いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(137)「待ち給う神」

2014年02月14日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書30章15節から32節までを朗読。

 15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」と。
 これは神様の恵みを受ける黄金律といいますか、一番の近道です。ここで神様は私たちに「立ち返って」ということを求めておられます。毎日の生活でいろいろな思いがけない、考えもしない、予期しなかった出来事や事柄に出会います。それはうれしいこともあるし、悲しいこともあり、つらいこともある、また楽しいこともあります。それはまさに悲喜こもごもという言葉があるように、人生は幸いや不幸が縄目のごとく織り成されていることは、確かです。ただ、私たちは神様を信じさせていただいた。言い換えると、私たちを造り、生かしてくださる方が誰であるかを知っているはずです。自分の力、人の力、人の計画、人の業で、日々の生活が成り立っているのではありません。常に神様がすべての事の始まりとなっている。人の存在そのものが神様によって創り出されてきたもの。あるいは神様があってはじめて人があり得るのです。だから、「神様なんて知らんよ」「神様がいるのかいないのか、そんなものは分からん」と言う人は、しっかり地に足を置いて生きていないと言ってもいい。私たちが何者によって造られて、生かされているかをしっかりと理解する、知っておく、信じる。これが私たちの信仰の大切な根幹です。

 先だってある方から一つの読み物をもらいました。その方が『信仰と科学』について考察しているものでした。その方は、信仰の世界と科学の世界とがどこかで結び合う、折り合うところがあるに違いないと、実に綿密な考察をした小論文です。私はそれを読みましたが、なかなかよく分からない。私も知識がありませんから、その方の言われることが分かりませんが、根本のところがどうしても違う。その方は科学といいますか、客観的に物事を見ることを仕事としている。数字で解決する、あいまいさのないきちっとした世界で生きてこられた。そのような思考法を持っている。ところが、私は正反対です。きわめて主観的な世界で生きていますから、彼とはどうも意見が違うなぁ、と思いながら読みました。それなりに言わんとしていることは分かる。物事のすべてのことには、きちっとした理由があるのだ。一番始まりが神様だというべきですが、神様という言葉はきわめて恣意(しい)的、人がどのようにでも解釈できる言葉ですから、これをもっと科学的に表明できないか、数式にきちっと言い表すことができないだろうかと彼は考えた。その方が言うには「人はいろいろな感情や情とか、あるいはそのような自分が感じた中で生きている。そこから信仰と結び付けていこうとするけれども、それでは客観性に欠けてくるではないか」と言われる。

ちょっと外れますけれども、この問題は科学史の中でも決定的な出来事があるのです。それは物事を客観的にすき間なく、あいまいさのないように説明しようとする科学の思想、それが実は20世紀の中ごろから破綻(はたん)を来たしたのです。そのために第一次、二次大戦とやってきまして、人間の社会が行き詰ってきたのです。あるときから、その考え方を変える、根本的な人間の思考法を変革する事態が起こったのです。この論文を書いてくださった方は、まだそのことはどうも半信半疑のようで、そこは受け入れられない。ちょっと専門的な言葉ですが、「パラダイム」という言葉を使うのです。「パラダイム」というのは日本語ではどのように訳したらいいのか分かりませんが、物の考え方のパターン、思考回路というようなものです。これまでの「パラダイム」は、客観的に考える考え方でした。「あいまいなことを言わないで、ちゃんと説明してよ」と言う。客観的に証拠を挙げて、証明をして、誰にでも分かるようにというのが、人が求める客観性です。それが最もよく現れるのが科学です。物理であるとか数学の世界は、そのようにきちっと説明がつく、証明ができる。それで、説明がつかないものは存在しないものとなります。

ところが、今私たちの生きている社会は、必ずしも説明のつくことばかりではない。そうではなくて、人はもっと主観的なもの、そのような客観性よりは自分がどうかということです。ですから、一番分かりやすい例えを申しますと、「太陽は東から昇る」と言うでしょう。これは科学的な説明ではない。太陽は動かないわけで、地球が動いている。ところが、私達が見たところは、太陽が東から昇って西に沈んでいる。太陽が動いていくではないか。これは科学でいうならば真理ではない。でも、私たちが見たところ感じたところは、むしろ太陽が動いている。それのほうが情緒がある。日が上がって沈んでいき、私達を照らしてくれる。非常に詩的な……、月が満ちてきて欠けていって、「満ちる」「欠ける」なんてなかなかいい表現だと思います。ところが、これは科学者から言わせるとナンセンスです。そんなことはあり得ない。月が欠けるはずがない。それは太陽と月の間に地球が入ってきて地球の影が月に映っているのであって欠けているわけではない。科学の説明はそうでしょう。そのように客観的な世界で説明すると、私たちの主観的な、自分が見て感じて、心に思う事柄は説明がつかない。

実は、信仰の世界も客観性の問題ではなくて、私たちの心の問題なのです。そのように言いますと、科学者は馬鹿にします。「何もないものを、あるかのごとくまやかしている。人をだましている」と言われます。しかし、そうではなくて、神様がいらっしゃると信じるか、信じないか。これは客観的な説明はつかないのです。問題は、私が信じるのか信じないのか。私が今日このように生きているのは、神様がいらっしゃって、私を生かしてくださっている、と信じる。言い換えると、太陽が東から昇って西に沈むと体験する。それでいいではないですか。私はそのように思うのです。先ほど申し上げましたパラダイムのシフト(転換)と言うのはそのことです。今までは「いや、太陽は動かなくて地球が回っている。いわゆるガリレオの世界が真理であって、それ以外にない」。ところが、それでやってきた人間の歴史が行き詰ったのです。その結果、自分がどう感じ、どう考え、どう生きるか。人が生まれてから死ぬまで、それが一つの作品として、神様の世界として終わる。終わった後、地球がどうなるか、あるいは宇宙がどうなるか、そんなことは分かりません。しかし、科学の世界ではそのようには言わない。例え、一人の人間が生涯を終わっても、宇宙や世界は続いていく。その永遠に続く真理に基づいて人間が生きなければ人間の永遠性はない、というわけですが、そんなものは私たちに関係がない。そうでしょう。アインシュタインの『相対性原理』を知らないから、われわれの人生は不幸かと言うと、そのようなことはない。アインシュタインの「ア」の字も知らない、科学者の名前も知らなくても、私たちは今日生きることができる。今日生きて自分自身が幸せであると感謝しているならば、それがすべてです。ところが、科学者は、それは駄目だ、そんなのはまやかしであり、いい加減なものであると。

ところが、実は私たちは、もっと大きな力の中に生きている。神様が私たちを生かしているというのは、それぞれが主観の中に生きているだけだと言われます。そのような自分勝手な考え方をしていたら、世の中はばらばらになって無秩序になるではないか、と科学者は言う。ところが、そうはならない。なぜなら、すべてのものを秩序立てている神様がいらっしゃいますから、人それぞれが勝手な思いをしているようで、実は根本のところでは一致するものがある、普遍なものがある。これを主観主義と呼びますが、今ではどちらかといいますと、主観主義のほうが正しいのではないかと。人が各自こう考えるという生き方を選んで生きること。これは神様の素晴らしい壮大なオーケストラの中で一人一人が生きているようなものです。

皆さん一人一人が、自分は今日喜びを持って、感謝を持って生きることができた、と思える生き方は、どのような生き方なのか? それは科学的な知識や証明ができる理屈によって生きているのではなくて、神様を信じることによって生きる。神様を信じたときに、心安らぐことができる。神様を信頼したとき、私たちの思いが変わっていく。そのようなことを経験します。イエス様の救いにあずかって、神様がこんな私を愛してくださっていると知ったときに、今まで暗かった心がバラ色に変わる。そのようなことを言うと、「では、それを証明してください」と。客観的にちゃんとそれが実験で出来るか、もう一度それと同じ状況を再現してみてくれと。再現性とうのが客観主義の一つの理屈です。同じ条件に置いたとき、同じことが起こらなければそれは一回性のもので、それは偶然の産物にすぎないと。

毎日の生活は再現ができない。そのことからも、科学と私たちとは違うところにいるのだと思います。生まれたときからズーッと、時々刻々、絶えず変化しながら、変わりながら存在しているのです。昨日したことを今日同じようにできるかと言うと、できないのです。24時間、身体的にも、精神的にも、あらゆるものが変わっている状況にあるのです。今日、イエス様を信じることによって、自分に喜びがあるのかどうか、神様を信頼したときに、私たちが感謝できるのかどうか、これが私たちの求めていることではないでしょうか。平安があり、望みがあり、喜びがあることを求めています。そのような生活をしたい、そのような人生を生きたい、と思っている。それを与えてくれるものは何か? それは、心から永遠の創造者であり、万物の源である、根源でいらっしゃる神様を信頼したときに、神様がこのような小さな者だけれども、憐(あわ)れんでくださっているという喜びに満たされるのです。

先だってもある方とお話をしていました。ご自分の家庭にいろいろな問題を抱えておられたのですが、集会にでて「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と知り、「主は命を捨てて私たちのために死んでくださった」との御言葉に触れたとき、心がパーッと一瞬にして明るくなって、それまで重い物を抱えて苦しんでいたのですが、こんな者をも愛してくださる神様がいらっしゃるから、私はどうなってもいい。何にも不平不満を言うことはない、と心に喜びが与えられて、感謝でした、というあかしを聞きました。「その喜びを証明してください」、「もう一度その喜びをどうやったら味わえるか、繰り返してやってみてください」なんて、実験なんかできようがない。でも、その方にとっては掛け替えのない一瞬の体験であったかもしれないけれども、深く心に残っている。これは私たち一人一人が握って立たなければならない素晴らしい神様からの賜物だ、と私は思います。ですから、いつも神様が私を生かしてくださる、このような私のためにひとり子を賜るほどの大きな愛を与えていらっしゃるという、このことに絶えず立ち返っていく。これが私たちの心を豊かにし、魂を力づけて、悩みの中、問題の中にありながらも、望みを得る秘けつであります。

だから、15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って』」と。「立ち返る」、まず神様に心を向けること、神様の所に帰ってきて、神様に対して自分の姿勢を整えることです。神様がすべてのものの根源で、私たちを生かしてくださり、日々の生活を与えて、導いてくださる方です。神様がいらっしゃることに心を向けていく。客観的な証明はできなくても、一人一人が心の中に信じることなのです。その後に「落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。まず、どのようなことがあっても、私たちが神様に立ち返ることです。ホセア書6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、どのようなことでも、私たちはまず神様を前に置くこと、神様に心を向ける。そうしますと、問題や事柄が何であっても、それはもう半分ほど解決したようなものです。まず私たちが心を神様に向ける。そして「落ち着いて」「穏やかに」なること。これはまた私たちの一番できにくいことです。焦らない、慌てない。私たちは何かしようとすると焦る、慌てる、急ごうとする。これは神様を信頼できない結果です。一つ一つどのようなことも、神様が始めたことです。また神様はそれ終わらせることができます。だから、神様に信頼するとき、あせっては駄目です。私たちの心が焦ります。「早く何とかしなければ、手遅れになるかもしれない。ひょっとしてタイミングを外したらもっとひどいことになるかもしれない、という不安や恐れ、そのようなものが私たちの心を責める。ところが、そのとき、ついつい焦って事を始めると、仕損じるのです、うまくいきません。そうではなくて、まず神様に立ち返って、神様が統べ治めていらっしゃる方であることを信じて、その方に心を委ねること、祈ること。まず、お祈りして神様が事を始められるのを待つことです。これは私たちの鉄則です。

ヘブル人への手紙10章32節から36節までを朗読。

この35節に「あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない」とあります。まず、御言葉を通して約束された神様の恵みの約束をしっかり握っていくことです。それを神様が具体化してくださる時があり、事柄があります。36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐」とあります。神様の恵みにあずかる、神様の御業を体験するために必要なのは「忍耐」、待つことです。先ほどのイザヤ書の御言葉にもありましたように「落ち着いて」「穏やかにして」、神様を待つことです。ですから、何か事があったり、あるいは思いがけないことが起こったりすると、すぐに行動に出ようとします。何かしなければおれなくなります。早く人に相談をかけたり、あちらに走ってみたりこちらに行ってみたり、何かしようとします。しかし、それは一番まずいやり方です。そうではなくて、まず「主に返る」。神様の前に帰る。そして穏やかにして寄り頼む。神様を信頼して、そこで祈る。主を待ち望んでいくのです。やがて、神様がその時を定めてくださる。忍耐ですよ、「あなたがたに必要なのは忍耐」。なぜならば、すべての事を行われるのは神様です。神様がその事を始めなさるから、それを終わりに至らせて、それの最終的な結論を出されるのも神様です。だから、その時がいつであるのか私たちには分かりませんが、ここで神様が働いてくださっていることを信じていく。確信を持つことです。神様は私たちのために御愛の御思いを持って、絶えず一つ一つ備えてくださっていることを信じて、耐え忍んで穏やかに寄り頼む。

病気などをすると、じっとしておれなくなる。私も「ガンです」と診断を受けたとき、「偉いことになった。早く何とかしなきゃ」と。お医者さんは「二週間後にまた来てください」と。「二週間も待っていいのでしょうか?」と、私はそのとき聞きました。「え!先生、二週間後なんて言わなくていいですよ。明日でもいいんですけれども」と言いましたら、先生が「榎本さん、そんなに慌てることはありませんよ。この病気はそんなに急に今日明日どうこうなるわけではない。まぁ、先がありますよ」と言われ、大丈夫だろうかと思いました。夜眠っていても、今ごろ、ガンがあそこへ移って行ったのではないか。今ごろこっちへ行くのではないだろうかと、そのようなことを考え始めると、もう夜中に飛び起きて走り回りたくなる。「落ち着いて」「穏やか」になんてできない。

例え病気でなくても、他のいろいろな問題でもそうです。「早く何とかしなきゃ……」と焦る。そのとき自分の心をよく見ますと、そこには神様がいない。あるのは自分の考えばかり、思いばかりが先立っている。ともするとそのように慌てる。急ごうとします。だからこそ「立ち返って」と言われる。私たちはこの言葉をしっかり心に置いておきたい。電話が掛かったり、人から話を聞いて、「早くしないと、大変だ」とあわてる。しかし、世の中、遅くなっても重大なことはどこにもありません。遅くなっても十分なのです。家内はよくせかせかと急ぐ。飛行機に乗ろうとすると、一時間も前から行かないと収まらない。私はその時間に行けばいいと思うのですが「遅れたらどうする」と。「遅れたら次にすればいい」と思う。そのようなものですよ。でも、翌日のスケジュールはどうなる?翌日はまた次の日に延ばせばいい。外国に行きますとそのことがよく分かりますね。イタリヤなど、列車は時刻表どおりに動かない。「いつ着きますか?」と、「着いたときに着きます」と言うのです。そのくらいの気持ちです。それは根本的に人がどうこうしてもどうにもならないところにいつもある。私たちは「自分で何とかできる」と思っている。そこが問題です。人がどんなにしても、できないことはできない。神様が許さなければ何も事は起こらないと、そこまで神様に立ち返っていることが大切です。

「病気だったら、手遅れになるじゃないですか」と言われる。「早く何とか」と、それで毎月のごとく血液検査をしてみたり、あの検査、この検査と走り回る。その結果、「ああ、今日もよかった」と言われますが、しかし、案外抜けていて気がついたら「あなた、もう手遅れですよ」と言われることがある。だから「毎月あるいは毎年検査しているから私は大丈夫」なんて言えません。お医者さんが太鼓判を押して「あなたの検査結果は上等です」と言ったから大丈夫とは言えない。脅すわけではありませんが、そればかりを信用しては駄目ですよ。神様がすべてを知っている。そこに立ち返らなければ駄目です。「医者はこう言ってくれたが、これはこれとして、神様が守ってくださるから大丈夫です」と、そこに立たないと検査結果の数字に慌てます。また例え手遅れであっても、神様が「よし」とおっしゃったら、どんなことでもしてくださる。癒すことができる方です。神様のスケジュールの中に「手遅れ」はない。私たち人間が考えるのです。

だから、いつも主に立ち返って落ち着いていることです。どのようなおとずれを聞いても、「大丈夫、神様がご存じだから」と。だから、祈って神様のときを待とうと、一つ一つどんなことでも、そこに一呼吸置くといいますか、神様の前に一歩退いて、「神様、どうすべきでしょうか? 」と祈り求めていく。これが、神様の恵みにあずかる秘けつです。

15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。そうなのです。私どもはその待つことが嫌い、できない。だから16節に「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と、少しでも早道はないか、早く解決する方法はないか、逃げる道はないかと、それで焦ります、慌てます。ところがその後に、「それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、『われらは速い馬に乗ろう』と」。何とか早く解決をと思いながら、しめた、これでやろうと、この方法でいこうと決めても、なんだかそれはまだ遅いようで、もっと早く、もっと早くと、人はいったん焦り始めると止めどもなくスピードアップしていきます。心の速度が速くなり、心臓がドキドキしてしまう。もっと早い馬に、もっと早くと追い求めて、気がついてみたら、17節に「ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる」。そばには誰もいなくなって、孤立無援、孤独な中に行き詰ってしまう。何にも望みが持てなくなり、誰も信用できなくなる。これが私たちの焦った結果、慌てふためいた結果です。

しかし、18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」。そうなるときを神様は待っていらっしゃる。私たちが「もう駄目だ、お手上げだ」と、山の上の旗ざおのように、孤立無援、誰も助けてくれるものがなくなったときに、神様は待っていて、恵みを施してくださる。何と懇(ねんご)ろな方ではないでしょうか。神様は私たちを憐れんでくださる。だから手遅れはない。最初から慌てなければいいのです。落ち着いて穏やかに信頼して、神様の時を待つ。どうぞこのことを絶えず心に置いておきたい。何があってもすぐに飛び出さない、走り出さない。ちょっと待って、しばし待て。祈って神様の時を待って、主が何とおっしゃるか、その時をじっと待つということが大切。やがてそのときが定められて、神様が「動け」と言われる時がくる、そのとき、一気に走る。

サムエル記下5章22節から24節までを朗読。

ダビデが王様の位に着いたとき、宿敵ペリシテ人がイスラエルの国を攻めて来た。王様が交代したばかりだから、今のときにやっつけようと大軍を率いて来ました。そのことが17節以下に記されています。レパイムという所にたくさんの敵兵・ペリシテ人が集まりました。それを聞いたダビデは、何をしたか? すぐには動かない。19節に「ダビデは主に問うて言った」と。まず、ここで神様の前に祈った。敵が攻めてきて目の前にいます。そこでダビデは主に立ち返るのです。神様に問う。しかも、19節に「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか」と祈る。これはちょっと意外な祈りです。敵が攻めて来ているのです。王様としての義務は敵を打ち破ることでしょう。だから、戦いに行くことは理の当然、これは問う必要のない当たり前のことだと思います。ただ、戦うにあたっては勝利を得たいから「神様!力を与えてください」と祈るだろうと思います。われわれの祈りだってそうでしょう。こうしたいから、「神様、こうしますから、神様こうしてください、ああしてください。これがうまくいくようにこうしてください」と祈ります。果たしてそれをすべきかどうか、もっと手前の一番始まりの所を問おうとしない。取りあえず自分のしたいことをやっておいて「さて、この先は神様、助けてください」と。ところが、ダビデはここでこの敵と戦うべきかどうか、神様が、もしこの敵がイスラエルを滅ぼすのでしたら、私は甘んじて神様が言われるように滅ぼされることもいとわない、というのがダビデの姿勢です。だからここで「ペリシテ人に向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手に渡されるでしょうか」と聞いている。ダビデは自分の力で何かしようなんて思っていない。神様が勝利を与えてくださるならば得られるだろうし、神様が負けよとおっしゃるのだったら、私は負けますというのです。人間的に見るならば、王様としての権威、力がない。しかし、これがダビデの信仰です。落ち着いて信頼したのです。神様は「善にして善をなし給う方」、だからここでもう一度神様に向かって「この戦いを戦うべきなのでしょうか」と聞いている。そしたら神様が「出て行きなさい。あなたに勝利を与える」と約束してくださいました。その信仰に立ったときにダビデは戦いに出て勝ったのです。

同じことがまた起こった。23節に「ダビデは主に問うたが」と、このとき、前回とまったく同じパターンです。レパイムの谷で相手も同じです。やってくる戦い方も同じ。それだったら普通「前回の経験があるから、ここは戦いに行こう」と、決めてもよさそうですが、ダビデは一回、事ごとに祈る。主に問いました。このとき神様は23節に「上ってはならない」と、正面から戦いに出てはいけないと言われる。それどころか「バルサムの木の前から彼らを襲いなさい」と。「バルサムの木」はどのような木か分かりませんが、その木が植わっている地域を表すのかもしれません。その木の後ろで待ちなさい、というのです。その代わり24節に「バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば」と。神様が進軍ラッパを鳴らされる。行進の音が聞こえる。いうならば「聖霊が下るとき、あなたがたは力を受ける」。わたしはこの記事を読むたびごとに「神様の時がある」と思います。戦いに打ち出る時まで、控えて待つことです。その時を神様は定めて、私たちの心に、魂に、御霊によって力を与えて、思いを与えて、願いを起こさせ、さぁ、立ち上がれ、と教えてくださる。その時「あなたは奮い立たなければならない」と勧められている。奮い立つのです。その時、自分に力があるとかないとか、できるとかできないとか、そんなことは問わない。神様が「行け」と言われるから、出て行く。私たちもこのようなダビデの信仰に立って、絶えず主に立ち返って、主に求め、主に問いかけ、そして、主が備えられた時には一気に力いっぱい出て行こうではありませんか。できるとか、できないとか恐れない。今は主の時、ここで主に従うべきときです、と確信が与えられたとき、例え誰の援助がなくても、また助ける人がいなくても、一人で出て行けばいいのです。神様は力を、知恵を与えてくださいます。いや、それどころか敵を完全にノックアウトしてくださる。どうぞ、この主の御業を私たちは体験していきたいと思います。

イザヤ書30章15節に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。早い馬に乗って走ろうとしないで、落ち着いて寄り頼んで、穏やかに信頼して、神様の時を待ち、神様の働かれる時、私たちも共に、出るべきときは力いっぱい奮い立って出て行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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