いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(13) 「神を信じること」

2013年10月04日 | 聖書からのメッセージ

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マルコによる福音書11 章20 節から26節までを朗読。

20 節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」とあります。この記事は、イエス様がエルサレムの神殿で祈る為に出かける途中の出来事です。いつも、ベタニヤ村のマルタ・マリヤたちの家に宿泊するのが慣例だった様です。この時も朝、ベタニヤを出まして、数キロ先のエルサレムの町へ、出かけました。その前日、同じ道を進んでいた時、イエス様はお腹がすいたのです。見るとイチジクの木がありました。

葉が茂ってイチジクの実がありそうな感じがします。それに近づいて見ましたが、実が付いてなかった。その季節ではなかったとあります。イエス様は、まだ実がならない季節なのに、イチジクの実を食べようと求められたのですが、実が付いてなかったので、何時までもこの木に実が実らないようにと、命じました。こんなもの枯れてしまえということです。弟子たちは、それを気にも留めませんでした。何を言っているかと思ったかもしれません。その日は、そのままエルサレムに行って、またベタニヤに戻って、その翌日のことです。

20 節に「朝はやく道をとおっていると」とあります。その日も、朝早くベタニヤから、弟子たちと共にエルサレムを目指して歩んでいました。すると、昨日の朝イエス様が呪ったイチジクの木が、ものの見事に枯れてしまっていたのです。ペテロはそれを見てびっくりして、21 節に「そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、『先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています』」。この時に、ペテロは「思い出して」とあります。イエス様が言ったことも忘れていましたが、ハッと見ると、昨日まで青々と茂っていた木が、枯れているのです。あまりの変化の大きさに、ペテロは思い出したのです。そう言えば、昨日イエス様が、「もう二度とこの木から実が実らない様に、枯れてしまえ!」と言われた。そのことを思い出しまして、「先生、枯れていますよ」と言ったのです。

22 節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。ペテロの言ったことに対して、イエス様が答えているのですが、どうも答えになっているとは思えません。「神を信じなさい」、これは実に分かりやすい言葉であると同時に、漠然としている。「神を信じなさい」と言われると、「そうか」と分かったような気になります。これはオールマイティな言葉ですね。

私は、若い時によく父と議論をしたことがあります。ああではないか、こうではないかと議論をしかけます。そうすると、大抵先に父が、「全て神様はご存知だから…、神様は知っていらっしゃるよ」と言う。すぐに神様を持ち出すわけです。すると、こちらは、そのあと何も言えなくなるのです。次に議論する時は、こっちが先に神様を出してやろうと思って、構えてしゃべるのですが、上手い具合に、ある瞬間、パッと父から、「お前がそんなことを言ったって、神様はどんなことで聖書からのメッセージ(13)「神を信じること」2もおできになるのだ」と言われる。「負けた」と思うのです。皆さんでも、ご夫婦で喧嘩なさる時は、神様を先に出した方が勝ちですから、「あなたがそんなことを言っても、神様がみんなご存知よ」と言ってやると、相手は二の句が継げなくなります。

だから、イエス様に、「先生、凄いですね、イチジクが枯れていますよ。イエス様があんなことを言ったばかりに、枯れてしまいました」と言ったところ、「神を信じなさい」と言われ、「えッ!」と、これ以上、ペテロは疑問の挟みようが無い。では、納得したかと言うと、恐らく、そうじゃなかったと思います。全部飲み込んだのです。私が父から言われた様に、イエス様から「神を信じなさい」と言われたら、ペテロはいろいろと聞きたいことが、全部消えてしまう。だからといって、ペテロはこの御言葉を聞いて、「そうか」と納得したわけではなかったでしょう。

この「神を信じなさい」というのはどういうことでしょうか。イチジクの木が一言で枯れてしまった。不思議な出来事だと、人は思います。しかし、イエス様が「神を信じなさい」というのは、「神様は、どんなことでもおできになるではないか」ということです。私たちが、神様を信じるというのは、神様が全てのことを、力ある手に握って、導いておられるのだと信じ、神様の力が自分をも生かしていると信じる。確信して、そこに自分を置くことではないでしょうか。「神を信じなさい」という言葉の意味は、他にもあると思いますけれど、今、私が教えられるのはそのことです。

その先に「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」。言われている事柄は、そうなるかどうかは分からないにしても、神様を信じて、この山に移れと言えば、それが海に移っていく。こんな素晴しいことがもし起こるのだったら、邪魔になる時には、あれはこっちにやって、これはこっちに移してと、家の中でも、山が動くくらいなら、箪笥の一つくらい…、今日は部屋の模様替えをしたいからと、「この箪笥よ、あっちへ移れ」とか、「テレビは、こっちの隅に」と、テレビドラマの「魔女」のように、鼻をピクピクッと動かすと、物がピュッ、ピュッと動いて行くという、そんな風な感じがしますね。ところが、イエス様がおっしゃっているのは、山が海の中に移るとか、そういうことをせよというのではない。これは確かです。それじゃ、イエス様がここで語っていることは何でしょうか。神様はできない事がない方であるということです。神様はどんなことでも成し得る方です。山が海の中に移ることは、人間の想像を超えた、考えもできない様な出来事です。しかし、神様ならできないことはない。

と聞くと、「そうか。何でも神様はして下さるのだ」と思ってしまう。ここが問3題なのです。神様はどんなことでもおできになると聞くと、自分の都合の良い様に解釈をする。自分の都合の良い様に、「じゃ、これはきっとこうなるに違いない。お祈りしていたら、神様は必ずこうして下さるに違いない」と、私どもは思い込みます。もちろん、そのようにしてくださることもあります。しかし、イエス様は、神様が全てのことを支配していらっしゃる、神様がなさるならば必ず成るのだ、と語っているのです。神様は私たちの言う通りにして下さると信じるのではないです。「神様を信じなさい」というと、神様は私たちの願った様に、叶った様にして下さるに違いないと信じる。何処にもそうは書いてないのです。「海の中に入れ」と言ったことは、必ずなると心に疑わないで信じるならその通りになると書いてあるじゃないか、「その通りに成る」、だから、山に「移れ」と言えば、その通りに成るのだから、私のあれがこうなって欲しい、これがこうなって欲しいと思うことを願ったら、神様は叶えて下さるということではないか、と言われるかもしれません。しかし、ここで言われていることは、山が海の中に移るということすらも、神様がどんなことでもおできになると信じて、疑わないでいるならば、その通りに成ります。その通りに成るというのは、神様がなさるのだよということです。私たちの言う通りに聞いて下さると言っているのではなくて、神様が、一つ一つのことを、力をもってそれを行って下さるのだ。それは、取りも直さず、今こうして生きている私たちが、健康を与えられ、食べるものを与えられ、住む場所が与えられて、寒さをしのぐことができ、生活が成り立っているのは、神様がそれをして下さっているからではないか。これを信じるのが、神様を信じることです。

23 節に、「心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」。神様が「よし」とおっしゃって、なさるのだったら、その通りに成る。これは至極当然のことです。神様が、私たちに命を与えて、地上に生きる者として下さった。その為に生活に必要なものを全て満たして下さいました。それは神様の「よし」とするところ、御心だからです。神様が力ある手をもって、私たちを支え、生きる者として下さっていると信じる。これが「神を信じる」ということです。自分が、神様の力ある手に、全能者の手に握られて、今日も生かされていることを信じる、これが「神を信じなさい」ということです。

イチジクの木が枯れてしまった。思いもかけないことが起こった。そう、その通りですよ。神様がなさるのだから、そんなことがありえないということが言えない。どんなことでも有り得る。山が海に移ることだってあるだろう。あるいは、海が山になってしまうこともあるだろう。神様にはできないことはないのだから、その通りに成ると信じる、23 節の「その通りに成る」というのは、神様がなさるという意味です。神様がそれを行っている。神様は山を海に移すことだってできるし、また、一夜にして、イチジクの木を枯れさせることもおできになる。その4ような神様がいらっしゃることを信じる。

だから、今読みました23 節以下に「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」。これは、分かり易く言うと、神様はどんなことでもできるのです、神様のできないことはありませんと言っているのです。イエス様が、一人のお金持ちの人が永遠の命を求めてきた時に、「帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言いました(マルコ10:21)。その人は「顔を曇らせて、悲しみながら立ち去った」とあります。イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんとむずかしいしいことであろう」と言われた。弟子たちが、「それでは、だれが救われることができるのだろ」と言った時に、イエス様は、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」と。人にはできない、しかし、神様はどんなことでもおできになる。だからと言って神様は、私たちの言うことを何でも聞いて下さるという意味ではない。全能者でいらっしゃる、どんなことでもおできになる方に、あなたも握られているのではないですか。あなたも、その全能者によって、有らしめられたと言いますか、そこに存在しているのではないか。それを信じていらっしゃい。これはイエス様がここで語っていることです。

24 節に「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。その通りです。神様はできないことがない方ですから、そのことを信じて祈る時、神様はそれをちゃんと知っていて下さる。そして、私たちの思いに叶い、願いを越えた大きなことをして下さる。決して、私たちの言う通り、願う通りではないに違いない。もちろん、願い通りに成りましたということもあります。神様ですから、どんなことでも出来ます。しかし、神様は、初めから終わりまで、私たちの全てを知り尽くして下さって、何が必要で、何が大切か、何をしたらいいか、また、私たちが、これがいいと求めるものも知っていて、尚かつ、それに倍して、もっと素晴しいことを答えて下さっているのです。神を信じて生きるというのは、そこです。

だから、お祈りをしても、その通りに成るとか成らないとかいうことが問題ではない。それを議論すること自体が、神様を信じていない。神様を信じるというのは、神様の手の中にあって、今日も生かされ、今この問題があり、この悩みがあり、この病の中に神様が私を置いているのだと、信じることです。

自分をこちら側に置いて、神様と相対して、向かい合っている様に思っているのは大きな間違いです。それほど私たちは偉いものじゃありません。神様と私たちは向かい合ってはいないのです。私たちは、神様の手の中に握られているのです。だからパウロは、私たちは全て神の5中に生き、動き、存在していると、アテネの町で語っています。神様の中に取り込まれて、しっかり握られているのですが、そこから自分を引き離して、「神様と私」という風に、まるで自分の外側に神様がいらっしゃるかの様に思ってしまう、そこが問題なのです。だから、「神を信じなさい」と、イエス様が言われる。私が神様に握られ、毎日の一つ一つの生活を全能の力をもって導いていらっしゃる。

イザヤ書45 章5 節から7 節までを朗読。

この7 節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。神様は、光を造ることもできれば、暗きを、闇を造ることもできる、また、繁栄を造ることもできれば、またわざわいをも造られる。私たちの人生の中に、日々の生活の中に、光があり闇があり、繁栄が有りまた災いがあるのは何故か。それは、私たちが神様の手に握られているからに他ならない。私たちは自分の力で何かできると思っているところに大きな間違いがある。イエス様は「人にはできない」と言うのです。本当にその通りで、私たちは何もできないのです。私たちができるのは、神様の手にすがっていく以外に無い。神様が私たちの主となって下さる。主というのは、中心とか、その人が全ての責任者であるということです。事の中心にある方が神様で、「わたしはアルパであり、オメガである」と。言い換えると、全てのことの始まりであり、終わりである方、この方が、私たちを生かし、繁栄を与え、災いを与え、光を与え、暗きを与える。

だから、この地上のどれをとっても、神様が知らない内に起こったことはないのです。知らない内に子供が事件を起こしたり、何か事故に遭ったりして、「私が寝ている内にそんなことになって、何時帰って来たか分かりませんでした。知らなかった、そんなことがあったのですか」と、親ですら分からないことは幾らでもあります。でも、神様の知らない内に、病気になった。神様は知らないのに、家が火事になった。神様が知らない内に、交通事故に遭いました。「神様、あなたは何処へ行っていたのですか、眠っていたのではありませんか」「いや、出雲の国に行っていました」と、そんな神様ではありません。交通事故であろうと、悲しい出来事であろうと、「事を成して、これを遂げる」と言われます。

イチジクの木を青々とするのも、それを枯らすのも神様、山を海の中に移すことができるのも神様は、海から引き上げることもできるでしょう。全てのことの中に、主が立っていることを信じる。神様がこのことを起こしているのだと信じていくこと、これが「神を信じなさい」ということです。ペテロが「先生、御覧なさい、昨日呪われたイチジクが枯れていますよ」と言ったとき、イエス様は「私の魔術や力ではない。神を信じなさい」とおっしゃった。それは、青々と茂らせている神様が、それを枯らすことができる。その神様の手の中に、私たちが今日も生きているではないか。

イエス様が言わんとしたことは、全てのことが神様の手の中に握られて、神様のご計画の下に、一つ一つ進んでいるではないか。だから、思い煩わなくて良いのだよ。お祈りしたことは、何でも叶えられるのだよ。その通りです。神様の手の中に自分を置いていけば、私たちの思いと神様の思いが一つになります。「神を信じなさい」、この短い一言ですが、この神を信じる者となりたいと思います。何でこんなことに成ったのだろう、どうして?とすぐそう言って、私の予定になかったのに、と思います。私が!と言う。私が…と来るから、神様はスーッと手を引かれるのです。そこで、ああ、そうじゃない。神様は、光を造ることも、暗きを創造することもできる。全てを導いていらっしゃるのだと信じることが大切です。

ですから、もう一つ、イザヤ書43 章13 節「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。ここに「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と言われます。「主である」と、宣言しています。わたしが全てのことの責任者だ。「わが手から救い出しうる者はない」、神様の手を逃れることはできない。神様の御支配からはずれているものは何一つない。その通りです。サタンも神様の手の中にあります。私たちも神様の手の中にあります。「わが手から救い出しうる者はない」。それなのに、私どもは自分で出来るかのように思ったり、自分がしたかの様に思う。だから、上手く行ったら有頂天になり、天狗になる。上手く行かなかったらしょげ返って、自分を責めて、「私が悪かった、私が悪かった」と言うでしょう。悪かったと言うならば、悪くない様に自分でしたらどうだ!できないくせに、「私が悪かった」。そこが問題です。神様は、「わたしが主だ。今よりわたしは主だ」とおっしゃっているのに、「いいえ、私が悪かった」と。これは、失礼千万ですよ。だから、「全ての道で主を認めよ」(箴言3:6)とあります様に、絶えず、神様、あなたが主ですから、あなたがこのことをしていらっしゃる、あなたがこれを導いていらっしゃることですと、いつも、神様の前に自分を置いていくことを努めようではありませんか。これが全てです。

有頂天になることもない、あるいは天狗になることも、自慢することもいりません。それは、神様がなさったことだから、感謝して受ければいいことです。失敗し、あるいは、とんでもない思いがけないことに成ったら、何も自分を責める必要はないのです。私は一生懸命にしたのだが、上手くいかなかった。それは、私が悪かったではなくて、神様がして下さったのです。どんなことでも、神様の所に持ってきたらいいですよ。偉そうに私がやりますと言わない。私じゃない、神様がさせて下さるから、しましょうと、言えばいいのです。それが上手く行かなかったら、神様、どうぞよろしくと。それなら、神様はちゃんと修復をして下さいます。いや、それどころか、その失敗7が、実は更なる大きな祝福の源になるのです。あの時あんなことに成らなきゃ良かったとか、この時こんなことに成らなきゃと、思い煩う方がいらっしゃる。ところが、何年か経って、後になって考えると、あの失敗があって良かった。あれが無かったら、このことは起こらなかった。あの嫌な人がいなかったら、このことはこう成らなかったなど、そのようなことは幾らでもあります。私はそういうことに出会う時、つくづく思います。「やはり、これは神様がしていらっしゃる。人ではないなぁ。人の判断で、良かった、悪かったと偉そうなことを言っていた、申し訳ないなぁ」と思います。

だから、皆さん、なにか事が起こった時に、良いとか悪いとか、あまり言わない方がいいですよ。後で恥をかきますから。何でも感謝していたら一番いいですよ。何でも感謝していたら、後になって、あの人先見の明がある、あの時感謝していたのは、こうなることを知っていたに違いないと。「子供がこんなに成りました。仕事を無くしましたが、感謝しています」「あぁ、よかったですね」と感謝していれば、思いがけない道を神様が開かれる。子供が中高生くらいになって、親に反抗し、いろいろと問題を起こす様になってくる。その子が落ち着くまで、がたがたと嵐の中を通ります。通っている時は、お母さんたちには分からない。両親はこのまま、一生涯こんな状態が続くと思い込んでしまう。そして失望し落胆するのですが、そんなことは決してないですね。やがて、それを通り越した時、神様の方が子供たちを一人前にしてくださる。ところが、その渦中にある時には、親は自分を責めます。あの時あんなことをしなければ良かった、この時こんなことをしなきゃ良かったと責めます。じゃ、どうしたら良かったのかと言われると、無いのです。その時その時、親は精一杯良かれかしと思って、全力を尽くしてしたことが、裏目に出ると言うか、思いがけないことに変わってしまう。でも、それは主がなさることです。神様の手の中にあって、それが起こっていることを信じるのです。

神様は青いイチジクの木を枯らすことができる。やがて、枯れたイチジクの木を青々と実らせることもおできになる方です。神様の手に、絶えず自分を委ね、置いていく。これが「神を信じなさい」ということに他なりません。神様が全てのことの主でいらっしゃって、今、読みました13 節に「わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。神様が、こうするとおっしゃったら、人がどんなに努力をしても、どんなに知恵を働かしても、それを止めることはできません。神様が、お前の子供は少し不良にするとおっしゃったら、お母さんが徹夜して頑張っても防ぐことはできません。神様が、今この子を不良にして下さるなら、その内、良い子にもして下さると感謝して、「うちの子が不良になりました、感謝です」と言って、感謝会をしていたら、その内、神様はまた、良くして下さいます。後になって周囲の方々が、「あなた凄いことね、この子がこうなると信じていたの」「いや、神様を信じていた」。これが私どもの信仰です。

世の中の人はそれが分からないから、人の責任だとか、あの人が悪いとか、政治が悪いとか、どうとかこうとか、そんなことじゃないですね。神様を信じていく時、神様の手に自分自身を置く時、病気になったら感謝、治ったら感謝、何が有っても感謝。だから、すべてのことに感謝せよとおっしゃるのは、無理なことじゃないのです。しかし、神を信じなければ、それはできません。神を信じていく時、何も思い煩わなくてよい。死んだらどうする。死んだら天国が待っているわけですから、これまた感謝です。そこまで神様を信じて、神様が全能者であって、その手に一つ一つ事が導かれている。そして、「得たりと信ぜよ」とおっしゃいます。その通りに成ったと信じる。神様の手の中に、自分を置いていたら大丈夫、完全にそうなります。神様が一番良い事をして下さいますと信じ続ける、ここが信仰の醍醐味です。今もし問題があるなら、不安があるならば、神様を信じて、私は心配しません、神様、あなたが握っていて下さいます。あなたは、光を造り、闇を造り、暗きを造り、繁栄を、また災いを創造する、どんなことでもできないことのない方です。さぁ、今度は何をして下さいますか。高みの見物ではありませんが、神様がどういう風に事を進められるか、楽しみに、主を待ち望んで生きる、これが信仰生活です。

マルコによる福音書11 章22 節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。これは正に、今申し上げた様に、神様は全能者であって、初めであり終わりであり、主となって下さる方です。その方が、「今ここに居る」と信じる。神様の手の中に生かされていることを信じなければ、キリストが私の内にあって、生きていると信じることができません。私のことは私がします、でも子供のことは、神様よろしくとか、夫のことは神様よろしく。このことは私がしますが、この病気についてはちょっと手に負えませんから、神様一つよろしく…。そんな風に、細切れにして、一部分だけを信じようとするから失敗するのです。全能者でいらっしゃる神を、丸ごと信じないからです。神を信じるというのは、例外なく、頭から足の先まで、全部を神様のものとして信じるのです。良いことも、嫌なことも、辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、楽しいことも、全て、主が備えて下さいます。だったら、何一つ失敗ということはない。

一月にハワイ旅行をさせてもらったのですが、あの寒い時に、ハワイでおよぎました。1 月27 日に海で泳いだ経験は我が人生で初めてです。ところが、その旅行たるや、珍道中もいいところです。失敗もありました。ところが、帰ってきて今考えると、どれもこれも楽しかったのです。神様が備えて下さっていることは、そうなのだと思います。これが失敗だ、これで人生は半分失われた、生きている意味がないと思う様な出来事や事柄に出会っても、神様が備えて下さったことと信じて、感謝している時、「万事が益となる」のです。今振り返ってみて、神様は素晴らしい旅をさせて下さったと感謝しています。失敗したことも、あるいはおかしなことも、いろんなことがありますが、しかし、それもこれも主が備えて下さった旅行というパックの中の、一コマですから、それが欠けたら、面白くない。漫画でもそうでしょう。4コマ漫画のうち、一コマ抜いたら、何の漫画か、笑えなくなります。面白くない。

人生もそうです。生涯を、やがて終わる時に振り返ってみて、あの時代はなかったら良かった、これは私の人生から消してしまいたいと思って、消して御覧なさい。自分の人生が貧弱になります。苦しかったこと、涙を流したこと、辛かったこと、嬉しかったこと、楽しかったこと、全てがワンパッケージ、一つの包みに入っている。神様の業、神様の不思議な御計画がそこにあることを見る。それは、素晴らしい体験です。

今、読みいたしました22 節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。どうぞ皆さん、振り返ってみて、あの事が今も悔やまれるとか、20 年前、50 年前、子供の時の失敗とか、そんなものは今更どうにも成らない。そのような思いをすべて神様に捧げて、「神様、私がまだあなたを知らない時に、あんな生活をしていたのも、神様、あなたが全てご存知だったのですね。神様の手に今日も握られているのですね。神様、あなたが一つ一つを備えておられますから感謝です」と、神様の手に全てを捧げて、主が持ち運んで下さる所に、喜んで従って行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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