神奈川県庁合唱団

横浜で活動している、神奈川県庁合唱団の練習報告、活動予定、団員募集。ミュージカルから合唱組曲まで幅広く

ホームページリニューアル中

2011-10-30 20:34:24 | 今後の活動
県庁合唱団のホームページ、長らくプララというところサーバを使って運営してましたが、最近、サーバのレスポンスが悪く、なんとなくplalaのやる気を感じません。
また、パソコンを更新したところ、今まで使っていた忍者というソフトが使えないとか、いろいろ悩んでいたところ、KDDIが運営するサイトを発見しました。
そこは、無料の上、広告もKDDIだけと(無料のところは消費者金融の広告が入るの多いんですよね)いい感じです。なにより、自分のパソコンにデータを持つ必要がなく、ホームページ専用ソフトも必要ありません。
てなわけで、リニューアル中です。
新ホームページ
しばらく、併存しますが、こちらを中心にするつもりですのでよろしくお願いします。

良寛相聞を歌うために3

2011-10-29 03:26:35 | 曲解説
4曲目の後半は、初めて会った時の詩です。
夢という言葉がキーワードになっていきます。
それぞれ、違う意味が込められていきます。
「君にかく あいみることの 嬉しさもまだ
    醒めやらぬ 夢とぞおもう」 貞心尼
あなたにこうしてお会いしたことの嬉しさは、
いまだ覚めやらず、これは夢なのかと思います。
この夢は、眠っているときの夢、
醒めてしまうとなくなってしまう夢です。
「これは夢なのかと思います」とは、不安な気持ちがうかがえます。
憧れの良寛に会ったのですから、幸せの絶頂でありながら、この幸せがいつまで続くのかという気持ちもあったでしょう。
それに対して、良寛は
「夢の世に かつ 微睡みて 夢をまた
 語るも夢も それがまにまに」
夢の世に = 現実の世界だって夢のようにはかない
夢をまた = 貞心尼との出会いは、微睡の中の夢(しあわせ)
語るも夢 = あなたに、語ってることも夢のようだ
それがまにまに =それはそれで夢のままで良いのでしょう
「それ」も夢のことですが、ここまでくると通り一辺倒の言葉では表現できないので、あえて夢でではなく、”それ”ということばで表現しています。
何回も出てくる、夢がキーワードになります。
そして、”夢”を良寛が漢文詩で表現したテキストを織り込み、説得力を与えてます。
4曲目、「相聞Ⅱ」は8分以上の大曲。
二人の心の動きを緊張感を持続させて表現できるようにしたいです。
by 練責

10月25日(火)練習報告

2011-10-27 05:17:11 | 練習報告
SOP 5人 Alt 7人
TEN 2人 Bas 6人
前半は、ジャズミサの練習でした。
キリエの最後の和音、今回も特訓。
徐々にですが、和音が見えてきてます。
本番には間に合うようにしたいです。
全体的に普通に歌わないように、ジャズのリズム・フィーリングを出すように。
後半は、マイフェアを通しました。
少しずつ、動きがスムーズになってきました。
残り、一月を切りました。暗譜を完璧にして、自信を持って歌えるようにしましょう。

横浜混声の方が、コンサートの宣伝に来ました。
サロンコンサートの直前の日曜日ですが、是非、皆さんで聞きに行きましょう!!
来週は良寛相聞の練習です。

良寛相聞を歌うために2

2011-10-23 02:10:06 | 曲解説
以下、練責が書物やインターネットで調べたことから、練責の想像も含めて書かせていただきます。練責はもともと理系男子ですし、良寛のことはあまり資料が残っておらず、いろいろ解釈があるようですので、事実異なる点があるかもしれませんが、そこはご容赦下さい。また、ご意見がある方、是非メールをください。

良寛70歳、貞心尼30歳で二人は出会います。
良寛の書にふれた貞心尼が教えを受けるために良寛を訪れるのです。
でも、最初に貞心尼が良寛のもとを訪れた時、良寛は不在で貞心尼は会うことができません。
良寛は貞心尼のことをうわさで聞いていて、あまりよく思ってなかったそうです。歌好きの尼など鬱陶しいと思っていたとあります。この、最初の訪問も、もしかしたら居留守を使ったのでは、と想像したりします。
良寛に会うことができなかった貞心尼は良寛に手作りの手毬と、一つの歌を残します。
「これぞこの仏の道に遊びつつつきやつきせぬ御法なるらむ」(4曲目の冒頭に使われます)
手まり、これこそが仏道に遊びつつ、ついてもついても尽きることのない御法を体現しているのかしら  というの、大意です。
この歌を読んで、良寛の気持ちは急激に動きます。
良寛というと手まりを子供と一緒につくというイメージが強いのですが(2曲目の手毬がまさにそう)、そのことについて、彼は詩の中で「児童と手毬なんてかついて一体どういう訳なのだと問われても、相手に説明のしようなんかない」という、記述があります。手毬をつくということは良寛の寂しい心が実は背景にあるのです。なぜ、そうなったかは詳細は後に書きます。
そんな、良寛の手毬について、一つの明確な理由を貞心尼は提示します。手毬をつくことによって仏に近づいているのだと。
良寛はこれにこう答えます。
「つきてみよ ひふみよいむなやここのとお」
解釈は「さあ、あなたもてまりをついてごらん。ひふみよいむなやここのとお。てまりをつく、この行為の無限の反復の中に仏道の悟りがひそんでいるのだよ」
良寛は貞心尼から歌で、自分がやっている手まりが仏道に近づくためのものだという考えに、同調していきます。
つく という言葉には弟子につくという意味もあり、貞心尼の弟子入りが認められたという解釈もあります。この、返歌をもらった貞心尼の喜びもすごかったでしょう。
また、「ひふみよいむなやここのとお」は 悟りに至るキーワードとして、この曲全体に一貫して使われていきます。
二人の心が高まっていくところでも、坊さんと尼さんという本来そういう関係が好ましくない中で、心が接近していきますが、常に「ひふみよ・・・」それをおし止めようとしたでしょう。でも、その上で二人の関係は接近していきます。

その3に続く

洋光台音楽の集い

2011-10-21 21:00:58 | 演奏会情報
既出ですが、明日(10月21日)
洋光台第1小学校で洋光台音楽の集いが開催されます。
マロ先生が指揮で、練責やS氏も出演します。
お時間ある方、是非聞きに来てください
洋混の出演は14時25分ぐらいです
演奏曲は宵待草、ゴンドラの歌です。