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「ジェノサイド」(23)

2013-04-08 | 雑談
同一性が幾何学的なものであり、「知覚に由来する概念作用や、物質の特性および作用に対応する一般観念が、事物に内在する数学的なるものによってのみ可能でありまた現に在るがごときものである」ことは、近代物理学が「人間が行なう質的区別の背後に存する数的差異を次々に明らかにしている」ことによって証明されつつあります。ところで一つの類を構成する要素が互いに類似しているのは当然のことで、そこに疑問を差し挟む余地はありません。しかし類を構成する要素が互いに同一であるなどということが本当にあるのでしょうか。あとで見るように、このことが可能なのは幾何学の世界においてだけです。ここでベルグソンが使用している同一性という言葉は「同一的なるものの反復」、具体的には特定の「要素的物理的事象」があらゆる時あらゆる場所で一定数の振動を繰り返すことを指しています。そして再三述べているように、「知覚は諸振動数の広大なる領域から」特定の振動数を収集し、一瞬の感覚に凝縮します。「一定の量的次元の選択」という言葉が表しているのはこの凝縮に他なりません。このように考えると、「質の知覚」と「数学的関係あるいは法則」という言葉の意味するものがよくわかります。つまり前者は収縮(されたもの)であり、後者は(収縮される)弛緩(したもの)なのです。

類似性の最後のグループは「人間の思索と行動」に由来する類似性、すなわち社会に起源を持つ類似性です。「人間は本質的に製作者である。自然は、たとえば昆虫の道具のような既成の道具を人間に与えなかった代わりに、知性を、換言すれば無数の道具を発明し組み立てる能力を与えた。ところで、製作というものは、いかに簡単なものであろうと、知覚されまたは想像されたモデルに基づいて行なわれる。このモデル自体またはその構成の図式が規定する類は現実的である。かくしてわれわれの文明全体は一定数の一般観念を根拠とするが、これらの一般観念はわれわれが作ったものであるがゆえにその内容は十全に認識されており、またこれらの一般観念なくしては生きることができぬゆえにそれらの価値は抜群のものである」。以前引用した際はこれが社会的な一般観念のみを指している文章だと解釈しましたが、今読み返してみるとそれは間違いで、古代から近代に至るまでの一般観念全般を概説した文章だというのが正しいようです。では社会的な一般観念を特徴づけるものは何かというと、一つは言うまでもなくその発生に係わっているのが「個人の利害を伴う社会の利害であり、会話や行動の諸要求」だということです。それに加えてもう一つ忘れてならないのは、最初の二つのグループに属する観念とは全く性質を異にする一般観念が大半を占め、なおかつその数が最初の二つのグループを圧倒していることでしょう。その一般観念とは、ベルグソンが「一般観念の一般観念」と呼んでいるものを手中に収めることによって、知性が作り出した一般観念です。一般観念の一般観念を手にした知性が最初に製作に着手するのは「社会生活に最も便宜を与えうる一般観念、または社会生活に単に関係のある一般観念」です。「次いで純粋な思索の関心を惹く一般観念が来ることになる。そして最後は、むだに、なぐさみに組み立てられる一般観念である」。一例を挙げれば、「快楽」とか「幸福」といった一般観念があります。この二つの観念を使って「快楽によって幸福に至ることはできるか否か」という問題が立てられたとします。しかしこの場合まず問題にすべきは、「これらの観念がたしかに一つの類を構成するのかどうか」ということでしょう。そうすれば、これらの観念は社会が「外側から、たぶん偽りの観察を行なって」形成した観念であることがわかるでしょう。別の言い方をすると、それらは不純物を多く含む鉱石のように異質な要素を無理やりくっつけて合成された観念なのです。そうだとすれば最初に立てた問いは自壊し、問題は全く別様に立て直さなければならないことになります。

ここであらためて類似性について考え直してみましょう。最初の二つのグループと第三のグループの分かれ道はどこにあったのでしょうか。「(前略)もろもろの行為によって自己実現するという個人的意識に付与された能力は、個々の生命体一つ一つが、個別の物質的エリアを形成することを要求している。その意味で、わたし自身の身体は、そしてわたしの身体との類似性によって、わたし以外の数々の生命体も、物質世界の連続性のなかに、わたしがもっとも自信をもって識別できる存在なのである。しかし、わたしの身体が構成され、識別されるや、それが感じるさまざまな欲求は、他の個体を識別し、構成するように、わたしの身体を導いてゆく」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。原生生物は神経系を持たないので、仮に明確な意識を持ち得たとしても身体はほとんど点のようなものとしてしか意識されないかも知れません。原生生物が食物を摂取する場面を想像してみると、運動によってまず周囲の環境の探索が行われ、次いで食物となる微生物等との接触がなされます。これはたとえると点の上に点が重なるようなもので、この欲求とそれを満たすものとが重なった点に最初の独立的対象が形作られるでしょう。「物質の本性がいかにあろうと、生活はそこですでに、欲求とその充足に役立つべきものとの二元性をあらわす最初の非連続をうち立てるだろう、ということができる」(同上・全集)。むろん欲求は食欲だけではありません。個体あるいは種の維持を目的とした様々な欲求が生命体の周囲に組織され、その一つ一つが光の束のように感覚的諸性質の連続の上に注がれて独立的対象を切り取っていくのです。この独立的対象には対象の輪郭と感覚的諸性質という二つの部分、つまり「対象の知覚と、感覚的に連続するものを形づくっている質の知覚」という二つの部分があることになります。最初の二つのグループに属する類似性のうち、二番目のグループに属する類似性(同一性)が質の知覚として抽出されたものだとすれば、三番目のグループに属する類似性は「知的に認知され思考され」、対象の知覚とともに類概念として構築されたものだと言えるのではないでしょうか。
(余談ですがベルグソンはここで欲求を「中心へ集中する一連の努力」として描き出しています。これはシュヴァリエとの対話で、「自我の性向が努力の感情を中心にして回転している」と述べていることと無関係ではないかも知れません。睡眠欲は集中とは正反対のように見えますが、ジャンケレヴィッチの言うように夢への同意が睡眠へのスイッチだと解釈すれば、そこには一つの全き意志が働いていると言えなくもありません。ジャンケレヴィッチは次のようにも述べています。「意志を意志することは呼吸すること、眠りに入ること、生存することよりもっと簡単なはずである」(アンリ・ベルクソン)」

「……ある意味で、わたしの知覚は、確かにわたしの内なるものである。なぜなら、その知覚は、それ自体においては数えきれないほど多数の瞬間を、わたしの内的持続の唯一の瞬間のうちに凝縮しているからである。しかしこのわたしの意識というものを、もしあなたが抹消したとしても、物質世界は今まで通りそのままに存続し続けている。ただ一つ違うのは、持続の持つ特別なあのリズムを取り除いたのだから、そしてそのリズムが外界の事物に対するわたしの行動の条件になっていたのだから、それらの事物は今は元のあり様にもどって、科学が区別する瞬間のリズムにあわせて自らを分節することになるということだけだ。そして、感覚的質のあれこれは、消え去るのではなく、以前の状態とは比べ物にならないほど多くの部分に分割された、ある一つの持続のなかに延び広がり、薄まってゆく。物質は、無数の刺激運動に分散し、途切れることのない連続性のなかにそのすべてが連結され、そのすべてが相互に連帯し、同じ数の身震いとなってあらゆる方向に広がってゆくのである」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。――もしあなたが私の意識を末梢しても云々というという件りは、もし知覚が凝縮のために行う一定の量的次元の選択がなされなかったら、と言い換えてもよいかも知れません。「私は今机の上で書きものをしているが、もし私の知覚したがって私の行動が、机の物質性を構成する諸要素というよりはむしろ諸事象が対応する量的次元において行なわれたならば、机はどうなるであろうか。私の行動は解消されることであろう。私の知覚は机が見える場所に、机を見る短い瞬間のうちに、広大なる宇宙とそれに劣らず際限なき歴史とを包摂することであろう。この動的なる無限がいかにして、私のはたらきかける不動で固定した単なる矩形のものと成りうるのか、私には理解できないであろう。事情はいっさいの事物やいっさいの事象に関しても同様であろう。われわれが生きている世界、その諸部分が相互に作用と反作用とを及ぼしあっている世界は、量的段階における一定の選択すなわちそれ自身われわれの行動能力に限定された選択によって、現にあるがごときものとして存在しているのである。別の選択に対応する別の世界が同じ場所と同じ時間とのうちに存在してもなんらさしつかえはないのである」(「思想と動くもの」緒論・一部再掲)。「別の選択に対応する別の世界が同じ場所と同じ時間とのうちに存在してもなんらさしつかえはない」という控えめな言い方はされているものの、実際のところは「別の選択に対応する別の世界が同じ場所と同じ時間とのうちに存在する」ことをベルグソンが確信していることは明らかです。その極限に「量的段階における一定の選択」がなされていない世界、すなわち物質世界があります。この純粋な物質世界がどういうものであるかについて、ベルグソンは次のように述べています。「あなたが日々経験する不連続な物体の数々を、相互に連結してみるがよい。そして、それらの物体が身にまとう質の不動の連続性を、その場の刺激運動に変えてみよ。これらの運動を支えている分割可能な空間から身を引き離し、その運動にわが身をあずけ、もはやそれらの運動の運動性だけに、つまりあなた自身が行なう運動のなかにあなたの意識が捉えているその不可分の行為だけに、注目してみよ。そうすれば、あなたの想像力にとってはやっかいなものかもしれないが、何ものにも汚されぬ純粋な、日常生活の必要性にかられてあなたがあなたの外界の知覚に付け加えなければならなかった一切[の夾雑物]を洗い流した、純粋無垢な物質世界のヴィジョンを手に入れることができるだろう」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。つまり「純粋無垢な物質世界のヴィジョン」と思われているものはすでに余分な情報を付加され、改竄(再構成)された物質世界のヴィジョンだということです。もちろんこの再構成は理由もなく行われるのではなく、そこには次のような事情があります。すなわち「本能の指示に従うためには、対象を知覚する必要はなく、性質を見分ければいい」のに対して、「逆に知性は、もっとも低次の形態においても、すでに物質を物質に作用させようとする。物質が何らかの側面で、作用を及ぼすものと及ぼされるものへと、もっと単純には、相異なるものとして共存する断片へと分割されることに適しているなら、知性はこの側面から物体を眺めるだろう」(「創造的進化」第三章)。物質を物質に作用させるためには、少なくともそれらを考察している間は不変不動のものと看做さなければなりません。「(生の手段として人類に知性を付与した)自然はわれわれを、変化や運動のうちに偶有性を見、不変性や不動性を本質または実体というようなささえに祭り上げる、というふうに予告したが、それは単に、われわれを社会生活に向くようにつくり、社会の組織に関してはわれわれの自由にまかせ、かくして言語を必要ならしめる、という仕方のみによるのではない。われわれの知覚そのものがかかる哲学〔自然のやり方〕に従って事を運ぶ、ということも付け加えねばならない。知覚は延長の連続性の中から諸物体を切り取るが、これらの物体はまさに、考察中は不変として扱われるうるように選ばれているのである。変化がきわめて顕著で無視できない時には、かかわりあっていた状態が他の状態に席を譲ったのであって、後者はこれ以上変わらないであろう、と言明される」(「思想と動くもの」緒論)。――このように「知覚、思考、言語等、いっさいの個人的または社会的活動は協力して、考察中は不変不動と見なしうる諸対象の前にわれわれを置く」(同上)のですが、実際には変化や運動こそ実体であり、不変性や不動性はあとから付け加えられた属性に過ぎません。この本来は変化そのもの、運動そのものである物質世界に「わたしの意識を、それとともに日常生活の必要性」を再度組み込んでみましょう。すると「はるか遠くから少しずつ、そしてそのつど、物質世界の事物群の内的履歴の大きな分節を踏み越えながら、ほぼ瞬間的な眺めが見えてくるはずだ。その眺めは、今は絵のように美しく、その眺めの色彩群は[原子などの]基本要素群の無限の反復と変化を凝縮していっそう際立って見えているはずだ。同じように、一人の走者の継起する幾千の位置が、ただ一つの記号的な姿勢に集約され、それをわれわれの目は知覚し、芸術はそれを再現し、すべての人にとって、それは一人の走る人物のイメージとなる」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)。したがって「われわれが、ときどき、周囲の世界に投げかける眼差しは、われわれの内的な反復の、そして内的な進展の効果を[一つの全体像として]捉えているにすぎない。それがゆえに、[われわれが捉える]その[全体的]効果は本来的に離散的であるのだが、われわれが空間内にある「対象物」に付与する相対的運動によって、われわれはそれらに連続性を付与しているのである。変化は至るところにあるが、しかしそれは深層においてのことだ。われわれはその変化をあちらこちらに位置付けるが、それは表層においてだ。こうして、われわれは物体を、質的には安定的な、位置的には可変的なものとして、構成する」(同上)。

上記の引用でもう一つ見逃せないのは、「一人の走者の継起する幾千の位置が、ただ一つの記号的な姿勢に集約され、それをわれわれの目は知覚し、芸術はそれを再現し、すべての人にとって、それは一人の走る人物のイメージとなる」という部分です。同じことをベルグソンは次のようにも表現しています。「ターナーやコローの絵を前にしてわれわれが体験することを深く掘り下げてみましょう。そうすればわかりますが、われわれが彼らの絵を受け入れ感嘆するのは、これらの絵の示すものをいくらかでもわれわれがすでに知覚したことがあるからです。しかしわれわれは看取することなしに知覚していたのであります。それはわれわれにとっては、われわれの日常経験で「溶暗」として重なり合っている無数の光景のうちに、そして相互干渉により、われわれが普通事物について持つ青ざめ色あせた光景を構成する無数の等しく輝かしいそして消え失せる光景のうちに、紛れ込んでいる一つの輝かしいそして消え失せる光景だったのです。(中略)彼はこの光景をカンバスの上にしっかりと固定させたので、以後われわれは彼自身が見たものを実在の中から看取しないではいられなくなったのであります」(「変化の知覚」・一部再掲)。ここで改めて考え直してみたいのは、知覚と芸術、芸術と直観の関係です。ベルグソン自身の説明に耳を傾けてみましょう。「とにかくわれわれの日常的知覚は時間から離れることができず、変化以外のものを捕えることはできないわけです。しかしわれわれが自然にそこに置かれている時間や、われわれが通常ながめている変化は、事物に対するわれわれの行動を容易にするために、われわれの感覚と意識が粉砕してしまった時間であり変化であります。感覚と意識が(ばらばらに粉砕したあとでつなぎ合わせて)こしらえたものを壊して、われわれの知覚をその根元まで連れ戻すなら、われわれは新しい能力に頼る必要なしに、新しい種類の認識を手に入れるでありましょう。(中略)われわれの感覚と意識が習慣的にわれわれを導き込んでいる世界は、もはやこの世界自体の影にすぎないのです。(中略)そこではすべてがわれわれの最大の便宜のために配置されていますが、そこではすべてが絶えず繰り返されるように見える現在の中にあります。そしてわれわれは人為的に、これまた劣らず人為的な宇宙の像に合わせて自分自身をかたどるので、われわれは瞬間写真のようにして自分を知覚したり、過去を廃棄されたものとして語ったり、記憶を奇妙な、どう見ても奇妙な事実、物質が精神に借し与えた(原文ママ)援助として見たりするのであります。反対に、厚みをもつ現在の中で、さらに、われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させることによって、限りなく後方へ広げることができる弾力的な現在の中で、あるがままの自分を把握することにしましょう。単に表面的に、今の瞬間の中にあるだけではなく、深さにおいて、今の瞬間を推進してこれにはずみを伝える直接の過去をもつものとして、あるがままの外界を把握することにしましょう。一言でいえば、すべての事物を持続の相の下に sub specie durationis 見る習慣をつけましょう。そうすればただちに電流を通されたわれわれの知覚の中で、硬直していたものは弛緩し、眠っていたものは目を覚まし、死んでいたものは蘇るのであります」(「哲学的直観」)。――要するに知覚の拡大とは「感覚と意識がこしらえたものを壊して、われわれの知覚をその根元(原文ママ。根源)まで連れ戻す」こと、日常生活の便宜のために設けられた制限を解除して、物質世界の総体に淵源する「われわれの知覚の分割不可能な一体性」(「物質と記憶」第四章・竹内訳)、すなわち質の知覚に復帰することなのです。問題は先に見たように、ベルグソンがどういう点で芸術と哲学とを区別しているのか、というより両者を区別することによって何を強調し明確にしようとしているのかを知ることにあります。「感想」の中で小林秀雄は次のように述べています。「ベルグソンは知覚を説く事によって、つまりは直観を説いている。言う迄もない事だろう。知覚の拡大を、直観の拡大と言ってもいいわけだが、重点は、寧ろ拡大という言葉にある。と言うのは、繰返す様になるが、ベルグソンには、私達が日常行使しているのは、感覚や意識の習慣的な機能に過ぎず、その本来の働きは、それが為に覆われている、という考えが、根本にあるからだ」。芸術と哲学の違いは確かに知覚や直観の拡大に比べれば重要な問題ではないかもしれませんが、ベルグソン自身が芸術と哲学を対比させているのもまた事実なのです。以前引用した、芸術が知覚を拡大させるのは「深さの点ではなくむしろ表面的にそうする」のだというのもその一つで、これ以外にもベルグソンは両者の違いを以下のように表現しています。「芸術はわわわれの現在を豊富にします。が決して現在を超えさせてはくれないのです。ところが哲学によって、現在が引き連れている過去から現在を決して孤立させない習慣を、われわれは身につけることができるのです」(「変化の知覚」)。また一方、小林秀雄は「感想」の前半でベルグソンの次のような言葉も紹介しています。「芸術と哲学とは、その根柢にある共通の直観で、手を結んでいる。敢えて言えば、様々な芸術は、哲学という属(ジャンル)の種(エスペース)である」(「エクリ・エ・パロール」所収の「スピノザについての講義開始にあたってのG・エメルのベルグソン=インタビュー」)。そして最後の著作「道徳と宗教の二源泉」でも、芸術に関するベルグソンの規定の仕方には微妙な変化が見られます。ドゥルーズは「ベルクソンの哲学」第五章の注の中で芸術に対するベルグソンの考え方を次のようにまとめています。「ベルクソンによれば、芸術にもまた二つの源泉があることが注意されよう。一方では集団的または個人的な虚構の芸術がある。また他方には、情動的または創造的な芸術がある。おそらくすべての芸術は、異なった割合においてではあるが、この二つの面を両方とも示しているのであろう。ベルクソンは、彼にとって、虚構作用の側面が芸術においては劣って見えることを隠してはいない。小説はとくに虚構作用であり、これに対して音楽は情動であり創造である」。このように見てくると芸術に関してのベルグソンの見解にはまとまりがないようにも見えますが、一貫している点がないわけでもありません。それは観想や瞑想よりも行動や創造的活動を上位に置く彼の思想です。「創造的感情は、知性のなかでの直観の発生である。したがって、もしも人間が開かれた創造的全体性に到達するとすれば、それは瞑想することによってであるよりも、むしろ行動し、創造することによってである」(「ベルクソンの哲学」第五章)。ベルグソンが芸術は現在を豊かにはしても現在を超えさせてはくれないというとき、おそらく彼の念頭にあるのは芸術の中の観想的な側面でしょう。しかし実を言うと、哲学の中にも観想的な側面がないわけではありません。その意味で、というのは哲学がにせの瞑想に耽っている限り、「哲学者たちよりもはるか遠いところにある偉大な精神の持主は、芸術家と神秘主義者(少なくとも、ベルクソンがすべてがありあまる活動性であり、作用であり、創造であるとして記述するキリスト教神秘主義者たち)である」(同上)というのもまた真実なのです。「結局、あらゆる創造を行ない、力動的であるとともに適切でもある表現を作り出すのは神秘主義者である。開かれていて有限である神(それがエラン=ヴィタルの特徴である)のしもべとしての神秘的な魂は、能動的に全宇宙を動かし、見るべきものも観想すべきものも何ひとつない、全体の開始を再生する」(同上)。知覚の拡大を制限の解除という意味に解釈すると、この「拡大」は開かれた社会、開かれた道徳、開かれた宗教という際の「開く」という言葉とほぼ同じ意味を持つと考えてよいのではないでしょうか(この「拡大」はまた、静的なものから動的なものへの転換をも表現しているように思われます。「知的な努力」の中でベルグソンは図式とイメージの違いを次のように表しています。「イメージが閉じた状態にあるとすれば、この図式は、開いた状態におけるその同じものである。イメージがすっかり出来あがったものとして、静的な状態でわたしたちにあたえるものを、図式は生成において、動的に示す」)。

少々飛躍しすぎたので話を直観に戻します。「厚みをもつ現在の中で、さらに、われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させることによって、限りなく後方へ広げることができる弾力的な現在の中で、あるがままの自分を把握する」ことは知覚の拡大であるとも直観の拡大であるとも言えますが、この言葉から思い出されるのは「いっそう広大な平面にくりひろがりつつ、その豊かな内容をより詳細に展開」(「物質と記憶」第三章)していく「意識全体の膨張」(同上)、動的図式のイメージへの展開です。「小説を書く作家、人物や状況をつくり出す劇作家、交響曲を作曲する音楽家、詩をつくる詩人は、みな、まず精神の中に何か単純で抽象的なもの、つまり物体的でないものを持っている。それは音楽家や詩人にとっては、音やイメージに繰りひろげるべき新しい印象である。小説家や劇作家にとってはさまざまなできごとに展開すべき提説であり、また生きた人物に実質化すべき個人的社会的な感情である。仕事は全体の図式にもとづき、さまざまな要素のはっきりしたイメージに達したときに、結果がえられる」(「知的な努力」)。同様に「われわれの日常経験で「溶暗」として重なり合っている無数の光景」から一つの輝かしい光景を抜き出しカンバスの上に定着することも図式のイメージへの展開と言えないでしょうか。しかしここで考慮して置かなければならないのは、先ほど「夢」を紹介した際見たように、現実の認識には感覚と記憶の同時的な緊張が必要だということです。以前引用した「物質と記憶」の文章でもう少し具体的に説明しましょう。「習慣が組織した感覚=運動系の総体からなる身体の記憶力は、ほとんど瞬間的な記憶力なのだけれども、過去の本当の記憶力がその基盤をつとめている。両者はばらばらな二つのものではなく、第一のものは、すでにのべたように、第二のものによって経験の動く平面にさしこまれる動的先端にほかならないから、この二つの機能が互いに支持を与え合うことは当然である。じっさい一方では、過去の記憶力は感覚=運動的諸機構にたいし、それらを導いて任務につかせ運動的反応を経験の教示する方向におもむかせうるすべての記憶を呈示する。(中略)しかし他方では、感覚=運動機構は無力な、すなわち無意識な記憶にたいし、身体を獲得して物質化する手段、つまりは現在となる手段を提供する。じっさい、ある記憶が意識に再現するためには、それは純粋記憶の高みから、行動の遂行を見るまさにその地点にまで、下りてくることを必要とする。換言すれば現在こそ、記憶の応答する呼びかけの出発点であり、現在の行動の感覚=運動的諸要素こそ、記憶が熱気を借りて活力を与えられる場所なのである」。感覚と記憶の同時的な緊張とは、わかりやすく言うと二つの記憶力が「互いに支持を与え合う」ことに他なりません。感覚が緩んでも、記憶が緩んでも、ネジが大きすぎたり小さすぎたりする場合のようにお互いがうまく噛み合わず、現実をしっかり固定することができないのです。大人より子供の方が往々にして記憶力が優れているように見えるのも、幼年期にはこの噛み合わせがまだ十分に調整されていないからです。「彼ら(子供)はその場その場の印象を追うのが常であって、彼らにあっては行動は記憶の指示に従わないから、逆に彼らの記憶は行動の必要に制約され」ず、自由に記憶の翼を広げることができるのです。「変化の知覚」でベルグソンが芸術家の意識や感覚が「なんらかの側面で、生まれながらにして「遊離」して」いると述べているのは、おそらく子供の記憶の例に見られるようなこの「緩み」を指しているのでしょう。とはいえ感覚や記憶が緩みっぱなしでは芸術はおろか何も生まれません。子供の記憶がイメージからイメージへ進むものだとすれば、芸術家は抽象的なものの中へ飛躍し、しかるのちにそれをイメージへと展開させなければならないのです。「われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させる」という表現はまた、「物質が仕上げる無数の小さなできごとをこの唯一の瞬間に集め、巨大な歴史を一語につづめる収縮の仕事」(「意識と生命」)、すなわち収縮としての記憶にも対応しています。たとえば専門的な職業における経験のありなしは、覿面に仕事の質の差、行動の質の差として現れます。経験を積んだ人やある事に習熟した人はそうでない人に比べ何が違うのでしょうか。それは「ある時間をかけて継起するできごとを、その人が瞬間的な視覚に包んでいるということではないでしょうか。その人の現在の中に含まれる過去の役割が大きければ大きいほど、起こって来る偶然性を抑圧するためにその人が押し進めるかたまりは重いものになります。ちょうど矢を射るときのように、その人の表象が前もってうしろに引張られるほど、その人の行動は強い力ではなたれるのです」(同上)。「われわれをわれわれの目から隠している障壁をますます遠くへ後退させる」とは、まさに弓を引き絞ること、「当初は記憶力にすぎぬ私たちの意識が、多数の瞬間を互いに他へと継続させることによって、唯一の直観の内へ収縮すること」(「物質と記憶」第四章・再掲)ではないでしょうか。しかし矢は放たれてこそ意味があるように、「物質が仕上げる無数の小さなできごとをこの唯一の瞬間に集め、巨大な歴史を一語につづめる収縮の仕事」と「爆発的な行動」は切り離して考えることはできません。「集約としての主観性」は、この二つが揃ってはじめて成立するのです。

(つづく)

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