四十代でロシア語の勉強を始めたそうだが、要すれば必要性が生じれば結構憶えるものなので、ということは外国語の勉強そのものが目的の外国語の勉強というものはそうそう長続きしない。だから「ナントカ留学」の学校に通ったってそれだけで外国語が堪能になるわけではない。つまるところ大事なのは目的意識ってやつだと思う。
ところでこの日は体調が頗る悪く、歩いていても踵からくる振動が腹の中にまで伝わってきて、それが吐き気を誘発しかねない状態だった。自宅を出るときにはそれほどでもなかったので高を括っていたのだけれども、高円寺のルック商店街を歩いているときはかなりきつくなってきていた。このときばかりはさすがに自分の判断の甘さを恨んだものだったが、なんとか都丸支店までたどり着くことができた。和書の廉価本が並べられた棚には、毎度のことだが先客が三四名、本を漁っていた。いつもならばわたしも一通りチェックを入れるところなのだがさすがにその元気もなく、洋書廉価本棚だけをチェックしてから店内の品を見て回った。
都丸支店では結局"Proverbi Toscani"しか成果がなかったので、JRで御茶ノ水まで出て東京古書会館にいってみたが古書展は開催されてはいなかった。ぐろりや展は来週開催だった。このような間抜けな間違いをしでかすのも体調が悪い証拠だ。小川町の崇文荘も覗いてみたがどうもいけない。これ以上ぶらぶらしていないでさっさと帰って横になったほうがよいという天啓かもしれない、そう考えたわたしは信山社で今月刊行の岩波文庫を購入した。念のため日本特価書籍で新刊書のチェックをした後、地下鉄半蔵門線に乗り込んだら途端に疲れが出てしまい、だらしなくもシートにへたり込んでしまった。顔が火照ってしかたがないのは熱があるためだったのだろう。九段下、永田町はほとんど憶えていない。表参道で目が覚めてあわてて銀座線の渋谷行きに乗り換えた。

まち

2006年02月19日 08時22分38秒 | 言葉の世界
かなり以前のこと、地下鉄銀座線上野駅のホームで「この電車はしぶたに行きですか」と尋ねられたことがある。すぐに「しぶたに」が「しぶや」のことだと判ったのは、関西の人は「渋谷」を「しぶたに」と読むということを聞いていたからだ。たしかに言われてみれば思い当たることがある。もう亡くなってしまったが松竹新喜劇に「渋谷天外」という役者がいた。藤山寛美と親子の役をよく演じていたものだ。わたしたち関東の人間はこの芸名を「しぶやてんがい」と呼んでいたけれど、本名は渋谷一雄と書いて「しぶたにかずお」と読む。松本清張の自伝『半生の記』によると、戦後の生活難を凌ぐため彼が小倉から関西方面へ箒の行商にいっていたが、そのとき関西人が「小倉」を「おぐら」と発音していたということが書かれている。
東京日本橋人形町を「にんぎょうまち」と読む人は、最近ではかなり少ないのではないだろうか。いろいろなメディアが発達している昨今では、東京の地名もかなり知れ渡ってきており間違って読まれることはほとんどなくなってきている。ところが数日前、朝の地下鉄車内でどこかのネエチャンが迷惑にも携帯電話でどこかの誰かさんと会話していたのだが、そのなかでこのネエチャンから「にんぎょうまち」という言葉が出てきたので、わたしは思わず仰け反ってしまった。これは紛うことなく「人形町」のことに違いない。いったいこのネエチャンはどこの山から出てきたのかと彼女のことを眺め遣ったが、そこいらにいるごくありふれた普通の若い女だった。この物知らずめ、とそのときは感情に任せて彼女を軽蔑したものだったが、職場に到着して一息ついて考え直してみると、なんだか自分のほうが軽率に感じられてきた。
わたしは子供の頃から「人形町」を「にんぎょうちょう」と呼んでいて、これに何の違和感も感じてこなかったのだけれども、あらためて「にんぎょうまち」と「にんぎょうちょう」の響きの差というものに注目すると、「にんぎょうちょう」ってなんだか硬い感じがする。一方の「にんぎょうまち」はというと、こちらはとてもしっとりとしていて時間が二百年ほども遡行した気分になる。違いがひとえに「ちょう」と「まち」の差に負っていることは明からだ。「まち」は和語だけれども「チョウ」は呉音、つまり外国語の音だからだろうか。因みに漢音では「テイ」となる。さらに「まち」は「坊」とも書く。『和漢三才図会』に「坊者村坊也、説文云、坊邑里之名、町田區畦将也」「按今多用町字訓萬知、用坊字代房字、竟難改」(注1)と載っている。しかしこのあたりの議論をし出すと泥沼にはまってしまうのでもう止めておく。
つまりわたしが思ったのは、「にんぎょうまち」というのもちょっと風情があってよいのではないかということ。住人が皆人形の、なんだかとても幻想的な世界を想像してしまう。「まち」という言葉の柔らかさが、ある種の懐かしさに満ちているからかもしれない。「ちょう」と聞くと、これはせかせかした感じで、神田多町、神田司町、神田神保町と、どれもこれも気忙しい気分にさせられるけれども、神田小川町(おがわまち)と聞けば、ちょとほっとする。なんだか美味しい食べ物屋でもありそうな雰囲気になるじゃあないですか。萩原朔太郎の短編に『猫町』というのがあるけれど、これが「ねこちょう」だったらもう台無しだし、逆に「番町皿屋敷」を「ばんまちさらやしき」なんて読んだ日にはおどろおどろしさなんか吹っ飛んでしまう。

(注1)『和漢三才図会』(下)1149頁 寺島良安編 東京美術 平成2年10月1日第15版

先見の明

2006年02月18日 08時29分00秒 | 彷徉
寒さの所為でまた頭の中が凍えだしている。とにかくなにも考えられなくなってしまうのだから始末が悪い。考え出すといらついてくる。だからなるたけエポケー状態でいるようにしている。しかしこれがなかなか難しい。人間てぇものは生きているあいだ中は、しょせん何かについて考え続けていなくてはならない宿命を背負っているのだとつくづく思った。「何かについて考える」ということ自体はべつに良くも悪くもない。問題は「何か」のほうにある。つまりわたしが「何かについて考える」とき、その「何か」というやつがけっして楽しいことやうれしいことではないからだ。卑近なことでは、借金の弁済とか確定申告とか、あるいは家庭内の細々とした出来事などなど。どうもわたしには「片付けられない症候群」罹患社と通底するところがあるようで、なんでも問題を先送りしてしまうクセがある。だから切羽詰ってからいろいろと苦労してしまう。
そんなわけで、たまには気分転換でもしてみようと、浅草なんぞに出向いてみた。地下鉄銀座線の浅草駅は、まあ日本初ということがあるにしても、とにかくレトロスペクトが充満している。松屋口の改札を出ると左側に地下街が続いているのだが、それがなんとも庶民的というか屋台的というか、四十年前からほとんど変わっていないような、つまりはっきりいって薄汚れた感じの地下道なのである。しかもこの地下道のどんづまりが閉店した店舗かあるいは倉庫のような、とてもではないがお客を呼べるような場所ではない。ないのだけれども、しかしここに店を構えているトンカツ屋、カレー屋、鮨屋、それに鶏肉屋など、いかにも美味いものを出してくれそうな感じがするから不思議だ。そうそう、ソース焼きそばを商う店もあったっけ。この雰囲気をほかで探せば有楽町JR高架下のあの洞窟のような通路におなじような感覚を覚える。地下道の行き止まりより少々手前の左側に地上へ出るらしい階段があったので昇ってみたら、出たところは新仲見世のアーケードだった。そこを真っ直ぐに進むと国際通りへ出る。観音様の仲見世とはほぼ中間地点で交差していた。最近やっとつくばエキスプレスが開通したけれど、むかしむかし山の手線はこの浅草を通る計画だったそうだ。しかし当時のこととて鉄道が通るとお客を他所に奪われるといって反対運動が起こり、結局この計画はオシャカになったという。「先見の明」という言葉があるけれど、先を見通すことのなんと難しいことだろうと思う。かつて東京が誇った娯楽街が渋谷新宿、池袋に取って代わられてしまったのにはこのJR(当時は省線か)が通らなかった件が多大に影響している。
しかしながらわたし個人としては、それも良かったのではないかと思う。たしかに新宿のような賑わいはない。六区の飲み屋街だって寂しいものだ。しかし渋谷のセンター街みたようにガキどもに荒らされることもなかったし、新宿歌舞伎町のようにやくざ者が真昼間っから肩で風切って歩いている様子もない。もちろん浅草にだってやくざはいる。よく観察していればどうみても堅気ではない格好の連中が歩いていたりする。つまり要すれば程度問題なのだ。浅草は下町情緒を売りにしてるけれども、もしここにJR山の手線浅草駅があったとしたら、はたして浅草という町は「下町」でいられただろうかと思ってしまう。
観音様を拝観したがあまり有り難味は沸いてこなかった。わたしが不信心の罰当たり者だからなのだろう。精進落としに吉原にまで足を延ばそうかと、ちょっと不届きな気持ちにもなったが、そんな無駄金なんかはじめっから持ち合わせてはいない。きれいな姐さんの代わりに川松で特鰻重三千四十円を誂えた。

ナジャとの再会

2006年02月15日 03時53分34秒 | 本屋古本屋
いま職場が東陽町なので今日は久方ぶりに砂町のたなべ書店を覗いてみようと思い立って、仕事を定時の五時半でさっさと終了してしまい、地下鉄東西線西船橋行きに飛び乗り、といってもたったの一駅なのだが、南砂町駅で下車すると工事中の南砂三公園を抜けてまずは砂町駅前店に入った。三年以上後無沙汰している店だ。しかし棚の品がひどく貧弱に見えた。以前にはおもしろそうな品が結構並んでいたものだが、今日行ってみたらその同じ棚の場所は愚にもつかない小説本とハウ・ツー物で占められてしまっていた。そもそも品物の並べ方が最悪なのだ。どういうことかというと、本が作者別、または出版社別に分類されているという、なんとも措置なしの状態なんですよ。これって判りますか。
例えばサスペンス小説が読みたいと思って本屋に入ったとする。普通の新刊書店はだいたいジャンルで大きく棚を分け、その中で作者毎に本を並べるという体裁をとっている。これは極めて当たり前のことで、通常本を読もうと思った場合、特殊な事情を除いて先ず分野を考えるはずなのだ。スリラー、サスペンス、ホラーに推理物、恋愛物なんてのもある。要すればここが入り口なのであって、作者で選ぶなんてのはその作家が死んだときかあるいは何か事件を起こしたときくらいなものだ。それをいきなり作家でドカンと分類されるとこれはたまったものではない。さらに悪いのが出版社分類で、これはもう糞みそ一緒というか、何が何だかわからない。たしかに著者が判らないので出版社を頼りに探してゆくこともあることはある。現にわたしだってそんな探し方をする場合がある。だからといって本屋の棚が出版社別に分類されているとすれば、少なくともわたしはそこで探そうとは金輪際思わない。そもそも探せない。だってわたしは出版社が好きで本を買っているわけではないのだから。
これでは収穫は望めないと判断して本店へと向かう。さすが本店で駅前店より幾分かましな品があったが、それでも店の棚は八割方コミックつまりマンガに占領されていた。前はこれほどではなかったのに。そりゃあコミックはよく捌けるさ。わたしはこのような状況に出会うたび、戦後日本の大手出版業者が犯した犯罪的行為を糾弾したい衝動に駆られる。講談社、小学館、集英社、秋田書店、その他いろいろ。これらの出版社はコミックで大儲けしているが、それと逆比例的関係で日本の若人のお頭はどんどんと退化しているのだ。暗澹とした気分で棚を眺めまわしていると入り口近くの一角に現代思潮社版の『ナジャ』があったので思わず買ってしまった。コンディションもまあまあだし値段も八百円だったこともある。そしてなによりこの本がこんなところに置かれているのが可哀想でたまらなかったのだ。今では岩波文庫からも出ているけれども、わたしがはじめて見た版がこれだった。近頃の小説と比較すれば『ナジャ』はかなり大人しいということになるのかもしれない。しかしこれがガリマールから出たのが一九二八年つまり昭和三年ということを忘れてはいけない。あの有名な最後のフレーズ「美は痙攣的でなくてはならない。そうでなければ存在しないだろう」をこの版では「美とは痙攣的なものであり、さもなくば存在すまい」と訳している。「さもなくば存在すまい」とは今からしてみれば随分と古風な物言いだが、まあこれも時代というものだろう。
なんだかがっかりしてたなべ書店本店を出てバスで亀戸駅に向かった。とても南砂町駅まで戻る気力がなかったからだ。

ドロップスのイデア

2006年02月14日 23時48分17秒 | 彷徉
実念論、唯名論と聞いて何のことだかすぐにわかる人は、まあそれほど多いとも思えない。もちろんこんなことを知らなくたって日常生活に困るようなことはまずないのだから、どうでもよいといえばどうでもよいようなものだが、要すれば概念は実在するというのが実念論(つまり概念実在論)で、いやあそんなものは言葉の言い回しに過ぎないよってのが唯名論なんですね。気取ってrealism、nominalismなどと言ったりすることもあるけれども、これは西洋中世のスコラ哲学におけるいわゆる普遍論争として有名な議論のこと。実念論の立場に立ったのがアンセルムスやアクイナスで、一方の唯名論的な立場の学者がアベラールやウォッカムといったところになるのだそうだ。今日のわたしたちの感覚に照らせばどうみても唯名論を支持したくなる。しょせん概念なんてえものは頭の中で作り出された符号に過ぎないというわけだ。
ある時期スコラ哲学は不当に低く評価されて、哲学プロパーはこれを真正面から論じることさえ憚られることがあった。たしかに低い評価をせざるを得ない馬鹿馬鹿しい議論があったことは事実だが、上に名前を上げたアンセルムス、アクイナス、アベラールやウォッカムといった大御所はそんなくだらない連中とはわけが違う。なんといったら良いか、彼らは今でもそしてこれからも宗教的枠を超えてインテリゲンチアであり続けるに違いない。それはそうとしても、わたしたちは素朴に唯名論的立場をとっていることはたしかだと思う。
ところでしかしちょっと考えてみると、ことはそれほど単純でもないようなのだ。もし概念がわたしたちの頭の中で作り出されたものであるとすれば、これは当然あなたやわたしといった諸個人の頭の中で作り出されたことになる。さてそれではわたしの頭の中で作り出された「犬」という概念とあなたの頭の中で作り出された「犬」概念は、はたして同じものなのだろうか。もし同じものだと主張するのであればその「同じ」であるということはいったい何によって保証されるのだろうか。経験によって保証されるといった弁証法的唯物論の楽観主義的議論は勘弁してください(これは冗談のつもりで書いています。一応断り書きをしておかないと、野暮な議論をふっかけてくるバカがいるものですから)。わたしは子供の頃の体験を思い出す。女の子とままごと遊びをしていたとき、ドロップスを紙でこしらえることになった。わたしは紙を飴玉の大きさに切り抜いて色を塗ろうとしたのだが、一緒に遊んでいたその女の子は紙にドロップスの缶の絵を描いて「はい、できあがり」。つまりこのとき「ドロップス」概念はわたしと彼女でそのように異なっていたわけだ。これは明かにドロップスについての日常経験から生じた相違に違いない。わたしにとってドロップスとはあくまでも一つ一つの飴玉だったのだが、彼女にとってのドロップスはというとドロップスを入れた缶がすなわちドロップスだったわけだ。
「ドロップス」概念程度だったら日常経験を共有することで、あるいはお互いの経験を評価しあうことによってこの溝をかなり埋めることができるだろう。なぜなら少なくともここには評価の基準となるドロップスが実在していて、さらに両者の感覚はこの実在物による刺激を受容しうるからである。ところでこれが「正義」「真理」「愛」といったものになるとはなしはぐっとややこしくなってくる。これらについての評価基準となる実在物がないからだ。しかしこれをあるのだと主張した人物がいる。つまりプラトン先生。イデアを「理想」などと訳すから誤解が生じる。プラトンの言っているイデアの世界というのはかなりリアルなものとして理解しなくてはならない。だから「善のイデア」も「美のイデア」もけっして空想的な産物などではない。これがつまり実念論の始まりということになる。ドロップスにしてからが「ドロップスのイデア」を認識できればわたしと女の子はお互いに間違うことなく同じ「ドロップス」概念を持つことができたはずなのだ。
「ドロップスのイデア」を認識できなかったわたしはその後すっかり唯名論的日常に埋没してしまっている。いっぽう彼女はというと大人になって某テレビ局のアナウンサーになったということを風の噂で聞いた。

法師

2006年02月10日 05時40分37秒 | 言葉の世界
あれは民芸品というのだろうか、「起き上がり小法師」という伝統的な玩具がある。わたしはこれを「おきあがりこぶし」と呼んでいる。別に誰に教えられたという記憶もないので、周囲にいる皆がそう呼んでいたに違いない。わたしは東京生まれの東京育ちなものだからついつい自分の話している言葉が全国どこででも使われているものだと思ってしまう、やらしい先入観がある。それでこの「起き上がり小法師」も北は樺太から南は波照間島まで全国津々浦々「おきあがりこぶし」と呼んでいるものだと思っていた。ところが一昨日偶然観ていたテレビ番組でナレーターがこれを「おきあがりこぼうし」と読み上げたのを聞いてびっくりした。まったく近頃の連中はものの読み方も知らねえのかと憤ったのだがどうも気になったので一応手近にあった国語辞典を開いてみた。調べてよかった。そこには見出し語として「おきあがりこぶし」ではなく「おきあがりこぼうし」が載っていたからだ。もしも辞書で確認していなかったならば、とんでもない恥をかくところだった。要すればナレーターの兄さんは極めて正確に「」の文字を読んでいたことになるわけで、何等非難されるいわれなどない。逆に憤ったわたしのほうこそものを知らない間抜け野郎ということになる。
とここまで考えたのだが、どうしてもわたしには納得がいかなかった。「おきあがりこぶし」より「おきあがりこぼうし」のほうが正しい読み方なのだろうか。正しい正しくないの議論でいうならば確かに「おきあがりこぼうし」のほうが正しいのだろう。「法師」は「ほふし」と読むのでありしたがって「こぶし」は「こぼふし」の転訛した「こぼし」がさらに転訛した読み方なのだそうだ。では実際のところどの読み方がもっとも一般的なのか、実は大多数の人々がこれを「おきあがりこぼし」と呼んでいるらしいことは、たとえばグーグルで検索してみるとヒット件数は「おきあがりこぼうし」が百十件ほど、「おきあがりこぶし」で六百件ちょっとであるのにたいして「おきあがりこぼし」のほうは七万三千二百件ということからも容易に想像できる。能の「弱法師」、わたしなどは三島由紀夫の戯曲のほうが近しいがこれは「よろぼし」と読む。なお『日本国語大辞典』では見出し語として「おきあがりこぼし」と「おきあがりこぼうし」をともに掲載してるが、発音の違いに関する説明には言及されていない。わたしの読み「おきあがりこぶし」はとても一般的とはいえなかったわけだけれども『言泉』や『大日本國語辭典』には寛永十五年山本西武撰『鷹筑波集』の「散れば咲く花はおきあがりこぶしかな」という用例が挙げられていたので、まったくの出鱈目というわけでもなかった。
ここでボンクラなわたしはやっと気が付いた。文字の読み方に正誤はあるが、言葉そのものに正誤はないということ、したがって「こぶし」でも「こぼし」あるいは「こぼうし」でもよい、そのように発音される事実があるだけなのであって、「」という文字はそれらを表記する単なる手段でしかないということ。

なくなった店

2006年02月08日 06時31分26秒 | 本屋古本屋
基本的にわたしは寒がりではない。むしろ寒いほうが頭が冴えてくる。もっともその冴えはかなり限定的ではあるのだけれども。そのわたしが今年の冬に負けてしまっている。とにかくそれほど寒い。しかし寒いからといって終日家の中に引き籠っているわけにもいかない。仕事をしなくてはならないからだ。汚い身体ではやる気も思考能力も低下してしまうので、朝には必ずシャワーを浴びる。湯船たっぷりのお湯に漬かるのに越したことはないのだがそんな時間はとてもない。というのもぎりぎりまで寝床の中でうずくまっているから。そして最後の決断をして飛び起きたあとは、だいたい十五分で身体を洗いの、歯を磨きの、髭を剃りのでこれはけっこう忙しい。くわえて朝食も取らねばならない。これを抜くと力がまったくでなくなってしまう。平日は毎日こんな調子で暮らしているが、そのぶん休日にはゆったりとお湯に漬かって身体と心を弛緩させることにしている。そしてそのあと何をするかって。きまってるじゃあないですか、神保町チェック!
もうとっくに無くなってしまったが、靖国通と専大通の交差点近くに日清堂という本屋があった。人文系の洋書を扱う店で古書も新刊書も置いてあったと記憶している。さほど広い店ではなかったけれども、置かれている書籍にはいつも目を見張ったものだ。西洋古典に関する専門書も充実していたように思う。この店の前にも廉価本のワゴンが置いてあって、そこでときおり漁った本が何冊かわたしの書架に収まっている。人には読めもしない外国語の本を買うなんてまことに愚かしい行為に思えるかもしれないが、なにも買った時点でその外国語が理解できなくてはならないなんて道理はない。購入してからじっくりと勉強すればよいのだ。それよりなにより、この本との出会いはもしかしたら二度とないかもしれない。そう考えれば書かれている外国語が理解できるかどうかなんてことは大した問題ではない。こんなノリでわたしは本を買っている。
ところで日清堂だが、神保町をはなれて松戸のほうに店を移したということをむかし聞いたのだが、今現在インターネットで検索しても該当する店がヒットしない。あるウェッブサイトには神保町時代の住所が掲載されているがこのような人を惑わす真似はぜひともやめてもらいたいものだ。それはそれとして、日清堂はいまでも営業しているのだろうか、あるいはもうとっくに廃業してしまったのだろうか。知っている人は知っているのだろうけれど、わたし自身はそのような情報に疎いものでまったくわからない。

さあ、飯だ、飯だ。

2006年02月06日 23時00分14秒 | 彷徉
この前までは池袋のほうで仕事をしていたのだけれども、今週は江東区の東陽町まで通っている。わたしは元々が下町生まれの者だから、やはりこちらの方が親近感が沸く。沸くのはよいのだが困ったのが昼飯時で、つまりわたしは今ここで「昼食難民」になってしまっているのです。丸の内や八重洲の話ではない、江東区東陽町での出来事なのですよ。
それにしてもこの町はいつ頃からこんなことになってしまったのだろう。居酒屋が定食を出しているが正直言って高い。八百円平均では毎日通うのに躊躇してしまう。気取ったパスタ屋に入ったら千円も取られてしまった。味はといえばそれほど美味いとも思わなかったが、それでも込み合っているから不思議だ。東陽町のビジネスマンは千円の昼食を食べられるほど裕福なのだろうか。わたしにはとても付き合いきれないのでなんとか安い店を探すのだが、地下鉄駅前の立ち食い蕎麦屋は満員状態でとても入る気がしないし、回転寿司屋は不味そうで(じつは数年前に入ったことがある。不味かった)入る気がしない。そこで勢い弁当を買う回数が多くなる。弁当屋は何軒かあって、そのなかには有名チェーン店もあるのだがどうも入りづらい。その店のシステムがわからないからだ。セルフサービスだのバイキング形式だの要すれば客に気を使わせるような店がわたしは大嫌いで、だから絶対に入らない。中華料理屋やラーメン屋もあるけれどもどこも満員で入れない。時間をずらすといったって、それじゃってんで一時近くになってから行くわけにもいかない。池袋の頃には近くにサンシャイン60があったのでそこのALTA三階に行き付けを店を作っておいたのだが、ここではそれはできないかも知れない。
これは詰まるところ店が少ないからではないのであって、昼間人口が多すぎることに原因がある。むかしは工場か野ッパラだった東陽二丁目にオフィスビルがどんどんと建設され、今では永代通りにも新しいビルが建てられ始め、そこには例によってというか情報関係の会社が入り、エンジニアというのもおこがましい子供みたいな連中が出入りして、一丁前にサーバがどうのCORBAがこうのといい気になっているなんとも味気ない町になってしまったが、つまりはそのような形での不愉快極まりない人口増加が食い物屋と客との需給バランスを破壊してしまった結果なのですよ。そんなわけでわたしは昼食時には木場近くまで足を延ばすことさえある。
今日は東陽町交差点近くにある和菓子屋で鳥カラ弁当を売っていたのでそれを買って食べた。ちょっと冷たくなっていたがご飯も美味しかったし鳥のから揚げもでかくて六百五十円という値段は妥当だと思った。しかしこんな高カロリー弁当を毎日食っていた日には身体に悪いこと請け合いだ。そうかといって自宅から弁当持参というのは考えただけでも頭が痛くなってくる。万が一それを昼食時に食べられなかった場合のことを考えるとそれだけで胃が痛くなってきてしまう。つまりわたしは小心にして律儀な人間なんですよ。
とかなんとか言いたいことを書いてきたけれども、むかし食べた東芝社員食堂の食事が殺人的に不味かったことを思えば、いまの食生活は幸せなのかもしれません。感謝、感謝。