いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(233)「希望による忍耐」

2014年06月18日 | 聖書からのメッセージ

 イザヤ書30章15節から18節までを朗読。

 

 15節「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。

 

 この御言葉は耳にタコができるぐらいに何度となくお聞きになった言葉であると思いますが、何度でも素晴らしい慰めと望みと力を与えてくれます。信仰とは何かということをいろいろと言われますが、このお言葉を通して教えられることは、信仰は忍耐だということです。忍耐することが信仰なのです。信仰と忍耐とはつながらないように思いやすい。信仰を持って神様に願い求めれば右から左にスパッと事が進んでいくのではないかと期待があるからです。お祈りしたら神様は聞いてくださるに違いない。道なき所に道を設けてくださる神様であると。それは間違いなくそのとおりです。ただ、信仰でもう一つ大切なことは「待つ」ことです。そうであれば、信仰しなくてもいいではないか、待っていればいいのだからと思いますが、「待つ」は「待つ」でも、ただ闇雲に我慢、我慢して忍び通すと言いますか、いわゆる忍耐することではないのです。

 

 ヘブル人への手紙10章35,36節を朗読。

 

 35節「自分の持っている確信を放棄してはいけない」。まず確信を持つこと。神様を信じることです。神様は私たちを造り、生かし、目には見えませんけれども、今も私たちを力ある御手をもって堅く支えてくださっている。生きる命を与えて、私たちに食べるもの、着るもの、住む場所のすべてを神様は備えてくださっていることを信じる。神を信じるのです。神様を信頼し、神様を確信していくとき、それには「大きな報いが伴っている」とあります。必ず信頼する者に神様が報いてくださる。これが私たちの信仰です。世間でも“鰯(いわし)の頭も信心から”と、何でもいいから、とにかく信じれば道が開かれるとか、何かいい事が起こると言いますが、私たちが信じることは、もっと明確な事柄です。はっきりしています。それは神様がいらっしゃること、その神様は私たちに答えてくださる方であることです。確信を持っていくときに必ずそれに報いてくださる。神様を信じて、神様が約束してくださった事を堅く信じていくときに何が必要か。36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」とあります。どうなるか分からないけれども、我慢、我慢、そのうち何かいい事が起こるに違いないという、当てずっぽうと言いますか、闇雲に訳の分からないものを望んで我慢するのではない。私たちの日々の生活の一つ一つを神様が導いてくださっていると信じる。また、神様は聖書に約束されたように、私たちをひとり子を賜うほどに大きな愛をもって愛してくださって、今も私に目を留めてくださって、私のことを知り尽くしている。そのことを確信していくのです。できないことのない御方が、一つ一つことを備えてくださるのです。これを信じて待つ、それが忍耐です。ですから、私たちが信仰を持って生きるとき、事が具体的に動かなくても、変化がなくても、あるいは思わない、願わない方向へ事が進んで行きましょうとも、決して失望することはいらない。なぜなら、神様は必ずその事に報いてくださる方だからです。だから、36節に言われているように「あなたがたに必要なのは、忍耐である」。信仰は忍耐であると先ほど申し上げましたが、ただ我慢するのではない。神様は私どもに約束したことを必ず実行してくださると信じていく。そして、与えられた所、置かれた場所、問題や事柄がある中で、ただ神様を信じ続けていく。これが私たちの忍耐です。だから、よく世間で言うような、道徳的な意味での忍耐、とにかく我慢しなさいとか、そのうちきっと良い事があるよ、ひょっとしたら何かうまい話が舞い込んでくるかもしれないから、とにかく我慢しておこう。そのような当てずっぽうなことではないことを知っておきたいと思います。祈って神様を信じて待つのです。私たちには神様がどのように備えてくださるか分かりません。けれども、神様はできないことがないと信じて待ち望む、これが信仰です。

 ヤコブの手紙1章2節から4節までを朗読。

 

 ここには「いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」と、到底私たちが考えられないような言葉が記されていますが、そのあとに「信仰がためされる」とあります。そうですね、自分は信仰があると思います。調子の良いとき、事柄がうまくいっているときは、「感謝」「感謝」です。「神様はこんなにしてくださいました」と、いい格好ができますが、いったん何か思い掛けない事が起こったり、望まないこと、考えもしないことになる。考えもしない良いことだったらそれは感謝しますが、試練というのですから良いことではない。苦しいこと、つらいことに当たると、「あら、どうしよう」とうろたえます。

 

 先だっても、一人の方が「胸が痛い」ので病院に行ってみたら、「詳しい検査をしてくれ」と言われた。それでびっくりして落ち込んでしまった。その方が電話で「今、先生、私はこんな状態です」と言われる。お祈りしましょうと言って、お祈りしていました。その方は信仰暦何十年という長い方ですが、やはり自分の身にひょっとしたら死ぬかという問題を抱え込んだときに、もう眠れなくなってしまった。それで検査を受ける日を聞いてお祈りをしていましたら、何のことはなかったのです。結局異常はないという話になって、大変喜びました。私もそれを聞いて安心しました。何事もない普段は「神様、こんなに恵んでくださって、健康を与えられて感謝です」と言いますが、思い掛けない事態に当たったら「どうするか!」と揺れます。信仰が試されるのです。でも、これは幸いなことです。と言うのは、そうやって自分の信仰をもう一度振り返る。自分はいったい何を信じて生きているのだろうか、私のいちばんのよりどころはいったい何なのだろうかと。そこがはっきりしてくるのは試練に遭うときです。ですから、試錬に遭ったとき、病気であるとか、家族の問題であるとか、人間関係の問題とかいう具体的な問題はありますが、何よりも大切なのはその事が問い掛けてくるものを聞くことです。「お前はいったい何を信じているのか?」ということです。それが問われているのです。ですから、何かつらい事に当たったとき、早く何とか逃げ出そうと考えないで、いったい私の信仰はどうなっているのだろうかと、しっかり見直すのです。もし不十分なことがあるならば、欠けた所があるのだったら、それを修復する。作り直し、建て直していかなければ、いよいよというときに困ります。

 

私たち人間は、必ず死にます。これはもう分かっていますね。ところが、まだ先だと思って生きている。そして健康であることが幸いだと思い込んでいる。ところが、決してそうではありません。必ず終わるときがきますから、そのとき死を乗り越えて、その先にどういう希望を持っているのかが問われる。これは人生最大の問題だと思います。だから、病気になって「死ぬかもしれない。早く何とかこれを癒していただきたい、治していただきたい。神様、早くこの病気を取り除いてください」と、私たちは治ることに心が向きますが、必ずしもそれがベストといいますか、一番良い事とは限りません。それよりももっと大切なことは、生きるにしても死ぬにしても、自分はいったい誰のものであって、どこに自分の平安を置いているのか?どこから安心を得ることができるか。健康であること、病気をしないことはうれしいことですが、健康であることが自分の望みになっている限り、私たちはやがて必ず失望します。健康であろうと、病気であろうと、どちらの側に立っても安心だといえる場所はどこにあるか。それをはっきりさせるために、私たちはいろいろな試練の中を通されます。だから、いろいろなことに遭うとき、ただ早く何とか逃げよう逃げようと考えるのではなくて、その中で、自分はいったいどこに望みを置こうとしているのだろうか、何に私は頼ろうとしているのか、何が私の平安の源であるかを絶えず問いかけていただきたい。そして、心から生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。生きるにしても死ぬにしても私は主のものです。どんなことがあっても、神様、私はあなたのものですと、全く信頼しきって生きる。そうなるまで私たちは変えられたいと思います。だから、神様は私たちになおこの地上に命を与えて、恵みの時を残してくださって、いろいろなことを通して私たちに力を与え、しっかり覚悟ができるように整えてくださる。だから、3節に「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」とあります。忍耐とは耐え忍ぶことですが、この言葉はもう少し積極的です。「忍耐が生み出される」、いわゆる神様に期待する思いがいよいよ強くなっていくこと、これが忍耐です。神様に対して期待していく。そして、耐え忍んでいく、待ち望んでいく、これが忍耐であり信仰であります。

 

 イザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。まさにこれは私たちに求められている信仰であり、忍耐の内容です。私たちは我慢をすると言いますか、耐え忍ぶ。与えられたところで、主が事を起こし、事を動かしてくださる。その時をじっと待つ。待つは待つですが、どうやって待つかと言うと、ここに「あなたがたは立ち返って」とあります。「立ち返る」と言う以上、どこかへ行っていたのです。そもそもおるべき所にいるのだったら、帰って来いとは言わないでしょう。家にいる人に携帯電話で「帰っておいで」とは言わない。電話を掛けなければ分からないような大きな家なら別ですが、「今、コンビニに行っている」とか「スーパーに行っている」とき、「いつ帰ってくるの、早く帰って来なさい」と言うでしょう。だから、「立ち返って」と言われているのは、どこかから離れていることを言っているのです。では、何から離れているのでしょうか。神様からです。普段は神様から離れていると自覚していません。いや、それどころか、毎日神様と一緒だ、イエス様が私と共にいてくださる。そう思って生活をしている。ところが、気がつかないうちに、それが形だけになっている。心がそこに伴わない、思いがそこになくなる。お祈りもする、聖書も読む、礼拝も欠かさないけれども、心が空っぽになっている。そして、形だけになって神様から離れる。そういうときに事が起こるのです。悩みが起こります。神様が私たちを恵もうとしてその事を起こしてくださるのです。もう一度、おるべき場所、恵みの場所に立ち返るようにと呼びかけているのです。だから、何か事があったときには、まず、自分は神様に対してどういう姿勢で生きてきたのだろうか?そのことを問わなければならない。神様を信じるといって、どちらかというと医者を信じていたり、自分の持っている何かを信じていたり、家族であったり子供であったり、何かを頼りとしている。そして、心が神様から離れている。そういう状況にないかどうか、自分自身をよく見直してみるのです。そうするとよく分かる。何か問題が起こると、「自分は本当に神様を信じていなかったのではないか。この問題を通して、どう神様に信頼していくべきだろうか」と、そういうことを教えられます。神様はその中を通してちゃんと教えてくださる。

 

そのあとに「落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。神様にまず立ち返る。そして落ち着くとは何があっても動じない。うろうろしない。キョロキョロしないというか、じっと神様を見上げて動かない姿勢です。これが忍耐です。神様がそこからどういうふうに働いてくださるか、神様が必ず事を起こしてくださるに違いない。私が何とかしようとか、早く何とかしなければ手遅れになるとか、もちろんそのときいろいろな人々がいろいろなアドバイスをしてくれるに違いない。ご親切に「あなた、そんなことをしていていいの?お祈りばかりしていては駄目よ」と、「あれもしたらいいじゃないの」「これもしたら」「あそこもいいんじゃない。」今はまさに情報時代ですから、いろいろな情報が入ってきます。そうすると私どもは揺れます。心が騒ぎます。しかし、どんなことがあっても、「落ち着いているならば救われ」と約束されている。神様を信じて、神様がやってくださる「時」を待ち望んでいく。「穏やかにして信頼している」と。信頼しきって、しっかりと、そこで「穏やかに」、表面だけ穏やかそうにして腹の中は「ああなるやろうか」「どうなるやろうか」「ああなったらどうしようか」と心忙しくしていると、穏やかそうでも言葉の端々が厳しくなるし、人に当たります。とげがあります。それは信頼していない証拠です。家族に向かって何かとげとげしくなる。私もよくそういう失敗をするのです。家内が「あなた、何か心配なことでもあるんじゃないの」と「いや、ない!何もない!」、すると、「ちょっと最近おかしい」「何が!おかしくなんかない!」ととがってくる。「でも言葉がちょっときつい」「これはそもそもそういう性格や!」と言って逃げますが、図星です。「ああ、そうか」と思うことがあるのです。ただ正直になれない。だから、「穏やかにして信頼しているならば力を得る」と。そこから踏み出していく力を神様が与えてくださる。すべてのことで神様を待ち望んでいく。その一つには「時」を待つのです。神様の時があることを信じていくこと。どんなことでも、伝道の書にあるように「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(3:1)と「生るるに時があり、死ぬるに時があり」、何をするにしても、いちばんいいときがある。その結論として「神のなされることは皆その時にかなって美しい」。神様が備えられること、神様が始められた「時」が、人が考えるよりもいちばん幸いな「時」だというのです。これは本当にそうだと思います。自分で考えて、「これがいい時、早くこうしたほうがいい。次はこうしておこう」。せっかちにいろいろなことを決めますが、私たちが決めた時は案外とうまくいかない。たとえうまくいってもそのあとが続かない。必ず行き詰ります。そうではなくて、神様を信頼して、一つ一つの問題が解決する「時」を待ち続けていく。これが私たちにとって大切なことです。「そんなことをしていたらいつになるやら分からない。私の目の黒いうちに何とかならないと、私の生きている間に早く何とかしてもらいたい」と言われます。確かにそれは間に合わない、あと一ヶ月か二ヶ月か分からないのですから。そうではなくて神様が働いてくださる時を信じていく。神様は一つ一つ、まるで海の潮が満ちてくるように、あるいは潮が引いていくように、見ていると分かりませんが、過ぎてみると、なるほど、すごいことを神様はなさると思います。

 

 先日、10日ほどアメリカへ行ってきました。30年ちょっと振りなのです。その当時元気だった人たちは、高齢になりまして、当時50代の人は80代ですから老人ホームに入ったり、体が不自由になっておられたり、教会の中にもそういう方々がいらっしゃって、今浦島と言いますか、浦島太郎のような感じでした。でも2,3人の知っている方もいらっしゃって大変喜んでくれ、久しぶりに懐かしい思いがしました。今度の旅行で一つ知りたいと思っていたことがあります。それは、大学の教授をしていました、大変親しい友人夫妻のことです。同じ教会で交わりをもっていたのです。それからズーッと30年間、ご夫妻と大変親しくしておりました。時々、日本にも来られまして、来られると必ず私の所にも寄ってくださる。最近は退職をしました。先日、行きましたら、泊めてくださったのですが、そこはリタイヤメントホームという退職者だけの施設でした。つい一週間前に移ったばかりのところへ、私たちはお邪魔をしたのです。実は、その方には二人お子さんがいます。それ以外に、あと二人養子を迎えているのです。男の子と女の子の二人ですが、30年前、私どもがアメリカにいるときその養子になっていた男の子、クリスは11歳ぐらいでした。彼は白人と黒人との間に生まれて、ある事情があって彼らに養われることになった。もう一人、黒人の女の子を妹として、養子にしていました。男の子はあまり勉強が好きではない。30年前も、お父さんから宿題を見てもらいながら、勉強をしたくなくてたまらないという態度を示しておりましたから、「これから大変だな」と思っておりました。時折消息は聞いていたのですけれども、その子が今はどのようになっているのかを見たいという思いがありました。彼は高校へ進学しましたが、結局中途退学しました。それからいわゆる短期のフリーターのような形であれをしてみたり、これをしてみたり、親にとっては大変悩みの種です。恐らく皆さんがご自分の身を置き換えて考えていただいたら「いったい、この子はどうなるかしら」と心配になるでしょう。しかも血を分けた家族ではなくて養子ですから……。ところが、養父母のご両親はとても信仰深い方で、一度も悔やんだことがない。「今あの子はどこで何をしているのか分からない」という時もありましたが、いろいろな中を通って、やっと養父母の近くに住むようになりました。そして、十数年前に一つの仕事を見つけたのです。それはハウスクリーニングという仕事です。アメリカの住宅は全部じゅうたん敷きで、そのじゅうたんを洗う仕事なのです。建物の中に敷き詰めているじゅうたんに大きなクリーナーのようなもの、洗剤の入った水を吹きかけて、それで吸い取っていくのです。ある親方についてそういう仕事をしばらくやっていたのです。やっと自立して、自分の商売を始めた。いろいろな女性との交際もありましたが、やっと一人の女性と出会ったのです。一人の子供を持つ離婚した女性だった。そのことも養父母の両親にとってはちょっと頭の痛い話だった。その女性も大変気の毒な境遇の中で育って、身持ちが悪いところがある。私はあまり立ち入ったことを聞くのも失礼だなと思いましたが、ズーッといろいろな話を聞いていました。ご両親も心配はするけれども、神様が通しなさることがあるに違いない、そう言い続けておられました。今年訪ねましたら、その下に2人の子供が与えられて、3人の子供の親になっている。体格のいいフットボールの選手のような彼ですが、奥さんも一緒に来てお会いしました。話に聞いていて余程の人かなと思っていたら、なかなか素敵な女性です。よく見ていると、そのご両親は息子といろいろな問題はあったのですが、結婚した彼女、その子供を大変愛している。愛しているとは物のやり取りではない。彼らを信頼するのです。彼らを褒めるのです。彼のすることを認める。実に忍耐強い対応であったと思います。ところが、その結果、大変良い性格に変わりました。穏やかで、口下手です。一人で作業をしていますから、私どもに会いましても、ペラペラしゃべる人ではなくて、ニコッと笑って「ハイ!」とか「ハロー」とか、その程度しか言わない。それでいて私どもに対して大変気持ちが通じる。そういう優しさがあるのです。その優しさはどこからきたか。それは両親ですね。その両親が彼らを決して見捨てなかった。何があっても信じ続けていったのです。ご両親からその間のことをいろいろとお話を聞きました。そして今やっと穏やかに落ち着いて、生活ができるようになった。3人の子供、長男は彼にとっては連れ子ですから義理の関係ですが、父親とのとてもいい関係が出来上がっている。私はそれを見ながらその養父母、私の友人の夫妻がこの30数年の長いこと、どれほど忍耐をもって彼らを見守ってきたのだろうかと、そのことを思いました。神様を信頼しなければ、その忍耐を持つことができない。私どもが出掛ける日の朝、思い掛けなく彼がやって来ました。何のことはない、私どもに「さようなら」を言いに来たのです。しかし、そのような講釈はなしで、トランクを運んでくれたり、いろいろな後始末をしてくれました。また両親が私たちと一緒に移動しますから、留守をちゃんと始末をするために見届けに来ているのです。実にいい家族です。私はその姿を見て、忍耐とは信じ続けていくことだと改めて教えられました。神様に信頼していくことが私たちにはどれほど大切なことだろうか。アメリカの社会の中で信仰が何代も続いてきた家庭ですが、芯(しん)と言いますか、いちばん根深いところで底岩のように固い神様に対する信頼があることを教えられました。ともすると、私どもは信仰が浅いと言いますか、根がない。まるで石地に落ちた種のように芽は出しますが、何か事があるとスッと消えてしまうような信仰ではないだろうかと教えられます。信仰とは、ここにありますように「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。これ以外にない。私はそのご両親に「あなたがたのこれまでの忍耐を思うと大変感銘を受けた」と言いました。すると「和義、自分たちは何もしてないんだよ」と。「ただ神様がしてくださったんであって、私どもは何もしなかった。このように神様は素晴らしいことをしてくださった」。

 

穏やかに信頼して、神様の愛の中に自分を置いていく。そうするとき、その周囲の者にも愛を分け与えていくことができるし、いちばん身近な家族に対して本当に愛を注いでいくことができる。その友人のご夫妻の部屋に一枚の写真があります。それは自分の長男の家族、娘さんの家族、そして今申し上げた二人の養子の家族、みんなが集まってご両親の結婚50周年をお祝いしたときの写真を見て、こういう風に育っていくのか。いや、それは神様が育ててくださった。その背後にあるご両親の信仰と祈りと支えがどんなに大きかったかなと思うのです。その親の生き方を見て娘さん夫婦には子供がいないのですが、そこには3人の養子が迎えられています。一人は韓国、一人は中国、一人はネパールからです。その3人を彼らは自分の子供として同じように育てている。私は心の広さと言いますか、その信仰の根強さと言いますか、本当に徹底して神様に信頼して揺るがない忍耐というものを見せてもらって大変感銘を受けたのです。

 

15節にありますように「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。どうぞ、この神様を信頼して、忍耐して主に従っていきたい。与えられたところで神様のご愛を信じて歩みたいと思う。そのあとに「あなたがたはこの事を好まなかった」とあります。つい私どもは焦る、慌てる。そうではない、人生は、子供の成長はもっともっと時間が掛かる。10年20年30年、私はこの30年の月日がどんなに大きなものであったかと深く感じました。自分のことは分からないのです。30年間自分は一つも変わっていないと思っていますが、大変な変化であったと思います。

 

私たちも神様に徹底して信頼して、その力を与えられていきたいと思う。そして、望みを持って待ち望みましょう。前途はお先真っ暗ではない。必ずそこに輝いているところがあるのです。それを仰ぎ見つつ主を待ち望んでいきたいと思う。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 



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