画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「城のある町にて」

2011-02-15 | 雑談
フォントの修正作業を集中してやったあとに本を読むと、本に使用されているふだん見慣れたフォントの印象が違って見えることがよくあります。逆もまた真で、しばらく日を置いて自作のフォントを見返した場合にも違う印象を受けることがあります。文章を書くときもある程度時間をおいてから見直した方が客観的な見方ができるといいますが、フォント作りについても同様のことが言えるのかも知れません。

極端な場合には違う印象を受けるだけではなく、まるで見知らぬ文字であるかのように見えてくることさえあります。一体なぜこんなことが起こるのでしょうか。

作業しながらそんなことを考えるともなく考えているうちに、一つの作品のことが頭に思い浮かんできました。梶井基次郎の「城のある町にて」です。

たしか「城のある町にて」にも似たような経験が書かれていたような気がするのですが、具体的にどんなことが書かれていたのか思い出せません。気になったので青空文庫で調べてみました。

手始めに「城のある町にて」を冒頭から目で追っていきます。「城のある町にて」はいくつかのエピソードからなっており、各編に一応タイトルが付いています。それらはいずれも現在の話でありながら、全編に漂うのはノスタルジックな雰囲気です。

僕が思い出すのも、「城のある町にて」の文章の一節というより、それを読んでいた高校時代の実家の寒々とした勉強部屋であり、机の上に広げられた「梶井基次郎全集」を読んでいる自分自身の姿です。そんな記憶が蘇ってくるのも、この作品が読む者の郷愁をそそるからに違いありません。

横表記の梶井基次郎に違和感を覚えつつ「城のある町にて」に一通り目を通したのですが、それらしい記述は見つかりませんでした。この作品でないとすると、他に考えられるのは何だろうと思いつつタイトルの一覧を眺めてみます。「愛撫」じゃないし、「筧の話」でもない。「桜の樹の下には」は違う。強いて挙げるなら「蒼穹」か、と考えていくうちに、懐かしい気持ちが込み上げてきます。いやいや、懐かしがっている場合じゃないだろ、と気を取り直してもう一度よく考えた結果、やはり「城のある町にて」以外にはあり得ないという気がしてきました。この作品にないなら、きっと梶井基次郎ではなく他の誰かの作品と勘違いしているのです。

もう一度「城のある町にて」に戻り、文章を見直します。一行一行追っていくのではなく、画面全体を見渡すように意識を切り替えました。探し物をするときも一箇所に意識が集中しすぎていると、かえって目的のものを見落としてしまうことがあります。それと同じように目の届く範囲を眺め、何か意識に引っかかってくるものがないかに神経を尖らせるようにしたのです。

すると何度か文章を往ったり来たりしているうちに、ピンと来るものを感じました。今度はその箇所に視線を固定し、徐々に網を絞り込んでいきます。それは次のような文章です。



「あれっ、違う」。発見した瞬間自分の記憶の誤りに気づきました。「本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがある」というのは確かに似たような経験と言えなくもありませんが、僕が探していたのはこれではありません。別のものと取り違えていたのです。

この文章のあとにつづく、両手で囲われた「牧場」のくだりが不思議な感覚として強く印象に残っていたので、それにつられて記憶のすり替えが行われたのかもしれません。いずれにしろ僕の思い込みはあえなく崩壊し、記憶探しは振り出しに戻ってしまいました。

とはいえ「城のある町にて」が外れだった時点で、残る選択肢は僕の中で一つしかありませんでした。ベルグソンの記憶に関する一連の論文です。それと同時に僕はベルグソンの論文の内容をうっすらと思い出し始めていました。

どの本のどこに書いてあったのかは忘れましたが、ベルグソンはたしかこんな内容のことを書いていたはずです。

被験者に故意に一文字抜いた単語や一文字違うアルファベットに入れ替えた単語を一瞬だけ見せて、その単語が何かを当ててもらう心理実験をします。すると当然のごとく被験者は見せられた単語に含まれる欠落やアルファベットの入れ替えには気づかず、本来の正しい単語を答えます。気づかないばかりではなく、欠落していたはずのアルファベットや入れ替えられる前のアルファベットをたしかに見たと主張する被験者さえいます。この実験によってわかることは、人は物を見る際、多かれ少なかれ記憶を投射し、知覚に重ね合わせるということです。人は客観的に物を見ているつもりでも、実は記憶に頼って物を見ているのです。

文章を理解するとは、意味の流れの中に一気に身を起き、目的地点まで到達することです。このとき個々の単語や文字は、いわば標識の役割を荷っているに過ぎません。それらは通過点に過ぎず、流れ去っていく風景ともども人の心には残りません。それゆえ仮に止まる予定のなかった通過点の一つで注意が停止した場合、それはまるで見知らぬものであるかのように人の目には映るでしょう。実際このとき人は全く新しい何物かを知覚しているのです。

ここから僕も一つの仮説を思いつきました。梶井基次郎が描く風景も、このような知覚によって捉えられたものではないだろうか、という仮説です。

僕の印象に残っている作品の一つに、「蒼穹」があります。簡単に内容を説明すると、土手に座って山の端から雲が次々と湧き出てくる様を観察していた作者は、山の端と雲との間に何も存在しない空間の層のようなものがあるのに気づきます。ある夜の闇の中での経験から作者は卒然とこの何も存在しない層が虚無であると観じ、光の漲った白昼の青空に闇を見る、というものです。

こんな風に書いても「蒼穹」を読んだことのない人には何が何だか訳がわからないでしょう。「蒼穹」は小説というより散文詩であり、字義通りに解釈しても仕方がありません。そこに文学史的な解釈を施すのも可能なのかもしれませんが、これはあくまで知覚の体験ではないかと僕は考えます。

とはいえ先に述べた仮説と「蒼穹」に描かれた不思議な現象との間に関係があるのかどうか僕にはわかりません。確かなのは、梶井が実際にその現象を目にしたこと、「蒼穹」に描かれたのは脚色のないありのままの事実だろうということです。

そんなことを考えているうちに、もう一つ別の話を思い出しました。柳田国男が少年の頃に体験したという不思議な経験です。

この話を僕は小林秀雄の文章の中で読んだのですが、田舎の裏庭にあったお祖母さんを祀ったという祠の中を覗いた国男少年は、そこに美しい蝋石があるのを発見します。蝋石に魅せられて表面を撫でているうちに不思議な感覚に捉えられた国男少年はその場にしゃがみこみ、ふと見上げた白昼の空に星が瞬いているのを目にします。そうした状態がしばらく続いたあと、空の高いところでヒヨドリが鋭く鳴く声を聞いて国男少年ははっと我に返ります。そしてこう述懐するのです。
あのときヒヨドリの鳴く声を聞いていなかったら、おそらく私は発狂していたであろう、と。

昼に星が見えないのは、星の放つ光より空のほうが明るいからです。つまりは比較の問題で、当たり前の話ですが星がどこかに退避しているわけではありません。星にも明るいものやそうでないものがあり、天体望遠鏡であれば昼でも星が観測できるそうです。

ここで僕が言いたいのは、柳田国男は天体望遠鏡並みの視力を持っていた、ということではもちろんありません。知覚とは何か、ということです。

「物質と記憶」の第一章で、ベルグソンは知覚とはどういうものであるかについて論じています。哲学的な議論は抜きにして簡単に結論だけをまとめると、おおよそ次のようになります。

地球上のあらゆる生物は物質に取り巻かれて生活しており、人間もこの例外ではありません。この物質の総体から、自分に利害関係のある対象にだけ照明を当て、他と区別すること、これが知覚です。したがってたとえば視覚器官が視覚を可能にしたというのは間違いではありませんが、それは視覚という知覚を生み出すわけではありません。視覚器官は逆説的なことに物質の不必要な側面を覆い隠すことによって視覚を可能にしているのです。

視覚器官に限らず他の感覚器官や脳も物質の一部であり、この一部から全体を構成することはできません。物質と知覚の間にあるのは全体と部分の関係で、それらに性質の差はありません。知覚は物を弁別する、という働きにおいて精神の萌芽といえなくもありませんが、そこから人間の複雑な精神活動との間にはあまりにも大きな隔たりがあります。真の精神活動を可能ならしめるもの、それは記憶です。

「物質と記憶」においては精神と物質との関係を明らかにするため、知覚はこのように単純な図式の形で考察され、消極的な意味しか持たないのに対し、「変化の知覚」という講演では知覚に積極的な意味が付与されています。「物質と記憶」における知覚が理論上のものだとすれば、「変化の知覚」における知覚は血肉を持った生身のものだといえるでしょう。

僕はこの「変化の知覚」を「思想と動くもの」という論文集で読む前に、小林秀雄の「私の人生観」という文章を読んでその内容をすでに知っていました。「私の人生観」は小林秀雄の人生論ではなく、宗教や芸術における観るという行為に関する考察、すなわち一種の知覚論です。

ここでは仏教やキリスト教からベルグソンやリルケ、果ては宮本武蔵まで取り上げられ、それぞれ観るとはどういうことであったかが説かれます。宗教において観るとはすなわち神や仏を見ることですが、特に仏教における観法には仏教画の例に見られるように芸術的・審美的側面があった点を小林秀雄は指摘します。逆にベルグソンが「変化の知覚」で取り上げたような知覚、単に弁別するだけでなく、対象のうちに入り込み、拡大された知覚(ビジョン)には「見神」という神学的な意味合いに通ずるものがあったとも述べています。つまり宗教も芸術も哲学も、実は観るという行為において究極的に同じものを目指しているのです。

宗教のことは措くとして、果たして知覚を拡大するなどということが本当に可能なのでしょうか。人間は物質があらかじめ持っている性質以上ものを事物の中に見ることができるのでしょうか。

これについて議論を戦わせる必要はありません。知覚の拡大が可能なのは芸術家たちが証明してきたことであり、芸術作品がその何よりの証拠だとベルグソンはいいます。芸術作品は無から生まれたものではありません。それが見る者の心を動かし、説得さえするのは、芸術作品が人間の知覚に基づいたもの、誰にも備わる知覚能力の拡大に他ならないからです。

芸術家を特徴づけるのは、生活への無頓着であり、意識が生活の実利的側面に固定されておらず、ある面において「遊離」していることです。この「遊離」が意識や感覚の広い範囲に及べば、それは疑いもなく生活の破綻を招くでしょう。そういう事態を避けるために、人間には「生活への注意」ともいうべきものが備わっているとベルグソンは考えます。それは個々人の注意力といったものではなく、一定の方向しか向かないようにプログラムされた人類共通の注意です。その方向からちょっとでも逸れようものなら、たちまち人間は首根っこをつかまれて顔を元の位置に戻されてしまうのです。人間は重力から逃れられないように「生活への注意」から逃れられないのだといえます。

この「生活への注意」を司っているのは、明らかに脳でしょう。というより脳の機能とはこの「生活への注意」そのものだと言っても過言ではありません。脳は重石のように精神をつなぎとめ、あらぬ方向に注意が逸れないかを常に監視しています。それは知覚や感覚を通して人間に有用な情報をもたらす以上に、生活に関係のないものや見る必要のないものを見なくて済むように隠蔽する器官なのです。

ところが「生活への注意」が例外的に一挙に失われてしまう瞬間があります。睡眠がその一番身近な例ですが、いわゆる「臨死体験」にもまして顕著で示唆に富むものはないでしょう。死に瀕した脳は「生活への注意」を放棄し、一切の関心を失います。これによって脳に堰き止められていた意識(記憶)が一気に溢れ出し、洪水のように氾濫を起こすのは自然の成り行きといえるでしょう。死を覚悟した瞬間過去の思い出が走馬灯のように蘇ったとか、過去の全記憶が一瞬のうちにパノラマのように繰り広げられるのを見たとかいった証言は、このような事情を指しているものと思われます。

では脳の軛から解放された知覚はどうなるのでしょうか。これについては記憶に関する証言のような例を僕は知りませんが、単純に推論すると、かつて見たことや聴いたことのない刺激が一挙に意識に押し寄せてくるのではないでしょうか。臨死体験者の多くは、「光」体験と呼ばれる経験をするといいます。この光とは、七色の光が一点に収斂されたときに現れる純粋な白光と同じ性質のものなのではないでしょうか。
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