画竜点睛

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「ジェノサイド」(12)

2012-04-01 | 雑談
以上の点に留意しながら最初に知性の方から見ていくと、動物一般において知性の存在を最もわかりやすく示しているのは何といっても道具の製作でしょう。といっても必ずしも実際に道具が製作される必要はありません。そこへ至る道筋の上にある行為が果たされれば十分です。たとえばサルやゾウなどは物を道具として利用することもあれば、実際に原始的な道具を製作して使用することもできます。また道具を製作したり利用したりはできなくても、製作された物を識別できる動物、罠を罠と認識できる動物も存在します。識別は過去の経験を参照する能力、すなわち推論を前提としており、推論は「すでに発明の端緒」といえる能力です。このようなぼんやりとした知性から実際の発明までの道のりは遠いにしても、そこへ至る道を遮るものは何もありません。「動物の知性は、まだ人工的なものを作り出し、利用するには至らないとしても、自然に与えられた本能に変化をもたらすことによって、その準備をしている」のです。人間の知性にとっても道具の製作や機械の発明が特別な意味を持っていることに変わりはありません。道具や機械は単に知性の成果物であるのみならず、生み出されることによって今度は知性を延長する手段ともなり得ます。それは社会生活を根本から変え人類の進歩の方向を描くと同時に、人間の感情や思想といったものにまで影響を与えずにはおきません。発明の持つこうした深い影響力が気付かれることなく見過ごされてしまうのは、習慣の変化が道具の変化に常に遅れをとり、習慣の変化を自覚する頃にはすでに発明されたものは陳腐なものと化しているからです。しかし或る変革の原動力となったものを掘り下げていくと、その中心に一つの発明があることに気づくでしょう。たとえば戦争や革命といった当代の人にとって最大限に重要な出来事は、何百年、何千年が経った後には、ひょっとすると人々の記憶にほとんど残っていないかもしれません。が、「おそらく蒸気機関とそれに付随するあらゆる種類の発明は、青銅器や打製石器についてわれわれが語るような仕方で語られ」、時代を画するものとして語り継がれるでしょう。「われわれの種を定義するのに、人間と知性の変わらぬ特徴として有史時代と先史時代が提示するものだけで我慢して、それ以外のものには決して頼らないならば、われわれはおそらく、ホモ・サピエンス(知恵のある人)とは言わず、ホモ・ファベル(工作する人)と言うだろう。つまるところ、知性本来の歩みであるように思われるものを検討すると、知性は、人工物、とりわけ道具を作るための道具を製作し、そしてその製作を無際限に変化させる能力である」。

では本能は道具を所有していないかというと、そんなことはありません。ただそれは製作されたものではなく、それを使用する動物の身体と一体化している点に大きな違いがあります。むろんここでも本能と知性は混じり合っており、或る器官が有機的な道具であるか否か、それを操作しているのが本能なのか知性なのか、厳密に区別するのは難しいでしょう。しかし本能が理想として目指しているところを考えるなら、本能とは「生得的なメカニズムを利用する自然な能力」である、と言ってもそう大きな間違いではない筈です。実際、本能と「有機的組織化」との間には明確な境界線はありません。「お望みに応じて、本能が、自分の使うことになる諸々の道具を有機的組織化するのだと言っても、有機的組織化が、器官を使わなければならない本能に延長されているのだと言ってもいいだろう」。この意味で、本能は生命と同じ流れの内にある、と言うこともできます。ただし本能と生命が完全に軌を一にしているのは或る時期までで、一定の飽和点に達すると、本能は見えない鎖につながれているかのように自ら行動範囲を制限するようになります(これについては後述します)。それはともかく、有機的な道具に対応して本能が存在しているのは紛れもない事実であり、生命は一つの集団に一つの本能を付与するだけではあきたらず、「社会的生が仕事を分割して個体に振り分け」ているような集団では、個体ごとに異なった本能を割り振ろうとさえする傾向が見られます。アリやミツバチなどに見られる多型性はその表れであり、それはまた本能と有機的組織化が共振し合っている証しでもあります。「したがって、知性と本能の完全な勝利が見られる限界例だけを考察するとすれば、それらに本質的な差異が見つかる。完成された本能は、有機的な道具を使用し、その構築まで行う能力である。完成された知性は無機的な道具を製作し用いる能力である」。

道具の使用という共通の観点から本能と知性を対比することによって、それぞれの長所・短所がより鮮明に見えてきます。本能の使用する道具は製作するまでもなく生得的に与えられ、点検も整備もほとんど必要ありません。操作法を学ばなくとも使いこなすことができ、いつ何時でも要求された仕事を完璧にやり遂げることができます。その代わり道具の構造は不変で、使う側の都合によって取り替えることはできません。このため本能は必然的に専門化し、適用される対象は限定されています。他方知性が使用することになる道具は自分の手で製作しなければなりませんし、使い続けるためには保守が必要です。また有機的な道具に比べ完成度や使い勝手の点で劣る分、どんな形や構造にも加工できるため様々な要求に応えることができるという利点を持ちます。このことから必然的に帰結するのは、製作されたものが製作した主体に対して何らかの影響や作用を及ぼさずにはおかないということです。本能が自らの作り出した道具の機能の埒内に行動範囲を区切るのに対して、知性は新たな機能を作り出すことによってこの限界を突破します。追加された機能は何らかの欲求を満たすと同時に、知性を新たなステージに引き上げることによってまた別の新たな欲求を生み出すのです。しかしこのようなことが可能となるためには、知性は一定の高み――製作のための道具を製作できる状態――にまで達していなければなりません。本能と知性が生まれたばかりの状態のときには、単純な能力比較ではどちらも甲乙つけがたく、勢力も拮抗していたのではないかと推測できます。

植物と動物のように、本能と知性もお互いの傾向を内に含んでいます。それらはどんなに進化しても完全に分離してしまうことはありません。逆に言えば、植物と動物もそうだったように、過去に遡れば遡るほど現在の本能より知的な本能が、現在の知性より本能的な知性が見つかるでしょう。これらの原始的な本能や知性は当然弱々しく非力で、物質を支配するどころか逆に物質の虜となっています。このような隷属から脱却するためにもお互いがお互いを必要としたのです。「昆虫の最も完全な本能でさえ、巣を作る場所や時期、その材料を選択する場合に限られるとはいえ、知性の仄かな現れを伴ってい」ますし、知性は知性で、本能の助けがなければ今日のような繁栄を築くことは決してできませんでした。というのも物質を加工して道具を製作することはある程度高度な有機的組織化を前提としており、「動物は本能の翼にのって初めてその段階まで」飛翔することができたからです。脊椎動物においても行動の基体を成しているのはあくまで本能で、知性はいわば本能を主題とした変奏曲を奏でているに過ぎません。したがって最初に開花したように見えるのは本能の方だとしても、知性の手探りの探求は間断なく続けられ、手を変え品を変えて繰り返し発明の試みがなされてきた事実が自然からは読み取れます。そして人類が出現するに及んで、マグマが噴出するように知性が一気に溢れ出し地上を覆い尽くす様が見られます。人類に至って初めて知性は自己意識となり、勝利を決定的なものにするのです。人類の誕生した日は同時に本能が「知性から最終的な解雇通達を受け」た日であり、以後本能は「行動の円環を閉ざして、動物はその中で自動的に動き回ること」しかできなくなります。

このような本能と知性の比較から、本能は無意識的傾向を、知性は逆に意識的傾向を強めていったことは容易に想像できるでしょう。では本能の陥っている無意識と植物の陥っている無意識は同じものなのか、違うとすればどこが違うのかという厄介な問題に対して、ベルグソンははっきりしたことは述べていません。「植物は本能を持つ」が、「これらの本能が植物において感情を伴うことには疑問が残る」という一見無関係とも思える答え方をしているだけです。この問題は措くとして、ベルグソンは本能の陥っている無意識を次のように説明します。

以前にも書いたことですが、同じ無意識といってもいくつかのものが考えられます。たとえば「もともと意識が無いことに」由来する無意識もあれば、「意識が消えて無くなったことから生じる無意識」もあります。前者は無機物の場合で、石を拾い上げて地面に落としてもその石が落下しつつあることに対して、あるいは地面に激突したことに対して何の意識も感情も持っていないことは明らかです。後者が意味しているのは方向が逆の「二つの等しい量」が「相殺し中和し合っている」結果生じる無意識であり、本能が当て嵌まるのはこの後者の場合だとベルグソンはいいます(ただし本能も通常は何ほどかの意識を伴っており、完全に無意識となるのは極端な場合です)。意識はそこにあるにも係わらず、現れようとする先からそれを打ち消す力に中和され、最初からそこには何も存在していないかのごとく見えてしまうのです。現れようとしているのはなされつつある行為の表象であり、それを打ち消しているのは実際になされつつある行為です。「行為と表象の類似が完全で、行為が表象にぴったり嵌まり込んでいるので、いかなる意識ももはや溢れ出ることがな」く、「表象は行動という栓によって塞がれている」のです。これと同じような状況を、人間も習慣的な動作や機械的な動作を行う際に体験することができます。動作が正確で的確に遂行されればされるほど意識の入り込む余地はなくなり、逆に毛の先ほどの意識が入り込んだだけで動作の連続性や完璧性が脆くも崩れ去ってしまうことはよくあることでしょう。この例が示すように、行動という観点から見ると意識は不整合や空隙から生ずるのであって、もともと意識のないところに何かを付け加えるのではありません。意識は充足した状態を表しているのではなく、常に何かが不足した状態を表しているのです。

したがって次のように言うこともできるでしょう。「意識とは、生物によって実際遂行される行動を取り囲む、可能的行動性あるいは潜在的行動性の地帯」を照らす光のようなものである、と。選択肢が多ければ多いほど、逡巡すればするだけ意識は強くなるのです。逆に選択の余地がなく、玉突きのように自動的に一連の行動が惹き起こされる場合、意識は一見ゼロになったかのように見えますが、実際にゼロになったわけではありません。それらの行為の遂行が何らかの事情や障害によって阻害されたり頓挫させられたりすると、その間隙を目がけて忽ち意識が息を吹き返してくるからです。したがって意識は存在しないように見えても、「行動という栓によって塞がれている」だけで、そこには(暗黙の)表象も認識も存在します。「この観点に立つと、生物の意識は潜在的な行動性と実在的行動性の算術的な差によって定義される。意識は、表象と行動の隔たりの尺度となる」。

本能の扱う道具は生得的に与えられ、その使い方や使う場面に至るまで自然によって前もって設計図が描かれている以上、本能は何かを選択する必要はなく、意識を必要としないことは明白です。だからと言って昆虫が意識を持たないというわけではありません。しかし昆虫の意識が照らし出すのは本能そのものであるというよりも、本能の妨げとなるもの、「本能が被っているところの反対」でしょう。つまり本能にとって意識は予期せぬアクシデントと同じものであり、例外的で「偶発的な出来事」なのです。逆に知性にとってアクシデントは日常茶飯事であり、むしろ常態と言えるものです。知性はのべつ幕なしに選択を迫られ、一つの要求が満たされればまた次の要求を満たさなければなりません。こうして前述したように、本能にとっては無意識が必然的で、知性にとっては意識が必然的なものとなります。この違いは本能と知性を区別する上で重要な要素となるように思えます。

ところがベルグソンは案に相違して、「意識ばかりに気をとられていると、心理学的観点からすると、知性と本能の主要な差異となるものを見逃すことになる」と述べ、意識にこだわりすぎることを逆に戒めています。彼がこう述べる意図はどこにあるのでしょうか。

ヒントは意識を「潜在的な行動性と実在的行動性の算術的な差」によって定義しているところにあります。この定義が表しているのは意識一般というよりも、もっと限定的に(意識的)知覚を指していると言った方が適当です。たしかに生物一般の意識を定義するにはこれで十分であるにしろ、人類や人類以上の存在を含んだ意識を定義するには狭すぎると言わざるを得ません。実際、この章(「創造的進化」第二章)の後半では、意識を単なる行動の付随物(結果)としてではなく、「進化の動的な原理」(原因)として見る見方が示されています(もっとも「創造的進化」は最初からそれ以外のものを目指していたわけではないのですが)。したがってベルグソンは意識一般の重要性を否定したのではなく、ここでの分析がもっと限定的なものだということを言いたかったのだと推察できます。

一方は無意識的で他方は意識的であるという違いがあるとはいえ、本能も知性もそれぞれ固有の知識を有しています。本能の含む知識が無意識的だからといって、本能が知識を持たないと断ずるのは早計です(ここでベルグソンが示したかったのは結局このことだと思われます)。本能と知性の本質的な差異を知るためには、根本的に異なったそれら二つの知識がどんなものであるかを知る必要があります。

以下に述べることはこの文章の最初の方で書いたことと内容が一部重複しますが、ベルグソンの記述に沿ってもう一度詳しく見ていくことにします。

(つづく)

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