何度か述べたとおり、知覚は具体的延長物の連続を「それらにたいする私たちの可能的行動の行き止まる地点、したがって、それらが私たちの欲求にかかわることをやめる地点」で区切ります。「それはただ欲求の示唆と実生活の必要だけにしたがって、延長物の連続の中に区画を引く」のです。この延長物の連続は当然時間の経過に伴って刻々と様相が変化します。このとき「私たちは恒常と変化というこの二つの項を分離し、恒常性を(知覚によって分割された)物体によって、変化を空間における等質的運動によってあらわそうと」します。この等質的運動の環境として「私たちは感覚的諸性質の連続すなわち具体的延長物の下に、限りなく変形可能で縮小可能な目をもった網を張りわた」します。「たんに考えられるだけのこの基体、任意で無限な分割可能性のこのまったく観念的な図式が、等質的空間」(以上「物質と記憶」第四章・一部再掲)です。物質を物体に分割すること、「非連続的な物質的宇宙を、位置すなわち相互関係をかえる外郭の截然とした諸物体によって構成しようとする」ことは、したがって実生活の必要や行動する必要に相関的だということになります。だとすればこの分割をいくら推し進めたところで、物自体の認識に到達しないのは当然です。
ところがベルグソンは次のようにも述べています。「恒常と変化というこの二つの項を分離し、恒常性を物体によって、変化を空間における等質的運動によってあらわそうとする」ことは「直接的直観の所与ではないが、しかしまた科学の要求することでもない。科学は反対に私たちが作為的に切り取った宇宙の自然的な連節を再び見いだそうともくろむからである。そればかりか、科学はあらゆる物質点の間の相互作用をますます完全に証明することにより、外見に反して、やがて見るように宇宙の連続という思想に帰ってくる。科学と意識は、意識のもっとも直接的な所与と科学のもっとも遠い理想を考えさえすれば、窮極において一致している」(以上「物質と記憶」第四章・一部再掲)。もし科学が「生来の知覚によって始められた分割をいっそう遠くまで押し進める」(この引用は「エクリ・エ・パロール」所収の「「ジェームズとベルグソン」と題されたW・B・ピトキンの論文について」からのものですが、以下単に「エクリ・エ・パロール」とだけ表記します)ものだとすると、この二つの記述は矛盾しているのではないでしょうか。矛盾していないとすれば知覚の行う分割と科学の推し進める分割はどこが違っているのでしょうか。
これについてはベルグソン自身が「エクリ・エ・パロール」の文章の中で説明しています。「(前略)わたくしはもろもろの物への分割はわれわれの比較能力に相対的なものであると考えている。物質的世界に向けられたわれわれの感覚は、われわれの未来の行動につけられた道であるところの分割線をそこに引くのである。それは、われわれの潜在的行動であって、われわれの目がはっきりとした輪郭をもった対象をみとめてそれらを他のものから区別するときに、ちょうど鏡からのように物質からわれわれに差し向けられるのである。科学は、われわれの想像力に支点を与えるために、生来の知覚によって始められた分割をいっそう遠くまで押し進める。それは感覚の仕事を同じ方向にのばすのである。科学は、われわれの感覚がすでに物質を解体して個別的な対象にしたその対象を分子や原子へと、あるいはその他のやり方で、解体するであろう。ところで原子、分子、力の中心等々は、「個別的な対象」自身と同じように絶対的実在性を持つものではないようにわたくしには思われるのである」(「エクリ・エ・パロール」)。――ここで語られている「科学」は、厳密には化学を指していることが「物質と記憶」を読むとわかります。化学が「科学」と違う点は、それが「物質よりはむしろ物体を研究する」こと、物質の分割をいくら進めても物体が様々な微粒子へと名前を変えるだけで、物体の持つ固体性という観念は温存されることです。反対に「科学」においては、微粒子の物質性は徐々に解消される方向に向かっていく、とベルグソンは考えます。「たとえば原子を液体またはガス体とせずに、固体として表象することも、また原子の相互作用を衝撃で現わして(原文ママ)、全然ちがった現わし方はしないということも」、学問的に何ら理由や根拠があるわけではありません。それは単に身体と外界との関係で固体が最も影響力を持ち、外界に働きかける上で固体に接触することが有効であるという「実生活の習慣と必要」に基づいているのです。「しかし衝突する二物体の間に現実の接触が決して存在しないことは、きわめて簡単な実験で示される(原注:マクスウェル「遠隔作用」)。また他方、固体性は物質の絶対に明らかな性質だとはとうていいえない(原注:マクスウェル「物体の分子構造」)」(以上「物質と記憶」第四章)。したがって固体や衝突といったイメージは、物質の認識に何ら寄与しません。
実は「感覚に与えられているものの中には」区別すべき二つのものがあり、科学の中にも区別すべき二つのものがあるのです。それは前者においては「空間においてはっきりと切り取られた、対象の知覚と、感覚的に連続するものを形づくっている質の知覚」です。後者においては「一つは概念であり、もう一つは数学的関係あるいは法則」(以上「エクリ・エ・パロール」)です。対象の知覚または概念の形成に向かうとき、「それは生活の運動の延長であって、真の認識には背を向けている」(「物質と記憶」第四章)のに対して、質の知覚または法則に向かうとき、知覚と科学とは実在的なものの中で動いていると言えるでしょう。
「まず感覚に与えられているものに関して、わたくしは次のことを明らかにしようと試みた。すなわち、もろもろの物や対象への物質の分割がわれわれの必要に全く相対的であるのに対して、感覚的な質の知覚ははるかにわわれの必要から独立しており、したがってより高い客観的実在性を表わしているということである。おそらく、それらの感覚的質の知覚はすべての意識的存在において同じものではなく、それは感覚器官の複雑さと完全さの度合に依存しているはずである」(「エクリ・エ・パロール」)。「感覚的な質の知覚ははるかにわわれの必要から独立して」いるという意味は、それが物質の分割のように個体の努力に依存することはほとんどないということです。先に引用したシュヴァリエとの対話における発言を思い出しましょう。ベルグソンは次のように述べています。「わたしは、自我の性向が努力の感情を中心にして回転している、と見る」。この「努力」は個体の努力を意味しているのではなく、いわば生物学的努力、一つの種が到達しその成員全体によって維持されている努力を表しています。それは種の成員全体によって維持されあらゆる慣習や制度の土壌となっているからこそ、恣意的に変更することはできないのです。到達した点が高ければ高いほど知覚される質も濃縮されたものとなり、低ければ低いほど稀薄なものとなるでしょう。そしてその「最低の極限」には「物質性そのものであるような極度の稀薄さ」があるのです。たとえば自分の見ている世界が他人の見ている世界と全く違っていると考える人はいません。しかしまた自分の見ている世界と昆虫の見ている世界が同じものだと考える人もいません。生活のリズムが物質の持続のリズムとほとんど変わらないような生物の知覚する世界を想像してみましょう。そこでは「知覚された質は自ずから分解され、低音部の音階を聴くときに経験するような、反復され、継起されながら、わずかに(その生物の意識の)内的連続性によってのみ結び付けられているような外的刺激の連続体」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)として感じられているのではないでしょうか。「質というよりは量であるこの物質性にわたくしはある「絶対的」実在性を帰するが、ただしその場合の意味は、ひとが肉眼に見えるある組織があらわす単純化された姿に対して顕微鏡でみとめられるその組織の何千もの細胞の方が、ある絶対的実在性をもつと言うことがある、その場合と同じ意味である」(「エクリ・エ・パロール」)。「われわれは物質を構成しているそれらの元素的な震動をそれらが結成(凝縮)する感覚的質のなかに保っている」(同上)のです。
一方科学の最終目的は「数学的関係を見いだすことであり、さらにこの種の関係に物質を解消することでさえ」(「エクリ・エ・パロール」)あります。「概念は科学を助けるが、それらは科学にとって暫定的な図式」(同上)にすぎません。その意味は、概念は物質の諸性質を規定するものではなく、「創造的進化」の表現を使って言えば「知性がそれによって諸事物に注意を固定するところの行為の表象」(象徴)でしかないということです。「ところでわたくしは、このような幾何学(数学的関係)が物質の根底そのものであり、物質についてわれわれのもつ知覚に内在すると考える」(「エクリ・エ・パロール」)。この文章は先に引用した「われわれは物質を構成しているそれらの元素的な震動をそれらが結成する感覚的質のなかに保っている」という文章を反転したものとは言えないでしょうか。
要するに知覚が「欲求の示唆と実生活の必要」にしたがって物質を物体に分割するとき、化学が「抽象と一般化と推論の機能」(「変化の知覚」)、すなわち「概念的思考」(同上)によって知覚を補うとき、化学は確かに知覚の延長線上にあります。しかし質の知覚と科学が発見する法則の関係は、働く方向が逆であると言わなければなりません。この点について質の知覚という視点から少々説明を加えておきます。
「もし知覚の能力が物質と精神の両方向に無際限に広がっているなら、概念によって思考する必要はなく、まして推論する必要もないでしょう」。現実的な知覚能力が限られているからこそ、概念的思考によって知覚の隙間を埋めたりその範囲を拡張したりする必要が出てくるのです。この知覚が見落とした隙間や推論によって拡張された範囲のうち、計量可能な部分は実証科学によって次々と開拓されていきます。残った領域では必然的に「すべてがすべてにとって異質的」なので、それらを統一しようにも何一つ共通なものを見出すことはできません。「こうして、異なった概念で武装した多くの異なった哲学が出現」し、「たがいに果てしなく争うこと」になってしまうのです。しかしそもそも知覚の能力に本当に限界があるのかどうか、知覚を膨張させ拡大することはできないのかどうかを問うてみる必要があります。もし「知覚の中にわれわれの意志を挿入し、そしてこの意志が自己を広げながら事物に関するわれわれの洞察を広げて行く」ことができるなら、「今度こそわれわれは、感覚と意識によって与えられたものを何一つ犠牲にすることがないような哲学を獲得する」(以上「変化の知覚」)ことができるでしょう。
もっともそのような知覚の拡大はどう考えても不可能であるように思えます。というのも注意力によって感覚を研ぎ澄ませることはできても、「最初からそこになかったものを、浮き上がらせることはできない」筈だからです。しかし「何世紀この方、われわれが自然的には知覚しないものを見、そしてわれわれにそれを見せることを、まさに職分とする人々」がいる事実を忘れてはなりません。芸術家と呼ばれる人達がそれです。たとえばターナーやコローの絵画を前にして「われわれが彼らの絵を受け入れ感嘆するのは、これらの絵の示すものをいくらかでもわれわれがすでに知覚したことがあるからです」。ただこの場合の知覚は「まだ現像液に浸けられていない写真の像」のようなもので、それが芸術家という現像液に浸かることによって顕在化した、という風に言えるかも知れません。通常の知覚のメカニズムを考えれば、これが単なる比喩ではないことに納得がいきます。もし仮に「判明な知覚は、実際生活の要求によって、広大な全体から切り抜かれたもの」でないならば、つまり知覚が全体を構成する実在的な部分であるならば、なるほど知覚を拡大することは不可能でしょう。そのとき知覚は「量的にも限定された一定の素材の集合から成り、われわれは、最初からそこに寄託されていたものしか、そこに見いだすことができないでしょう」。しかし一見当たり前で反駁のしようがないように見えるこの仮説は現実を正確に反映したものだとは言えません。何故なら通常の心理生活においては、精神は対象を直接的に把握するというより、むしろ自分の視野を制限するために、「つまり物質的利益の点では見ない方がよいものに背を向けるために」絶えず努力を払っているというのが真相だからです。したがって「われわれの認識が、単純要素の漸進的連合によって構成されるというのは見当違いで、それは急激な分解」、言い換えると運動の停止の結果を表しています。「われわれは、潜在的認識の果てしなく広い領域の中から、事物に対するわれわれの行動に関係するものだけを刈り取って、これを現実的認識とし、その他は無視して来た」のです。この取捨選択を一手に引き受けているのが大脳です。「大脳は役に立つ想起を実現し、なんの役にも立たないような想起は意識の地下室に押し込めておくのです」。同様に「知覚は行動の補佐として、実在の全体から、われわれの利害に関するものを孤立させます」。知覚は事物そのものを示しているというよりも、実在の全体から利害に関わる側面だけを浮き上がらせているに過ぎません。知覚は事物そのものを見ようと努めるのではなく、「あらかじめ事物を分類し、あらかじめそれらにレッテルを貼り付け」ることで満足するのです。「しかし時たま、幸運にも、感覚もしくは意識がそれほど生活に密着していない人々」、自然が知覚能力を行動能力に結び付けるのを忘れた特権的な人々、つまり芸術家と呼ばれる人々が出現します。「彼らは物を自分のためにではなく物のために見る」のであって、「単に行動のために知覚するのではありません」。この物を「物のために見る」ことこそ知覚の拡大という言葉に込められた意味と言えるでしょう。芸術はこのように知覚を膨張させ、実在をより直接的に把握するわけですが、ただしそれは「深さの点ではなくむしろ表面的にそうする」のだともベルグソンは付け加えています。何故かというと、実在を深みにおいて捉えるには知覚の拡大だけでは十分ではないからです。実在を深みにおいて捉えるには「形而上学的実在に関する知覚」の拡大、すなわち直観の拡大が必要です。「(前略)これによって先行した知覚が現在の知覚と結びつき、直接の未来自身が現在のなかに部分的に現れることができる」(以上「変化の知覚」)のです。
ここで次のような疑問が生じます。それは知覚の拡大とは結局夢を見ることと同じではないのか、という疑問です。事実、ベルグソンも「変化の知覚」の中で芸術家を「その意識の点であれ五感の一つの点であれ、なんらかの側面で、生まれながらにして「遊離」し」た人と定義しています。知覚と夢の違いについては「精神のエネルギー」所収の「夢」という講演の中で基本的な考えが述べられていますが、細かい論証は抜きにして結論だけを簡単に記しておくことにします。
知覚と夢の違いは何かと問われて誰でも思いつきそうなことは、眠っている間は感覚が外界から遮断され知覚機能が停止していること、思い出したり推論したりといった思考の働きが停止していることです。ベルグソンはこれらを次々に否定していきます。眠っている間、夢を見ている間も「わたしたちはやはり知覚し、やはり思い出し、やはり推理」していることは経験的にも実験によってもたやすく確かめられる事実です。それどころか知覚や回想や推理は眠っている時のほうが過剰に働くことも珍しいことではありません。しかし精神の領域においては、過剰さは必ずしも美徳ではありません。精神の領域において真に価値があるのは(調整の)正確さです。実を言うと、知覚も夢もメカニズムそのものにはほとんど有意な差はありません。では両者の本質的な違いはどこにあるのでしょうか。「わたしたちは要約して、こう言いましょう。目ざめていても、夢を見ていても、同じ機能がはたらくけれども、それらの機能は一方では緊張し、他方では弛緩している、と」(以上「夢」)。
知覚にしろ夢にしろ、回想と感覚が結び付くことによって生まれることに変わりありません。知覚と夢を一幅の絵にたとえるとすれば、感覚が下書きを準備し、回想がその下書きに沿って色付けしていくのです。ベルグソンはプロチノスの「エンネアデス」の文章を援用しながらこのことを次のように説明しています。「夜の(眠っているときの)感覚には熱も、色も、振動もあって、ほとんど(身体のように)生きていますが、(描きかけであるためまだはっきりとした輪郭が)定まらないものです。回想は(形が)はっきり定まっていますが、(魂のように)中身がなく、生命がありません。感覚は定まらない輪郭を固定する形態を見つけたいでしょう。回想はみたされ、中身をつめて、現実化するために、素材がほしいでしょう。両者はたがいに引きあい、影のような回想は血肉をもたらす感覚において物質化して、一つの固有の生を営む存在になります。夢になるのです」(「夢」)。これは夢について述べたものですが、全く同じことが知覚についても言えます。もし知覚のメカニズムと夢のメカニズムに違いがあるように見えるとすれば、それは一方で記憶の働きが過小に見積もられ、他方で感覚と意識が過大に見積もられているからです。目覚めている間も眠っている間も、感覚は実はさほど当てになりません。感覚を補い、感覚に認証を与えているのは記憶なのです。
しかしこうしたことは意識して観察に努めない限り、自覚する機会はまずありません。ベルグソンは夢から覚めた瞬間、夢の余韻が消えないうちに眠っている魂の状態を捉えようと辛抱強く自己観察に努めた経験を綴っています。その内容は次のようなものです。
ベルグソンは演壇に立って集まった聴衆に演説している夢を見ています。「すると聴衆の中からがやがやしたつぶやきが聞こえて来ます。それが強くなって、うなり声、ほえる声、恐ろしい騒ぎになります。しまいには「追い出せ、追い出せ」という叫び声が規則的なリズムで、四方からひびいてきます」(「夢」)。その瞬間ベルグソンは目を覚まし、隣の庭でけたたましく鳴いている犬の鳴き声を耳にします。夢の中の「追い出せ、追い出せ」という叫び声の正体は隣家の犬の鳴き声だったわけです。夢から覚めたベルグソンは夢を見ていた自分に向かってこう言い放ちます。「ようやく君を現行犯で捕まえることができた。君は叫んでいる聴衆の姿を見ているつもりだったのに、実際は犬が吠えていただけだ」。しかしこれだけのことならば、特に目新しい観察とも言えないでしょう。ベルグソンの観察が示唆に富んでいるのはこのあとの部分、夢の中の自分が目覚めた自分に向かって語りかけている部分です。「そうだ。私は犬が吠える声を聞いて、聴衆が叫んでいると思い込んでしまった。しかし犬が吠えるのを聞いてそれが犬の鳴き声だと判断するのに、君が何の努力も払っていないと思っているとしたらそれは大変な間違いだ。犬の鳴き声を犬の鳴き声と認識するだけのことにも、実はかなりの努力が払われている。君はおびただしい経験を一点に凝縮して、その聞こえた音の感覚の上にぴったり重ね合わせなければならないからだ。この二つの間にちょっとでも隙間があると、それは犬の鳴き声とは認識されないとしたら、私が犬の鳴き声を犬の鳴き声以外の何物かと思い込んだとしても無理からぬことではないだろうか。この調整作業は自動的に行われることはあり得ない以上、その都度細心の注意を払ってやり直すほかはない。これには感覚と記憶の同時的な緊張を要する。君は自分でも気づかないうちに何千という感覚を斥けつつその都度一つの感覚を選択し、同様に何千という記憶を斥けつつその都度一つの記憶を選び出しているのだ。こうして君が絶えず行っている選択と絶えず更新している現実への適応は、良識と呼ばれるものの本質的な条件を構成している。それは絶えずのしかかっている重力のように君を緊張状態に置き、知らぬ間に君を疲れさせる。良識を持つことは大変疲れることなのだ」。
「君が絶え間なく努力しているのに引き換え、私は一切努力をしない。何かに関心を寄せることもない。これが君と私との一番大きな違いだ。人は無関心になる程度に応じて眠るのだ。子供に添い寝している母親は物音には全く反応しないのに、子供のむずかる気配だけで目を覚ますことがある。これこそ関心を引くものに対して人は決して眠っていないという何よりの証拠だ」。
「目覚めている間、君が何をしているか教えてあげよう。君は夢を見ている私、過去の全体である私を縮小させ、現在の行動を中心とした極々小さな円の中に私を閉じ込めようと奮闘しているのだ。それが生きること、戦うこと、意欲することだ。人は夢から覚めることはできても、夢から脱け出すことはできない。夢とは「心的生活の全体から集中の努力を引き去ったもの」でしかないのだから」。
上に述べてきたことは、ベルグソンが「思想と動くもの」緒論で一般観念について述べていることと完全に対応しています。
一般化という言葉を様々な事物からそれらに共通の性質を抽出するという意味に解するなら、あらゆる生物のみならず生物の器官や組織さえ一般化を行っていると言うことができます。何故なら生物は周囲の環境から自分に利害関係のある部分のみ抽出し、その他の部分は無視するからです。この「量的次元の選択」が行われなければ、生物の行動は「無数の事物の中に散乱してしまう」ことになるでしょう。もちろん人間以外の生物においては抽象作用と一般化作用は身体によって体験されるものであって、思惟されるものではありません。とはいえ動物の表象も「そこに反省とある程度の無関心とが加わりさえすれば」、十分に一般観念となる資格を有していると言えます。人間も基本的な部分では一般性を思惟するというよりむしろ知覚している点では他の動物と同じです。知覚によって「反省の介入なしに、また意識の介入さえなしに」、極めて多様な対象からおのずと類似性が抽出され得るのです。「類似性はこれらの対象を一つの類の中に入れ、思惟されるというよりはむしろ演じられる一般観念を創り出す」でしょう。努力によって新たな習慣を獲得することのできる人間はもともとこの種の一般性を動物に比べはるかに多く所有している上に、思惟によって意識的に一般観念を創り出すこともできます。しかしそれも「今述べた類似性の自動的抽出すなわち一般化作用」の土台の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
この点をもう少し掘り下げてみましょう。自然界には二つとして同じものは存在しない以上、何物も他のものには類似していません。しかし何らかの点で類似していない二つのものはないという意味で、あらゆるものがあらゆるものに類似している、とも言えます。この両極の間に、レヴェルを異にする無数の一般化作用が存在しているのです。しかし「さまざまな事物またはさまざまな状態の間にわれわれが知覚すると称している類似性とは、何よりもまず、それら事物や状態に共通な特性であって、身体に同じ反応を起こさせ、同じ態度をとらせ、また同じ運動を始めさせるもの」です。この場合、類似性という言葉をどう解したらよいでしょうか。たとえば塩酸は炭酸カルシウムに対して常に同じように作用しますし、植物は異なった土壌から同じ元素を抽出します。また恐らくアメーバのような原生動物は様々な有機物質相互の類似性を感取することはあっても、それらの差異を感取することはないに違いありません。これらの例が示すように、類似性はその起源においては「客観的に力として働くのであり、深い同一の原因には同一の全体的結果が伴うというまったく物理的な法則によって、同一の反作用を引き起こ」(「物質と記憶」第三章)しているのです。差異を感取するためには対象相互の比較、つまりある程度発達した記憶機能が必要で、これは後天的に獲得されたものと考えるのが妥当でしょう。仮に動物が差異を見分けているように見えたとしても、それは知的に見分けているというより、本能がいくつかのバリエーションを持つことに由来する場合が多いのではないでしょうか。こうした客観的に働く類似性に倣って人間によって意図的に一般観念が作られるようになったのは、物質的・身体的枠組みに意識が挿入されることによって形作られた諸表象、すなわち態度や習慣が内省によって思惟の状態にまで高められたときです。類概念という一般観念を手にした人間は以後言語と呼ばれる人工的な一大運動機構を作り上げ、言語はもはや単に身体的ではない精神的な枠組みを表象に提供することによって、ありとあらゆる対象に観念を拡張することができるようになります。一般化作用とは習慣が行動の領域から思惟の領域へと上昇することであり、一般観念の問題を理解するためには行動と思惟の相互作用を参照しなければならないのです。
しかし問題はこれで終わりではありません。あらゆる観念の原型となる一般観念はどのようにして生まれたのか、無数にある類似性のうち、ほとんど手を加えるまでもなく一般観念として流通し得る本質的な類似性とはどのようなものか、という問題が残されています。一口に類似性といっても客観的一般性から遠くかけ離れたものもあれば、数が限られているとはいえ「事物の根底に由来するもの」も存在します。後者に由来する一般観念も個人的あるいは社会的有用性から完全に独立したものではなく、ある程度それらに相対的であるのは事実でしょう。しかしこの種の一般観念は不純物が少なく、そこから「実在のある側面の多少とも近似的なヴィジオンを獲得しうる」のもまた事実なのです。「会話や行動を目的とする言語のために」社会が粗製濫造した大多数の一般観念も、これら少数の観念に倣って作られたものです。「実在そのものに内属的で客観的一般性とでも称しうるもの」、欲求や生活の必要にほとんど依存していない一般性とは一体どんなものでしょうか。
ベルグソンはこの客観的一般性を産出する本質的な類似性が二つのグループに分かれ、それ以外のいわば二次的なグループと合わせて類似性には三つのグループがあると述べています。最初の二つのグループのうちの一つは生命に起源を持つものです。人間の目には、「生命自身が類や種という一般観念を有しているかのように、生命が一定数の構造計画に沿って進んでいるかのように、生命の一般的諸特性を生命が創立したかのように、最後に、またとりわけ、生命が(生得的なものに関しては)遺伝と多少とも緩慢なる変形との二重の効果によって生物を階層的系列に配置し、その段階に沿って上昇するにつれて個体間の類似性がますます増加することを欲したかのように」映ります。進化がどういう原理に基づいていると考えるにせよ、あるいは種や類をどう分類するにせよ、「私が一般観念として表す種や類などの諸一般性への細別の基礎は(事実上私の分類が不正確でも)原理的には実在そのもののうちに存するであろう。また、生物の器官、組織、細胞、さらに「行動」、等に対応する諸一般性も権利上は全く同様に基礎づけられるであろう」。このあたりの文章に関してはベルグソンの言わんとしていることがよくわからないのですが、わからないなりに推測すると、あとで述べるように類化・一般化はもともと生命の働きに由来するものであることを示したかったのではないかと考えます(「創造的進化」に次のような記述があります。「類の観念は、とりわけ生命の領域における客観的な実在に対応しており、この領域で、類の観念は一つの反論の余地がない事実、遺伝を翻訳している」)。さらにここで注目すべき点は、客観的一般性の例の一つに「行動」が挙げられていることでしょう。確かに「もしわれわれの知性がその諸概念を物質化し、その夢想を演じることが不可避なことであるとするならば、このように行動のなかに凝縮されている習慣は、[形而上学的]思弁にまで高められるとき、われわれの精神、われわれの身体、そしてこの両者の相互関係に関してわれわれが有している直接的認識を、まさにその根源において混濁させて」(「物質と記憶」初版の序言)しまうものかも知れませんが、行動という「概念自体は自然な区分に対応するもの」です。問題は「現実を人間活動固有の諸傾向にしたがって」分節すること自体にあるのではなく、精神をも同じ傾向に従って分節しようとする際に不都合が生じてくるに過ぎません。――他方これら生命に起源を持つ類似性のグループと並んで、もう一つのグループが存在します。それが物質に起源を持つ類似性のグループです。「たとえば、色、味、匂い、のごとき諸性質。酸素、水素、水のごとき諸元素または化合物。さらに、重力、熱、電気のごとき物理的諸力」――これらの観念は物質世界から直かに切り出されたもので、ほとんど人間の手が加わっていません。しかし生命に起源を持つ第一のグループと物質に起源を持つ第二のグループは価値や重要さの点では同じでも、一つの類を構成するもの同士を相互に結び付けている原理は違っています。「細部に立ち入ることはさておき、またさまざまなニュアンスを考慮することにより叙述を複雑にすることは避け、また私の区別が過度にわたるならばあらかじめその点はやわらげ、さらにここでは「類似性」という言葉に最も正確だが最も狭い意味を賦与することにして、私はこう言おう。第一の場合には接近原理は固有の意味の類似性であり、第二の場合には同一性である、と」。つまり上述したように、類似性という言葉が厳密に当て嵌まるのは生命に対してだけであって、物的対象にこの言葉を使うのは適当ではないということです。たとえば「一定の色合いの赤は、それが現れているいっさいの対象物において、それ自身に同一でありうる。同一の高さ、同一の強さ、同一の音色、の二つの音調についても同様なことが言えるであろう」。この同一性は、化学の扱う対象から物理学の扱う対象へ、物理学の扱う対象から数学の扱う対象へと進むにつれて、より明確になります。したがって同一性とは幾何学的なものであり、類似性とは生命的なものであると言うことができるでしょう。前者が量に係わるものだとすれば、後者は「むしろ芸術の領分に入る」ものだとベルグソンは言います。「進化論的生物学者をしてさまざまな形態の血縁関係を想定せしめ、それらの間に類似性を認知する最初の者たらしめるのは、しばしば、全く美的な感情である。それらについて彼が行なうデッサンそのものが、時として、芸術家的な腕を、また特に芸術家的な眼を、あらわしているのである」。
(つづく)
ところがベルグソンは次のようにも述べています。「恒常と変化というこの二つの項を分離し、恒常性を物体によって、変化を空間における等質的運動によってあらわそうとする」ことは「直接的直観の所与ではないが、しかしまた科学の要求することでもない。科学は反対に私たちが作為的に切り取った宇宙の自然的な連節を再び見いだそうともくろむからである。そればかりか、科学はあらゆる物質点の間の相互作用をますます完全に証明することにより、外見に反して、やがて見るように宇宙の連続という思想に帰ってくる。科学と意識は、意識のもっとも直接的な所与と科学のもっとも遠い理想を考えさえすれば、窮極において一致している」(以上「物質と記憶」第四章・一部再掲)。もし科学が「生来の知覚によって始められた分割をいっそう遠くまで押し進める」(この引用は「エクリ・エ・パロール」所収の「「ジェームズとベルグソン」と題されたW・B・ピトキンの論文について」からのものですが、以下単に「エクリ・エ・パロール」とだけ表記します)ものだとすると、この二つの記述は矛盾しているのではないでしょうか。矛盾していないとすれば知覚の行う分割と科学の推し進める分割はどこが違っているのでしょうか。
これについてはベルグソン自身が「エクリ・エ・パロール」の文章の中で説明しています。「(前略)わたくしはもろもろの物への分割はわれわれの比較能力に相対的なものであると考えている。物質的世界に向けられたわれわれの感覚は、われわれの未来の行動につけられた道であるところの分割線をそこに引くのである。それは、われわれの潜在的行動であって、われわれの目がはっきりとした輪郭をもった対象をみとめてそれらを他のものから区別するときに、ちょうど鏡からのように物質からわれわれに差し向けられるのである。科学は、われわれの想像力に支点を与えるために、生来の知覚によって始められた分割をいっそう遠くまで押し進める。それは感覚の仕事を同じ方向にのばすのである。科学は、われわれの感覚がすでに物質を解体して個別的な対象にしたその対象を分子や原子へと、あるいはその他のやり方で、解体するであろう。ところで原子、分子、力の中心等々は、「個別的な対象」自身と同じように絶対的実在性を持つものではないようにわたくしには思われるのである」(「エクリ・エ・パロール」)。――ここで語られている「科学」は、厳密には化学を指していることが「物質と記憶」を読むとわかります。化学が「科学」と違う点は、それが「物質よりはむしろ物体を研究する」こと、物質の分割をいくら進めても物体が様々な微粒子へと名前を変えるだけで、物体の持つ固体性という観念は温存されることです。反対に「科学」においては、微粒子の物質性は徐々に解消される方向に向かっていく、とベルグソンは考えます。「たとえば原子を液体またはガス体とせずに、固体として表象することも、また原子の相互作用を衝撃で現わして(原文ママ)、全然ちがった現わし方はしないということも」、学問的に何ら理由や根拠があるわけではありません。それは単に身体と外界との関係で固体が最も影響力を持ち、外界に働きかける上で固体に接触することが有効であるという「実生活の習慣と必要」に基づいているのです。「しかし衝突する二物体の間に現実の接触が決して存在しないことは、きわめて簡単な実験で示される(原注:マクスウェル「遠隔作用」)。また他方、固体性は物質の絶対に明らかな性質だとはとうていいえない(原注:マクスウェル「物体の分子構造」)」(以上「物質と記憶」第四章)。したがって固体や衝突といったイメージは、物質の認識に何ら寄与しません。
実は「感覚に与えられているものの中には」区別すべき二つのものがあり、科学の中にも区別すべき二つのものがあるのです。それは前者においては「空間においてはっきりと切り取られた、対象の知覚と、感覚的に連続するものを形づくっている質の知覚」です。後者においては「一つは概念であり、もう一つは数学的関係あるいは法則」(以上「エクリ・エ・パロール」)です。対象の知覚または概念の形成に向かうとき、「それは生活の運動の延長であって、真の認識には背を向けている」(「物質と記憶」第四章)のに対して、質の知覚または法則に向かうとき、知覚と科学とは実在的なものの中で動いていると言えるでしょう。
「まず感覚に与えられているものに関して、わたくしは次のことを明らかにしようと試みた。すなわち、もろもろの物や対象への物質の分割がわれわれの必要に全く相対的であるのに対して、感覚的な質の知覚ははるかにわわれの必要から独立しており、したがってより高い客観的実在性を表わしているということである。おそらく、それらの感覚的質の知覚はすべての意識的存在において同じものではなく、それは感覚器官の複雑さと完全さの度合に依存しているはずである」(「エクリ・エ・パロール」)。「感覚的な質の知覚ははるかにわわれの必要から独立して」いるという意味は、それが物質の分割のように個体の努力に依存することはほとんどないということです。先に引用したシュヴァリエとの対話における発言を思い出しましょう。ベルグソンは次のように述べています。「わたしは、自我の性向が努力の感情を中心にして回転している、と見る」。この「努力」は個体の努力を意味しているのではなく、いわば生物学的努力、一つの種が到達しその成員全体によって維持されている努力を表しています。それは種の成員全体によって維持されあらゆる慣習や制度の土壌となっているからこそ、恣意的に変更することはできないのです。到達した点が高ければ高いほど知覚される質も濃縮されたものとなり、低ければ低いほど稀薄なものとなるでしょう。そしてその「最低の極限」には「物質性そのものであるような極度の稀薄さ」があるのです。たとえば自分の見ている世界が他人の見ている世界と全く違っていると考える人はいません。しかしまた自分の見ている世界と昆虫の見ている世界が同じものだと考える人もいません。生活のリズムが物質の持続のリズムとほとんど変わらないような生物の知覚する世界を想像してみましょう。そこでは「知覚された質は自ずから分解され、低音部の音階を聴くときに経験するような、反復され、継起されながら、わずかに(その生物の意識の)内的連続性によってのみ結び付けられているような外的刺激の連続体」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)として感じられているのではないでしょうか。「質というよりは量であるこの物質性にわたくしはある「絶対的」実在性を帰するが、ただしその場合の意味は、ひとが肉眼に見えるある組織があらわす単純化された姿に対して顕微鏡でみとめられるその組織の何千もの細胞の方が、ある絶対的実在性をもつと言うことがある、その場合と同じ意味である」(「エクリ・エ・パロール」)。「われわれは物質を構成しているそれらの元素的な震動をそれらが結成(凝縮)する感覚的質のなかに保っている」(同上)のです。
一方科学の最終目的は「数学的関係を見いだすことであり、さらにこの種の関係に物質を解消することでさえ」(「エクリ・エ・パロール」)あります。「概念は科学を助けるが、それらは科学にとって暫定的な図式」(同上)にすぎません。その意味は、概念は物質の諸性質を規定するものではなく、「創造的進化」の表現を使って言えば「知性がそれによって諸事物に注意を固定するところの行為の表象」(象徴)でしかないということです。「ところでわたくしは、このような幾何学(数学的関係)が物質の根底そのものであり、物質についてわれわれのもつ知覚に内在すると考える」(「エクリ・エ・パロール」)。この文章は先に引用した「われわれは物質を構成しているそれらの元素的な震動をそれらが結成する感覚的質のなかに保っている」という文章を反転したものとは言えないでしょうか。
要するに知覚が「欲求の示唆と実生活の必要」にしたがって物質を物体に分割するとき、化学が「抽象と一般化と推論の機能」(「変化の知覚」)、すなわち「概念的思考」(同上)によって知覚を補うとき、化学は確かに知覚の延長線上にあります。しかし質の知覚と科学が発見する法則の関係は、働く方向が逆であると言わなければなりません。この点について質の知覚という視点から少々説明を加えておきます。
「もし知覚の能力が物質と精神の両方向に無際限に広がっているなら、概念によって思考する必要はなく、まして推論する必要もないでしょう」。現実的な知覚能力が限られているからこそ、概念的思考によって知覚の隙間を埋めたりその範囲を拡張したりする必要が出てくるのです。この知覚が見落とした隙間や推論によって拡張された範囲のうち、計量可能な部分は実証科学によって次々と開拓されていきます。残った領域では必然的に「すべてがすべてにとって異質的」なので、それらを統一しようにも何一つ共通なものを見出すことはできません。「こうして、異なった概念で武装した多くの異なった哲学が出現」し、「たがいに果てしなく争うこと」になってしまうのです。しかしそもそも知覚の能力に本当に限界があるのかどうか、知覚を膨張させ拡大することはできないのかどうかを問うてみる必要があります。もし「知覚の中にわれわれの意志を挿入し、そしてこの意志が自己を広げながら事物に関するわれわれの洞察を広げて行く」ことができるなら、「今度こそわれわれは、感覚と意識によって与えられたものを何一つ犠牲にすることがないような哲学を獲得する」(以上「変化の知覚」)ことができるでしょう。
もっともそのような知覚の拡大はどう考えても不可能であるように思えます。というのも注意力によって感覚を研ぎ澄ませることはできても、「最初からそこになかったものを、浮き上がらせることはできない」筈だからです。しかし「何世紀この方、われわれが自然的には知覚しないものを見、そしてわれわれにそれを見せることを、まさに職分とする人々」がいる事実を忘れてはなりません。芸術家と呼ばれる人達がそれです。たとえばターナーやコローの絵画を前にして「われわれが彼らの絵を受け入れ感嘆するのは、これらの絵の示すものをいくらかでもわれわれがすでに知覚したことがあるからです」。ただこの場合の知覚は「まだ現像液に浸けられていない写真の像」のようなもので、それが芸術家という現像液に浸かることによって顕在化した、という風に言えるかも知れません。通常の知覚のメカニズムを考えれば、これが単なる比喩ではないことに納得がいきます。もし仮に「判明な知覚は、実際生活の要求によって、広大な全体から切り抜かれたもの」でないならば、つまり知覚が全体を構成する実在的な部分であるならば、なるほど知覚を拡大することは不可能でしょう。そのとき知覚は「量的にも限定された一定の素材の集合から成り、われわれは、最初からそこに寄託されていたものしか、そこに見いだすことができないでしょう」。しかし一見当たり前で反駁のしようがないように見えるこの仮説は現実を正確に反映したものだとは言えません。何故なら通常の心理生活においては、精神は対象を直接的に把握するというより、むしろ自分の視野を制限するために、「つまり物質的利益の点では見ない方がよいものに背を向けるために」絶えず努力を払っているというのが真相だからです。したがって「われわれの認識が、単純要素の漸進的連合によって構成されるというのは見当違いで、それは急激な分解」、言い換えると運動の停止の結果を表しています。「われわれは、潜在的認識の果てしなく広い領域の中から、事物に対するわれわれの行動に関係するものだけを刈り取って、これを現実的認識とし、その他は無視して来た」のです。この取捨選択を一手に引き受けているのが大脳です。「大脳は役に立つ想起を実現し、なんの役にも立たないような想起は意識の地下室に押し込めておくのです」。同様に「知覚は行動の補佐として、実在の全体から、われわれの利害に関するものを孤立させます」。知覚は事物そのものを示しているというよりも、実在の全体から利害に関わる側面だけを浮き上がらせているに過ぎません。知覚は事物そのものを見ようと努めるのではなく、「あらかじめ事物を分類し、あらかじめそれらにレッテルを貼り付け」ることで満足するのです。「しかし時たま、幸運にも、感覚もしくは意識がそれほど生活に密着していない人々」、自然が知覚能力を行動能力に結び付けるのを忘れた特権的な人々、つまり芸術家と呼ばれる人々が出現します。「彼らは物を自分のためにではなく物のために見る」のであって、「単に行動のために知覚するのではありません」。この物を「物のために見る」ことこそ知覚の拡大という言葉に込められた意味と言えるでしょう。芸術はこのように知覚を膨張させ、実在をより直接的に把握するわけですが、ただしそれは「深さの点ではなくむしろ表面的にそうする」のだともベルグソンは付け加えています。何故かというと、実在を深みにおいて捉えるには知覚の拡大だけでは十分ではないからです。実在を深みにおいて捉えるには「形而上学的実在に関する知覚」の拡大、すなわち直観の拡大が必要です。「(前略)これによって先行した知覚が現在の知覚と結びつき、直接の未来自身が現在のなかに部分的に現れることができる」(以上「変化の知覚」)のです。
ここで次のような疑問が生じます。それは知覚の拡大とは結局夢を見ることと同じではないのか、という疑問です。事実、ベルグソンも「変化の知覚」の中で芸術家を「その意識の点であれ五感の一つの点であれ、なんらかの側面で、生まれながらにして「遊離」し」た人と定義しています。知覚と夢の違いについては「精神のエネルギー」所収の「夢」という講演の中で基本的な考えが述べられていますが、細かい論証は抜きにして結論だけを簡単に記しておくことにします。
知覚と夢の違いは何かと問われて誰でも思いつきそうなことは、眠っている間は感覚が外界から遮断され知覚機能が停止していること、思い出したり推論したりといった思考の働きが停止していることです。ベルグソンはこれらを次々に否定していきます。眠っている間、夢を見ている間も「わたしたちはやはり知覚し、やはり思い出し、やはり推理」していることは経験的にも実験によってもたやすく確かめられる事実です。それどころか知覚や回想や推理は眠っている時のほうが過剰に働くことも珍しいことではありません。しかし精神の領域においては、過剰さは必ずしも美徳ではありません。精神の領域において真に価値があるのは(調整の)正確さです。実を言うと、知覚も夢もメカニズムそのものにはほとんど有意な差はありません。では両者の本質的な違いはどこにあるのでしょうか。「わたしたちは要約して、こう言いましょう。目ざめていても、夢を見ていても、同じ機能がはたらくけれども、それらの機能は一方では緊張し、他方では弛緩している、と」(以上「夢」)。
知覚にしろ夢にしろ、回想と感覚が結び付くことによって生まれることに変わりありません。知覚と夢を一幅の絵にたとえるとすれば、感覚が下書きを準備し、回想がその下書きに沿って色付けしていくのです。ベルグソンはプロチノスの「エンネアデス」の文章を援用しながらこのことを次のように説明しています。「夜の(眠っているときの)感覚には熱も、色も、振動もあって、ほとんど(身体のように)生きていますが、(描きかけであるためまだはっきりとした輪郭が)定まらないものです。回想は(形が)はっきり定まっていますが、(魂のように)中身がなく、生命がありません。感覚は定まらない輪郭を固定する形態を見つけたいでしょう。回想はみたされ、中身をつめて、現実化するために、素材がほしいでしょう。両者はたがいに引きあい、影のような回想は血肉をもたらす感覚において物質化して、一つの固有の生を営む存在になります。夢になるのです」(「夢」)。これは夢について述べたものですが、全く同じことが知覚についても言えます。もし知覚のメカニズムと夢のメカニズムに違いがあるように見えるとすれば、それは一方で記憶の働きが過小に見積もられ、他方で感覚と意識が過大に見積もられているからです。目覚めている間も眠っている間も、感覚は実はさほど当てになりません。感覚を補い、感覚に認証を与えているのは記憶なのです。
しかしこうしたことは意識して観察に努めない限り、自覚する機会はまずありません。ベルグソンは夢から覚めた瞬間、夢の余韻が消えないうちに眠っている魂の状態を捉えようと辛抱強く自己観察に努めた経験を綴っています。その内容は次のようなものです。
ベルグソンは演壇に立って集まった聴衆に演説している夢を見ています。「すると聴衆の中からがやがやしたつぶやきが聞こえて来ます。それが強くなって、うなり声、ほえる声、恐ろしい騒ぎになります。しまいには「追い出せ、追い出せ」という叫び声が規則的なリズムで、四方からひびいてきます」(「夢」)。その瞬間ベルグソンは目を覚まし、隣の庭でけたたましく鳴いている犬の鳴き声を耳にします。夢の中の「追い出せ、追い出せ」という叫び声の正体は隣家の犬の鳴き声だったわけです。夢から覚めたベルグソンは夢を見ていた自分に向かってこう言い放ちます。「ようやく君を現行犯で捕まえることができた。君は叫んでいる聴衆の姿を見ているつもりだったのに、実際は犬が吠えていただけだ」。しかしこれだけのことならば、特に目新しい観察とも言えないでしょう。ベルグソンの観察が示唆に富んでいるのはこのあとの部分、夢の中の自分が目覚めた自分に向かって語りかけている部分です。「そうだ。私は犬が吠える声を聞いて、聴衆が叫んでいると思い込んでしまった。しかし犬が吠えるのを聞いてそれが犬の鳴き声だと判断するのに、君が何の努力も払っていないと思っているとしたらそれは大変な間違いだ。犬の鳴き声を犬の鳴き声と認識するだけのことにも、実はかなりの努力が払われている。君はおびただしい経験を一点に凝縮して、その聞こえた音の感覚の上にぴったり重ね合わせなければならないからだ。この二つの間にちょっとでも隙間があると、それは犬の鳴き声とは認識されないとしたら、私が犬の鳴き声を犬の鳴き声以外の何物かと思い込んだとしても無理からぬことではないだろうか。この調整作業は自動的に行われることはあり得ない以上、その都度細心の注意を払ってやり直すほかはない。これには感覚と記憶の同時的な緊張を要する。君は自分でも気づかないうちに何千という感覚を斥けつつその都度一つの感覚を選択し、同様に何千という記憶を斥けつつその都度一つの記憶を選び出しているのだ。こうして君が絶えず行っている選択と絶えず更新している現実への適応は、良識と呼ばれるものの本質的な条件を構成している。それは絶えずのしかかっている重力のように君を緊張状態に置き、知らぬ間に君を疲れさせる。良識を持つことは大変疲れることなのだ」。
「君が絶え間なく努力しているのに引き換え、私は一切努力をしない。何かに関心を寄せることもない。これが君と私との一番大きな違いだ。人は無関心になる程度に応じて眠るのだ。子供に添い寝している母親は物音には全く反応しないのに、子供のむずかる気配だけで目を覚ますことがある。これこそ関心を引くものに対して人は決して眠っていないという何よりの証拠だ」。
「目覚めている間、君が何をしているか教えてあげよう。君は夢を見ている私、過去の全体である私を縮小させ、現在の行動を中心とした極々小さな円の中に私を閉じ込めようと奮闘しているのだ。それが生きること、戦うこと、意欲することだ。人は夢から覚めることはできても、夢から脱け出すことはできない。夢とは「心的生活の全体から集中の努力を引き去ったもの」でしかないのだから」。
上に述べてきたことは、ベルグソンが「思想と動くもの」緒論で一般観念について述べていることと完全に対応しています。
一般化という言葉を様々な事物からそれらに共通の性質を抽出するという意味に解するなら、あらゆる生物のみならず生物の器官や組織さえ一般化を行っていると言うことができます。何故なら生物は周囲の環境から自分に利害関係のある部分のみ抽出し、その他の部分は無視するからです。この「量的次元の選択」が行われなければ、生物の行動は「無数の事物の中に散乱してしまう」ことになるでしょう。もちろん人間以外の生物においては抽象作用と一般化作用は身体によって体験されるものであって、思惟されるものではありません。とはいえ動物の表象も「そこに反省とある程度の無関心とが加わりさえすれば」、十分に一般観念となる資格を有していると言えます。人間も基本的な部分では一般性を思惟するというよりむしろ知覚している点では他の動物と同じです。知覚によって「反省の介入なしに、また意識の介入さえなしに」、極めて多様な対象からおのずと類似性が抽出され得るのです。「類似性はこれらの対象を一つの類の中に入れ、思惟されるというよりはむしろ演じられる一般観念を創り出す」でしょう。努力によって新たな習慣を獲得することのできる人間はもともとこの種の一般性を動物に比べはるかに多く所有している上に、思惟によって意識的に一般観念を創り出すこともできます。しかしそれも「今述べた類似性の自動的抽出すなわち一般化作用」の土台の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
この点をもう少し掘り下げてみましょう。自然界には二つとして同じものは存在しない以上、何物も他のものには類似していません。しかし何らかの点で類似していない二つのものはないという意味で、あらゆるものがあらゆるものに類似している、とも言えます。この両極の間に、レヴェルを異にする無数の一般化作用が存在しているのです。しかし「さまざまな事物またはさまざまな状態の間にわれわれが知覚すると称している類似性とは、何よりもまず、それら事物や状態に共通な特性であって、身体に同じ反応を起こさせ、同じ態度をとらせ、また同じ運動を始めさせるもの」です。この場合、類似性という言葉をどう解したらよいでしょうか。たとえば塩酸は炭酸カルシウムに対して常に同じように作用しますし、植物は異なった土壌から同じ元素を抽出します。また恐らくアメーバのような原生動物は様々な有機物質相互の類似性を感取することはあっても、それらの差異を感取することはないに違いありません。これらの例が示すように、類似性はその起源においては「客観的に力として働くのであり、深い同一の原因には同一の全体的結果が伴うというまったく物理的な法則によって、同一の反作用を引き起こ」(「物質と記憶」第三章)しているのです。差異を感取するためには対象相互の比較、つまりある程度発達した記憶機能が必要で、これは後天的に獲得されたものと考えるのが妥当でしょう。仮に動物が差異を見分けているように見えたとしても、それは知的に見分けているというより、本能がいくつかのバリエーションを持つことに由来する場合が多いのではないでしょうか。こうした客観的に働く類似性に倣って人間によって意図的に一般観念が作られるようになったのは、物質的・身体的枠組みに意識が挿入されることによって形作られた諸表象、すなわち態度や習慣が内省によって思惟の状態にまで高められたときです。類概念という一般観念を手にした人間は以後言語と呼ばれる人工的な一大運動機構を作り上げ、言語はもはや単に身体的ではない精神的な枠組みを表象に提供することによって、ありとあらゆる対象に観念を拡張することができるようになります。一般化作用とは習慣が行動の領域から思惟の領域へと上昇することであり、一般観念の問題を理解するためには行動と思惟の相互作用を参照しなければならないのです。
しかし問題はこれで終わりではありません。あらゆる観念の原型となる一般観念はどのようにして生まれたのか、無数にある類似性のうち、ほとんど手を加えるまでもなく一般観念として流通し得る本質的な類似性とはどのようなものか、という問題が残されています。一口に類似性といっても客観的一般性から遠くかけ離れたものもあれば、数が限られているとはいえ「事物の根底に由来するもの」も存在します。後者に由来する一般観念も個人的あるいは社会的有用性から完全に独立したものではなく、ある程度それらに相対的であるのは事実でしょう。しかしこの種の一般観念は不純物が少なく、そこから「実在のある側面の多少とも近似的なヴィジオンを獲得しうる」のもまた事実なのです。「会話や行動を目的とする言語のために」社会が粗製濫造した大多数の一般観念も、これら少数の観念に倣って作られたものです。「実在そのものに内属的で客観的一般性とでも称しうるもの」、欲求や生活の必要にほとんど依存していない一般性とは一体どんなものでしょうか。
ベルグソンはこの客観的一般性を産出する本質的な類似性が二つのグループに分かれ、それ以外のいわば二次的なグループと合わせて類似性には三つのグループがあると述べています。最初の二つのグループのうちの一つは生命に起源を持つものです。人間の目には、「生命自身が類や種という一般観念を有しているかのように、生命が一定数の構造計画に沿って進んでいるかのように、生命の一般的諸特性を生命が創立したかのように、最後に、またとりわけ、生命が(生得的なものに関しては)遺伝と多少とも緩慢なる変形との二重の効果によって生物を階層的系列に配置し、その段階に沿って上昇するにつれて個体間の類似性がますます増加することを欲したかのように」映ります。進化がどういう原理に基づいていると考えるにせよ、あるいは種や類をどう分類するにせよ、「私が一般観念として表す種や類などの諸一般性への細別の基礎は(事実上私の分類が不正確でも)原理的には実在そのもののうちに存するであろう。また、生物の器官、組織、細胞、さらに「行動」、等に対応する諸一般性も権利上は全く同様に基礎づけられるであろう」。このあたりの文章に関してはベルグソンの言わんとしていることがよくわからないのですが、わからないなりに推測すると、あとで述べるように類化・一般化はもともと生命の働きに由来するものであることを示したかったのではないかと考えます(「創造的進化」に次のような記述があります。「類の観念は、とりわけ生命の領域における客観的な実在に対応しており、この領域で、類の観念は一つの反論の余地がない事実、遺伝を翻訳している」)。さらにここで注目すべき点は、客観的一般性の例の一つに「行動」が挙げられていることでしょう。確かに「もしわれわれの知性がその諸概念を物質化し、その夢想を演じることが不可避なことであるとするならば、このように行動のなかに凝縮されている習慣は、[形而上学的]思弁にまで高められるとき、われわれの精神、われわれの身体、そしてこの両者の相互関係に関してわれわれが有している直接的認識を、まさにその根源において混濁させて」(「物質と記憶」初版の序言)しまうものかも知れませんが、行動という「概念自体は自然な区分に対応するもの」です。問題は「現実を人間活動固有の諸傾向にしたがって」分節すること自体にあるのではなく、精神をも同じ傾向に従って分節しようとする際に不都合が生じてくるに過ぎません。――他方これら生命に起源を持つ類似性のグループと並んで、もう一つのグループが存在します。それが物質に起源を持つ類似性のグループです。「たとえば、色、味、匂い、のごとき諸性質。酸素、水素、水のごとき諸元素または化合物。さらに、重力、熱、電気のごとき物理的諸力」――これらの観念は物質世界から直かに切り出されたもので、ほとんど人間の手が加わっていません。しかし生命に起源を持つ第一のグループと物質に起源を持つ第二のグループは価値や重要さの点では同じでも、一つの類を構成するもの同士を相互に結び付けている原理は違っています。「細部に立ち入ることはさておき、またさまざまなニュアンスを考慮することにより叙述を複雑にすることは避け、また私の区別が過度にわたるならばあらかじめその点はやわらげ、さらにここでは「類似性」という言葉に最も正確だが最も狭い意味を賦与することにして、私はこう言おう。第一の場合には接近原理は固有の意味の類似性であり、第二の場合には同一性である、と」。つまり上述したように、類似性という言葉が厳密に当て嵌まるのは生命に対してだけであって、物的対象にこの言葉を使うのは適当ではないということです。たとえば「一定の色合いの赤は、それが現れているいっさいの対象物において、それ自身に同一でありうる。同一の高さ、同一の強さ、同一の音色、の二つの音調についても同様なことが言えるであろう」。この同一性は、化学の扱う対象から物理学の扱う対象へ、物理学の扱う対象から数学の扱う対象へと進むにつれて、より明確になります。したがって同一性とは幾何学的なものであり、類似性とは生命的なものであると言うことができるでしょう。前者が量に係わるものだとすれば、後者は「むしろ芸術の領分に入る」ものだとベルグソンは言います。「進化論的生物学者をしてさまざまな形態の血縁関係を想定せしめ、それらの間に類似性を認知する最初の者たらしめるのは、しばしば、全く美的な感情である。それらについて彼が行なうデッサンそのものが、時として、芸術家的な腕を、また特に芸術家的な眼を、あらわしているのである」。
(つづく)
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