goo blog サービス終了のお知らせ 

忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ボクの「みかん革命」

2011年05月25日 | 過去記事
最近、新しく入所してきたお婆さん。仮に「珠代さん」としよう。珠代さんは足が悪く、車椅子を使用しているが、認知の症状はほとんどなく、意思の疎通も十分可能、どころか、これが結構、口達者である。良いところの奥さんだったのか、基本的に命令口調であり、介護職員に対しても「丁稚」のように使おうとする。だから不人気だ(笑)。

古株職員らも口々に「甘え過ぎ!!」「なんか腹立つ!」などと悪口を言う。たしかに、こちらを見もせず、なんで気付かないの?という態度で「お茶!」とか言われたらむっとすることもあろうが、そこは、まあまあ、である。

珠代さんは基本的に「歩けない」だけであるが、手のほうも、いわゆる「筋性拘縮(筋肉が弛緩しない。要するに硬くなって動かしにくい)」であるから、なにをするにも上手く出来ない。だから、つい頼んでしまう。それも威張って、だ(笑)。

先日の夜、珠代さんは私を呼びつけ、無愛想な言い方で「もう寝る」と言った。私が「ああ、そうですか、それはどうも、それでは、おやすみなさい」と立ち去ると、ちょっと!と呼び止められた。私が「なんでしょう?」と問い返すと、怒った口調で「部屋まで送りや」ときた。私はまた「なんでです?」と問うた。珠代さんは「なんでって・・・」と言葉に詰まっていた。んじゃ、そういうことで、と私は冷たく、その場を離れた。

珠代さんはブンスカ怒りながら、ゆっくりと車椅子で自走しながら居室まで行った。そこで私の出番である。車椅子からベッドへと移乗した。それでまた、んじゃ、そういうことで、と立ち去ろうとすると、やっぱり、ちょっと!となった。

はい?――――着替えさせてや
なぜでしょう?―――なぜって・・・

薬を飲ませろ、ボタンをとめろ、アレを取ってこい、コレを持ってこい、残念だが私には通じない。普段は忙しいふりをして誤魔化したりするが、今日はちょうどいい機会だ、と思い、私は珠代さんの前にどっかり胡坐をかいて座った。あのね――――

「あのね、珠代さんは出来るでしょう。なんでもかんでも我々がやって差し上げるのは簡単です。珠代さんも喜んでくれる。でもね、ここは旅館じゃないンです。それに珠代さんは病人でもないから、ここは病院でもないですしね。我々の仕事はね、珠代さんが出来ないことだけをお手伝いすることです。もっといえば、出来ないことも出来るようにするのが仕事なんです。ここで珠代さんに嫌われるのを怖がってね、なんでもしてあげるとね、半年もしないで珠代さん、あなたは本当に何もできなくなります。その動く手はね、動かさないとダメなんです。私はね、珠代さんの手が動かなくなる方が、珠代さんから嫌われるよりも怖いんです。わかってくれますか?」

翌日の朝、珠代さんは自分でパジャマのボタンを外していた。いや、正確に言うと、外そうとしていた。そこで古株職員ですよ(笑)。オバハンですよ。

「もうぉ!まだ着替えてんの?はいはいはい!!」

さらっとやってしまった。なるほど、この古参は「高齢者の奴隷」になりたいのだろう。いや、実際にこの古参は「こんな仕事、ジジババの奴隷やんか!」とも言っている。有言実行なわけだが、ったく――――と私が呆れてみていると、なんと、珠代さん、やってくれます。

「ええやんか!わたしは自分で出来るから!時間かかってもええやんか!」

珠代さんのKO勝ち。呆気に取られた古参は、あ、そう!と不機嫌になったが、珠代さんはそのあと、自分で長袖シャツを着て、その上にカーディガンまで着たのでした。もちろん、その古参からは「かわいくない!」ともっと嫌われることになりました(笑)。

ンで、ちょっとこういうニュースが気になった。




http://mytown.asahi.com/areanews/yamaguchi/SEB201105210043.html
<「24時間介護」是非めぐり深い溝 障害者と周南市>

<山口県周南市で重度訪問介護による障害福祉サービスを受け、自宅で自立生活をしている脳性まひの男性が、加齢による体の衰えなどを理由に、市に1日24時間の介護を求めている。市は20時間しか認めず、むしろ制度を見直すべきだと国や県に要望する。制度をめぐっては、全国でも障害者と行政が対立し、裁判で争うケースも起きている。>

とりあえずは「夜間の4時間」における排泄の問題だ。これを市は「4時間だけじゃん。寝る前にトイレ行けよ」と言うし、本人は「年取ったからさ、その4時間がしんどいんだって!」と譲らない。これはどちらも間違っている。

夜のヘルパーがオムツすればいい。それで朝のヘルパーに交換してもらえばいい。解決だ。みんなそうしている。おそらくケアマネージャーも現場ヘルパーも提案したはずだ。それを拒否している可能性がある。また、プライドガーなどと言っている余裕があるなら、それこそ自分ですべきだし、そもそも<健常者が24時間できることを、なぜ障害者は我慢しなければいけないのか>とは何様のつもりか。なぜゆえに「お願いします」が言えんのか、と思ったら、ま、言えない理由はコレだろう。

<周南市周陽2丁目、障害者団体「全国青い芝の会」事務局長、大橋邦男さん(52)>

ホームページがある。
http://w01.tp1.jp/~a151770011/index.html
<全国青い芝の会>

この会長の挨拶からして妙なものを感じ取れる。

<(前略)私たち青い芝の会は、脳性マヒ者を中心とした団体で障害から来る色々な偏見や誤解や差別を受けて、それと立ち向かおうとしている仲間たちが組織しています。(後略)>

しかし、さらっと一読すると、なるほど、この人らは「脳性麻痺」に立ち向かおうとしているのかぁ~と思ってしまいそうだが、それは「行動要領」を読めばわかる。ざっと拾ってみよう。

<私たち脳性マヒ者は、この社会においては、「本来生まれるべきではない人間」「本来、あってはならない存在」という認識を持たれているのだという自らが置かれている社会的立場を、被差別者としての立場を認識し、健全者が行う私たちに対する差別への怒り、恐怖、悲しみを持ち、そしてこういった社会的立場であるからこそ、この社会を変えられるのだとする強烈な意思を持つことであり、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、かつまた行動する(我らは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する)>


<私たち脳性マヒ者は、健全者社会が持つ愛と正義を一方的に押し付けられてきた。それにより私たちの自由は奪われ命をも否定されてきたことを鑑み、それが健全者自らのためのものではないのかと鋭く指摘すること、すなわち愛と正義を否定することにより、人間を深く見つめることに伴う私たち脳性マヒ者と健全者との関係性の回復こそが真の相互理解であると信じ、かつまた行動する(我らは、愛と正義を否定する)>


<我々は、健全者のみが創り出してきた文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによって成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、我々独自の文化を創り出すことが現代文明の告発に通じることと信じ、且つまた行動する。私たち脳性マヒ者は、健全者が創り出してきた文明が、私たちを人間として見ず、全く無視し切ったところで成り立ってきたということを認識し、運動及び日常生活の中から私たち独自の文化及び生活様式を創り出すことが、健全者文明への告発に通じることと信じ、かつまた行動する(我らは、健全者文明を否定する)>




革命チックな言語が不気味に散りばめられているとお気づきだろう。まるで朝鮮総連だ。それにしても「健全者文明」とは何事だろうか。それに普通、身体に障害が無い人を言うとき、我々は「健常者」と言うことになっている。ま、ともかく、最初のほうから見てみよう。



この団体は自らの脳性麻痺という苦悩にではなく、自分らに向けられている偏見や差別に立ち向かおうとしている。んじゃ、実際にないのか?と言われたら、それはあるだろうと言う他ないが、何かちょっと違うんじゃないか、という違和感は否めない。

この人らが<「本来生まれるべきではない人間」>と本当に全員から思われており、それを社会的に誰しもが認めるものならば、例えば「重度訪問介護」における経費の9割の負担を国、県、市から給付されている現実はどう説明するのか。その1割負担でさえ、この団体の事務局長のように生活保護を受けているならば、もちろん、それは全額公費負担となる。つまり、この人らが忌み嫌う「健全者社会」で働く人々が収めた公金から、2009年では2億6千万円の支出がある。これをこの人らが言う<私たち脳性マヒ者は、健全者社会が持つ愛と正義を一方的に押し付けられてきた>とするなら、その「健全者社会」とはいったいどうすればいいのか。

この人らの言う<私たち独自の文化及び生活様式を創り出す>というのは、その「健全者」とやら全員が「脳性麻痺・様」の前にひれ伏し、上げ前据え膳、生まれてきてくれてありがとうございます、御苦労ですね、頭が下がります、私らときたら下手に手足が動くもんで、ついつい甘えて暮らしてますから、とご奉仕させていただくことをいうのか。

ならば、そんな人間、手足があろうがなかろうが、麻痺で動こうが動くまいが、空を飛ぼうが海を潜ろうが、まったく関係なく、どこの国の「健全者社会」からは放り出されることになる。そんなのは手足が麻痺してるんじゃない。その公共心が麻痺しとるのだ。

社会に健全も障害もあるか。それらぜんぶ、ごったにまぜたものを「人間社会」と呼んでいる。それはもちろん、五体不満足の著者に「手足のないゴミ」などと「つぶやく」奴もいる。そういう奴も含めて社会、この「日本社会」となっている。「障害者を差別する」という問題があるなら、それは「社会全体の問題」なのであり、障害者の人はその「当事者」なだけである。「健全者社会」などと切り分ける必要は全くない。なぜなら、建前であろうがウソであろうが、愛であろうが正義であろうが、それは、障害者の人々も社会を構成する人間だからだ。だから公金を使ってでも不便を解消しようとしている。なんとか「自立」を目指してもらおうともする。そしてそれを社会が支援する。


しかしながら、この要領の最後はこうだ。


<私たち脳性マヒ者は、自己主張することなく簡単に問題を解決しようとすることが、私たちの置かれている社会的立場を容認する危険な妥協への出発であることを身をもって知ってきた。私たちは、次々と問題提起を行なうことこそが、私たちの行なうことのできるただ一つの運動であると信じ、かつまた行動する(我らは、問題解決の路を選ばない)>



<我らは、問題解決の路を選ばない>である。さらに<私たちは、次々と問題提起を行なうことこそが、私たちの行なうことのできるただ一つの運動である>とも言い切る。つまり、次々に「健全者社会」とやらに無理難題、人も金も文句言わずに出せと、ケチらずたっぷり出せと、我らは脳性麻痺で苦労しているのだぞと、それも哀れんで恵んでもらうのではなく、我々の権利とプライドを尊重して優先的に差し出せと言い続けるのだ、との決意表明である。

こうなると、これは「社会から無視される」では済まなくなってくる。つまり、社会の敵だ。在日であれ、であれ、障害者であれ、学歴であれ、職業であれ、放射能であれ、各種盛り合わせた様々な差別問題も同じ、要するにここまでいくと「自業自得」の疑いが噴出する。ちゃんと社会に貢献しながら障害と戦う人、麻痺があろうが病気であろうが、周囲に感謝を忘れず、自分に何が出来るかを真摯に考え、少しでも親兄弟に、友人や協力者に、すなわち、自分やその人らが構築する社会というものに恩返しがしたいと、それを実践しようと挑んでいる人らにとってはいい迷惑なのだ。


「自分には何もできない」で思考が完結するほど無責任なことはない。責任ある人間なら、その後がある。すなわち、何もできない自分だけど―――と続く。何もできない自分だけど、何か出来ることはないか、と模索し続けることが出来る。その姿勢、生き様は必ず、誰かの姿勢、生き様に影響する。

また、その「健全者社会」とやらは、例えば「瞳孔マウス」の開発に成功している。近赤外線を瞳孔に当て、反射した光をビデオカメラで受ける。すると、どうだ。瞳孔の動きがカーソルの動きとなる。左目でまばたきしたら「左クリック」だ。静岡大工学部はコレの組み合わせで文字入力を可能にした。特許を取り、いずれ製品化されるだろう。それに対し、なぜ障害者だけが瞳孔でマウスを動かさねばならぬのだ!と怒ってどうする。嘆いてどうなる。

世の中には健常者も障害者もいる。これは歴然たる事実であり、それが現実でもある。私に動く手足がついているのは偶然であり、幸運でもある。世の中には動かぬ手足、いや、その手足すらない人もいる。これは偶然であり、不幸なことだと思う。しかし、だ。



それがどうした?だからどうした?

はっきり書く。知ったことか。




手足のない障害者の身になって・・・など偽善が過ぎる。本気でそういうことが言いたいならば、先ず、自分の手足を切断してから言うべきだ。つまり、私は根本的に違う話をしている。そこに不便で苦労している人がいるから、便利な手足がついている人が手を差し伸べるのだ。絵の上手い者は絵を描いて人を喜ばせることができる。それを絵心のない人が「差別だ」とは言わない。頭の良い者は優れたシステムやらマシーンを作る。商才に優れた者が富を得る。本来、これらの恩恵は平等が過ぎるほど配分されている。便利な生活が出来ているのも、メシが喰えぬほどの税金を取られることがないのも、世の中のどこかに「得ている者」がいるからだ。それを潰し、認めぬ愚からは亡国しか生まれない。

もちろん、世の中は上手く出来ているから「得ている者」だけでも成り立たない。その他多くの、名もなき「得ていない者」を要するのだ。それは目的であり、動機である。多くの人間は車を運転するが、何もないところから車を作れない。鉄鉱石から鉄を取り出して、軽自動車一台作るのは骨が折れるだろう。数人でやっても一生かかって無理かもしれない。人間は飛行機には乗れるが、何の用意もなければ気球すら飛ばせない。しかし、現実はどうかといえば、人間は音速で飛ぶジェット機を作る。宇宙空間を旅して帰ってくる衛星を作る。とはいえ、それを「人間なら誰でもできる」とは言わない。ただ、人間の中には「それが出来る人間」がいる、というだけに過ぎない。どこかの誰かが作って飛ばしてくれる飛行機があり、それを操縦する人間がいるから、私は10月に家族を連れて台湾に飛行機で行ける。私が用意するのは航空チケット代だけだ。


日本の介護用品は非常に優れているが、これは健常者と障害者が一緒に作り、そこに日本のエッセンスが込められたから優れたモノが出来た。コレと同じ構図が世の中には広がっている。それを「人間社会」と呼び、そこでは手足があるかないか、など無関係だ。

繰り返すが、もちろん、健常者にも障害者にもいろんなのがいる。脳性麻痺の人に心無い誹謗中傷をする馬鹿もいる。見向きもせずに通り過ぎるだけの人もいる。しかし、中には立ち止まって「どうされましたか?何かお困りではありませんか?」という人も必ずいる。


それが社会を形成する人間だ。



介護の世界でも、中には「こんなところ姥捨て山だ」と言い捨てる愚か者もいる。先ほどの「高齢者の奴隷」がそうだ。自分などはジジババの奴隷であり、姥捨て山の観測係とでも言いたいのだろうが、私にはそこまで謙遜して、自分を卑下するつもりは毛頭ない。

だから利用者の家族が「姥捨て山」だと思いながら、高齢者施設に自分の親を放り込んでも構わない。ただ、そこで働く私がそうはさせない。こんな安心で安全で、快適で居心地の良い姥捨て山なら大歓迎だ、最後の居場所として申し分ない、と思わせる努力こそ私の生き甲斐となる。特別養護老人ホーム「うばすてやま」でもオープンしようかと思う。「地獄の一丁目」や「天国に一番近い老人ホーム」でもいい。ユニークじゃないか。

綺麗事でも何でも勝手に言うがいい。何もできない私が唯一、出来ることはそれなのだ。そう思い、そう考え、そう働く。すると、必ず、それを見ている人もいる。そして極稀にだが、誰かに伝わることもあろう。






珠代さんが「みかん」を剥いてくれた。それはまあ、丁寧に綺麗に剥けていた。先月までジャージのファスナーを「上げて!」と言っていた85歳が、だ。以前、厨房から上がってくる「みかん」はすべて剥いてバラしてあったが、その理由は「ゴミが出る」とか「食べ終わるのが遅い」とか「掃除が大変」という「健全者」の身勝手だった。しかし、ある日を境に「そのままのみかん」が上がるようになる。剥ける人もいるからだ。すると不思議なものだ。

食べるのだ。残す人が激減するのだ。誰が剥いたかよくわからない「みかん」は喰いにくいのだ。しかし、隣の席のお友達なら話は別だ。何もできない私だが、どうだ。私は「みかんの皮」をくっつけることが出来た。ちょっと酸っぱいが、私の革命の狼煙だ。

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あきぼん)
2011-05-26 22:05:32
義務と権利、人権と迫害と・・深く広く考えれば考えるほど難しい事で、同時にいくら語っても平行線であり語りつくせない事ですね・・

浅学な私には語れないテーマでありますが、日々考えさせられたりする事があったりするテーマでもあります。

私の理解できる範囲で申しますと
千代太郎様が語っている「みかん」 は、
私の理想であり願いです・・・・

私は色々な会社に就職しましたが
程度の低い職場の環境と言うものは、良くも悪くも形成されています。

利己主義や損得の物差ししか持っていない
現在の人間の有り方の環境の中では
千代太郎様のやっている事は
理解され辛いのが現実で、その中で理想を掲げ実行するのはそれ相応の力量と覚悟と苦労が要るとお伺いします。

疲れたら息抜きに地元に来てください、お互い
いっけんにグチ話を聞いて貰って
一杯やりましょうw

きっといっけんなら
「間違って無いならガンガン行け!」と言うはずですw
返信する
Unknown (久代千代太郎)
2011-05-29 12:42:53
>あきぼん さん

ご無沙汰です。

息抜き、必要ですな。愚痴を安ワインで流して頑張りましょうか。いっけんには「ジョージア」のカフェオレを用意しておきます。

返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。