画竜点睛

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「ジェノサイド」(79)

2017-06-02 | 雑談
しかし人々は、今わたしたちが述べたような存在しないものの表象は、まだ十分に想像力を脱し切れていない、まだ十分に否定的とは言えない、と抗弁するかも知れません。人々はこう主張するでしょう。――「或る事物の非実在性が、他の事物によるその事物の排除に由来するというのが本当であったとしても、それはそれで一向に構わない。そんなことはわれわれにとってどうでもよい。われわれは自分の注意を、好きな場所に、好きなように任意に向けることができるのではないだろうか。そこで、或る対象の表象を喚起した後に、或いはお望みとあらば、まさにそのことによってその対象が存在する、と想定した後に、と言ってもよいが、この肯定命題にただ「否」(non)と書き添えてみよう。その対象が存在しないと考えるには、それで十分である。それは純粋に知的な操作であって、精神の外で起こることから独立している。そういうわけで、何でもよい、全体でもよい、何かを考えた後、その思考の余白に、思考内容の排除を命ずる「否」を書き加えよう。われわれはすべての事物を、それを消去せよ、と命ずるだけで観念的に消去することができる」。――実を言うと、この問題に関するあらゆる困難と誤謬は、わたしたちが、否定にはこのように事物を消去する力が内在している、と考えることに起因しています。わたしたちは否定を、肯定に正確に対称的なものとして表象しており、肯定と同じように自立したものと考えています。それゆえ否定は、肯定と同じように観念を作り出す力を持つ、と考えられています。唯一肯定と違う点があるとすれば、その観念が肯定的ならぬ否定的な観念であるという点だけです。わたしは或る事物を肯定し、次いで別の事物を肯定し、以下際限なくその作業を繰り返すことによって「全体」という観念を形成します。それと同じように、わたしたちは或る事物を否定し、次いで別の事物を否定し、最終的に「全体」を否定することによって「無」の観念に到達する、とされるのです。しかし肯定と否定とのこの同一視こそ、まさに恣意的で看過できない点であるとわたしたちは考えます。肯定が精神の完全な行為であり、紛う方なく観念を構成するに至る行為であるのに対して、否定は知的行為の半分の行為に過ぎません。残る半分の行為は言外に含ませてあるか、或いは寧ろ、近い将来か遠い将来か、いずれにしろ不確定な未来に持ち越されています。これが、人々の見落としている第一の点です。人々の見落としている第二の点は、肯定が純粋な知性の行為であるのに引き換え、否定には知性以外の要素が紛れ込んでおり、この異質な要素の混入のゆえに否定という行為は他のものにはない独特の性格を持つ、という点です。

まず第二の点について言えば、否定とは常にあり得べき肯定を斥けることである点に注意を促したいと思います。否定は、或るとき下された肯定判断に対して精神が取る一つの態度以外のものではありません。例えば、黒いテーブルを見て「このテーブルは黒い」と言うとき、わたしは間違いなくそのテーブルのことを語っています。わたしは、事実、黒いテーブルを見ました。「このテーブルは黒い」というわたしの判断は、したがってわたしが見たものをそのまま表現しています。一方、同じテーブルを見て「このテーブルは白くない」と言う場合、わたしが表現しているのは明らかにわたしが知覚したものではありません。何故ならわたしが見たのは黒いテーブルであり、白いテーブルの不在を見たわけではないからです。したがってこの場合、わたしの判断は実はテーブルそのものに向けられているのではなく、そのテーブルの色を白と看做す判断に向けられています。わたしは或る判断を判断しているのであって、テーブルの色を判断しているのではありません。「このテーブルは白くない」という命題が意味しているのは、あなたはそれを白いと判断するかも知れない、ということか、或いはあなたはそれを白いと判断していた、ということか、わたし自身危うくそれを白いと判断するところだった、ということか、この三つのうちのいずれかであると言うことができます。つまりわたしは、誰かに、もしくは自分自身に、その判断は別の判断に置き換えるべきだ(どのような判断に置き換えるべきかという点については確かに言及していないにせよ)、とあらかじめ注意を促しているのです。このように肯定が直接事物にかかわるのに反して、否定は肯定を介して、間接的に事物にかかわるに過ぎません。肯定命題が或る対象にかかわる判断を表すのに対して、否定命題は或る判断にかかわる判断を表します。それゆえ否定は二次的な肯定であるという点で、本来の意味での肯定と性格を異にします。否定は、或る事物について何事かを肯定している肯定命題について何事かを肯定するのです。

以上のことから直ちに結論できるのは、否定は純粋な精神、すなわちあらゆる動機から解放され、諸々の対象と向き合い、対象としかかかわろうとしない精神が行う行為ではない、ということです。否定する人は、他者もしくは自分自身に忠告を与え、或いは実在の、もしくは想像上の話し相手に向かってその人が思い違いをしていると警告します。つまり、まず誰かが或る人の前で何かを肯定し、次いで後者は前者に、別のことを肯定しなければならない(ただし、最初に提示された肯定に代わるべき肯定は明示されるわけではありません)と告げます。この場合、最早単に一人の人間と一つの対象が向き合っているのではありません。一つの対象の前で、或る人が別の人に話しかけ、話しかけた相手を論難しつつ助けているのです。ここには社会の出発点があります。否定は誰かを相手にしているのであって、純粋に知的な操作のように、単に何物かを相手にしているのではありません。本質的に教育的、社会的なものである否定は人々を矯正し、或いは寧ろ人々に警告を発します。もっとも矯正や警告を受けるのは必ずしも他者だけとは限りません。或る種の二重化によって、否定する当人が矯正や警告を受ける場合もあります。

第二の点については、以上の通りです。次に第一の点を見ていきましょう。先ほど述べたように、否定は知的行為の半分に過ぎず、残る半分は確定されないまま放置されています。「このテーブルは白くない」という否定命題を口にするとき、わたしが言おうとしているのは、「そのテーブルは白い」という或る人の判断を、別の判断に置き換えなければならない、ということであり、それよってわたしはその人物に、一つの置き換えに関する警告を発します。ただしわたしは、その判断をどんな判断に置き換えなければならないかという点については何も言及しません。わたしがそれに言及しないのは、そのテーブルがどんな色か知らない、という理由による場合もないとは言えないでしょうが、それよりも寧ろ、差し当たりわたしたちが白という色以外には興味がなく、したがって白をどんな色に置き換えるかはともかく、何か別の色に置き換えなければならないと取り敢えずその人物に警告したい、というのが最も一般的な理由です。それゆえ否定判断は、まさに、或る肯定的な判断を別の肯定的な判断に置き換えなければならないということを示す判断であると言えます。ただし否定判断では、第一の判断に代わるべき第二の判断の本性については何も明示されません。それは時にわたしたちがその本性を知らないからでもありますが、ほとんどの場合、その本性が当面の関心事ではなく、わたしたちの注意が専ら第一の判断の内容に向けられているからです。

そういうわけで、わたしが或る肯定に「否」を付け加える度に、つまりわたしが何かを否定する度に、わたしは明確に規定できる二つのことを行います。(一)まずわたしは、同じ社会に属する成員の一人が肯定することや彼が言おうとしていることに、或いはわたしの警告の対象たるもう一人の自分が肯定していたかも知れないことに関心を持ちます。(二)次にわたしは、目の前に提示された第一の肯定が、それとは別の第二の肯定に置き換えられなければならないということを、第二の肯定の内容を明示しないままその人物や自分自身に知らせます。ところで、この二つの行為のいずれにも、わたしたちは肯定以外のものを見出すことはできません。否定の持つ独特の性格は、第一の行為を第二の行為に重ね合わせることから生まれます。したがって、否定に独自の観念を作り出す能力、肯定が作り出す観念と対称で、反対の方向に向いている観念を作り出す能力を付与するのは愚の骨頂です。否定からは、いかなる観念も生まれません。何故なら否定は、自分が判断する肯定判断の内容以外のものを持っていないからです。

議論の正確を期するために、今度は単なる属性に関する判断ではなく、存在に関する判断を取り上げてみましょう。「対象Aは存在しない」と言うとき、わたしがまず表現しようとしているのは、或る人は対象Aが存在すると思うかも知れない、ということです。もっとも対象Aが存在すると考えずに、どうして対象Aを考えることができるでしょうか。先に述べたことを繰り返して言えば、存在する対象Aの観念と、単なる対象Aの観念との間にいかなる差異があり得るでしょうか。それゆえ「対象A」と口にするだけで、わたしは対象Aに、それが単なる可能的なものの実在性、すなわち単なる観念的な実在性に過ぎないにしろ、ともかく或る種の実在性を付与することになります。したがって「対象Aは存在しない」という判断のうちには、「対象Aは存在していた」、或いは「対象Aは存在するだろう」、或いはこの二つをひっくるめて一言で言えば、「対象Aは少なくとも可能的なものとして存在する」という肯定が大前提として含まれています。さて、次にこの肯定に「存在しない」という言葉を付け加えるとき、わたしが表現しているのは以下のことでなくて何でしょうか。一つは、この可能的な対象を、一歩進んで実在的な対象と看做せば間違いを犯すことになる、ということであり、もう一つは、わたしの言う可能的なものは、現実の実在と相容れないものとしてそこから排除されている、ということです。したがって或る事物の非存在を措定する判断とは、実在の人物であれ想像上の人物であれ、或る人物が、或る可能的なものが現実のものになったと誤って思い込んでいるようなときに、その可能的なものと現実的なものとの対比(別の言い方をすれば、考えられた実在性と確認された実在性との対比)を表現する判断であると言うことができます。その可能的なものが存在していた場所には、それと異なる実在、そしてそれをそこから追い出す実在が現在は存在しています。否定判断は、この二つの実在性の対比を表現するものですが、ただしそれを故意に不完全な形でしか表現しません。というのも、この判断が向けられている人物は提示された可能的なものにのみ関心を持ち、可能的なものに取って代わる実在がどんな種類のものであるかという点については最初から関心を抱いていないからです。そのためこの置き換わりの表現は、一部が欠けた不完全なものとならざるを得ません。わたしたちは第二の項が第一の項に取って代わったことを肯定するのではなく、第一の項に向けていた注意をそのまま第一の項に、それも第一の項にのみ向けて置きます。そして第一の項は「存在しない」、と言うことによって、第一の項に身を置いたまま、第二の項が第一の項に置き換わることを暗に肯定します。わたしたちはこうして、或る事物を判断する代わりに或る判断を判断し、他者もしくは自分自身に肯定的な情報を提供する代わりに、一つの可能的な間違いを犯している、と警告を発します。この種の(社会的、教育的な)意図をすべて排除し、わたしたちの認識が本来の飽くまで科学的な、もしくは哲学的な性格を取り戻すよう努めてみましょう。つまり事物のことしか頭になく、人間には一切関心を抱かないような精神に、実在が自動的に自らの痕跡を残していくものと想定してみましょう。そのときわたしたちはこれこれの事物が存在する、という肯定判断を下すことはあっても、或る事物が存在しないことを肯定することは決してないでしょう。

では、わたしたちが肯定と否定とを執拗に同列に置き、それらに同等の客観性を付与するのは何故でしょうか。何故わたしたちは、否定の持つ主観的な性質や、否定において故意に言い落とされている部分、否定が人間精神に、そしてとりわけ社会生活に相対的なものであることを認めるのにこれほど苦労するのでしょうか。それは恐らく、否定と肯定がいずれも命題によって表現され、あらゆる命題は概念を象徴的に表す語によって形成されているがゆえに、肯定命題と否定命題とを問わず、社会生活や人間知性に依存していない命題は存在しないからです。例えば「地面が湿っている」という命題と、「地面は湿っていない」という二つの命題において共通して使用されている「地面」とか「湿って」という語は、人間の精神によって多かれ少なかれ人為的に作り出された概念です。より正確に言えば、精神の自発性によって連続する経験から抽出された概念です。これらの概念は、肯定命題と否定命題のいずれにおいても、同一の慣例的な語によって表されます。さらにお望みなら、どちらの命題も社会的、教育的な目的を目指している、と言うことさえできます。何故なら否定命題が誤謬を警告するように、肯定命題は真理を社会に広めるからです。実際、形式論理学の立場に立てば、主語と述語との間に適合の関係を立てる肯定と、両者の間に不適合の関係を立てる否定は相互に対称的な二つの行為と言えます。――しかしこの場合、対称的と言っても全く外的なものに過ぎず、両者の相似が全く表面的なものに過ぎない点をどうして見過ごすことができるでしょうか。仮に言語が消滅し、社会が解体され、人間のあらゆる知的な自発性や、自己を二重化し、自己を判断するあらゆる能力が衰退したとしましょう。仮にそうなったとしても地面の湿気がなくなるわけではなく、相変わらずそれは感覚に自動的に記録され、ぼんやりした知性にぼんやりした表象をもたらすに違いありません。したがってそうした場合にも、知性は暗々裏にせよ肯定するのを止めない筈です。このことから、判明な概念にしろ、語にしろ、真理を周囲に広めようとする欲望にしろ、自分自身を改善しようという欲望にしろ、肯定の本質そのものには属していない、ということがわかります。他方、ひたすら経験の歩みに機械的に追随し、実在の流れに先んずることも遅れることもないこの受動的な知性が何かを否定することは決してないでしょうし、否定的な情報を受け取ることもないでしょう。もう一度言いますが、存在するものは自己を記録させることができるのに対して、存在しないものの非実在性は自己を記録させることはできないからです。この受動的な知性が否定できるようになるためには、まず麻痺状態から覚醒すること、そして現実的、可能的な期待が外れたことに対する失望を表現すること、次に実際に起きた誤り、もしくは起こり得る誤りを訂正すること、そして最後に、他者もしくは自分自身に忠告を与えること、これらのことができるようにならなければなりません。

今例に挙げた二つの命題でこのことを理解するのは難しいかも知れませんが、それだけにこの例は教訓に富み、説得力を持つ筈です。二つの命題に関して、こんな風に言う人がいるかも知れません。湿気が自動的に自己を記録させることができると言うが、それは非・湿気、すなわち乾きに関しても同様だろう。何故なら乾きも湿気と全く同じように、感覚に印象を与えることができ、感覚はそれらの印象を多少なりとも明確な表象として知性に伝えるだろうからだ。この意味で、湿気の否定はその肯定と同様、客観的なもの、純粋に知性的なものであり、どんな教育的な意図からも独立したものである。――しかし、よく考えてみましょう。そうすれば「地面は湿っていない」という否定命題と、「地面は乾いている」という肯定命題は全く異なる意味内容を持つことがわかるでしょう。「地面は乾いている」という第二の命題は、わたしたちが乾燥というものを知っていること、言い換えると、この表象の根底にある或る特定の感覚、例えば乾いた触感や乾燥したものの視覚的な感覚をわたしたちが経験したことがある、ということを前提しています。一方、第一の命題はそういう前提は何も要求していません。水分以外のものを一度も知覚したことがない魚でも、知性を備えていれば第一の命題を述べることができます。もっともそのためには、その魚は現実的なものと可能的なものとを区別できるだけの知性水準に達していなければならないでしょうし、自分達が現に生活している水中を唯一可能な環境と思い込んでいる彼の仲間にその誤りを指摘する配慮を持ち合わせていなければならないでしょうが。さて、この「地面は湿っていない」という第一の命題が述べていることをよく吟味すると、それが二つのことを意味していることに気付く筈です。(一)地面が湿っている、と思い込む人がいるかも知れない。(二)湿気は、実際には或る性質xに取って代わられるが、ただしその性質の如何については、それについて積極的な認識を有していないという理由によって、或いは否定判断を伝えられる当人が差し当たりそれに全く関心を抱いていないという理由によって未確定のまま放置される。したがって否定とは、常に、二つの肯定が結合した一つのシステムを、一部が欠けた不完全な形で提示することである、と言うことができます。二つの肯定とは、一つは或る可能的なものにかかわる確定された肯定であり、もう一つは、この可能的なものに取って代わる実在にかかわる肯定、ただしわたしたちがその実在を知らないために、もしくはその実在に関心がないためにいまだ確定されていない肯定です。第二の肯定は、わたしたちが第一の肯定について下す判断、すなわち否定そのものの判断のうちに潜在的に含まれています。否定の持つ主観性は、置き換わりの確認において、否定がひとえに置き換えられるもののみを考慮に入れ、置き換わるものには注意を向けないことから来ています。精神の概念としてしか存在しないこの置き換えられる(可能的な)ものに注意を向け続け、それについて何かを語り得るためには、過去から現在へ、後ろから前へと流れていく実在に背を向けなければなりません。何かを否定するとき、わたしたちはまさにそうしているのです。わたしたちは変化を、或いは一般に物や状態の移り変わりを、馬車の後部座席から轍を見ている旅人のように確認します。進行方向に背を向けて轍を見つめるその旅人は瞬間瞬間、自分が存在するのを止めた地点しか視界に収めません。そして現在の自分の位置を、その位置自体の関数として表現するのではなく、まさにその自分が存在するのを止めた地点、自分がたった今立ち去った位置との関係においてしか決して規定しないでしょう。

それゆえ、ただ経験が指し示す道を辿っているだけの精神にとって、空虚はもちろん、相対的、部分的な無さえ存在せず、可能的な否定も存在しない、と言うことができます。そのような精神が目にするのは、事実が事実に、状態が状態に、事物が事物に続いて起こる有様であり、そのような精神があらゆる瞬間に認めるのは、存在する事物や、現れる状態、生起する事実です。現在のうちに生きるこの精神は、仮に判断能力を持っていたとしても、現前する存在以外のものを肯定することはないに違いありません。

この精神に、記憶を、そして特に過去に執着する欲望を、さらに分離し区別する能力を付与してみましょう。そのときこの精神が捉えるのは、最早通り過ぎていく実在の現在の状態だけではありません。そうした経過を、この精神は一つの変化として、つまり存在していたものと存在しているものとの対比として表象します。思い出される過去と想像される過去との間に本質的な違いはない以上、この精神はほどなく、可能的なもの一般を表象できるまでに自己を高めるでしょう。

こうして、この精神は否定の方向に路線を変更します。この精神はとりわけ消滅を表象しようとするでしょうが、まだそれを表象するまでには至りません。或る事物が消滅したことを表象するためには、過去と現在との対比に注目するだけでは十分ではありません。それに加えて、現在に背を向け、過去に固執し、過去と現在との対比を、現在を介入させることなく専ら過去の言葉で思考する必要があります。

消滅という観念は、したがって純粋な観念とは言えません。そこには過去を惜しむ気持ちや、過去は惜しまれるべきものであるという考え、何らかの理由による過去への執着が含まれています。この観念は、或るものが別のものに置き換わる際、前者にしか関心がなく、前者のことしか考えていない精神がこの置き換わりの現象を二分することによって生まれます。あらゆる関心やあらゆる感情を取り去ってみましょう。あとにはただ流れる実在と、流れる実在がわたしたちに刻印する、現在の状態に関する無際限に更新される認識しか残らない筈です。

消滅という観念から、より一般的な操作としての否定までは、あと一歩の距離しかありません。それを埋めるためには、存在するものと存在したものとの対比を表象するだけでなく、存在するものと存在し得たであろうすべてのものとの対比を表象すれば十分です。そしてその対比を、存在するものの関数としてではなく、存在し得たであろうものの関数として表現し、可能的なものだけに注目しながら現実的なものの存在を肯定すればよいでしょう。こうして得られる定式は、最早単に個人の失望を表現するだけにはとどまりません。このような定式は、個人の失望を表現するために作られると言うより、寧ろ、他者の誤りとして想定される誤りを訂正し、或いはそれをその人物に警告するために作られます。その意味で、否定は教育的、社会的な性格を持ちます。

さて、ひとたび否定が定式化されると、それは肯定と対称的な外観を呈するようになります。肯定が客観的な実在を肯定するものであるならば、否定も肯定と同じように客観的な実在、言ってみれば実在的な非・実在を肯定するものであるようにわたしたちには思えます。そう考える点で、わたしたちは間違っていると同時に正しくもあります。間違っている、というのは、否定は、その否定的な面において客体化されることはないからです。他方、或る事物の否定は、それが別の事物、ただし一貫して黙殺される別の事物に取って代わられることに対する潜在的な肯定を含んでいる、という意味ではわたしたちは間違っていません。ところで、否定の持つ否定的な形式は、その土台となっているこの肯定の威を借りています。つまり否定というこの肉体を持たない幻影は、自分が結び付いている肯定的な実在に跨って自己を客体化するのです。こうして、空虚という観念、すなわち部分的な無の観念が形成されます。このとき或る事物は最早別の事物に置き換えられるのではなく、自分が元あった場所に残した空虚に、すなわちそれ自身の否定に置き換えられます。しかもこの操作はどんな事物にも行われ得るので、それは個々の事物に代わる代わる行われ、最終的にすべての事物に一括してこの操作が行われ得るものとわたしたちは想定するようになります。こうして遂に、「絶対的な無」の観念をわたしたちは手に入れます。この「無」という観念を分析すると、実はそれが「全体」という観念に精神の或る運動が加わったものであることに気付かされます。或る事物から別の事物へと際限なく飛び移るその運動によって、精神は同じ場所にとどまることを拒み、あらゆる注意をこの拒否に集中して、自分の現在の位置を、たった今自分が立ち去った位置との関係においてしか規定しません。したがってこの無という観念は、「全体」という観念と極めて親近な関係にあり、無という言葉とは裏腹に、「全体」という観念に負けず劣らず包括的で充実した表象であると言うことができます。

そうだとすれば、「無」という観念をどうして「全体」という観念に対立させることができるでしょうか。それは、充実したものを充実したものに対立させることに他なりません。したがって「何かが存在するのは何故か」という問いは意味のない問いであり、偽の観念に基づいた偽の問題に過ぎない、ということが上記の分析でわかるのではないでしょうか。しかしここでわたしたちは、この問題の幻影に過ぎないものが、何故これほど執拗に精神に付き纏うのかを今一度確認して置く必要があります。この幻影に取り憑かれている人に向かって、「実在的なものの消去」という表象には、すべての実在性が相互に排除し合う過程を果てしなく繰り返すイメージしか含まれていない、ということを示しても彼らの承認を期待することはできません。また非存在の観念とは、質量のない存在、すなわち「単に可能的な」存在が、より実体的な、真の実在性とも言うべき存在に追い出される観念に過ぎない、と付言しても同じことです。さらに、否定は或る判断に関する判断であり、他者もしくは自分自身に向けられた警告である、それゆえ、否定の一種独特な形式のうちには何かしら知性以外のものが紛れ込んでおり、否定に、内容のない観念というような目新しい表象を作り出す能力を付与するのは馬鹿げている、と言っても彼らは取り合わないでしょう。こうした主張を前にしても、事物以前に、或いは少なくとも事物の基底に無が存在する、という思い込みが頑なに彼らの頭を支配し続けます。わたしたちはその理由を、まさに否定に独特の形式を与えている要素、すなわち感情的、社会的な要素、要するに実践的な要素のうちに求めることができます。既に述べたように、哲学の数々の難題は、人間の行動の諸形式がその本来の領域に収まらず、そこから食み出すことから生まれます。わたしたち人間は思考するために作られているのと同じく、否、それ以上に行動するために作られています。――と言うより寧ろ、人間の本性的な運動に従うとき、わたしたちが思考するのは行動するためでしかありません。したがって、表象の習慣に行動の習慣が染み込んでいたとしても、また精神が、わたしたちが事物に働きかける際に思い浮かべる順序と常に同じ順序で事物を認知したとしても驚くには当たりません。ところで、先に指摘したように、人間のあらゆる行動の出発点が或る不満に、すなわち或る欠如の感情にあることは間違いありません。行動するに際して、わたしたちが何らかの目標を掲げないことはありませんし、わたしたちが或る事物を探すのは、それが自分に欠けていることを痛感するからに他なりません。そういうわけで、わたしたちの行動は「無」から「何か」へと進みます。「無」というカンヴァスに、「何か」の刺繍を施すのがまさにわたしたちの行動の本質です。実を言えば、ここで問題になっている無は或る事物の不在ではなく、或る有用性の不在です。例えばまだ家具を置いていない部屋に客を招き入れる際、わたしはその人に「何もありませんが」と、部屋に何もないことをあらかじめ弁解します。もっとも部屋に何もないとは言っても、わたしはその部屋が空気で満たされていることを知っています。しかし空気の上に座るわけにはいかないので、客にとってもわたし自身にとっても、何かと言うに値するものは事実何もないのです。一般に、人間の仕事の目的は有用なものを生み出すことにあります。仕事が行われない限り、「何もありません」――というのは、わたしたちが欲しいと思っているものはそこにはない、という意味に他なりません。わたしたちの生は、こうして空虚を埋めることに費やされます。それらの空虚を、知性は、欲望や後悔といった知性以外のものの影響の下に、生の必然性の圧力の下に考えます。空虚を、事物の不在ではなく有用性の不在と解するなら、この全く相対的な意味において、わたしたちは常に空虚から充実に進む、と言うことができます。このように、空虚から充実へ、というのがわたしたちの行動の進む方向ですが、わたしたちの思考もまたそれと同じ方向に進まずにはいられません。そして思考は、事物がわたしたちに対して持つ有用性を対象にするものではなく、事物そのものを対象にするものである以上、わたしたちの思考は空虚に関する相対的な意味から自ずと絶対的な意味へと移行します。その結果、実在が一つの空虚を埋めるという錯覚、あらゆるものの不在としての無が、事実上ではないまでも、権利上、すべてのものに先行するという錯覚がわたしたちのうちに根を下ろします。わたしたちが払拭しようと試みたのは、まさにこの錯覚です。それを払拭するために、わたしたちは次の二つの点、すなわち、「無」という観念に飽くまであらゆる事物の消滅という観念を見ようとすれば、それは自己破壊的な観念となり、単なる言葉と化してしまうこと――一方、「無」という観念が内容を持ち得る場合、この観念のうちには「全体」という観念に勝るとも劣らない内容が見つかることを明らかにしました。

わたしたちが無という観念を特に念入りに分析したのは、自立した実在であっても、必ずしも持続と無関係な存在であるわけではない、ということを示すためです。わたしたちが(意識するとしないとにかかわらず)無という観念を介して「存在」という観念に達するとき、そうして達した「存在」の本質は論理的、もしくは数学的なものであり、したがって非時間的なものです。そうなるとわたしたちは実在について静的に考えざるを得なくなり、すべては一度に、永遠のうちに与えられていると思い込まざるを得なくなります。今や、わたしたちと「存在」との間に介在する無の幻影を介して「存在」に達するのではなく、「存在」を直かに、回り道をすることなく考えることにわたしたちは慣れなければなりません。言い換えると、最早行動するために見るのではなく、見るために見るよう努めなければなりません。そうすれば、「絶対的なもの」がわたしたちのすぐそばに、そして或る程度まではわたしたちのうちに姿を現します。それは心理的な本質に属するものであって、数学的、論理的本質に属するものではありません。絶対的なものは、わたしたちとともに生きています。それはわたしたちと同じように持続し、同時にそれは、或る面ではわたしたちとは比較にならないほど無限に自己を集中し、自己を凝縮します。

(つづく)

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