神奈川県庁合唱団

横浜で活動している、神奈川県庁合唱団の練習報告、活動予定、団員募集。ミュージカルから合唱組曲まで幅広く

良寛相聞を歌うために8(最終回)

2011-11-20 02:04:32 | 曲解説
最終回は1曲目の「相聞Ⅰ」について。
この歌は、与坂の里(新潟県三島郡)の山田杜皐宅に泊まっていた時のものです。
この時書かれた歌は7首あり、直前に書いたものの中には貞心尼が良寛に連れて行ってくださいという意味の歌に対して、「あなたを誘って行くのなら行ってもよいのだが、他人が我々を見て変に思ったなら、どうしよう」という意味の歌を返してます。
良寛といえども、世間の目は気にしていたし、貞心尼にたいして気を使ってるのがわかります。
くどくなりますが、良寛が単に子供好きで人目も気にしない世捨て人ということではないのです。
山田家での楽しい時間も夜になり、良寛は一度帰ります。帰り際に、「この続きは、また明日にしましょう」という歌をおくります。
そして、次の日の早朝、良寛は訪れ、貞心尼は次の歌を贈ります。
「歌やよまむ手まりやつかむ野にや出む君がまにまになしてあそばむ」
この歌は、良寛の元歌があり、それを学習した成果です。また、4曲目で使われている夢のうたの「それがまにまに」をうまく取り込んでます。良寛にとっては自分の歌を高めて返され、感激したのではないでしょうか。
その、良寛からの返歌は
「歌やよまむ手まりやつかむ野にや出む心ひとつを定めかねつも」
ほとんど、オウム返しです。
もはや心は一つです。その一つの中で、どこまで自分を出せるかという、そのぎりぎりの表現が、この歌の面白さです。
曲の中でも、男声と女声が溶け合いつつも、お互いを主張する、そのギリギリの緊張感が牧歌的な抒情的な曲の中に密かに表現できたらと思います。
良寛については、まだ、書ききれない感じはありますが、この辺にしておきます。
今度の、火曜日のコンサート、良寛の深さを少しでも表現できればと思います。
最後の最後まで、磨いていきましょう。

良寛相聞を歌うために7

2011-11-14 02:00:22 | 曲解説
県庁合唱団の演奏会もいよいよ来週の火曜日にせまりました。
いままで、練習の中で話したことを整理する意味もこめて書いてきましたが、それもあと少しです。
さて、手まり ですが、きれいなメロディ、きれいな詩というだけで歌ってしまってはいけないと思ってます。良寛は深い苦悩を背負って生きていました。また、この時代は大きな地震があったり、飢饉があったりかなり厳しい時代でした。また、この地方は貧しい地域で、子供が売られていくのが当たり前だったようです。良寛が遊んでいた子達も、次の日は売られていなくなってしまうかもしれないのです。病気、事故、飢餓などで死んでしまう子もたくさんいたことでしょう。冬の間山の中にこもっている間、子供たちがどうしているか心配だったでしょう。
「われもまじりて」というところがテンポが速くなりますが、冬が終わって一刻も早く子供たちの姿を見て、そこに加わりたいという、気持ちを表現できたらと思います。
良寛が美しい言葉にこだわったのは、自分の思うようにならない実世界の厳しい現実を踏まえたうえで、歌の世界は自分の理想の美しい世界を実現したかったのかとも思います。
くどくなりますが、表面上のきれいさだけが良寛ではないということです。

良寛相聞を歌うために6

2011-11-09 00:56:50 | 曲解説
良寛の出家について、補足。
当時は、田沼意次の情実政治の時代。
良寛はまっすぐな性格。名主としての期待は当然情実政治のなかでうまくやることだったでしょうが、良寛はそんなことはできなかった。
そこで、清廉潔白であるはずの仏門に帰依したのではとも考えられます。
ただ、単に逃げ込んだということではなく、僧侶として大成しようという野心、名僧知識となりて両親に報いたいという希望が、少年の胸に燃えていたのでしょう。
修行に関して、良寛はとてもまじめに取り組んだそうです。
しかし、実際の寺での修業は下っ端は飯の炊き出しや掃除ばかりで、こんなことをやって悟りに近づけるのかという疑問を持っていたようです。その頃の歌には、今悟りを開いている僧侶も昔はこうやって修行していたと、自分を納得させるようなものもあります。
また、真剣に考えるあまり孤立もしていたようです。
そこまで、頑張った良寛ですが、円通寺の修行でも結局は認められることはなかったのです。なぜなら、大きな寺院の僧侶ともなれば、多くの人間をマネージメントする能力が必要で、そこが彼には欠けていたからです。
良寛の書いたものに以下のような意味の詩があります
「自分は孤独であり、加うるに疎庸で、営々と仏道修行に努めることもできない。所詮自分は世に出るような人間ではない。到底出世することはおぼつかない。一鉢を携えて行脚に日を暮らし、時には寺の山門のほとりで子供を相手に慰めるくらいのものである。」
良寛というと相馬御風が子供向けに書いた「良寛さま」が有名で、そのイメージが強いが、この本は子供向けで、内容も浮世離れした良寛のイメージを作るような逸話が多い。でも、多くの逸話がそうであるように、どこまで本当かわからない。
私が調べた良寛は、かなり人間臭く、こちらのほうが共感を覚えます。
良寛が悟りを開いたとしても、それはかなり晩年で、その前に、かなりの人としての苦悩があったことがしのばれます。
まだ、続きます

良寛相聞を歌うために5

2011-11-05 13:22:45 | 曲解説
今回は2曲目 ”手まり”について
この曲は、良寛の最も有名な歌の一つです。
良寛の特徴である、類型歌もたくさんあります。
また、この曲だけは、ほかの4曲と違い相聞歌では、ありません。
とても和調でメロディ、言葉がきれいで、我が家ではもののけ姫の歌と言われてます。
こんなに美しい歌を書いた良寛について少し説明したいと思います。
良寛は新潟県出雲崎の旧家橘屋の長男として生まれました。父の伊南は風流人で、家業に力を注がず、一家は衰えていきます。
家業に力を注がずというより、商売で敗れ、歌に逃避していたのではないかと思います。
橘屋があるのは出雲崎で、ライバルの京屋は尼瀬にあり、佐渡渡航には尼瀬のほうが有利だったのです。
そんななかで良寛は18歳で名主見習いをさせられます。
しかし、彼には調整能力がなくすぐにいきづまります。
代官と農民のいさかいの調停のときに、お互いの意見をそのまま伝えて、争いを収めるどころか油を注いでしまったこともあるそうです。
そして、良寛は出家します。
その理由は諸説ありますが、「一夕友達と一緒に青楼に登り、痛快な馬鹿遊びをして大金を立ちどこりに投資し、しかも何の悔恨の色もなく帰途寺門に走って剃髪することになったのだということである。」(相馬御風「大愚良寛」)というのが、練責の好みです。
まだ、若い良寛が自分の力のなさを思い知らされ現実逃避したのではないかと思います。
出家後については次に続きます

良寛相聞を歌うために4

2011-11-01 03:31:08 | 曲解説
3曲目君や忘る道 は3つの詩から構成されています。
最後の部分の「またも来よ柴の庵を~」の部分が、時系列的には最初になります。
二人が出会った最初の出会い、秋の夜、深夜にわたるまで話し合います。その帰りに、貞心尼が、また、師匠をお訪ね申しましょうという意味の歌を詠みます。それに対して、またおいでなさい となるわけです。
しかし、貞心尼は約束したのに現れません。そこで、良寛が貞心尼におくったのが「君や忘る道やかく~」です。この歌の中で”音づれ”とあります。良寛は万葉集を読めというぐらい、万葉集を愛していました。その時代の言葉では”音づれ”とは、待ち望んでいる音が聞こえてくるという意味があるそうです。待ち望んでいる音、待っていた人が現れて、その音が聞こえてく そのへんから 訪れる という言葉が派生したそうです。”音づれ”は言葉の意味からも、待ち焦がれているのがわかります。
貞心尼が10代で医者と結婚し、死別します。一生独身の良寛より恋の駆け引きにはたけていたでしょう。良寛を焦らしていたのではないかと想像してみたりします。この後の手紙のやり取りでも、良寛が積極的に会いたがっている様子があります。すでに、最初の出会いと、立場が逆転してしまっています。
良寛の手紙にたいして、貞心尼は多忙でいけないが、心はお師匠様のもとに飛んでいるという歌を返します。また、修行に迷っているという手紙もあり、それに対して良寛がアドバイスしてたりします。
二人は、たった一度の出会いから歌を取り交わす仲になり愛情を高めていったのです。
by 技マネ