画竜点睛

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「ジェノサイド」(59)

2015-08-17 | 雑談
●有機体

わたしたちは今、物質的対象を無作為に取り上げて考察しました。ではそれらとは異なる何か特別な対象はないのでしょうか。先に述べたように、単なる物体は知覚という鋏によって、言わば行動が通過するであろう点線に沿って自然という生地から切り取られます。これに対して、その行動そのものを起こすであろう物体、そして実際に行動を行う前に、あらかじめその潜在的行動の素描を物質の上に投影している物体、或いは実在の流れに感覚器官を向けるだけで、その流れを一定の形式に結晶化させることができ、そうやって他のすべての物体を創造することのできる物体、すなわち生物体は、他の物体と同じ物体なのでしょうか。

確かに生物体も、物質的対象と同じく、延長の一部であることには変わりありません。そしてその部分は延長の他の部分と結び付いて「全体」と連帯し、物質のあらゆる部分を支配しているのと同じ物理的、化学的法則に従っています。しかし物質が相互に孤立した物体に分割されるとき、その分割はわたしたちの知覚に相対的であり、また様々な質点が閉鎖系として構成されるとき、その構成はわたしたちの科学に相対的であるのに対して、生物体は自然そのものによって孤立させられ、閉鎖されます。それは相互に補足し合う異質な諸部分から構成されており、相互に関連する様々な機能を果たします。要するにそれは、一つの個体です。生物体以外のどんな対象も、結晶でさえ個体と言われることはありません。それは何故かと言えば、結晶は部分相互の異質性も機能の多様性も持たないからです。なるほど個体とそうでないものとを区別することは、有機体の世界においても容易ではありません。この困難は動物界において既に無視し得ないほど大きく、植物が問題になる場合にはほとんど乗り越え難いものになります。この困難は、或る深い原因に由来しています。それについてはこの後述べますが、そこで見るように、個体性には無限の度合いがあり、有機的世界のどこにおいても、人間においてさえ個体性は完全には実現されていません。しかしだからと言って、個体性は生命の特性ではない、ということにはなりません。幾何学者のような厳密さを好む生物学者は、個体性に正確かつ一般的な定義を与えることができない点を得意気に指摘しますが、それを指摘するだけでは不十分です。完全な定義は、出来上がった実在にしか当て嵌まりません。しかるに生命の特性は決して完全に出来上がったものではなく、常に実現の途上にあります。それらの特性は一つの状態ではなく、一つの傾向です。しかも或る傾向が完全に実現されるのは、その傾向が他のどんな傾向にも邪魔されないときだけです。生命の領域において、果たしてそんなことがあり得るでしょうか。生命の領域では、この後示すように、相反する傾向が互いに絡み合っています。個体性に関して言えば、個体化の傾向は有機的世界の至るところに存在するものの、この傾向は至るところでそれに抗う傾向、すなわち生殖の傾向によって行く手を阻まれ、その発現を妨げられているのだと言えるでしょう。個体性が完全であるためには、有機体のどの部分も、全体から切り離されるとそれ単独では生きてはいけない、というのでなければなりませんが、しかしそうなると生殖は不可能だということになってしまいます。事実、生殖とは、古い有機体から切り離された断片で新しい有機体を再構成することでなくて何でしょうか。そういうわけで、個体性(に限らずあらゆる傾向)は自分のうちに常に自分の敵対者を住まわせています。時間において永続したいという個体の欲求そのもののために、個体性は空間においては決して完成されないよう運命づけられているのです。生物学者の務めは、個々の場合においてこの二つの傾向を考慮(して個体性の度合いを判断)することでしょう。したがって、決定的に定式化され、どんな場合にも機械的に適用し得るような個体性の定義を生物学者に求めても意味がありません。

ところが生命現象について考えるとき、わたしたちは単なる物質の様態について推論するのと同じようにそれを扱うことが余りにも多すぎます。個体性について議論するときほどこの混同が顕著に現れることはありません。周知のように、オヨギミミズを幾つかの断片に切断すると、その断片から頭が再生し、それぞれ独立した個体となります。ヒドラの断片もそれぞれ新しいヒドラになり、ウニの卵を分割するとそれぞれ完全な胚に成長します。ではその卵やヒドラやミミズの個体性はどこにあったのか、という疑問が生じるかも知れません。しかし或る個体からいくつもの個体が再生したからと言って、分断される前の個体が一つの個体ではなかったということにはなりません。箪笥から幾つかの引き出しが抜き取られたのを見た後で、その箪笥が全体として一つのものであったと言う権利は最早ない、ということならわたしも認めます。しかしそれは単に、箪笥の現在には、箪笥の過去に存在していた以上のものが存在することはあり得ないからであり、また箪笥が幾つかの異質な部分から出来ているとしても、それは組み立てられたときからそうであった、というに過ぎないからです。より一般的な形で言えば、わたしたちが行動するために必要な無機的な物体、わたしたちの思考がそれに象って作られている無機的な物体においては、「現在が過去以上のものを含むことはなく、原因の中には結果の中に見出されるものが既に含まれている」からです。無機的な物体がこうした単純な法則に支配されているのに引き換え、有機体の特徴は、ごく大雑把に観察しただけでわかるように、絶えず成長し、自らを変化させることにあります。そうだとすれば、最初「一」であった有機体が、その後「多」になったとしても驚くには当たりません。単細胞の有機体の繁殖とはまさにそのようなものです。この種の生物は細胞が二つに分裂しますが、そのどちらも完全な個体なのです。より複雑な動物になると、確かに自然は、新たに全体を生み出す能力を生殖細胞というほとんど独立した細胞にのみ割り当てるようになります。しかし再生という事実が示しているように、この能力の幾分かが有機体のあちこちに散らばって残っている、ということはあり得ます。それゆえ何らかの特別な場合に、この能力が潜在的な状態で完全に残存し、機会があり次第姿を現すということも考えられないことではありません。実を言うと、或る有機体が、独立して生き続けることのできる幾つかの断片に分裂したとしても、依然わたしはその有機体の個体性について語ることができます。或る有機体の個体性について語り得るためには、分裂するに先立ってその有機体の幾つかの部分が或る種の有機的統一性を示しており、一旦分裂した後は、それらの断片に同じ種類の統一性が再現される傾向があればそれで十分なのです。そしてこれこそまさに、有機的世界において観察されることでもあります。したがって以上のことから、こう結論することができるでしょう。個体性は、決して完全なものではない。どれが個体で、どれが個体でないかを確定するのは往々にして困難であり、時には不可能でさえある。にもかかわらず、生命は個体性を追求する傾向を示しており、自然に孤立し、或いは自然に閉鎖した系を構成することを目指している。

●老化と個体性

まさに今述べた傾向によって、生物は、わたしたちの知覚や科学が人為的に孤立させ、閉鎖させるすべてのものから区別されます。したがって生物を、物質的対象と同列に扱うのは間違いでしょう。強いて無機的なものに比較対象を求めるとすれば、生物は特定の物質的対象にではなく、寧ろ物質的宇宙全体にこそ比較されるべきです。とは言えこの比較自体には余り意味はありません。何故なら生物は観察可能な対象であるのに対して、宇宙全体は思考によって構成され、或いは再構成されるものだからです。しかしこの比較によって、少なくともわたしたちの注意は有機的統一性の本質的な特徴に向けられます。生きている有機体は、宇宙全体のように、或いは個別に取り上げられた個々の意識的存在と同じように持続するものです。有機体の過去はそっくりそのまま現在に引き継がれ、そこで現実化され現在に対して影響力を持ち続けます。そうでないなら、有機体が一定の段階を経て変貌していくこと、つまり歴史を持つことをどうして理解できるでしょうか。わたし自身の身体について考えてみると、わたしの身体は意識と同じように、幼年から老年へと年を経るにつれて少しずつ成熟し、そして老化しているのがわかります。わたしと同様、わたしの身体も老いるのです。と言うより寧ろ、成熟や老化は本来身体の属性であって、それに対応して起こるわたしの意識的人格の変化を成熟とか老化と表現するのは比喩に過ぎません。ところで、生物の段階を高いところから低いところへ降りていき、最も分化したものから最も分化していないものに、すなわち人間という多細胞の有機体から繊毛虫類という単細胞の有機体に目を移すと、この単純な細胞の中にも老化という同じ過程を見つけることができます。繊毛虫類は、分裂を一定回数繰り返すと寿命が尽きます。環境を変えることで、接合による若返りが必要になる時期を遅らせることはできるとしても、それを無限に遅らせることはできません。もっとも人間と繊毛虫類という二つの極端な例、有機体が完全に個体化している二つの極端な例の中間には、個体性がさほど顕著ではなく、老化は確かに起こっているものの、何が老化しているのか正確にはわからないような例も数多く存在します。もう一度言いますが、どんな生物にもそのまま機械的に適用できるような普遍的な生物学的法則は存在しません。存在するのはただ、生命が放射した様々な(生物)種が向かっていく一般的ないくつかの方向です。個々の種はそれぞれ自己を形成する働きそのものにおいて自己の独立を確保し、行き当たりばったりに前進して多かれ少なかれ脇道に逸れ、時には元来た坂道を引き返して本来の方向に背を向けることさえあります。そういうわけで、例えば木の梢は常に若々しく、また接ぎ木をすればいつでも新しい個体を作れることから、木が老化しないこと(老化の反例)を示すのはさして難しいことではありません。しかし木のような有機体――それは個体と言うより寧ろ社会と言うべきでしょうが――においてさえ、たとえそれが葉とか幹の内部に限られるとしても、何かが老化しており、さらに個別に細胞を調べれば、どの細胞も一定の仕方で変化しています。何かが生きているところでは、必ずどこかで時間の記入される帳簿が開かれているのです。

それは比喩に過ぎない、と言う人もいるかも知れません。――事実、時間に有効な働きや固有の実在性を与えるような表現をすべて比喩と看做すのが機械論の本質です。直接的な観察は、わたしたちの意識的存在の基盤をなしているのは記憶機能、言い換えると、過去の現在への延長であること、つまり生きて活動している持続、不可逆的な持続であることをわたしたちに示します。また事実に基づく推論は、常識と科学によって切り取られた対象や、孤立させられた系から遠ざかれば遠ざかるほど、過去を蓄積する記憶機能によって逆行することを禁じられているがゆえに、片時も同じ状態にとどまることなく内的傾向を変化させている実在に近づいていくことをわたしたちに示します。ところが精神の機械論的本能は、頑としてそれを認めようとしません。機械論的本能は理知より強く、直接的な観察より強いのです。わたしたちは無意識のうちに、一人の形而上学者、後述するように、生物全体の中で人間が占める位置によって説明される一人の形而上学者、独断的な要求やありきたりな説明、還元不可能なテーゼを持った一人の形而上学者を自分のうちに持っています。すべてが具体的な持続の否定に通じるそのテーゼはわたしたちにこう告げます。変化と呼ばれているものは、諸部分の配列や配列の変更に還元されなければならない。時間の不可逆性は、わたしたちの無知に起因する単なる見かけでなければならない。時間を逆行することができないということは、単に人間が或る物や状態を元に戻すことができないということを意味しているに過ぎない、と。そうなると老化は最早、何らかの物質が徐々に獲得されるか、もしくはそれが徐々に失われること、恐らくはその両方、すなわち何かが獲得されると同時に何かが失われることでしかない、ということになってしまいます。砂時計は、容器の上部が空になれば容器の下部が一杯になり、ひっくり返せば元の状態に戻ります。生物にとっても時間はそれと同じ程度の実在性しか持たなくなります。

生まれてから死ぬまでの間に、何が獲得され、何が失われるかということについては、確かに研究者の間でも意見は一致していません。或る研究者は、細胞が生まれてから死ぬまでの間、原形質の量が不断に増加することに注目しています。もう少し有力な説によれば、有機体の更新が行われる「内的環境」中の栄養物質の量が減少する一方で、排泄されない残存物質の量が増加し、この残存物質が体内に蓄積される結果、身体が「殻で覆われたように硬化」するのだと言います。或いは老化を説明するためにはそれだけでは不十分で、さる著名な微生物学者が主張するように、食作用も考慮に入れなければならないのでしょうか。いずれにせよ、わたしたちにはこの問題に決着をつける資格はありません。しかし今紹介したこの二つの説は、何が獲得され、何が失われるかについては意見の一致を見ていないものの、何らかの物質が絶えず蓄積されたり失われたりすることを認める点では一致しています。この事実は、説明の枠がア・プリオリに用意されていることを暗示しています。これから考察を進めていくうちに明らかになるでしょうが、わたしたちが時間について考えるとき、砂時計のイメージから逃れるのは容易なことではありません。

老化の原因は、もっと深い筈です。わたしたちの考えでは、胚の発達と、完成された有機体の発達は完全に連続しています。つまり生物を発達させ、成長させ、老化させる推進力は、生物に胚生の諸段階を経過させる力と同じものなのです。胚の発達は、間断のない形態変化として現れます。その局面をすべて記述しようとすれば、連続を目の前にしたときのように、無限の中に迷い込んだかのように感じられるに違いありません。生命は、そうした出生以前の(胚の)発達の延長です。目の前にあるのが老化しつつある有機体なのか、それとも発達し続ける胚なのか、往々にして明言できないのがその証拠です。例えば、昆虫類の幼虫や甲殻類の幼生はまさにそのようなものです。他方、わたしたちのような有機体では、思春期や更年期における危機が個体の全面的な変化を惹き起こしますが、そうした危機における変化は、幼生や胚生の過程で起こる変化にそっくりなぞらえることができます。――しかしそれらの劇的変化も、老化の一過程であることには変わりありません。こうした危機は一定の年齢に達すると訪れ、ごく短期間のうちに劇的な変化をもたらします。しかしそうだとしても、ちょうど満二十歳になった成人に徴兵の通知が届くように、単に或る年齢に達したという理由だけでその危機がいきなり外からやってくるのだと考える人はいないでしょう。思春期に訪れるこの変化は、明らかに出生以来、否、出生以前から毎瞬間準備されてきたものであり、この危機に至るまでの生物の老化には、少なくとも部分的には、この漸進的な準備が関与しています。要するにここでわたしたちが言いたいのは、老化現象において本来の意味で生命とかかわりがあるのは、感知できないほど無限に分割された形態変化の連続ではないか、ということです。勿論その一方で、老化には有機体の壊廃現象が伴うのも事実です。老化を機械論的に説明する人は専らこの壊廃現象に着目します。そういう人は、(先ほど紹介したように)いくつかの硬化の事実や、残存物質の漸次的蓄積、細胞内の原形質の漸次的増加といった点を指摘するでしょう。しかしそのような目に見える結果の背後に、老化の内的な原因が隠されています。生物の発達も、持続が連続的に蓄積され、過去が現在のうちに存続する点では胚の発達と何ら変わりません。したがってそこには、少なくとも有機体的記憶とも言うべきものが存在する筈です。

単なる物質の現在の状態は、専ら直前の瞬間に起こったことに依存しています。科学によって規定され孤立させられた系における質点の位置は、直前の瞬間におけるその質点の位置によって決まります。つまり無機的物質を支配する諸法則は、原理的に、(数学者が解する意味での)時間が独立変数の役割を果たすような微分方程式によって表すことができます。生命の法則についても、事情は同じでしょうか。或る生物の状態は、直前の状態によって余すところなく説明することが可能なのでしょうか。生物を他の自然物と同じように扱い、自分の都合に合わせて、化学者や物理学者、天文学者が操作する人為的な系と生物とを同一視することにア・プリオリに同意するなら、答えは然りです。ところで、先ほど示した命題の持つ意味は、天文学や物理学や化学においては極めてはっきりしています。それが意味しているのは、科学にとって何よりも重要なもの、すなわち現在の様相は、直前の過去の関数として計算できる、ということなのです。生命の領域では、そんなことは到底ありそうにありません。生命の領域で計算できるのは、せいぜいのところ、或る種の有機的壊廃現象くらいでしょう。有機的壊廃とは逆の有機的創造、本来の意味で生命を構成する進化現象について言えば、どうすればそれを数学的に処理できるのか、わたしたちには皆目見当もつきません。それができないのは、わたしたちが無知なせいだ、と言う人がいるかも知れません。しかしそれを数学的に処理できないということは、次の二つのこと、すなわち第一に、生物の現在の瞬間の存在理由は、直前の瞬間の中に見出されるものではないということ、第二に、生物の現在の瞬間の存在理由を見出すには、その有機体の過去全体、その遺伝、つまり極めて長い歴史の全体を現在の瞬間に結び付けなければならないということを表していると考えることもできます。事実、生物学の現状のみならず、その趨勢をも示しているのはこの後者の仮説なのです。超人的な計算能力をもってすれば、太陽系と同じように生物も数学的に処理できる、という思想は、ガリレイの物理学上の諸発見以来、徐々に明確な形を取るに至った或る種の形而上学から少しずつ形成されたものですが、後ほど示すように、人間精神にとって自然なこの形而上学は、もともとわたしたちにとって身近なものであったとも言えます。この形而上学の見た目の明晰さ、それが真実であると考えようとするわたしたちの抜き難い欲求、多くの優れた哲学者や科学者が無批判に進んでそれを受け入れていること、要するにこの形而上学がわたしたちの思考を惹き付ける魅惑のすべては、逆にわたしたちがこの形而上学に対して警戒感を抱く要因ともなり得ます。この形而上学がわたしたちにとって魅力的なものであることは、それがわたしたちの生来の或る傾向を満足させている何よりの証拠です。しかるに後で見るように、知性の諸傾向は今でこそ生得的なものになっているとは言え、もともとは生命がその進化の過程で創造したものに違いありません。それらの傾向は、生命が自分自身を説明するために作られたのではなく、全く別の目的のために作られたものなのです。

人為的な系と自然的な系、生命のあるものと生命のないもの、これら二つのものを区別しようとすると決まってわたしたちの前に立ちはだかるのが、この知性の傾向の抵抗です。この知性の傾向のために、有機的なものは持続すると考えることにも、無機的なものは持続しないと考えることにも、わたしたちは等しく困難を覚えます。その内なる傾向はわたしたちにこう反論します。「何だって! 君は或る人為的な系の状態は専ら直前の状態に依存している、と述べたにもかかわらず、自分が時間を持ち込んでいないと言い張るのか。君はその系を持続の中に位置付けているではないか。また君の言うように、過去は生物の現在の瞬間と一体になるということは、有機的な記憶機能がこの過去全体を直前の瞬間に凝縮するということである。そうなると結局、直前の瞬間が現在の状態の唯一の原因だということになるではないか」。こんな風に知性が反論するとき、知性が見落としているのが、具体的な時間と抽象的な時間とを分かつ根本的な違いです。実在的な系は具体的な時間に沿って展開され、抽象的な時間はわたしたちが人為的な系について考えるときに介入してくるに過ぎません。人為的な系の状態は直前の瞬間の状態に依存する、と言うとき、わたしたちはどういう意味でそう言っているのでしょうか。まず注意して置くと、或る数学的な点に隣接する数学的な点など存在しないのと同様に、或る瞬間の直前の瞬間などというものは存在しませんし、存在し得ません。「直前の」瞬間とは、実は間隔dt(無限小の時間間隔)を隔てて現在の瞬間に結び付いている瞬間です。つまりこの命題は、人為的な系の現在の状態は、de/dtとかdv/dtといった微分係数、すなわち現在の速度や現在の加速度が組み込まれている方程式によって決定される、ということを述べているのです。したがって結局のところ、ここで問題になっているのは現在以外の何物でもありません。傾向とともに取り上げられているのは事実であるにせよ、問題になっているのは現在だけなのです。実際、科学が扱う系は、絶えず更新される瞬間的な現在のうちに存在するのであって、過去が現在と一体化しているような実在的で具体的な持続のうちに存在するのではありません。例えば数学者が、時間tが経過した後の或る系の未来の状態を計算するとしましょう。その場合、時間tが経過する間、物質的宇宙が消滅し、時間tが経過した瞬間突如また出現する、と想定しても(計算を行う上では)何の支障もありません。重要なのはt番目の瞬間――純粋に瞬間的なものに過ぎないt番目の瞬間だけです。その瞬間に達するまでの間に流れるもの、すなわち実在的な時間は数学者にとって何の意味も持たず、彼の計算に入ってくることもありません。仮に数学者がその間隔の間に身を置くと称しても、彼が身を移すのは常に或る点であり、或る瞬間であり、つまりは時間t'の末端です。そうである以上、時刻T'までの間隔が問題になることはないのです。また仮に、微分dtを想定してその間隔を無限小の諸部分に分割したとしても、それが意味しているのは、ただ彼が加速度や速度を考慮しているということ、すなわち傾向を示す数、或る所与の瞬間における系の状態の計算を可能にする数を考慮しているということに過ぎません。しかし間隔をどんなに細かく分割したところで、彼が問題にしているのは相変わらず或る所与の瞬間、つまり停止した瞬間であって、流れる時間ではない、という事実に変わりはないのです。要するに数学者が扱う世界とは、瞬間毎に死滅しては再生する世界、デカルトが連続的創造について語っていたときに考えていたような世界に他なりません。しかしそんな風に想定された時間で、進化、すなわち生命の特性をどうして表象することができるでしょうか。進化には、現在が過去を現実に引き継ぐという観念、言うなれば連結符によって音符と音符が結ばれるという観念、すなわち持続という観念が含まれています。生物、或いは自然的な系についての認識が、持続の間隔そのもの(連結符)にかかわる認識であるとすれば、人為的な系、或いは数学的な系についての認識は、その末端(音符)にしかかかわらない認識と言えるでしょう。

以上のことから、生物は、変化の連続、現在における過去の保存、真の持続といった属性を意識と共有している、と考えてよいように思えます。さらに一歩進んで、生命は意識的活動と同じく発明であり、不断の創造である、と言えるでしょうか。

(つづく)

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