画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(24)

2013-05-25 | 雑談
     *

予備的考察はここまでにして、中断していた「創造的進化」の考察を再開させましょう。確認のためにそれまでの話を整理しておくと、大雑把に言えば持続には収縮と弛緩という二つの過程があり、弛緩とは収縮の中断である、ということでした。心的な存在が収縮の方向に傾いているのに対して、物理的存在は弛緩の方向に傾いています。そして注意すべきは、知性もまた弛緩の方向、すなわち「対象の物質性、空間性に至る運動のまさにその方向に向けられている」(「創造的進化」第三章)ということです。「われわれの知性のすべての操作は、幾何学をめざしている。そこまでいってはじめて、知性の操作はその完成を見るかのごとくである。けれども、幾何学は必然的にかかる操作にさきだつものであるから(なぜなら、それらの操作は決して空間を再構成するまでにはいたらず、せいぜい、空間を所与として受けとるほかはないからである)、われわれの知性の大きな原動力として知性を活動させるのは、明らかに、われわれの空間表象に内在する一種の潜在的な幾何学である。このことは、演繹する能力と帰納する能力という知性の二つの本質的な機能を考察すれば、納得がいくであろう」(同上・全集)。

「われわれの空間表象に内在する一種の潜在的な幾何学」という言葉から思い出されるのは、「このような幾何学が物質の根底そのものであり、物質についてわれわれのもつ知覚に内在する」という「エクリ・エ・パロール」の中の言葉です。もう一つ上の文章で引っ掛かるのは、「幾何学は必然的にかかる操作にさきだつ」という件りです。「われわれの知性のすべての操作は、幾何学をめざしている」にもかかわらず、「幾何学は必然的にかかる操作にさきだつ」とは一体どういうことでしょう。推測するしかないのですが、おそらくこれは一般化において出発点となる類似と到達点となる類似とが同じものではないように、第一の幾何学と第二の幾何学は同じものではないということでしょう。すなわち知性のすべての操作が目指している幾何学とは「学問的」幾何学であり、知性の原動力となっている幾何学とは「潜在的」・「自然的」幾何学なのです。ここでベルグソンが述べている「学問的」幾何学とは、「デカルトあるいはその他だれかの数学者の幾何学である以上にユークリッドの幾何学であるというわけではない。(中略)ある一般的な仕方で、学ぶべきいっさいの幾何学のことをいっているのである」(「エクリ・エ・パロール」所収の「「幾何学的知性の発達」について、E・ボレルの論文に対する反駁」)。ボレル(この人物の詳細についてはよく知りませんが)の誤解を解くために回りくどい言い方がされていますが、「学問的」幾何学とは要はこれまで人類が築き上げてきた幾何学の総体ということです。「わたくしは、ひとが生得的なものを(後天的に)獲得されたものと区別するように、その第二の幾何学を第一の幾何学と区別する」(同上)。では「学問的」幾何学と区別される生得的・潜在的・自然的幾何学とは何か、ということが問題になってきます。しかしその問題を考える前に、まず演繹の機能から見ていくことにしましょう。そうすれば問題がより明確になってくる筈です。

たとえば「私が空間内に一つの図形を描くとき、この同じ(図形を描く)運動はその図形の諸性質(属性)を生みだす。それらの性質はこの運動そのもののうちに見られうるし触れられうるものである。私は、空間のなかで、定義と帰結との関係、前提と結論との関係を、感じ、体験する」(「創造的進化」第三章・全集)。このようなことが可能なのは幾何学においてだけであって、他のどんな概念も部分的、例外的にしかアプリオリに再構成することはできません。幾何学以外のどんな経験的概念の定義も不完全であり、それらの概念を含む演繹は結論をいくら厳密に前提に結びつけたとしても、決して完全なものにはならないでしょう。「けれども、私が砂の上に無造作に三角形の底辺を描き、その両端に二つの角をつくりはじめるとき、私は、もしその二つの角が等しいならば、二つの斜辺もやはり等しく、図形になんの変更を加えなくてもそれを裏返しに重ね合わせることができるということを、確実に知っており、また絶対的に理解している。私は幾何学を学ぶ前から、そのことを知っていた」(同上)。その確信がどこから来るかということは措くとして、このことからベルグソンは先ほど述べたように、「学問的な幾何学にさきだって、一種の自然的な幾何学があり、その明白さは、その他の演繹の明白さを超えている」という結論に至ります。自然的な幾何学とそれ以外の演繹の違いはどこにあるかと言えば、前者が純粋に量に関わるものであるのに対し、後者は質に関わるものだということでしょう。「注目してほしいのは、位置とか数量とかの問題は、われわれの行動性に対して最初に呈示される問題群であり、行動において外在化されている知性が反省的知性の出現するはるか以前に解決しなければならなかった問題群」(「創造的進化」第三章・竹内訳)だということです。未開の地に住む人達は「自分の通ってきた道のしばしば複雑な略図を記憶でふたたびたどることができるし、かくして自分の出発した地点にまっすぐに戻ることができる」と言われます。彼らが「文明人より以上に、距離を見つもり、方向を見定めるすべ」に長けているのは、彼らにあっては行動性と知性との分離がさほど進んでいないからに違いありません。行動性と知性が分離し、知性が明確な形をなすと同時に等質的な空間の表象が形作られます。「距離を見つもり、方向を見定める」ことにかけては(渡り鳥などに見られるように)動物は人間以上の驚異的な能力を有すると言っていいでしょうが、逆に高等な動物といえども等質的な空間を表象することはなく、したがってまた明確に演繹することも、明確に概念を形作ることもないでしょう。というのも空間の表象を得るには自然的な幾何学に対する反省が必要だからです。空間の表象は自然的な幾何学に対する反省から生まれたものである以上、空間を措定すれば自ずと潜在的・自然的幾何学も導入することになり、自然的幾何学は「ひとりでに下落して論理学に」なります。しかし知性は自然的幾何学を飛び越して空間の表象に視点を移してしまうので、「空間内に図形を切り抜き、それを数学の方式となった法則にしたがって運動させ、物質のもつ外見的な諸質を、このような幾何学的図形のもつ形、位置、運動によって説明する」(「意識に直接与えられているものについての試論」第三章)ことは知性にとって「精神の積極的な努力として映じ」(「創造的進化」第三章・全集)、逆に「空間から幾何学を、幾何学そのものから論理学を、自動的に生じさせることは、論点先取の誤謬」(同上)としか映りません。実際のところは、知性は論理的な働きによって数学的秩序を構築したのではなく、「空間表象に内在する一種の潜在的な幾何学」、つまり「われわれの行動がそれに依拠し」(同上・竹内訳)ている秩序をあらためて発見し直したに過ぎないのです。「数学は、実際、この種の前駆的形成の像(イメージ)を示している。平面上に円周を描く同じ運動がその図形のもつあらゆる性質を生み出す。この意味で、無数の定理は定義の中に前もって存在している」(「意識に直接与えられているものについての試論」第三章)。したがって数学においては、ある計算式を解くとはその計算をやり直すことに他なりません。「ある計算をたどって行くとき、もし自分でそれをやりなおしているのでなかったら、たどって行くことができるだろうか。ある問題を自分でも解いているのでなかったら、その問題の解答を理解できるだろうか。(中略)わたしたちが読んだり理解したりする文句が完全に意味を持つのは、それらが教える数学的な真理の表現をわたしたち自身の奥底から引き出すことによって、わたしたちがそれらを自分でみとめ、いわばそれらを新しくつくり出すことができる場合だけだ。証明を見たり聞いたりするにつれて、わたしたちはいくつかの暗示をひろい、標識を選びとっている。それらの視覚や聴覚のイメージから、わたしたちは抽象的な関係の表象へ飛躍している。つぎにそれらの表象から出発して、それらの表象を内心のことばで展開し、それが読んだり聞いたりすることばに追いついてかさなり合うのだ」(「知的な努力」)。――このように一般的に知解作用においては「単純な表象がいくつものイメージに分散し、イメージが文句や語に展開」(同上)しますが、イメージ相互の結び付き自体には何ら積極的な意味はありません。同様に、「結論をあらかじめ内に含むような前提をとおして、必然的決定の諸関係のあいだを動いていくような表象」(「創造的進化」第三章・全集)、つまり演繹する知性が持つような表象にも積極的な実在性はありません。積極的な努力を必要とするのは図式をイメージに展開することであり、「前提をもってしては測られず、前提との関係によっては決定されえないような結論への前進」(同上)、要するに「創造への前進」(同上)なのです。

以上のことから容易に推測されることですが、心理学や精神科学の分野における演繹の射程は極めて狭く、「事実によって立証される命題から、ある点、ある範囲までしか立証可能な帰結を引き出すこと」(「創造的進化」第三章)はできません。「演繹された帰結を曲げて、生命の紆余曲折に合わせてもう一度撓(たわ)めるためには、すぐさま、良識(bon sens)、つまり実在の連続した経験に訴えなければならない」(同上)のです。この「実在の連続した経験」とは、別の言葉で言うと「観念から努力へ、努力から行動への進展」(「意識に直接与えられているものについての試論」第三章・竹内訳)です。「観念と行動のあいだには、ほとんど感じられない程度の中間項が入り込んでいて、その中間項の全体が、われわれにとってはある種独特の形をとって現われる。それをわれわれは、努力感情と呼んでいる」(同上)。ある意味では、観念と行動の間にも物理現象における原因と結果の間にあるような因果関係がないとは言えません。が、それは完全なものではあり得ず、必然的なものとも言えないでしょう。この「実在の連続した経験」を曲線になぞらえるとすれば、演繹の射程は「曲線とその曲線の接線が重なり合う[微分的]区間」(「創造的進化」第三章・竹内訳)でしかないのです。それとは対照的に、幾何学や天文学、物理学においては演繹はほとんど万能ともいえる能力を発揮します。ということは「ほかでもなく、演繹とは物質の振る舞いに合わせて調整され、物質の可動的分節構造の寸尺を写し取った、要するにその物質の背後に広がる空間ともども、あらかじめ暗黙裡に与えられている一個の[精神的]操作ということでしかないのではないか?」(同上)――演繹する知性は物質や空間の中では我が物顔に振る舞うことができ、まるで「我が家にいるように」(「創造的進化」第三章)寛ぐことができます。「我が家」というのは単なる比喩ではなく、物質や空間こそ知性が帰るべき場所なのです。
(このあたりの分析にはよく理解できない点が少なくなく、ベルグソンの意図を正しく汲み取れているかどうか自信がありません。特に空間の表象に潜在的な幾何学が内在しているとか、演繹が物質の振る舞いに合わせて調整されている、とはどういうことかわかりづらいのではないかと思います。この点については、知性の構造について述べた「道徳と宗教の二つの源泉」の以下の文章が参考になるかも知れません。――「(前略)科学を定義することはむずかしくない。というのは、科学の仕事はどの時代にも同じ方向を目指していたから。科学は予見すること、行動することを目指して、測定したり計算したりするものである。科学はまず、宇宙が数学的法則によって支配されているという仮定をおき、ついでこのことを事実によって確認する。要するに、科学の進歩の全体は、宇宙にあまねく行きわたった力学機制(メカニスム)をより広汎に認識し、より豊かに利用することにある。この進歩はもとより人間知性の努力によって行なわれたものであり、知性は事物に対するわれわれの行動を指導するように造られている。したがってまた、知性の構造は、宇宙の配置が数学的な出来になっているのを敷き写しにしているのでなくてはならぬ。われわれが働きかけるのは、さしあたりはただ周囲の対象へでしかなく、また原始状態での知性の職分もそうしたものだったろうが、しかも宇宙の力学的機構はそのどの部分にも現前している以上、人間が身につけて生まれてきた知性は、当然物質界全体を包む可能性を備えていなくてはならない。頭の働きも、眼の働きの場合と同様である。眼が造られたのも、やはり、われわれがそれへ働きかけうる対象を照らしだすためでしかなかった。しかも自然が、必要な精度を備えた視覚を手に入れるためには、その効果がそれの対象を越え出てしまうような仕掛けに頼るほかはなかった〔われわれは星に働きかけることはできぬが、しかも星が見える〕。これとも同様、自然はわれわれが直接に手を触れる物質を理解する力だけではなく、それとともにまた、それ以外のものの可能的認識と、それを利用する同じく可能的な能力をも、われわれに与えざるをえなかったのである」。――また、問題の答えを理解するためにはその問題をすでに解いていなければならないという点に関しては、認識とは急激な分解の結果であるという「変化の知覚」の中の言葉を思い出しましょう。認識は「単純要素の漸進的連合によって構成される」ものではないのと同様に、理解は知性の論理的な働きによって得られるのではありません。強いて言えば理解は精神が飛躍した「抽象的な関係の表象」の中にあり(ただし飛躍がいつも成功するとは限りませんが)、それが急激に分解することによって数式へと展開し、夢と現実が重なり合うようにして認識が得られるのです)

したがって演繹は空間的直観がなければ発動しませんが、帰納についても同じことが言えます。空間的直観とは「空虚で等質的な場の直観、というよりもそのような場の概念化」(「意識に直接与えられているものについての試論」第二章・竹内訳)であり、節足動物や他の脊椎動物が有しているような優れた方位感覚を代価にして手に入れた人間知性特有の能力です。ところで同じ条件から同じ事象が反復して生起することを予期するためには、幾何学者として思考することはおろか、そもそも思考する必要すらありません。動物の意識はすでにこの予期を有しており、これまで見てきたように「生きて活動する生命体の身体そのものが、どんな意識とも関係なくすでに、それが位置している場所の周辺に継起する諸状況から、その生命体に関与する類似的事象群を抽出し、それらの事象群の刺激に対して適切な対応を行なうように作られている」からです。とはいえ演繹における自然的な幾何学と同様、このような意識の働きは純粋な知性の操作というより「体験された」ものであって、そこから思惟された帰納へ移行するためにはその概念化、すなわち反省が必須条件となることも付け加えて置かなければなりません。この体験された帰納がもともと上記のような予期の上に成り立っていたとすれば、それが体験されたものから思惟されたものへと進化を遂げたあとも、物事には「原因と結果があり、同じ結果は同じ原因に従っているという」無意識の信念が消えずに残っていたとしても不思議ではありません。この二重の信念を探っていくと、以下のような思考回路が見えてきます。まず第一に、世界はもろもろの部分に分解することができ、分解されたものは実際上それぞれ孤立したもの、独立したものと看做し得るということです。例えば水の入った鍋をコンロの火にかけて沸騰させる場合、この操作とその対象は、他の多くの対象や操作と関わりを持っています。その連鎖を一つ一つ辿っていけば、最終的に「われわれの太陽系全体が、空間内にあるこの一点で、今現在、行なわれている事象(水の沸騰)に関係していることがわかる」(以上「創造的進化」第三章・竹内訳)でしょう。しかしさしあたりお湯を沸かすという目的からするとそこまで厳密に考える必要はなく、日常生活では誰しも「水と鍋と火の付いたコンロ」があたかも一つの独立したミクロコスモスであるかのように振る舞う筈です。これが世界を見渡したときに真っ先に目に付く点です。このミクロコスモスの中では出来事は常に決まった仕方で進行すると考えるとき、すなわちこのミクロコスモスの中では一定の時間が過ぎれば確実に水が沸騰すると考えるとき、その確信はどこから来るのでしょうか。確信の度合いは常に同じ訳ではなく、当面するミクロコスモスが量的な要素のみによって構成されているとき絶対的な性格を帯びます。実際、二つの数が与えられれば、その差は必然的に決定し、自由に選択することはできません。三角形の二辺とその夾角が与えられれば、残る第三辺は自動的に生じてひとりでに三角形が完成します。同じ夾角を持った同じ二辺はいつでもどこでも描くことができ、その都度第三辺が同じように生じて同じようにこのシステムを完成させるでしょう。そして新しくできた三角形は最初の三角形に重ね合わせることができるのは改めて言うまでもありません。このように推論が空間的な規定について働くとき、「原因と結果があり、同じ結果は同じ原因に従っているという」確信が絶対的なものになるとすれば、システムが純粋な量に近づけば近づくほどそれだけ確信も絶対的なものになると考えてよいのではないでしょうか。別の見方をすると、量はあらゆる場合に例外なくシステムの底に透けて見えるものであり、透明度に応じてシステムをその幾何学的必然性の色合いで彩っていると言うこともできます。同様に鍋に入れた水をコンロの火にかけて沸騰させた経験が過去に一度でもある場合、コンロと鍋と水、さらには一定の時間経過が三角形の二辺とその夾角のごとく条件として与えられれば、第三辺が自動的に生じて三角形を完成させたように、沸騰という現象が例外なく生じてこのシステムを完成させるだろう、と知性が推理するのは極めて自然なことです。そのとき知性は三角形と三角形を重ね合わせるように、想像の中で今日のコンロをかつてのコンロに、今日の鍋をかつての鍋に、今日の水をかつての水に重ね合わせているのです。むろんこれは自然な推理ではあっても純粋な推論としては不合理であって、想像力がそのように働くのは、本質的な二つの点に目をつぶっているからでしかありません。一つは時間、もう一つは質と量という二つの異なった秩序の差異です。実際事物は持続しないと考え、時間は経過しないと考えない限り、かつてのシステムの上に今日のシステムを重ね合わせることはできません。これは幾何学において、ただ幾何学においてのみ可能なことです。また人間の常として、量に対して適用されることをそのまま質に対しても適用しようとする傾向があります。科学がのちに可能な限り質的差異を量的差異に還元して、この操作を正当化してくれるでしょう。しかしあらゆる科学より先に、人間が自ら進んで質と量を同一視しようとしているのも疑いのない事実なのです。この事実は、人間には質の背後に幾何学的なメカニズムが透けて見えていることを裏書していると言えないでしょうか。質的差異をその背後に広がる空間の等質性に溶かし込めば溶かし込むほど、帰納の確実性も増していきます。したがって幾何学は演繹にとっても帰納にとっても目指すべき極限であり、空間性を終極とする弛緩の運動がその軌道に沿って演繹能力と帰納能力を、つまり知性の全体を沈殿させていくのです。

原注にもある通り、この演繹と帰納に関する記述の理解には「意識に直接与えられているものについての試論」への理解が欠かせません。中でも特に関連性が高いのが第二章の「空間と等質性」を論じた箇所と第三章の「持続と因果性」を論じた箇所です。ここで確認して置きたいのは、あらかじめ予告して置いたように、自然的な幾何学とは何かということです。この自然的な幾何学という言葉について、ベルグソン自身はほとんど具体的な説明を加えていません。明示されているのはせいぜい学問的な幾何学とは区別されるものであるということと、「行動において外在化されている知性が反省的知性の出現するはるか以前に解決しなければならなかった問題群」であるということくらいです。この自然的な幾何学は空間や因果性、演繹や帰納と複雑に絡まり合っており、それを解きほぐすことによって多少ともそれらの素性や関係が明らかになるのではないかと考えます。その中からまずは因果性を見てみることにしましょう。

「意識に直接与えられているものについての試論」の目的は自由を証明することにあります。この章(第三章)では、自由を否定する決定論者の主張を論破するという形で文章は進みます。因果律は決定論者が最後の砦とする原理です。

因果律が立脚しているのは、端的に言えば「同じ原因からは同じ結果が生じる」ということです。しかし「実を言えば、経験論者たちが、因果律によって人間の自由に反対するとき、彼らは原因という語に[こっそり]新しい意味を付加している」(「意識に直接与えられているものについての試論」第二章・竹内訳、以下同じ)ことに気付いていません。その新しい意味は一般常識の解する原因という言葉の意味でもあります。

「二つの現象が繰り返し規則的に継起しているということは、実際には、最初の現象が与えられれば、そのときすでに同時にもう一つの現象も認知されている、ということを認めること」です。先ほどの例で言うと、鍋に入った水と火の付いたコンロと一定の時間経過が与えられれば、そのときすでに水の沸騰という現象も観念として思い描かれうるということです。しかしこのような二つの表象の主観的な結び付きという形だけでは常識(あるいは原始的知性)は満足できません。結果となる現象の観念がすでに原因となる現象の観念に含まれているとすれば、原因となる現象の中に結果となる現象が単に観念としてではなく客観的に実在している、というふうに常識には思えるのです。人間知性の誕生後かなり早い段階で、原始的知性はこのような結論に導かれていたのではないかと考えられます。「なぜなら、諸現象のあいだにある客観的な結合関係と、それらの現象の観念相互の主観的な連合関係とをはっきり区別」し、主観的なものを客観的なものの中に持ち込んだり客観的なものを主観的なものの中に持ち込んだりするのを自制するためには、「かなり高度の哲学的教養」が必要だからです。このような混同は、原始的知性にのみ見られるものではありません。現代の一般常識も「それと知らずに、客観的な見地から主観的見地に移行し、(あらゆる)因果関係を、未来の現象が現在の諸条件のなかで、いわば予備的に形成されていることだ」と無意識のうちに推理していることに変わりはないのです。この未来の「予備的形成」には当然二つのケースが考えられます。厄介なのは、その二つを区別するのが必ずしも簡単ではないということです。

未来の予備的形成の理想的な例が、まさに上で挙げた数学(幾何学)です。「(前略)位置は定数の体系によって決められ、運動は一つの法則、つまりいくつかの変数相互間の恒常的関係[を示す方程式]によって表現される。しかし、物質の形態はイメージである。どんなに微細なものであれ、どんなに透明なものであっても、それでもやはり、われわれの想像力[=イメージ形成能力]がそれをいわば視覚的に知覚している以上、形態は物質がもつ具体的な、したがって還元不可能な質を構成しているのである。したがって、この[視覚的]イメージを白紙に戻し、図形を生み出す運動の抽象的数式にそれを置き換えなければならなくなる」。このとき「代数的関係式が、互いに入り乱れ、交錯しながら、まさにその交錯する代数関係によって自らを対象化し、その錯綜の効果だけによって、目で見、手で触れることのできる具体的現実を生み出している」様を想像してみましょう。その光景こそ「未来が予備的に形成されている」イメージに他なりません。――このあと展開される論述は割愛しますが、このような抽象化を推し進めるとデカルトの自然学やスピノザの形而上学、あるいは現代物理学に見られるような徹底した機械論に行き着くこと、そこには「原因と結果とのあいだに必然的関係を打ちたてるという、どこでも同じ一つの関心」が見出せること、「そして、この共通の関心は、ある一つの傾向によって、つまり相互に継起する諸関係を内在関係に変換し、持続の作用を廃棄して、見かけ上の因果関係を根本的同一性に置き換えるという傾向によって、表現されていること」に留意して置きたいと思います。

未来の予備的形成にはもう一つ別の形のものがあります。すでに述べたように、「観念と行動のあいだには、ほとんど感じられない程度の中間項が入り込んでいて、その中間項の全体が、われわれにとってはある種独特の形をとって現われ」ます。観念と行動は努力と呼ばれる中間項を介して結ばれているのです。「観念から努力へ、努力から行動への進展はきわめて連続的なので、どこで観念が終わり、どこで努力が終わったのか、どこで行動が始まったのか、それを言うことはでき」ません。「そこで人はこう考える。ある意味では、この場合にも、未来が現在のなかであらかじめ形作られている、と言ってもよいのではないか、と」。むろんこの場合の未来は不完全なもので、原因と結果の間に必然的関係は存在しません。これは当たり前すぎて、わざわざ指摘するまでもないことでしょう。ところが原始的知性や常識にとっては、このように不完全な表象でも十分な影響力を持ち得る、というのが真相なのです。古来知性が自然の意志や意図といった観念に振り回されてきた(そして現在もなお振り回されている)ことを思えば、それも納得がいくのではないでしょうか。この不完全な因果関係の表象は「外的世界と内的世界とのあいだの、客観的現象の継起と意識的現象の継起とのあいだの、ある種の類比関係」をダイレクトに表し、抽象化の努力を要しない点で、常識にとっては第一の因果関係よりも一層身近なものであると言えます。

因果関係に関してはこのように二つの異なった考え方があるのですが、第一の考え方からも第二の考え方からも自然的な幾何学を引き出すことはできません(ちなみに第一の因果概念がスピノザに行き着くのに対して、第二の因果概念あるいはその延長である古代の物活論はライプニッツに行き着く、とベルグソンは述べています)。自然的な幾何学は因果関係に関する二つの考え方のさらに下層に存在するのではないかと考えられます。

この問題に関して参考になりそうなのが「エクリ・エ・パロール」所収の「因果性へのわれわれの確信の心理学的起源についてのノート」(パリの国際哲学会議での報告)です。以下この報告を詳しく見ていくことにします。

ベルグソンはまず、哲学において重要な課題の一つであったこの種の問題が次第に軽んじられる傾向にあることに対する懸念を表明しています。因果律は生得的なものなのか後天的なものなのか、原因という観念の中に精神固有の能動性をどこまで認めるかといった問いが置き去りにされたまま、心理学はもっぱら注意と知覚の現象を、認識論は因果律の起源よりその意義と価値を問題にするようになったのです。認識論がカントとともに「認識の素材と形式との間に、アプリオリな純粋概念と感覚の多様性との間に根本的区別を打ちたてるとき」(「因果性へのわれわれの確信の心理学的起源についてのノート」、以下同じ)、アプリオリな認識は個人に一挙に与えられるのか、それとも徐々に構成されるのかを決定することは最早できません。何故ならアポステリオリとアプリオリは「本性ないし価値の差異を示している」のであって、時間的な前後関係を示しているわけではないからです。しかし、因果律への確信の起源がどこにあるかということは忘れ去られてよい問題ではありません。この報告の目的は、「因果法則はいかに構成され、いかにして通常の知性に現われるのか」を明らかにすることにあります。

第一の考え方は、因果律への確信の起源を外界で生起する様々な自然現象の(静的な)観察に求めるものでしょう。この説によれば、規則的に継起する現象は一定の変化にそれに先行する一定のものを結び付ける習慣を精神に植え付け、あるいはその直接的な印象が繰り返されることによって水の流れが大地を穿つように次第に深く脳に刻み込まれる、とされます。なるほど「遺伝が観念や原則を伝えうるということ」を可能性として否定し去ることはできないかも知れませんし、先行するものを後に来るものに結び付ける習慣が一旦作られれば、それが「自然の基本的法則へと客観化されてしまうこと」は認めなければなりません。問題は、規則的に継起する現象は本当にそれほど頻繁に観察できるものなのか、原因が必然的に結果を引き起こす例がそれほど数多くあるのかどうかということです。

例えば、日の出と日没は毎日繰り返される現象です。一定の時が経てば日が昇り、日が沈むことを疑う人間はいません。が、この経験から必然性の観念までにはあまりにも大きな隔たりがあります。変化から次の変化までが空白で区切られており、連続性で満たされていないからです。因果性が問題となるとき、継起する現象の例として決まって持ち出されるのは球撞きです。しかしよく考えてみましょう。確かに球撞きは原因と結果が継起するイメージを鮮やかに喚起しますが、これに類した現象を自然界で目にする機会は実は滅多にありません。しかも次々にぶつかり合う複数の球がどの方向に転がるかはしばしば予測困難です。球撞きの例は因果律を説明するというより、むしろ因果律が既成概念となったあとでそれに都合の良い例が案出されただけではないのかと疑ってみる必要があるかも知れません。もう一つ古典的な例として、鍋に入った水の沸騰の例が挙げられることもあります。「しかし、人類の歴史においては、人間が水を沸騰させることを知る以前にも、多くの世紀がおそらく経過したのであり、そのときも人間はやはり因果法則を適用していたとわたくしは思う」。――この事実は見過ごされがちですが、決して無視できるものではありません。したがって同じ因果関係と言っても、科学が扱う因果関係と「精神に自発的に現われ」てくる因果関係とは区別して考える必要があります。因果関係には結果が原因に継起して起こる場合と、原因と結果が共在している(同時である)場合があります。科学は原因と結果が共在ないし継起している事例を明確に示してくれます。一方「われわれの直接的視覚経験の中では、一定の現象が一定の現象と共在ないし継起の関係にある」ことはほとんどありません。科学を知らない通常の知性にとっては、因果性は継起も共在も明確には含んでおらず、多くの場合目撃した現象を「単に仮定された現象に結びつけ」ているに過ぎないのです。「そこで、経験論の誤りは――われわれの断定がどんなに逆説的に見えようとも――因果法則への一般的確信をあまりにも知性的なものにして」、それを常に科学との関連において考察している点にあると言えないでしょうか。

原因の観念や因果法則の起源を知るためにはしたがって科学との関連の中にではなく、それを「内的生命」の中に、「われわれが自己自身と自己の行動する力とについてもつ認識の中に」求めなければなりません。これが第二の考え方であり、メーヌ・ド・ビランのテーゼでもあります。このテーゼは第一の考え方の欠点を補うものの、「メーヌ・ド・ビランのテーゼは観念から法則への移行を相当あいまいなままにしておき、非常に困難にさえするのみならず、それは自我の因果性との間に常識が作る肝心な区別にあまりにも軽く言及する」嫌いがあります。「是非は別として、われわれはわれわれの意識からわれわれの自由意志の確認を得ると信じている。是非は別として、わわわれはわれわれの意志の働きとわれわれの運動との中に、原因に対して少なくともある程度無規定な、偶然的結果を見るのである。それゆえ、われわれがわれわれ自身の純粋かつ単純な観察の中から汲み取るものは決定的因果関係の観念ではなくて、自由な因果関係の観念である」。この自由な因果関係の観念とは、要するに「意識に直接与えられているものについての試論」で語られていた因果関係に関する二番目の考え方と同じものではないでしょうか。「われわれがこの観念を外界に適用するとき、それがこうむる変形をどのように説明すればよいのか。またその観念がそこで変化しなければならないならば、いかにしてわれわれはそれをそこに移す気になるのか」。――決定的因果関係の観念と自由な因果関係の観念とは互いに相容れないものであり、一方から他方へ移行するときそれは変形を余儀なくされます。この変形が意味しているのは二つの観念の融合、あるいは比喩として適切かどうかわかりませんが二つの観念のキメラ化であって、時と場合に応じて表の顔と裏の顔を使い分けることによって人間自身の目を瞞着しているのです。「一方では、自然現象の規則的継起と、一つの現象が他の現象に成るときに働いているある種の内的努力に、特に注目する。他方では、これら継起する自然現象の絶対的規則性に注目し、この規則性の観念から出発して、少しずつ気付かれないように、数理的必然性の観念に至り、第一の考え方が認めていた持続を、自然界から排除する。そのうえで、この二つのイメージを、ごく当たり前のように融通しあい、その時その時の科学的関心の多寡に応じて、どちらか一方を優先させる」(「意識に直接与えられているものについての試論」・竹内訳)のです。その結果相容れない二つの観念は混じり合い、二つの観念の間に妥協が成立します。「互いに外的な関係にある二つの現象のまったく力学的な決定機制が、今やわれわれの目には、われわれの内的力とその力から生み出される行為とを機制する動態的関係と同じ形式をまとっているように見えてくる。その反動として、その動態的関係は、数理的導関数の様相を呈するようになり、人間の行為は力学的なものとして、したがって必然的なものとして、その行為を生み出す力から導き出されるものとされる」(同上)。二つの観念のこのような融合が常識にとって都合がよいのは、それによって「客観的現象の継起と意識的現象の継起」を同じように扱い、同じように言い表すことができるからです。しかしそれは思考の節約あるいは怠慢に過ぎず、事実を正確に反映したものではないのは自明のことでしょう。

そこで第三の考え方として、外的な経験でも内的な経験でもない、「悟性の構成そのものの中」に因果法則の起源を求めることをベルグソンは提唱します。「経験以前に、経験を可能にする諸条件が存在する。現象の多様性の上に、精神の綜合的努力が存在する」。この精神の綜合的努力はのちに「夢」で語られるあの努力と同じものであり、「創造的進化」第四章で語られる土地の区分けと同じものです。知性の構造と物質の分割とは歯車のように互いに噛み合っており、互いに補完し合っていますが、それはこの精神の綜合的努力の帰結でもあります。したがって現象間の原因と結果の関係は、この綜合の「特殊な形式」に過ぎないということになるでしょう。説明しなければならないのもこの綜合の「特殊な形式」です。「思惟が可能であるためには経験がしだいに統一可能となることが必要」であるとすれば、知性を純粋に受容的なものと看做し、知性にその統一の根拠を求めないとしても、「事物そのものに、全体としての宇宙に、統一の根本的要求を付与」しないわけにはいきません。したがってこれが意味しているのは単に、悟性の中心を一歩手前にずらしたということに過ぎません。中心を移動しても「悟性の構成的統一」(これは現象間の諸関係と思考の諸法則が互いを生み出し合うことと言い換えることもできます)そのものを否定することにはならない以上、因果法則はすでにその中に含まれており、中心をどこまでずらしても因果法則の起源に辿り着けないのは明らかです。現象間の諸関係を先に立てるにしろ思考の諸法則を先に立てるにしろ、それらは科学を説明することはできても通常の経験を説明できません。それらは自然を観察すればするほど自然の理解が容易になっていくように見える理由を教えてくれますが、人間知性の覚醒以来、科学に依拠しない「自由な因果関係」を確立するために人間がどのように振舞ってきたかを語りませんし、自由な因果関係の独特な形式(それはのちに科学によって徐々に放棄されていくのですが)を説明できません。「最後に、経験を統一するあらゆる可能的方法の中で」、何故「原因についてのある表象」が特に選ばれるのか、何故自由な因果法則が外的な原因に対しても当然のごとく適用されるのか、その理由を説明し得ないのです。

上に列挙したことから、因果性が「継起的連関と共在的連関」、「明確な決定と偶然的選択」、「外から課せられた統一と内的に知覚された動的関係」、「われわれの経験ないし少なくともあるいくつかの経験の所与と思惟のあるいくつかの根本的要求への応答」という相反する二つの意味にまたがっていることが改めて確認されます。と同時に、因果法則への確信の醸成される過程が極めて特殊で独自な性格のものであると推測できます。

この過程の特徴としてまず予測できるのは、それが経験的であること、ただし上述したように、他の経験とは何ら共通点を持たないだろうということです。一般に習慣は連続的に形作られるというより断続的に形作られます。因果性の要求も一つの習慣と言えるならば、それは呼吸のように間断なく行われ、通常の習慣よりもより深く生と結び付いているために、「悟性がそれについて反省するや、たちまちそこから一つの必然的法則を引き出してしまうような習慣」であるに違いありません。第二に、確立された因果関係が諸現象を互いに外から結び付けるものであるのに対して、因果関係が形成途上にある間は、因果性が結び付ける諸事実に対して人間は外的な立場にとどまることはできないだろうということです。それゆえ「因果関係は単に恒常的経験の対象」であるというだけでは十分ではありません。「われわれはわれわれの努力のあるものを(自由と偶然とをなくして)原因に帰着させることによって、また原因が結果に単に先行する代わりに結果の中に延長するために、われわれの自我の連続性についてわれわれがもつ意識をこの原因につけ加えることによって、われわれがいわば原因と結果の中に入る」のであり、「その原始的形式の下では、因果関係は、原因と言明される事実と結果と見なされる事実との間にわれわれ自身の人格が挿入されるような性質の事実に適用される」のです。この二つの条件が同時に満たされるのはどのようなケースでしょうか。
(見ての通り、ここでベルグソンが述べていることは第一の考え方と第二の考え方の両方を取り入れつつ、根本的に誤っている部分に修正を施したものだと言えます。第一の考え方は外的な観察の印象が脳に自動的に記録されると考える点で間違っており、第二の考え方は因果関係がその起源においてあらゆる種類の事実に対して適用されると考える点で間違っています)

(つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿