忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

泉氏「議長に礼尽くした」旧統一教会の質問巡り

2022年10月11日 | 忘憂之物







詳細はともかく、巷には「人に好かれる条件」みたいな本があったりする。逆に「人から嫌われない~の方法」みたいなのもある。とある仕事場の休憩スペースに見つけたので開いてみると、私自身が「好かれる条件」の過半以上を満たしていないと判明するが、とくに落ち込んだり反省したりもせず、相変わらず寂しい思いをしている(友達がいない。ツレは大阪)。ま、まあ、私の良さはオカンと妻と犬、あと私しか知らなくていい。

それはともかく、人から「好かれない言動」には留意したい。嫌われるのは仕方ないが、好かれないのは支障もある。「人から好かれない言動」とは、例えば「自分のことばかり言う」とか「何でも他人のせいにする」「悪口ばかり言う」「ネガティブなことばかり言う」などが列挙される。立憲民主党や日本共産党のことだと支持率を見なくてもわかる。

「立共」の所属議員も嫌われるのは覚悟の上だろう。最近話題だが、沖縄の基地反対派の抗議活動などもそうだ。あれを見て「自分もやりたい」とはなかなか思わない。ひろゆきが「座り込み」にチャチャ入れて発狂しているが、連中は日本人や沖縄県民から嫌われることなど微塵も気にしていない。万が一、気にしているのがいれば、まだ間に合うかもしれない。

単なる気の迷いもあるし、その場の空気もあるだろうし、なんというか勢いだ。引き返せる可能性はある。「我々を嫌うなど許さない。差別するな。勉強しろ」と染まってしまう前に逃げ出すことをお勧めする。誘われて参加して、バイト感覚で行ってみて覚えた違和感は大切にしたい。自分の心に良心と常識が残る証左だ。自分を信じて「もう行かない」ようにすればいい。反省して真人間になった人が日本人は好きだ。ちゃんと「おかえり」と言ってくれる。

ちなみに安倍さんは多くの日本人から好かれていた。「好かれる人の条件」などをみてみると、まさにそのまま安倍さんが思い浮かぶほどだ。だからこそ特定野党やマスコミが「安倍一強」と表するほど、分厚い「岩盤支持層」があったと連戦連勝の国政選挙を思い出さなくてもわかる。我ら夫婦もそうだが、多くの有権者は「安倍ファン」でもあった。自民党ファンではない。

また、亡くなった後の著名人の追悼コメント、雑誌などの追悼特集をみても、安倍さん本人と交流のあった人らは「人柄」を好きな理由とするのが少なくなかった。人間、突き詰めれば「人柄」に現れてくるものだと改めて痛感する。生前の安倍さん本人と交流がなかった一般人、献花の列に並ぶ多くの人らは「長年、日本を支えてくれたから」「外交と経済で日本を良くしてくれた」とか、人柄ではなく政治的な業績を言う人もいた。それでもテレビなどを通じて知る「安倍総理」は画面越しでも人柄が垣間見えていた。

安倍さんは政策的には「リベラル」と評されることもあった。私もそう思う。しかしながら、人柄はやはり「保守」だったのではないかと思う。

西部邁氏の本には「保守思想にとって、家族という極小の集団が極大の意味を持つのは、ほとんど自明のこととされている。安定的に持続する感情こそが合理の前提をなすとみなすのが保守思想である」(保守思想のための39条)とか書いてある。

それから「平均において、そうした感情が保持されるのは家庭だといえよう。だから多くの場合、家族(ファミリー)および、その活動の場としての家庭(ハウスホールド)を(フェルディナンド・テニエスのいう)ゲマインシャフトの、つまり「生命有機体のごとき感情共有体」の典型とみなす、それが保守思想のやり方である」(同)と続く。耳から煙出る。

私の脳がパンクして鼻血が出た。耳と鼻を抑えながら慌てて他も読んでみると、中西輝政氏と八木秀次氏の対談本に、実にあっさりと「保守思想は生活感覚」(保守はいま何をすべきか)という一文を見つけて鼻血は止まった。ずいぶん前の私はそのページにブックイヤー、つまりページの端を折っていた。いろんな本を読む人なら普通のことだが、安倍さんが「山形有朋」のページの端を折っていた、と菅前総理が弔辞で読んだら「そんなことするか?」とケチをつけるのがいた。そんなことする。お前が知らないだけだ。

私なりの解釈だが、いわゆる「保守」のイメージとは「ちゃんとした人」ということだ。家庭内でちゃんと「おはよう」とか「ただいま」などが聞こえてくるイメージだ。「ありがとう」「ごめんなさい」が言える人らだ。子供も同じ人間、人類みな平等、子供の人格を否定、権利を蹂躙するする気か、などとして親を名前で呼んだりしない。ちゃんと「おかあさん・おとうさん」と呼べる家庭だ。学校給食に「ウチの子に、いただきます、とか言わせるな。金払ってるだろが」と言わない人のことだ。

あと「我が家で夫の家庭内ランクは犬の下です」とか「子どもが二十歳になったら家族解散式をしたい」と言わない人らのことである。こういうのを見たり聞いたりすると、所詮は他人様、余所は余所と知らぬ顔はするが、我が家では絶対にそんなことはしない、と思う人らのことでもある。

なにか政治的な抗議があるなら、ちゃんと許可を取ってルールを守って粛々と行う人らのことである。「目的」のための「手段」を選べる人らのことである。直接的な暴力も法内外の揉め事も苦手ではないが、敢えてそれを選ばない人らのことである。何事においてもルールを守って、ついでにマナーも守るモラルある人らのことである。私ならそれを「保守」と呼ぶ。

朱に交わればアカくなって同じ穴の狢は類が友を呼ぶのだろう。国会はテレビ用のパフォーマンスの場ではないが、これをしないと「コンナヒトタチ」の支持は得られず、次の選挙で無職になる可能性が高まる。公党の代表とはいえ古株議員から「街宣演説で何人集まるんだ」と嘲笑されても仕方がない。こんなのが野党第一党の代表というから、いまの日本、落語にもならない。

安倍さん亡きあと、自民党内では中国人が幅を利かせている。現職の大臣がテレビの生中継で「中国の名前は出すな」「セキュリティクリアランスは口が裂けても言うな」と釘を刺されたと言った。終わりの始まり、と言いたいところだが、もっと前から終わりは始まっていたのだろう。

自治体レベルでも「外国人に住民投票を」とか「外国人を公務員に」みたいなのも後を絶たない。チベットやウイグルを知らない。香港のことも他人事だと思っている。しかし、いま、気づいた日本人や心ある外国人も警鐘を鳴らす。長渕もコンサートで「外国人に日本の土地を売るな」と言わねばならなくなっている。徐々にではあるが、危機感は共有され始めている。深刻なのは遅きに失したと思しき浸透レベル、何らかの理由でもう「戻れない」人らが国政の場に、経済界に、芸能界に、マスコミに溢れ出ていることだ。

たぶん、もうキレイ事を言っている場合ではない。





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