画竜点睛

素人の手すさびで作ったフォントを紹介するブログです

「ジェノサイド」(80)

2017-09-07 | 雑談
●生成と形式

しかし、そもそもわたしたちは真の持続を考えているのでしょうか。「存在」を考える場合と同様、持続に関してもやはり直接それを把握する必要があります。回り道をしていては、いつまで経っても持続に追いつくことはできません。持続を捉えるためには、一挙に持続のうちに身を置かなければなりません。ところが多くの場合、知性はそうすることを拒否します。何故なら知性は、不動のものを介して運動を考える習慣を身に付けてしまっているからです。

実際、行動を支配し、管理するのが知性の役割です。ところで、行動のうちわたしたちの興味を引くのは、(その過程ではなく)その結果です。目的さえ達成されれば、手段が問題になることはほとんどありません。そのため通常わたしたちは、達成すべき目的が観念上のものから現実のものになることを信じてそれに全神経を集中し、その結果、精神にはわたしたちの活動が休止する終点だけが明瞭に表象されます。行動そのものを構成している運動はわたしたちの意識から逃れるか、もしくは漠然としか意識に上りません。例えば腕を上げる運動のような、極く単純な行為を考えてみましょう。もしわたしたちが、この行為に含まれる筋肉の収縮や緊張の要素をあらかじめすべて想像しなければならないとしたら、さらにその運動の最中、収縮や緊張の過程を一つ残らず知覚しなければならないとしたら、わたしたちの行動は一体どうなってしまうでしょうか。そういった途中の過程は一切無視して、精神は一足飛びに目的に、すなわちその行為が遂行されたものと想定した上で、そのように想定された行為の図式化され単純化されたビジョンに身を移します。一旦行為の終点に身を移してしまえば、最初に思い描かれた表象の効果を無効にするような敵対的表象が現れない限り、あたかもその図式の隙間の空虚に吸い寄せられるかのように、適切な運動が自ずと図式の足りない部分を補いにやって来てくれます。したがって知性は、一つの活動に関してその達成すべき目的しか、言い換えるとその活動が休止する点しか表象しません。かくしてわたしたちの活動は、或る達成すべき目的から別の達成すべき目的へと、或る休止から別の休止へと一連の飛躍によって移っていきます。その間わたしたちの意識は、遂行されつつある運動からは極力目を逸らし、その運動の先回りをしてそれが到達するであろう終点のイメージだけを頭に思い描きます。

ところで、遂行される行為の結果が不動のものとして表象されるためには、その結果が嵌め込まれる環境もやはり不動のものとして知性は認知しているのでなければなりません。わたしたちの活動は、物質的世界に挿入され嵌め込まれています。仮に、物質が間断のない流れとしてわたしたちの前に現れていると想定してみましょう。その場合、わたしたちはどこに行動の終点を設定してよいかわからないでしょうし、行動の一つ一つが遂行されるそばからそれが崩壊していくように感じられるに違いありません。そうなれば、絶えず逃れ去っていく未来を予見しようという気にもならない筈です。わたしたちの活動が或る行為から別の行為へと飛び移っていくためには、物質もそれに応じて或る状態から別の状態へと移っていくのでなければなりません。何故なら行動は物質的世界の或る状態のうちにのみその結果を挿入することができ、したがって状態という舞台においてのみ行動は遂行され得るからです。物質は実際にそのように(状態として)わたしたちの前に現れているでしょうか。

わたしたちの知覚は、まさに今述べたような角度から物質を捉えるようにできている、とア・プリオリに推測することができます。事実、感覚器官と運動器官とは相互に連携しています。運動器官がわたしたちの行動能力を象徴しているとすれば、感覚器官はわたしたちの知覚能力を象徴しています。このように有機体は、目で見、手で触れることのできる形で、知覚と行動との完全な適合を身を以てわたしたちに示しています。したがって、わたしたちの活動が常に結果を目指し、そこに一時的に嵌め込まれるものであるならば、わたしたちの知覚も、あらゆる瞬間、物質的世界のうち自分が一時的に身を置く状態と呼ばれるものさえ保持できればよい、ということになります。これが、精神に示される仮説です。この仮説が経験によって確かめられることを示すのは難しいことではありません。

この世に生を享けた瞬間から、わたしたちは世界に諸々の物体を見分けるより早く、諸々の性質を見分けます。例えば、或る色のあとには別の色が、或る音のあとには別の音が、或る触感のあとには別の触感が続いている、といった風に。それらの性質は、個別に見ればそれぞれが一つの状態であり、その状態は別の状態に取って代わられるまで変化することなく不動のまま存続するように見えるかも知れません。しかし各々の性質を分析すると、それらは膨大な数の振動に分解されることがわかります。わたしたちが性質のうちに振動を見るにせよ、或いは性質を全く別の仕方で表象するにせよ、確実に言えることが一つあります。それは、あらゆる性質は変化である、ということです。もっとも、変化の奥に変化するものを探しても無駄でしょう。わたしたちが運動を運動するものと関連付けるのは、自分自身の想像力を満足させるための暫定的な措置に過ぎません。運動するもの(質)は、常に科学の目から逃れます。科学が運動(量)以外のものを扱うことは決してありません。知覚し得る最も短い時間の間にも、感覚的性質のほとんど瞬間的な知覚のうちにも、無数の振動が生じていることを科学は明らかにします。継起する鼓動によって生物が生存し続けるように、感覚的性質の恒常性は、そうした運動の反復に根差しています。知覚の最も基本的な役割は、まさに、それら一連の周期的変化を、或る種の凝縮作用によって性質として捉えることに、すなわち単一の状態という形で捉えることにあります。或る動物種に割り当てられる行動能力が大きければ大きいほど、その動物種の有する知覚能力が一瞬間に凝縮させ得る周期的変化の数も恐らく多くなります。エーテルの振動にほぼ同調して振動するだけの生物から、それら数え切れないほどの振動を極めて短い単一の知覚のうちに不動化する生物に至るまで、自然界においては、そうした進歩が連綿と続いているに違いありません。前者は運動以外のものをほとんど感じないのに対して、後者は性質を知覚します。また前者は諸事物の歯車に巻き込まれたままほとんどそこから抜け出すことができないのに対して、後者は事物に反応して行動を起こすことができ、その行動能力の緊張度は、恐らくその知覚の凝縮能力に比例しています。このような進歩は、人類に至って完成します。わたしたち人類が一瞬のうちに見て取ることのできる出来事の数が多ければ多いほど、それだけわたしたちは「能動的人間」になります。継起する出来事を一つずつしか知覚できない人はそれに振り回される他はないでしょうし、それらの出来事を纏めて把握できる人は出来事に翻弄されるのではなく、逆にそれを支配することができるでしょう。そういうわけで、物質の性質とは、それがどんな性質であれ、わたしたちが物質の不安定性を不動化して得た安定したイメージ以外のものではない、と結論することができます。

次にこの感覚的性質の連続を、わたしたちは諸々の物体に切り分けます。それら切り分けられた物体の一つ一つも、実際にはあらゆる瞬間に変化しています。物体はまず諸々の性質の集まりに分解されますが、あらゆる性質は振動の継起以外の何物でもないのは先ほど述べた通りです。ところで、性質を安定した状態と看做すにしても、物体は絶えずその性質を変える点で、依然不安定な状態にあると言えます。最も典型的な物体、相対的に閉じたシステムを構成している点で、他のどんな物体よりも物質の連続から切り離されて然るべき物体、それは生命体です。ちなみに生命体が全体から自分以外の物体を分離するのは、生命体自身の欲望を満たすためです。さて、生命体というこの最も典型的な物体について考えてみると、生命とは進展もしくは進化に他なりませんが、その進化の或る時期をわたしたちは安定した一つのイメージに凝縮して形態と呼んでいます。そして変化が顕著になり、平穏だった知覚が安定した状態を保てなくなると、わたしたちはその物体(生命体)の形態が変化した、と言います。しかし実を言えば、物体(生命体)の形態はあらゆる瞬間に変化しています。と言うより寧ろ、(例えば現在は存在しない、というのと同じ意味で)形態は存在しない、と言った方が適切かも知れません。何故なら実在は運動そのものですが、形態は不動なものに過ぎないからです。実在とは形態の連続的変化であり、形態は、その連続的変化を外側から撮影した一枚のスナップ写真に過ぎません。したがって性質の知覚においてと同様、物体の形態の知覚においても、わたしたちの知覚は実在の流動的な連続性を非連続的なイメージとして固定するようにできている、と言うことができます。継起するイメージ同士の間に明らかな差がない場合、わたしたちはそれらすべてのイメージを、或る一つの平均的なイメージの増大ないし減少と考えるか、その平均的なイメージが様々な方向に変形したものと考えます。わたしたちが或る事物の本質について語るとき、或いはその事物そのものについて語るとき、わたしたちが考えているのはこの平均的なイメージに他なりません。

そして最後に、こうして事物が一旦構成されると、それらの事物は「全体」の内部で生じる深い変化を、表面における位置変化によって示すようになります。この表面における事物の位置変化を形容して、それらの事物は相互に作用を及ぼし合っている、という風にわたしたちは表現します。それらの作用は、確かに運動という形でわたしたちに与えられます。ところがわたしたちは、運動の動性から極力目を逸らします。わたしたちの興味を引くのは、先に述べたように、運動そのものよりも、寧ろその運動の安定した素描です。一つの単純な運動について考えてみましょう。その運動についてわたしたちが問題にするのは、それがどこへ向かうのか、ということです。どんな瞬間にも、わたしたちはその運動をそれが向かう方向を介してしか、つまり暫定的な目標の位置を介してしか表象しません。では、単一の運動ではなく複合的な運動の場合はどうでしょうか。その場合、わたしたちは何よりもまず、今起きていることやその運動が為しつつあること、言い換えるとその運動によって得られる結果や、その運動を支配している意図を知ろうとします。行動している最中、自分がどんなことを考えているかよく思い出してみましょう。確かに、そこには変化という観念もあるかも知れません。しかしそれは脇に追いやられています。スポットライトを浴びているのは、飽くまで予想されるその行為の安定した素描です。わたしたちはこの素描によって、否、この素描によってのみ複合的な行為を相互に区別し、規定することができます。例えば食べる、飲む+戦うというような異質な行為の組み合わせに含まれる運動を想像しなければならないとしたら、わたしたちは途方に暮れてしまうに違いありません。わたしたちにとっては、単にそれらすべての行為が運動であることが一般的な形で漠然とわかればそれで十分なのです。その点がわかれば、あとはその複合的な運動に含まれるそれぞれの運動の全体図、すなわちそれらの運動を支えている安定した素描を表象しさえすれば自ずと事がうまく運びます。このように空間上の運動に関しても、認識は変化よりも寧ろ状態に関わっている、と言うことができます。したがってこの第三の場合も、先に述べた二つの場合と事情は同じだと考えて差し支えありません。問題になっているのが質における運動であるか、進化における運動であるか、そしてひろがりにおける運動であるかに関係なく、いずれの場合にも精神は不安定なものから安定したイメージを得ようと努めます。こうして精神は、今列挙したような三つの観点に対応した表象に到達します。一つは性質の表象であり、もう一つは形態もしくは本質の表象であり、もう一つは行為の表象です。

この三つの観点には、語の三つのカテゴリー、すなわち形容詞、名詞、動詞がそれぞれ対応しています。この三つの品詞は、言語の原初的な要素と言えます。このうち形容詞と名詞が象徴しているのは状態ですが、動詞そのものも、それが喚起する表象の重要な部分に関する限り、状態以外のものはほとんど表現していません。

ここで、生成に対してわたしたちが自然に取る態度の特徴をもう少し正確に述べて置くことにしましょう。生成とは、無限の変化です。例えば黄色から緑に変わる過程と、緑から青に変わる過程は同じものではありません。質におけるこの二つの運動は別のものです。また例えば、花から果実に変わる過程と、幼虫から蛹に、蛹から成虫に変わる過程は同じものではありません。進化におけるこの二つの運動は別のものです。また例えば、食べたり飲んだりする行為と、戦う行為は同じものではありません。ひろがりにおけるこの二つの運動は別のものです。質における運動、進化における運動、ひろがりにおける運動というこれら三つの運動自体、相互に深く異なっています。わたしたちの知覚作用の特徴は、知性や言語の働きと同様、これら変化に富んだ生成から生成一般という唯一の表象を抽出する点にあります。生成一般というこの無規定な表象はそれ自体としては何の意味もない抽象物に過ぎず、わたしたちがそれについて考えることも滅多にありません。常に自己同一的なこの観念はぼんやりとしか意識されないもの、もしくは全く意識されないものですが、わたしたちはこの観念に、その時々の状況に応じて、状態を表す一つもしくは幾つかのイメージ、あらゆる生成を相互に区別するのに役立つ明晰なイメージを付け加えます。規定された特徴的な一つの状態と、生成一般という一般的で無規定な変化とを組み合わせ、それを変化の特性の代用物にするのです。様々に彩られた無限に多くの生成が、言わばわたしたちの眼下を流れています。わたしたちは、そこに単なる色彩の差異、つまり単なる状態の差異しか認めません。しかしそれらの差異の奥には、いつでも、どこでも変わることのない生成という観念、常に無色透明の生成という観念が底流として流れています。

スクリーンの上に、何か活動的で生き生きとした場面、例えば連隊の行進風景を映し出すものとしましょう。それには、次のようなやり方が考えられます。まず何らかの材料を兵士の形に切り抜き、関節部分が動くように細工します。次にそれぞれの人形に歩行しているポーズを取らせます。歩行は人類に共通のものですが、個々人によって異なるので、人形のポーズには或る程度の変化をつけるようにします。そしてその全体をスクリーンに投影します。このちょっとした遊びには恐ろしく手間がかかるでしょうが、その割にはひどく安っぽい仕上がりにしかならないでしょう。このようなやり方で、生命の柔軟性と多様性をどうして再現することができるでしょうか。とは言えこのやり方だけが唯一のものではありません。もう一つ別のやり方があります。そしてそのやり方の方がずっと簡単で、ずっと効果的です。そのやり方とは次のようなものです。まず実際に行進している連隊を連続撮影します。次に撮影したその連続写真がスクリーンの上で次々に素早く入れ替わるようにそれらを投影します。これはまさに、映画のやり方です。映画は、歩行する兵士達の様々な外見を映した静止画の一枚一枚によって、行進する連隊の動きを再構成します。なるほど、わたしたちが写真だけを見ている限り、それをいくら眺めたところで写真が動き出すことはありません。不動なものをどれだけ数多く並べても、それが運動になることはないでしょう。映像に命が吹き込まれるためには、どこかに運動が存在していなければなりません。そして事実、映画においては或る場所に運動が存在しています。それは映写機の中です。まさにフィルムが回り、或るシーンの様々な写真が次々に現れることで、そのシーンにおける役者の一人ひとりが動きを取り戻します。フィルムの目に見えない運動によって、役者は自分の継起する固定した一つ一つの姿態をすべて繋ぎ合わせていくわけです。つまり映画は、まずそのシーンに登場するそれぞれの人物に固有の運動の総体から、非人称的、抽象的な単一の運動、言わば運動一般を抽出し、それを映写機の中に配置します。次にこの名前のない運動を個々人の瞬間瞬間の外見と組み合わせることによって、それぞれの特殊な運動の個別性を再構成します。これが映画の手法ですが、それは同時にわたしたちの認識方法でもあります。わたしたちは諸事物の内的な生成に身を置く代わりに、諸事物の外に身を置いてそれらの生成を人為的に再構成します。わたしたちはまず、過ぎゆく実在のほとんど瞬間的なイメージを幾つか手に入れます。それらのイメージはその実在の特徴を表しているので、次に手に入れたイメージを、わたしたちの認識装置の底を流れる抽象的で均一な目に見えない生成に沿って繋ぎ合わせることで、この生成そのものの特徴的な点を或る程度再現することができます。知覚や知解、言語は一般にこのような仕方で働きます。生成を考えるにせよ表現するにせよ、或いは生成を知覚するにせよ、わたしたちはいずれの場合においても、或る種の内的な映画装置を働かせているに過ぎません。以上のことから、こう結論してもよいでしょう。わたしたちが通常働かせる認識のメカニズムは、映画的な性質のものである、と。

この操作が全く実践的な性格のものであることは誰が見ても明らかです。わたしたちの行為はいずれも、わたしたちの意志を何らかの方法で実在に嵌め込むことを目指しています。わたしたちの身体とそれ以外の物体とは万華鏡のビーズのように配列され、千変万化する模様を(刻々と)描き出しています。行動する際、わたしたちは万華鏡の筒を振って或るビーズの配列から別のビーズの配列へと移っていきますが、筒を振るという操作そのものはわたしたちの関心の対象ではなく、その結果出来る新しい模様にしかわたしたちは関心を持ちません。そういうわけで、行動するわたしたちが自然の働きについて持つ認識は、わたしたちが自分自身の操作に向ける関心と正確に対称的なものになる筈です。比喩に比喩を重ねた表現になりますが、この意味で、事物に関するわたしたちの認識の映画的性格は、事物に対するわたしたちの適応の万華鏡的性格に由来している、と言うことができるでしょう。

したがって実践的な認識方法たり得るのは、映画的な認識方法しかない、ということになります。何故なら映画的な認識方法の特徴は、まさに、一般的な認識の足取りを行動の足取りに合わせた上で、一つ一つの行為の細部が認識の細部に適合するのを期待する点にあるからです。行動が常に明瞭に照らし出されているためには、行動が行われている間、知性が常に現前していなければなりません。ところで今述べたように知性が行動の歩みに付き従い、行動の方向を誤らせないようにするためには、知性はまず行動のリズムを採り入れる必要があります。行動はあらゆる生命の鼓動と同じように、非連続(離散)的なものです。したがって、認識もまた非連続的なものでなければなりません。わたしたちの認識能力のメカニズムは、以上のような構想のもとに形成されたのです。本質的に実践的な性格を持つこのメカニズムは、そのままの形で果たして思弁の役に立つことができるのでしょうか。実在の曲折を辿る際にもこのメカニズムを働かせ続けると、一体どういうことが起きるのかを見てみることにしましょう。

わたしは、わたしたちが或る生成の連続から一連のイメージを抽出し、それらを「生成一般」によって連結する、ということを明らかにしました。しかし、無論わたしたちはそこで立ち止まっているわけにはいきません。規定し得ないもの(生成一般)は表象し得ないからです。「生成一般」を、わたしたちは単なる言葉の上の存在としてしか認識していません。数学においてxという文字が未知数を表しているように、常に同一の「生成一般」は確かに或る推移を、わたしたちがスナップ写真に撮る或る推移を象徴しています。が、その推移そのものについて「生成一般」は何も教えてくれません。そこでわたしたちは、その推移に意識を傾け、二つのスナップ写真の間で何が起こっているかを知ろうとします。しかし同じ方法しか適用しない以上、第一のスナップ写真と第二のスナップ写真の間にもう一枚別の第三のスナップ写真が入ってくるだけで、得られる結果は同じです。何度やり直そうが、どれだけスナップ写真を並べようが、わたしたちはスナップ写真以外のものを得ることはできません。そのため映画的方法の適用は、際限のないやり直しをわたしたちに強いることになります。そしていくらやり直しても満足することができず、身を置く場所も見つけることのできない精神は、やがて探求を諦め、自分自身の不安定性によって実在の運動そのものを模倣しているのだ、とでも考えて自分を納得させる他はなくなるでしょう。しかしそうやって精神が自ら進んで眩暈のうちに飛び込み、遂には運動を捉えたと錯覚するに至ったとしても、精神は一歩も前進したことにはなりません。そうした操作は精神を元の場所に置き去りにし、目標に近づけることはないからです。動く実在とともに進むためには、実在のうちに身を置き直さなければなりません。変化のうちに身を置いてみましょう。変化は、どんな瞬間にも停止して一つの状態となり得ます。変化のうちに身を置けば、変化そのものに加えて、それら継起する状態をも把握することができる筈です。逆にそれらの継起的な状態を外から捉え、状態の不動性を潜在的なものではなく実在的なものと看做すならば、わたしたちは未来永劫運動を再構成することはできません。なるほどわたしたちは、状況に応じて性質、形態、位置もしくは意図と呼ばれるそれらの状態の数を好きなだけ増やして、連続する二つの状態を限りなく近づけることはできます。しかしどれだけ状態の数を増やしても、わたしたちは運動を掴まえたと思った瞬間にそれが手の間からすり抜けていくのを目の当たりにして、広げた両手を合わせて煙を押し潰そうとする子供のように落胆するのが落ちでしょう。何故なら諸々の状態によって変化を再構成しようとするあらゆる試みのうちには、運動が不動で出来ているという不条理な命題が含まれているからです。

哲学は誕生した瞬間から、早くもこのパラドックスに気付いていました。エレアのゼノンの論証はわたしたちの意図とは異なる意図からなされたものではあるものの、今述べたこと(運動は不動で出来ている)と別のことを表現しているのではありません。

試しに「飛ぶ矢」のパラドックスを取り上げてみましょう。ゼノンは言います。飛んでいる矢は、あらゆる瞬間止まっている。何故なら少なくとも二つの瞬間が(同時に)矢に与えられない限り、矢は動くこと、すなわち少なくとも二つの継起する位置を占めることができないからである。(同時に)二つの瞬間が与えられることはない以上、或る所与の瞬間、矢は或る所与の点で静止している。その軌道の各点において矢は不動なのであるから、矢は飛んでいる間ずっと不動である、と。

仮に矢が軌道の或る点にいつか存在し得るならば、そして矢という動くものが、位置という不動のものといつか一致し得るならば、なるほどゼノンの言う通りかも知れません。しかし矢の軌道のどの点にも、矢が存在することは決してありません。せいぜいわたしたちに言えるのは、矢はその点を通過するという意味で、また矢はそこで停止することがあり得るという意味で、矢はその点にとどまることも可能だろう、ということだけです。矢がその点で停止すれば確かに矢はそこにとどまるでしょうが、そのときわたしたちの前にあるのは最早運動ではありません。矢が点Aから射られ点Bに落下するとき、その運動ABを純然たる運動として見た場合、それは引き絞った弓の緊張と同じく単一で分解不可能なものである、と言うべきです。AからBに飛翔する矢は、榴散弾が地面に落下する前に破裂して爆発範囲を不可分の危険で覆うように、その不可分の運動性を、或る一定の時間はかかるにせよ一挙に展開します。ゴム紐をAからBまで伸ばしたとしましょう。そのゴムの伸びを果たして分割することができるでしょうか。矢の飛翔はそうしたゴムの伸びと同じ種類のものであり、ゴムの伸びと同じく単一で分割不可能なものです。それは分離することのできない唯一つのものです。わたしたちは、矢が通過した区間の任意の箇所に点Cを想定し、或る瞬間、矢は点Cに存在した、という風に考えます。もし矢が実際に点Cに存在したのであれば、矢はそこで一旦停止したということであり、従ってその場合、わたしたちの前には最早点Aから点Bへの矢の飛翔があるのではなく、AからCへの、CからBへの二つの飛翔と、その間の静止がある、と言うべきでしょう。単一の運動とは、わたしたちの仮定に従えば二つの停止に挟まれた運動を意味します(下記参照)。二つの停止の間に別の停止があるなら、それは最早単一の運動とは言えません。なるほど運動が一旦行われれば、その行程に沿って不動の軌跡が残され、その軌跡の上にわたしたちはあとから好きなだけ不動の点を数えることができます。この事実から、運動はそれが遂行されるに従って一瞬毎に自分と一致する点をあとに残していく、という風にわたしたちは誤って結論します。そう結論するとき、軌道の創造には確かに一定の時間を要するにせよ、それは中断されることなく一気に創造されること、ひとたび軌道が創造されればそれは好きなように分割することができるとしても、創造は分割することができないこと、この二つの事実をわたしたちは見落としています。創造は進行しつつある行為であって、事物ではありません。動体が行程の或る点に存在すると想定することは、その点に鋏を入れて行程を二つに分け、当初考えられていた単一の軌道を二つの軌道に置き換えることです。それは、一つの行為しか存在しないところに二つの継起する行為を見て取ることを意味します。要するにそれは、矢の通過した区間にしか当て嵌まらないことを、そっくりそのまま矢の飛翔そのものに当て嵌めることであり、運動が不動に一致するという不条理な命題をア・プリオリに認めることです。
(「Ⅰ.――運動は静止から静止への移行である限り、絶対に分割することはできない」(「物質と記憶」第四章))

ゼノンの他の三つの論証について、わたしたちはここで詳しく論じるつもりはありません。それらの論証については、既に前著で検討しました。ここでは、それら三つの論証も「飛ぶ矢」の論証と同様、動体が通過した線の上に運動を貼り付け、その線に当て嵌まることが運動にも当て嵌まるという想定の上に成り立っている点を思い起こすにとどめましょう。例えば線は任意の長さで、好きなだけ多くの部分に分割することができます。しかもどれだけ多くの部分に分割しようが、どんな長さに分割しようが、線が線でなくなることはありません。ここから人々は、線と同じように運動を思い通りに区分することができる、と想定する権利をわたしたちは持っており、運動をどんな風に区分してもそれは常に元の運動と同じ運動である、と結論します。その結果一連の不条理が生じますが、それらは結局のところすべて同じ根本的な不条理を表しています。ところで、動体が通過した線の上に運動そのものを貼り付けることができる、という考え方は、運動の外に位置する傍観者、あらゆる瞬間に運動が停止する可能性を想定し、それら可能的な不動によって実在的運動を再構成しようとする傍観者にとってしか存在しません。そのような観点は、手を上げたり足を一歩前に踏み出すといった単純な動作を行うときに誰もが意識する実在的運動の連続性に注意を向けるや否や雲散霧消します。そのときわたしたちは、動体が通過した二つの停止の間の線が途切れることなく一筆で描かれていること、そしてその一筆で描かれた線、すなわち運動に、一度描かれた線から恣意的に選ばれた区分にそれぞれ対応しているような区分を設けようとしても設けられるものではない、ということにはっきりと気付きます。動体が通過しただけの線は内的な組織を持たないので、どんなやり方でも分割しても支障はありませんが、あらゆる運動は、単なる線とは異なり内的に区分されています。それは一つの不可分な跳躍(一つの跳躍と言ってもそれは極めて長い持続を占めることもあり得ます)であるか、もしくは一連の不可分な跳躍であるかのいずれかです。運動について考える際には、そうした内的区分を考慮に入れなければ運動の本性を捉えることはできません。

そういうわけで、アキレスが亀を追いかけるとき、アキレスの一歩一歩はいずれも分割できないものとして扱われなければなりません。それは亀の一歩一歩についても同様です。アキレスが自分の歩き方で歩いていけば、何百歩目かに彼は亀をまたいで追い越すでしょう。これほど単純明快な話はありません。もしどうしても二つの運動を分割したいのであれば、アキレスの行程と亀の行程の双方を、両者の歩幅の共約量で区分するというやり方も考えられます。しかしいずれにせよ、それら二つの行程の自然な区分を尊重しなければなりません。それらの区分を尊重する限り、どんな問題も起こりようがありません。何故ならそのとき、わたしたちは経験の指示に従うことになるからです。ゼノンの詭弁の核心は、彼が恣意的に選んだ法則、まずアキレスは一歩目で亀がいた地点に到達し、次に二歩目で、最初にアキレスが一歩進む間に亀が進んだ地点に到達する(以下同様)、といった法則に従ってアキレスの運動を再構成する点にあります。事実その場合、アキレスは永遠に新たな一歩を踏み出さなければなりません。しかし言うまでもなく、アキレスは亀に追いつくのに、そうした(不自然な)歩き方とは全く別の歩き方をします。ゼノンの考えるような運動がアキレスの運動と等価となるのは、動体が通過した間隔を扱うのと同じように、任意に分解、再構成することのできるものとして運動を扱う場合だけです。この第一の不条理を受け入れるや否や、自ずと他のすべての不条理が生じます。

ゼノンの論証は運動のみならず、質における生成や進化における生成にも容易に適用することができます。そしてその場合にも、運動の場合と同じ矛盾に直面するに違いありません。子供が青年になり、青年が成人に、成人が老人になるということは、生命の進化が実在そのものであると看做されてはじめて理解されます。幼年期、青年期、壮年期、老年期といったものは精神に与えられた単なるイメージに過ぎず、一つの進展の連続性を顧みてわたしたちが頭に思い描いた可能的な停止に過ぎません。反対に、幼年期、青年期、壮年期、老年期が進化の構成部分であると考えてみましょう。するとそれらは実在的な停止ということになり、わたしたちは最早いかにして進化が可能なのかわからなくなってしまいます。何故なら停止をいくら並べたところで、それが運動と等価になることは決してないからです。既に出来上がったもので、どうして出来上がりつつあるものを再構成することができるでしょうか。例えば幼年期を事物として措定した場合、幼年期しか与えられていないのに、どうしてそこから青年期に移行することができるでしょうか。この点についてよく考えてみると、わたしたちの習慣的な話し方は、わたしたちの習慣的な考え方を手本にしており、わたしたちを紛れもない論理的な袋小路に導く、ということがわかります。もっとも袋小路に迷い込んだとしても、わたしたちは少しも不安を感じません。漠然とながら、いつでもそこから抜け出せると考えているからです。事実、知性の映画的習慣を捨てさえすればいつでもそこから抜け出すことができます。例えばわたしたちが「子供が大人になる」という命題を述べるとき、この命題の文字通りの意味に余り囚われないように努めてみましょう。すると、わたしたちが「子供」という主語を口にするとき、「大人」という補語はまだこの主語に当て嵌まっておらず、またわたしたちが「大人」という補語を口にするとき、それは最早「子供」という主語には当て嵌まらない、ということに気付かされる筈です。幼年期から壮年期への移行という実在はこのようにわたしたちの指の間から零れ落ち、わたしたちの手には「子供」と「大人」という想像上の停止しか残りません。ゼノンによれば、飛ぶ矢はその軌道のすべての点に存在しますが、わたしたちもゼノンに倣って、「子供が大人になる」という言い方どころか、「子供」と「大人」という停止の一方は他方である(子供は大人であり、大人は子供である)、という言い方さえ危うくしかねないところです。もし言語が実在的なものを象っているならば、わたしたちは「子供が大人になる」とは言わず、「子供から大人への生成がある」という風に表現するでしょう。「子供が大人になる」という第一の命題における「なる」という動詞は特定の意味を持っておらず、「大人」という状態を「子供」という主語の属性にする際に陥る不条理を覆い隠す役割を果たしているに過ぎません。「なる」というこの動詞は、映画フィルムの常に同一の運動、映写機の中に隠されている運動とほぼ同じ働き、すなわち継起するイメージを次々に積み重ね、実在的な対象の運動を模倣する、という働きをしています。一方、「子供から大人への生成がある」という第二の命題では、「なる」という動詞は「生成」という主語に変わり、最前面に出てきます。それは実在そのものを表しています。この場合、幼年期と壮年期は最早潜在的な停止、精神に与えられた単なるイメージとしての意味しか持ちません。この第二の命題において主役を務めているのは客観的な運動そのものであって、運動の映画的な模倣物ではありません。とは言え、わたしたちの言語の習慣に合致しているのは第一の命題の方です。第二の命題のような表現が人間精神に採用されるためには、思考の映画的メカニズムから抜け出さなければならないでしょう。

運動の問題が引き起こす理論上の不条理を一挙に解決するためには、映画的メカニズムを完全に取り除かなければなりません。映画的メカニズムによって諸々の状態から移行を作り出そうとすると、あらゆるものが曖昧になり、あらゆるものに矛盾が生じます。逆に移行のうちに身を置き、思考によって移行の横断面を作りつつその連続性から諸々の状態を区別するならば、曖昧さはたちどころに消え、矛盾も解消します。というのも、移行のうちには一連の状態以上のもの、つまり一連の可能的な生成の切断面以上のものがあり、運動のうちには一連の位置以上のもの、つまり一連の可能的な停止以上のものがあるからです。ただし状態から出発する第一の観点は人間精神の方法に合致しているのに対して、移行から出発する第二の観点は精神が下った知的習慣の坂を一から登ることを要求します。生まれたばかりの哲学が、そのような努力を厭い、無意識に回避したとしても驚く必要があるでしょうか。古代ギリシア人は自然を信頼し、自然の傾向に従う精神を、そしてとりわけ、思考を自然に外在化してくれる言語を信頼していました。彼らは、事物の流れに対して思考と言語が取った態度に間違いがあると考えるよりも、寧ろ事物の流れの方が間違っていると考えることを好んだのです。

●プラトンとアリストテレス

エレア派の哲学者達の思想とは、まさにそのような(事物の流れが間違っているという)ものです。彼らは、生成が思考の習慣に逆らい、言語の枠にうまく収まらないことから、大胆にもそれを非実在的なものと宣言し、空間的な運動も変化一般も全くの錯覚に過ぎない、と断じて憚りませんでした。彼らのうちの或る人は、前提は変えずに結論の過激さだけを緩和して、こう主張しました。確かに実在は変化する。が、本来それは変化すべきではないのだ、と。また別の人は次のように主張しました。経験はわれわれを生成に直面させるが、生成は感覚的な実在に過ぎない。それに対して叡智によってのみ捉えられる実在、すなわちあるべき実在は、生成という実在より実在的で、そのような実在的な実在は変化しない、と。いずれにしても、彼らの主張に従えば、質における生成、進化における生成、ひろがりにおける生成の奥に、精神は、変化に抗うもの、すなわち定義可能な質を、形相もしくは本質を、或いは目的を探さなければなりません。古代ギリシア時代を通じて発展した哲学、すなわち「形相」の哲学の根本原理、ギリシア語により近い言葉を用いて言えばイデアの哲学の根本原理とはこのようなものでした。

プラトンはイデアという言葉の代わりにエイドス(アリストテレスの哲学では形相という意味)という言葉を用いることもありましたが、エイドスという語には、実際三つの意味があります。一つは性質という意味であり、もう一つは形式もしくは本質という意味であり、もう一つは遂行されつつある行為の目的もしくは意図、具体的には前もって頭の中で思い描かれた当該行為の素描という意味です。この三つの観点はそれぞれ形容詞、名詞、動詞の観点を表しており、語の本質的な三つのカテゴリーに対応しています。先に述べたことに当て嵌めて考えると、わたしたちはこのエイドスという語を「外観」、或いは寧ろ「瞬間」と訳すことができるでしょうし、また実際にそう訳すべきでしょう。というのも、エイドスは事物の不安定性を瞬間的に捉えた安定的外観だからです。性質は生成の一瞬間であり、形態は進化の一瞬間です。また本質は平均的形態であって、この平均的形態の上方或いは下方に、平均的形態のバリエーションとして他の諸形態が段階的に並んでいます。そして最後に、意図は遂行されつつある行為に着想を与え、それを鼓舞します。先ほど述べたように、それは行為を遂行する前にその先回りをして得た当該行為の素描に他なりません。したがって事物をイデアに還元することは、生成をその主要な瞬間に分解することを意味します。もっとも古代ギリシアの哲学ではそれらの各瞬間は時間の法則を免れており、言わば永遠のうちに取り込まれるのですが。以上のことからもわかるように、実在の分析に知性の映画的メカニズムを適用するとき、わたしたちは自ずとイデアの哲学に辿り着きます。

ところで、流動する実在の根底に不動のイデアが据えられるや否や、そこから必然的に、自然学や宇宙論の全体のみならず神学の全体までもが生まれてきます。この点に注目してみましょう。わたしたちは古代ギリシア人の哲学のように複雑で広汎にわたる哲学を、わずか数ページのうちに要約できるとは思いません。一方で、折角知性の映画的メカニズムを明らかにしたのですから、このメカニズムの働きがどのような実在の表象に辿り着くのかを示すのは重要なことだと考えます。そして思うに、古代ギリシア哲学において見出される表象こそまさに映画的メカニズムの働きが辿り着く表象なのです。プラトンからアリストテレスを経て(また幾分かはストア派の哲学者達を経て)プロティノスに至るまで発展していった学説には、大局的に見て偶然的なものや偶発的なもの、哲学者の空想と看做さなければならないものは何もありません。普遍的な生成の流れから切れ切れに取り出されたイメージを通して生成を見るとき、体系を築くことに血道を上げている知性は生成について一つのヴィジョンを獲得しますが、古代ギリシアの学説が大雑把に描いているのはそうした種類のヴィジョンです。その意味で、わたしたちは今日なおギリシア人のようなやり方で哲学している、と言ってもあながち間違いではありません。思考の映画的本能をどれだけ信頼するかに正確に応じて、わたしたちはギリシア人が達した一般的な結論のあれこれを学ぶまでもなく再発見することになるでしょう。

(つづく)

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