画竜点睛

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「ジェノサイド」(58)

2015-08-17 | 雑談
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●意識一般について

わたしたちがその実在を最も確信し、最もよく知っている存在は、疑いもなくわたしたち自身の存在です。何故なら、他のすべての対象について抱く観念は外的で表面的なものに過ぎないと考えられるのに対して、わたしたちは自分自身を内的に、深く知覚しているからです。このように自分自身を知覚するとき、わたしたちが確認するのはどんなことでしょうか。この特別な場合に、「存在する」という言葉は正確には何を意味しているのでしょうか。ここで簡単に、先に発表した研究の結論を思い出してみましょう。

最初にわたしが確認するのは、わたしが或る状態から別の状態に移行している、ということです。わたしは暑いと感じることもあれば、寒いと感じることもあります。楽しいと感じることもあれば、悲しいと感じることもあります。働いていることもあれば、何もしていないこともあります。周囲の光景や出来事に目を奪われていることもあれば、目前の出来事とは関係のないことに気を取られていることもあります。感覚、感情、意欲、表象、こういったものの変化がわたしの存在を分有し、わたしの存在を刻々と彩っていきます。それゆえわたしは、絶えず変化しています。しかしそう言っただけでは十分ではありません。変化というものは、わたしたちが考えているよりも遥かに深く存在に根を下ろしているものなのです。

わたしは今、わたしの状態がそれぞれひと纏まりのものであるかのように語っています。確かにわたしは変化という言葉を使い、自分が変化している、と口では言っているものの、変化を或る状態から次の状態への移行としか捉えていません。つまりそれぞれの状態を個別に取り上げれば、次の状態に移るまでの間ずっとそれは同じ状態にとどまっている、という風にわたしたちは考えるのです。しかしどんな感情や表象や意欲であれ、それらをほんのちょっと観察すれば、一瞬毎に変化しない状態は存在しない、ということにきっと気付くに違いありません。もし或る心的状態が変化するのをやめれば、その時点で持続の流れも止まるでしょう。最も安定していると考えられる内的状態、すなわち静止している外的対象の視覚的知覚を例にとって考えてみましょう。その対象は静止したまま動かず、わたしはその対象の同じ面を、同じ角度から、同じ明るさの下で見ているとします。しかし仮にそのような条件下で見たとしても、その対象の視覚は、単に一瞬が経過したというただそれだけの理由によって、最早一瞬前の視覚と同じものとは言えません。わたしの記憶機能が、自分の過去の幾分かを現在のうちに持ち込むのです。わたしの心的状態は持続を満身に吸い寄せながら時間の中を進み、進めば進むほどどんどん太っていきます。あたかも自分で自分自身の雪だるまを作っているかのように。感覚、感情、欲望といったより深い内的状態、つまり単純な視覚的知覚とは違い、不動の外的対象とは何ら関係のない内的状態については、なおさら同じことが言えるでしょう。もっともわたしたち自身の立場からすると、そうした瞬間毎の変化はやり過ごして、変化が身体に新しい態度を取らせ、注意を新しい方向に向けさせるほど顕著になったときにそれに気付いた方が好都合です。実際、状態が変わったことに人々が気付くのはまさにその瞬間です。しかし実を言うと、人は常に変化しており、状態そのものが既に変化なのです。

このことが意味しているのは、或る状態から別の状態へ移行することと、同じ状態にとどまることとの間には本質的な違いはない、ということです。「同じままにとどまっている」状態がわたしたちが想像する以上に変化の激しいものだとすれば、逆に或る状態から別の状態への移行は、同じ状態の連続とほとんど見分けがつきません。状態の変遷は連続的なものですが、わたしたちは一つ一つの心理状態の絶え間のない変遷、連続的な変遷を見落としてしまいます。状態の変化が顕著になり、わたしたちの注意を惹くようになったとき、あたかも新しい状態が先行する状態に並置されるかのように(つまり連続など存在しないかのように)わたしたちが語るのはまさにそのためです。このとき先行する状態は(新しい状態が出現するまでの間)同じ状態にとどまっていたと看做され、かくてわたしたちは状態から状態へ(飛び飛びに、つまり非連続的に)果てしなく飛び移っていきます。わたしたちの心的生活が一見非連続的なものに見えるのは、したがって、わたしたちが一連の非連続的な注意を介して心的生活を見ていることに起因します。わたしたちは破線のように非連続的に注意を移していくために、実際にはなだらかな坂しかないのに、階段の踏み段を見ているかのように錯覚してしまうのです。わたしたちの心的生活は、確かに予期せぬ出来事に満ちています。それら無数の出来事はそれ以前の出来事とは全く異なり、それ以後の出来事とも全く関係がないように見えるかも知れません。しかし一つの連続から出現してくるこれらの出来事の非連続性は、その連続を背景に浮かび上がるものであり、またそれらの出来事を隔てている間隙そのものも、この背景の連続の上に成り立っています。これら非連続的な出来事は、言うなれば交響曲で断続的に鳴り響くティンパニの音のようなものです。ティンパニの音はひときわ注意を惹くがゆえに、わたしたちの注意は自ずとその音に向けられます。しかしそれらの音の一つ一つを支え、運んでいるのは、わたしたちの心的生活の全体、途切れることのない流れの全体です。この太い流れの帯は、わたしたちが感じ、考え、欲していることのすべて、つまり或る一定の瞬間におけるわたしたちのすべてを含んでいます。ティンパニの音は、流れの帯の中で最も明るく照らし出された点に過ぎません。実際にわたしたちの状態を形作っているのは(非連続的な点の連なりではなく)この流れの全体です。状態というものを以上のように定義すれば、状態とは、一つ一つ明確に区別し得るような要素ではない、と言うことができます。それらは相互に連続し、果てしなく続く一つの流れを形成しているのです。

ところで諸々の状態を注意によって人為的に分離してしまったために、わたしたちはその代償として、今度はそれらを何らかの手段によって人為的に繋ぎ直さなければならなくなります。そこでわたしたちは、無定形で自己同一的な自我、不動の自我なるものを(後述するように「基体」として)想定します。そして次々に現れる心理状態をそれぞれ独立したものと看做し、それらが自我の上に列をなして並んでいる、という風に想定します。つまり相互に浸透しながら流動している様々な色合いの連続的な変化の中に、わたしたちの注意は明瞭な様々な色彩、言わば凝固した様々な色彩を切り取り、切り取った色彩を、色とりどりの真珠の連なったネックレスのように並置していくのです。そうなると真珠をただ並べるだけではなく、すべての真珠を繋ぎ合わせるための一本の紐、凝固した紐が必要になってきます。しかしこの無色の基体(紐或いは自我)がそれを覆う色彩によって絶えず彩色されていくのだとすれば、それは永遠に規定されず、したがってわたしたちにとっては存在しないのも同然です。ところで、わたしたちは彩色されたもの、すなわち様々な心理状態以外のものを知覚することはありません。わたしたちが想定したこの「基体」とは、実を言うと、実在するもの(知覚し得るもの)ではありません。一つの連続が展開するところに次々に状態を並置していくのがわたしたちの注意特有のやり方ですが、わたしたちの意識にとってこの「基体」は、そうした操作の人為的な性格をその都度思い出すための単なる記号なのです。もしわたしたちの存在がばらばらの状態によって構成されているのだとすれば、そして何事にも無関心な「自我」がそれらばらばらの状態を一つに纏めなければならないのだとすれば、わたしたちにとって持続は存在しないことになるでしょう。何故なら変化しない自我は持続せず、次の状態に取って代わられるまでの間ずっと自己同一的であるような状態も同様に持続しないからです。それゆえ状態を支える役割を与えられた「自我」(基体)の上にいくらそれらの状態を並べていったところで、持続を創り出すことはできません。凝固したものの上に凝固したものを並べたところで、それが流動する持続を生み出すことは決してないでしょう。事実、そうして得られるのは、せいぜいのところ内的生の人為的な模造品であり、或いはその静的な等価物、実在的な時間が抜き取られているがゆえに、論理や言語の要求により適合する内的生の等価物です。これに対して、記号によって覆い隠され、記号の下で展開されている心的生活を注意して観察すれば、そこでは時間こそ実体そのものであることに容易く気付くに違いありません。

ここで一つ付言して置くと、実は時間ほど不朽不滅の実体は存在しません。というのも、持続とは或る瞬間が別の瞬間に取って代わられることを意味するものではないからです。仮に或る瞬間が別の瞬間に置き換えられるだけだとすれば、現在の他には何も存在しないことになるでしょうし、過去が現在の中に延長することもなく、進化も具体的持続も存在しない、ということになってしまうでしょう。過去が未来を侵蝕し、膨張しながら前進していくこと、この過去の連続的な進展が持続です。過去は絶えず増大するものであり、したがってまた自らを無際限に保存するものでもあります。わたしたちがかつて証明しようとしたように、記憶機能とは、様々な記憶を引き出しにしまって置く能力でもなければ、それらを帳簿に記載する能力でもありません。そこには引き出しも帳簿もなく、厳密に言えば能力すら存在しません。何故なら能力とは、わたしたちが欲するとき、或いはそれを行使し得るとき、断続的に行使されるものですが、過去の自己自身への蓄積は間断なく続けられるからです。実際、過去はひとりでに、自動的に自らを保存します。現に、わたしたちには常に過去の全体がついて回ります。わたしたちの背後には幼い頃からわたしたちが感じ、考え、欲してきたもののすべてが、現在の中に侵入しようとその上に身を乗り出しながら付き従い、それらを外に締め出そうとする意識の扉めがけて次々に押し寄せます。脳のメカニズムは、まさに、過去の大半を無意識の中に押し返すように出来ており、現在の状況を照らし出すことのできるもの、準備中の行動の助けになるもの、要するに有用な働きができるものしか意識の中に入れないように出来ています。無論例外はあるにせよ、それはせいぜい、脳の監視の目を逃れた記憶が、微かに開いた扉からこっそり侵入してくる程度のことに過ぎません。侵入してきたそれらの記憶は無意識の使者であり、わたしたちが無自覚に背後に引きずっているものの存在を知らせてくれます。もっとも過去について明瞭な観念を持っていないときでも、わたしたちは自分自身の過去が相変わらず現前していることを漠然と感じていないわけではありません。実際、わたしたちの存在が、誕生以来の、否、わたしたちが先天的な素質をもって生まれてくることからすると、誕生前からのわたしたちの生きた歴史の凝縮でないとしたら、わたしたちとは、或いはわたしたちの性格とは一体何でしょうか。わたしたちが思考する際に参照するのは、確かに自分の過去のごく一部に過ぎません。しかし(単に思考するだけではなく)欲したり意志したり行動する際にわたしたちの背中を押してくるのは、わたしたちの持って生まれた心的傾向を含む過去の全体です。したがって表象となって現れるのは過去のごく一部に過ぎないとしても、わたしたちの過去の全体はその推力によって、傾向という形で紛れもなく現前しています。

このように過去は決して消滅することがないという事実から、意識は同じ状態を二度と経験することができない、という命題を導き出すことができます。たとえ環境が同じであったとしても、環境が働きかける人間の人格はそれ以前の人格と同じものではありません。環境がその人物と接点を持つのは、その人物の歴史の新しい瞬間に他ならないからです。わたしたちの人格は経験が蓄積されていくことによって瞬間毎に作り直されるので、絶えず変化しています。人格が変化する以上、或る状態が表面的には同じように見えたとしても、それが深みにおいて反復することはあり得ません。持続が不可逆的なのは、まさにそのためです。持続のほんのわずかな部分さえ、わたしたちは二度と経験することはできないでしょう。何故ならそれをもう一度経験するためには、まず、それに続いて起こったあらゆる出来事の記憶をすべて消去しなければならないからです。わたしたちは知性からは何とかそれを消し去ることができるかも知れませんが、意志から消し去ることはできません。

そういうわけで、わたしたちの人格は絶えず成長し、発展し、そして成熟します。わたしたちの人格の一瞬一瞬は、それ以前にあったものに付け加えられる新しいものです。さらに一歩進めて言うと、それは新しいものであると同時に、予見不可能なものでもあります。なるほどわたしの現在の状態は、わたしのうちにあったものや、つい先ほどまでわたしに働きかけていたものによって説明されます。現在の状況を分析してみても、それ以外のものは見つかりません。しかしこれら全く抽象的な要素を具体的に組織化している単一で不可分な形式に関して言えば、どんな超人的な知性もそれを予見することはできないでしょう。何故なら予見するとは、過去に知覚したものを未来に投影することであり、或いは既に知覚したものを並べ替えて再構成し、それを未来の中に表象することですが、これまで一度も知覚したことがなく、しかも単一のものは予見しようがないからです。ところでわたしたちの状態の一つ一つは、展開される歴史の一瞬として捉えた場合、まさにそういった(予見し得ない)ものに該当します。それらは単一で、既に知覚されたものではあり得ません。わたしたちの状態という不可分のものの中には、既に知覚されたものすべてに加えて、現在がそれに付け加えるものも凝縮されているからです。わたしたちの状態の一つ一つは二つとない歴史の、唯一無二の瞬間なのです。

例えば完成した肖像画は、モデルの容貌や、画家の気質、パレットに溶かれた絵の具などによって説明されます。しかし肖像画を説明するものをあらかじめいくら知っていたところで、その肖像画がどんなものになるか誰にも想像がつかないでしょうし、当の画家本人でさえ正確にそれを予見することはできないに違いありません。何故ならそれを予見するということは、肖像画が完成する前にそれを仕上げることであり、最初から破綻している不条理な仮定でしかないからです。わたしたちの生の各瞬間、わたしたちがその作者である生の各瞬間についても同じことが言えます。それらの瞬間は、その一つ一つが一種の創造です。画家の才能は、彼が生み出した作品が彼自身に与える影響の下に開花したり萎んだり、その時々で変化します。同様にわたしたちの状態の各々もわたしたちが自ら生命を吹き込んだばかりの新しい形式であって、それらはわたしたちから生まれたものでありながら、わたしたちの人格を変化させます。わたしたちの為すことは、わたしたちがいかなる存在であるかによって決まる、と言うのは間違いではありませんが、今述べたことを考え合わせると、それにはこう付け加えなければなりません。わたしたちの存在の幾分かは、わたしたちがまさに為していることから形作られているのであって、わたしたちは絶えず自己を創造しているのだ、と。しかもこの自己による自己の創造は、自分が何をしているかを理性が正確に把握すればするほどほどより一層完全なものになります。理性はこの場合、幾何学において働くのとは違い、わたしたちに人格と無関係な前提を一度にすべて与えるようなことはせず、人格と無関係な結論を有無を言わさず突き付けたりもしません。寧ろ逆に、同じ理性であっても、人によって、或いは同じ人に対しても時と場合によって、いずれも合理的ではあるものの根本的に異なる行為を命じることもあり得ます。実を言えば、それらの理性自体そもそも完全に同じものではありません。何故なら理性は人によって異なり、また時と場合によっても異なるからです。このためそれらの理性を、幾何学の場合のように抽象的に外から操作することはできず、したがってまた、他の人に対して提起された人生の問題をその人に代わって解くこともできません。それらの問題は、各人が自分自身で内的に解決する他はないのです。しかしこの点についてこれ以上述べるのはやめましょう。わたしたちがここで問題にしているのは、飽くまで「存在する」という言葉に意識が与える正確な意味は何か、ということです。以上の考察によってわかったのは、意識を持つ存在にとって存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは限りなく自己を創造することだ、ということです。存在一般についてもこれと同じことが言えるでしょうか。

●無機物

物質的対象を観察すると、それらは例外なく、わたしたちが今挙げた性格とは逆の性格を示します。物質的対象はいつまでも現在の状態のままとどまり、外力の影響によって変化する場合でも、恐らくその変化はそれ自体としては変化しない諸部分の移動でしかありません。それらの部分そのものが変化すれば、わたしたちは今度はそれをさらに細かい部分に分割します。こうしてわたしたちはそれらの細片を形成している分子へ、ついで分子を構成している原子へ、原子を構成している微粒子へ降りていき、最後に「測定し得ないもの」に、すなわち微粒子を形成していると考えられる単純な渦運動の発生する媒質に辿り着きます。このようにわたしたちは、分割や分析をどこまでも必要なだけ推し進めます。唯一わたしたちが立ち止まることがあるとすれば、それは不動のものに行き当たったときです。

わたしは今、合成された対象がその諸部分の移動によって変化する、と述べました。しかし或る部分がその位置を離れたとしても、それが再び元の位置に戻ることを妨げるものは何もありません。それゆえ或る状態から別の状態に移り変わった諸要素の集まりは、自力で元の位置に戻ることはできないにせよ、少なくともそれらすべてを元の位置に戻すことのできる外的な原因の働きによっていつでも以前の状態に戻ることが可能です。これはつまり、この諸要素の集まりの或る状態は何度でも好きなだけ反復し得る、ということであり、この集まりは年を取ることがない、ということです。この諸要素の集まりには歴史というものが存在しません。

したがってそこでは、形式にせよ質料にせよ、何一つ新しいものは生まれません。この諸要素の集まりの現在に、それらと相互に作用し合っていると考えられる宇宙のすべての点を含めてよいとすれば、この諸要素の集まりの未来はその現在の中に既に現前している、と言えます。超人的な知性ならば、この系(諸要素の集まりと、それらと相互に作用し合っている宇宙のすべての点)の中の任意の点が任意の時刻において占める空間内の位置を計算によって割り出すことができるでしょうし、そうであれば、この系では全体の形式に諸部分の配列以上の意味はないので、この系の未来の形式は理論上、現在の配列の中に現れている筈だからです。

事実、諸々の対象についてわたしたちが抱いている観念や、科学が孤立させる諸々の系に対して行うわたしたちの操作のすべては、時間はそれらの対象や系を侵蝕しない(それらは永久に変化しない)という考えの上に成り立っています。わたしたちは以前の著作(「意識に直接与えられているものについての試論」)の中で、この問題に簡単に触れたことがあります。それについては本書の後半でもう一度触れますが、さしあたりここでは次の点を指摘するにとどめたいと思います。それは、物質的対象や孤立した系に科学が割り当てる抽象的な時間tとは、或る一定数の同時性、より一般的な言葉で言えば、或る一定数の対応関係以外の何物でもない、ということ、そしてそれらの対応関係を相互に隔てている間隔の性質如何にかかわらず、その対応関係の数は常に一定である、ということです。単なる物質を扱う場合、この対応関係相互の間隔が問題になることは決してありません。仮に間隔を考慮に入れるとしても、それは、その間隔の中に新たな対応関係を数えるためであり、この新しい対応関係相互の間で、どんなことが起ころうがそれが問題になることはないのです。孤立した系にしか注目しない科学や、個々別々の対象にしか注意を払わない常識は、どちらもこの間隔の両端に身を置き、間隔そのものに沿って進むことはありません。科学において、もしも時間の流れが無限に速くなったら、とか、もしも物質的対象や孤立した系の過去、現在、未来すべてが空間に一挙に展開されたら、と仮定し得るのはこのため(間隔は無視しても差し支えないため)です。対応関係相互の間隔を無視しても、科学の公式や常識の言語を変更する必要は全くなく、tという数は常に同じものを意味するでしょう。もっとも間隔を無視すれば、「時間の流れ」を既に引かれた一本の線と同一視することになるのは避けられませんが、仮にそうなったとしても、対象或いは系の諸状態と、この線上の複数の点との対応関係の数はやはり同じままでしょう。

とは言え物質世界においても、現象が継起するのは紛れもない事実です。孤立した系について、各系の過去、現在、未来は扇状に一挙に展開され得る、とわたしたちが推論によっていくら勝手に判断したところで、推論はこの事実を覆すことはできません。系の歴史は、あたかもわたしたちの持続に類似した持続を持つかのように徐々に繰り広げられます。一杯の砂糖水を作ろうと思えば、わたしは何はともあれ砂糖が溶けるのを待たなければなりません。このごく当たり前の事実は極めて重要なことを教えてくれます。というのもこの事実は、わたしが待たなければならない時間は、最早科学者や数学者の語る抽象的時間、物質界の歴史全体が空間の中に一挙に展開されるときでさえ、この歴史全体のどこにでも適用できるような抽象的時間と同じものではない、ということに気付かせてくれるからです。わたしが待たなければならない時間は、わたしの待ち遠しさ、言い換えると、好きなように伸ばしたり縮めたりすることのできないわたし自身の持続の或る部分と一致しています。それは最早思考される時間ではなく、生きられる時間です。一つの関係ではなく、一つの絶対的なものです。この事実が意味しているのは、要するに、一杯の水、砂糖、砂糖が水に溶ける過程、これらはわたしの感覚や知性が(行動の必要や欲求に従って)「全体」から切り取った抽象物に過ぎず、「全体」は恐らく、意識と同じような仕方で進展している、ということではないでしょうか。

科学が或る一つの系を孤立させ、或いは閉鎖させる操作は、確かに完全に人為的な操作とは言えません。この操作に客観的根拠がないなら、或る場合にはこの操作がうまくいくのに、別の場合にはうまくいかないことの説明がつかないでしょう。後述するように、物質は孤立的な系、幾何学的に扱うことができる系を構成する傾向を持っています。わたしたちは物質を、まさにこの傾向によって定義します。しかしそれは飽くまで一つの傾向に過ぎません。物質がこの傾向を極限まで進むことはなく、完全に孤立することも決してありません。科学がこの傾向を極限まで進み、それを完全に孤立させるのは研究の便宜のためです。いわゆる孤立系がわずかながらも外的影響を受け続けていることは、科学も暗黙の裡に認めています。ただその影響が極めて小さいために無視しても構わないと判断しているか、後で考慮に入れるつもりでいるか、いずれにせよ一旦それを脇に置いているに過ぎません。とは言えその影響がいかに小さいものであるにせよ、これらの影響が、或る系を別のより規模の大きい系に結び付けるに足る糸であることに変わりはありません。この糸はさらにこの第二の系を、第一の系と第二の系をともに含む第三の系に結び付けます。こうして最後には、最も客観的に孤立した系、他のすべての系から最も独立している系、すなわち太陽系全体に辿り着きます。しかしここに至ってもまだ孤立は絶対的ではありません。太陽は最も遠い惑星の彼方にまで熱と光を放射し、また他方で、様々な惑星とその衛星を引き連れて一定の方向に運動しています。太陽を宇宙の他の部分に結び付けている糸は、確かに極めて細いものでしかありません。しかしまさにこの糸を介してこそ、わたしたちの生きているこの世界の最も微細な部分にまで宇宙全体に内在する持続が伝わってくるのです。

実際、宇宙は持続しています。そして時間の本性を深く知れば知るほど、持続とは発明であり、形式の創造であり、絶対的に新しいものの絶えざる生成であることをわたしたちは理解します。科学によって限定された系が持続するのは、それが宇宙の他の部分と分かち難く結ばれているからに他なりません。もっとも後で触れるように、宇宙そのもののうちにも、相反する二つの運動、すなわち「下降」と「上昇」という二つの運動を区別しなければなりません。下降運動は、既に出来上がった状態で軸に巻かれている巻物を広げるだけの運動です。この運動はゼンマイがほどけるときのように、原理的にはほぼ一瞬で完了します。一方、成熟とか創造といった内的な働きに対応している上昇運動は、本質的に持続し、そのリズムを下降運動に伝えます。このため下降運動と上昇運動とは切り離すことができません。

したがって科学が孤立させた様々な系を「全体」に再統合(下記参照)するなら、それらの系に一種の持続を、わたしたちの存在形式と類似した存在形式を付与しても差し支えありません。ただしそのためには、飽くまでそれらの系を「全体」に再統合しなければなりません。わたしたちの知覚が限定する対象については、なおさら同じことが言えます。わたしたちが或る対象に認める明瞭な輪郭、その対象に個別性を与えている輪郭は、わたしたちが空間の或る点に及ぼし得る或る種の影響を素描したものに他なりません。それは言わば、わたしたちが行い得る行動の下描きです。この下描きは、わたしたちが事物の面やエッジを知覚するとき、あたかも鏡によって反射されるかのようにわたしたちの目に送り返されます。試しに世界から行動が無くなったと仮定してみましょう。そして行動のみならず、行動が行われる前に、知覚があらかじめ錯雑した実在の中に切り開く大まかな道筋(下描き)も無くなったと仮定してみましょう。すると物体の個別性は、普遍的な相互作用に解消されます。この相互作用こそ、恐らく実在そのものなのです。
(言うまでもなく、この「再統合」は質的に異なる二つのものの「存在論的統一」を表しています)

(つづく)

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