いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(563)「主に感謝する」

2016年06月22日 | 聖書からのメッセージ

 詩篇」107篇1節から9節までを朗読。

 

 1,2節「『主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』と、2 主にあがなわれた者は言え」。

 

 ここに「主に感謝せよ」といわれています。聖書の至る所に「感謝せよ」、「感謝しなさい」と勧められています。「いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。 18 すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~)といわれます。「すべての事」、どんなことも感謝せよと。また「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(Ⅰテモテ 4:4)ともいわれます。そこにも「感謝して受ける」、「感謝」ということが繰り返し言われています。私たちの日常生活でも「感謝」という言葉を使います。これは主に「感謝セール」とか「感謝月間」などと使われます。「有難う」という言葉が日常的に使われると思います。有難い、得難い、あるはずがない恵みという気持ちを表すのです。「こんなことをしてもらって」という思いが「有難う」につながってくるわけでしょう。私たちが「感謝する」「有難う」と言うときは、まず出来事、その事に目を止めます。自分が願ったもの、求めていたことが実現し、また思うように、願うように事が進むと「有難い」、「良かった、良かった、感謝、感謝」となります。もちろん、願わなかったけれどもそれよりもっと素晴らしい事態や事柄に出合うと、これは望外の喜び、「有難い」と。私たちが感謝する、喜ぶ、あるいはそういう「有難う」という気持ちになるのは、大抵はそういう出来事、事柄に対してであります。「こういうことがあったから有難い」、「こんなふうになったから有難い、感謝」というように、その事柄を喜ぼうとします。

 

 だから、時に「感謝することがありません」と言われます。「何もないの?」「いや、別に困っていることはないし、足らないところはないし、何もかも一応満たされているし、今更、何を感謝するのでしょうかね」と。事がないから感謝できない、というのが、世間一般の考え方であります。だから、病気が癒されると感謝だけれども、病気になったら感謝できない。自分の願ったような、求めていた事柄でない不幸なことや、嫌なこと、願わない事柄が起こってくると、「どうしてだろうか」、「そんなことは感謝できるわけがない」と。それは私たちが、その事柄が感謝に値するかどうかを考えるからです。ところが、聖書を通して神様が求めておられることは、その事柄ではない。その事や事態を起こしておられる御方、誰がそのことの主であるか? 確かに日々の生活の中にいろいろな出来事が起こります。願わないことや、願っていることや、あるいは思わないうれしいこともあります。そうすると、それをしてくれる人がいる。あるいは、その事を進めてくれている家族がいたり、友人がいたり、周囲の人々がいる。そうすると「あの人がこうしてくれたから……」と、今度は人に思いが向きます。「あなた、有難うね」と、その人に感謝します。確かにこれは社会通念といいますか、一般常識として、受けた恵み、そうやって人からの親切や、いろいろな贈り物などをもらったら、その人に感謝することは、「それは当たり前だ」と思います。その事態を起こしている周囲の人に対して感謝する、これが、普段接する世の中の「有難う」です。

 

 ところが、今読みましたように、「主に感謝せよ」と1節に歌われています。「神様に感謝する」と。その事態を起こし、またその事を導く、あるいは、その事をつかさどっている具体的な人物を置いてくださるのは、目に見えない神様がおられるからです。これがまず感謝すべき大前提であります。確かに「物事がこんなことになったからうれしかった。有難い、感謝」ということもあるでしょう。あるいは「こんなことをしてくれて、あの人、この人に、本当に有難う」という、感謝の気持ちも湧(わ)いてくるでしょう。しかし、何よりももっと大切なことは、その事やその人を遣わし、その事を起こしてくださる、隠れた所に居給う神様。その御方が一つ一つ私たちのために備えてくださる事があり、導かれる事があってこうなっているのです。

 

神様は私たちをまずあがなってくださった。1,2節に「『主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない』と、2 主にあがなわれた者は言え」とあります。「主にあがなわれた者」、神様の救いにあずかり、神様によって罪を赦され、神のものとされた者。「あがなう」とは、神の家族に組み込まれる、取り入れられることです。それは、イエス・キリストが私たちの罪のあがないとして十字架に命を捨て、信じる者の罪を赦して、神の家族、神の民、神の子供としてくださった。「わたしたちは、すでに神の子なのである」(Ⅰヨハネ 3:1)と言われます。 私たちを神の子供としてあがなってくださった御方、その神様は2節に「彼らを悩みからあがない」と、神様は私たちを悩みから救い出して、神様の御業の中に置いてくださる。

 

 4節以下に「彼らは人なき荒野にさまよい、住むべき町にいたる道を見いださなかった。5 彼らは飢え、またかわき、その魂は彼らのうちに衰えた」。私たちがイエス様の救いにあずからなかったとき、まだ神様のこともイエス様のことも知らなかったとき、この世のことに心を煩わされ、日々の悩みと苦しみと悲しみの中でつぶやき、苛立ち、憤っていた時代であります。まさに4節にあるように「荒野にさまよい、住むべき町にいたる道を見いださなかった」のです。私の正しい行くべき所、私の在るべき場所がはっきりしない。これは救いにあずかる前の、まだ滅びの中にあった私たちは、まさにそういう状態であります。自分のはっきりとした立場といいますか、人としての正しい生き方を悟ることができない。まさにこの「住むべき町にいたる道を見いださない」。「住むべき町」とは、私たちの永遠の住まいとなるべき場所、この地上だけのことだけではなくて、この世の命が終わるとき、どこへ行くのか? その行くべき場所、住むべき場所、永遠の住まいに至る道を見出すことができない。

 

 これはいま世の多くの人々がそうであります。「いったい、自分は死んだらどうなるのか? 」、「私はいま生きているが、いったい何のために生きているのだろうか? 」、「生きるということはどういうことなのだろうか? 」と、多くの人々は常にその不安と恐れと迷いの中におります。それを紛(まぎ)らわすために、目に見える状態や事柄、様々な人との交わり、趣味や何かを一生懸命に励み、そこに精力を費やして不安を忘れるといいますか、その不安を消そうとしているわけです。しかし、どんなことをしても必ず最終的にぶつかるのはそこです。「いったい、あなたはこれからどうするべきなのか? 」、「どこへ行こうとしているのか? 」、「本当にあなたが安心して、ここだ、と心定められる場所はいったいどこにあるのか? 」。この地上のことでありませんね。この世のことに「これで大丈夫」「これで安心」と、いくらそこにしがみ付いても、これはすぐに失われてしまう、消え去ってしまうものにすぎません。

 

 だから、イエス様はたとえ話で、ある金持ちが大豊作で収穫物を入れる所がない。それまであった倉にはたくさん穀物や食料が蓄えられている。「さぁ、どうしよう」と彼は考えて、その倉をもっと大きいものに作り直し、そこへその年の大豊作を全部仕舞い込んだ。そして私の魂に「さぁ、安心せよ、食え、飲め、楽しめ」と、「これで大丈夫、これで安心した」と。ところが、そのとき神様が「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。あなたが用意した物は、だれのものになるのか」(ルカ12:13~)と。まさに地上の生涯は限りあるもので、消え去って行くはかないものにすぎません。「じゃ、私たちはどこへ行くのか?」まさに4節に「彼らは人なき荒野にさまよい、住むべき町にいたる道を見いださなかった」のです。正しい道を見いだすことができない。イエス様はこのたとえを語られたとき、「人のいのちは、持ち物にはよらないのである」(ルカ12:15)とおっしゃいました。「あらゆる貪欲(どんよく)に対してよく警戒しなさい」とご警告しています。私たちも、「あれをして、これをしてこれで安心」、「このときは、こうしよう」と、いろいろなことで安心を得よう、住むべき町を自分で造り出そうとしますが、そこには安心はありません。

 

 5節に「彼らは飢え、またかわき、その魂は彼らのうちに衰えた」と。かつて私たちもそういうものを求めて、「安心を得たい」、「ここに安心がある」と思い、ところが裏切られ、失望し、次々と消え去って、悶々(もんもん)として、「どうして自分だけが……」、「どうして私がつらい思いをしなければならない」と、人を恨み、つぶやいて、自分を憐れんで……、というみじめな境遇の中に生きていたのです。その後6節に「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから助け出し」、そういう悩みの中にある、この世の生活の様々な苦しみ、そういう中から神様を求める者としてくださる。神様はいろいろなことを通して私たちに呼び掛けてくださるのです。次から次へといろいろなことを起こして、私たちに「神に帰れ」、「主に帰れ」と絶えず呼び掛けてくださる。「いや、私は神様に帰っている。神様に信頼している」と思います。しかも、そう自信を持っているつもりですが、しかし、神様の目からご覧になると「もっと深く私たちは自分のレベルで、自分の考えで、「このくらい信仰があるから、私だって満更捨てたものではない」と思いますが、「もっと大胆に、もっとしっかりとわたしを信頼してほしい」というのが、神様の標準であります。しかし、神様の目からご覧になると、「もっと……」、“這(は)えば立て 立てば歩めの親心”といわれるように、神様の目からご覧になると、もっと私たちが神様を第一に、神様に結び付いて、神様を心から信頼して、どんなことの中にも主を喜ぶ者となる。そのことを願っておられる。

 

だから、様々な悩みの中にあって、もうお手上げといいますか、私ではどうにもならないという状況の中から、6節に「主に呼ばわる」、神様を求めよと言われる。そのとき神様は、ちゃんとそれに答えて、「主は彼らをその悩みから助け出し」とあります。今私たちはイエス様の救いにあずかって、滅びの道から救い出されて、住むべき町に向かって歩む者と変えていただいた。7節「住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた」と。いま神様は私たちを住むべき町、言い換えると、人の手によらない、神によって造られた永遠の住まい、建物が私たちのために備えられているのです。「住むべき町」とは、まさにそこであります。この地上ではありません。この世の生活はとこしえに住むべき場所ではありません。しかし、神様は私たちを永遠の住まいに、住むべき場所へと導いてくださる。

 

私たちは幸いに今、こうしてイエス様の救いにあずかって、神と共に生きる者とされた。日々に神様の霊を注がれ、朝ごとに新しく神様の恵みをもって私たちを取り扱ってくださる。そしてまっすぐな道に、神様の御心にかなう道を歩む者としてくださった。自分を振り返ると、まだ出来てない所、足らない所ばかりでありますが、しかし、神様はそれらを全部ご承知のうえで、一つ一つ事を起こし、いろいろな問題や事柄を通して私たちを正しいまっすぐな道へ、行くべき所へと、いま持ち運んでおってくださる。私たちは、今こうして生きていますが、自分の力や自分の計画、自分の業で生きているのではなくて、私たちを造り、この世に命を与えて生きる者とし、永遠の御国に向かって歩むべき道を歩ませてくださる御方、神様の御手に握られていることをしっかり認めておきたい。私たちのためにイエス・キリストは十字架に命を捨て、神の御子でいらっしゃる御方が、命を捨ててまで私たちを愛して、私たちの罪を清めてくださった。そしてご自身がいのちの道となってくださった。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(14:6 )と、「ヨハネによる福音書」に語られています。イエス様を通って、神様の御国に帰って行くのです。「正しいまっすぐな道」とは、まさにキリストの道、主に従う道であります。いま私たちはこのような神様の御救いの中に生かされています。

 

8節に「うか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように」と、ここにもう一度繰り返して、「主に感謝するように」といわれています。「主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざ」とあります。神様は何を私たちにしてくださったのか? それは紛れもない主イエス・キリストを人の子としてこの世に遣わし、十字架に命を絶たれたことを抜きにしては何一つ語ることができません。「主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざ」、「くすしきみわざ」といわれると、何か不思議なわざが起こるような思いがします。これまでも、思いも掛けないハッピーなこと、うれしいことに出会って、「神様は素晴らしい御方です」と、感謝します。しかし、神様が何よりも感謝してほしいと願っておられることは、私たちの罪を赦し、永遠のいのちの御国に私たちを移してくださることです。これが神様のわざです。イエス様は、私たちの罪のために命を捨てて、死んでおしまいではなくて、よみがえって、今も信じる私たちと共に生きてくださる。そして私たちをまっすぐな道に「これは道なりこれを歩むべし」(イザヤ30:21文語訳)と、絶えずキリストの霊、御霊は私たちの歩みを導いて、行くべき町、住むべき町に私たちを導き入れようとしておられるのです。私たちがこの地上で、いま生きていることのいちばんの土台は、十字架によって主のあがないにあずかり、罪を赦され、神の子供として、神様が私たちを支えて、具体的な日々の生活の中に置いてくださっていることです。私たちはどんなことがあっても神様の手から離れるわけにはいかない。逃れることはできない。いや、それどころか、神様は私たちをどんなことの中でも絶えずご愛をもって顧(かえり)みて、支えてくださる。

 

よく言われることですが、「どうしてこんなことになったのでしょうか。私はこう願ったのに、現実はああだから、こうだから……」と、つぶやかれる。「いや、それもこれも神様がなさるのです」、「え!そうでしょうか? 」と。「あなたは神様を信じていらっしゃいますか」、「信じていますけれども……」と。「だったら、このことを起こしているのも神様です。しかも、滅びて当然の者が、今は主の憐れみにあずかって、イエス・キリストのいさおしのゆえに赦され、生かされている。そのくらいのつらいことや悲しいことがあったからといって、どうしてそんなに嘆かなければいけないのですか」と。「私はこんな目に遭うような悪いことは何もしたことはないのに」と。「したことがあるないに関わらず、何故であるか神様の御思いは定かではないけれども、神様がそのことを起こしておられるのに、どうしてあなたはそれを認められないのですか」と。

 

時々電話をしてこられる方がおられます。その方は長年信仰をもってこられた方だそうでありますが、私は直接お会いしたことがない。ただ電話だけです。話を聞いていると大変恵まれている方です。いろいろな状況から親の代から続けてきた仕事を辞めてしまったが、彼自身は何一つ生活に不自由のない。年も67,8と言っていましたから、現役を退いて、退職後の生活をしている。ところが、彼はいつも何か不満なのです。電話をしてこられ、いろいろとお話をします。いまおじいさんの時代から築いてきた家や土地が残されている。そこでこれまではズーッとある商売をしていた。ところが、いろいろなことでその状況が変わって、その商売を辞めることになった。しかし、いま住んでいる所はその故郷を離れて別の所に住んでいる。その自分の住んでいる所で自分の生活はきちんとしてきた。ところがその残された物をどうするか? 「自分の代で終わりにしてしまうのは、三代目のふがいなさを感じます」と。いろいろと話を聞いていると、大変恵まれている。親から受け継いだ物がなくてもちゃんとやれるように、神様は恵んでくださっている。私はその方に「あなたはいろいろと不満を言われるけれども、いったい、何が不満ですか」と言ったのです。私たちは、今この状況にこうして置かれていること自体が、神様が私のために備えてくださったことと信じる以外にないのです。

 

信仰のいちばんの土台はそこにあるのです。どんなことでもそこに神のいますことと、神を求める者に神様は報いてくださる(へブル11:6)と信じる。言い換えると、神様がそのことを握って働いてくださっておられると、徹底して認めなければ信仰は成り立たない。いつまでも自分の思いや自分の計算や、自分の損得利害、自分のメンツ、そういうものにしがみ付いている間は、決して信仰に立てないのです。だから、神様は私たちをいろいろなことの中に置かれます。そこで「私はいったい何者なのだろうか? 」、「どういう者として、いま神様は私を取り扱っておられるだろうか? 」、「私は神様に対してどう答えているだろうか? 」、「どういう生き方をし、歩みをしているのだろうか? 」と、徹底して自分と向き合わなければなりません。「神様が絶大な力をもって私のために今日も一日を備え、事を起こし、一つ一つのわざの中に置いてくださっている。感謝です」と、いま受けている事態、事柄、置かれていることに感謝しなければ……。しかもその感謝のいちばんの根本は、「主にあがなわれた者」、神様の子供とされている私。その子供に対して神様は、人の親以上にもっと善きことを思い図って、一つ一つ備えておられると、徹底して信じるのです。「主に感謝する」、神様を喜ぶ者となること、事情や境遇や事柄を喜ぼうとするかぎり、行き詰ります。喜べません。しかし、根本に、今日も変わらないご愛をもって私を大能の御手に握り、持ち運んでくださっている神様を喜ぶ。このことを徹底して感謝しなければ安心が得られません。

 

8節に「どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように」。どなたがそれをしてくださったか? 神様以外にないことを徹底して信じて行く。私どもは、これからいろいろなことの中に置かれます。思い掛けないこと、願わないこと、そうすると、ついつぶやきたくなる。「何で……」、「どうしてなんだろう」と。

 

私の家内の母が一週間ほど前に召されました。この義母(はは)のことを思い返すと、ちょうど2年ぐらい前の11月ですが、脳内出血を起こして倒れました。それから半身不随の状態になり、初めのうちはまだしも動く手で食事も自分で何とかしようとしていたのですが、それも三か月、三か月ごとにだんだんと機能が衰えて行きました。義母は意識もはっきりしていました。「どうしてこうなったのだろうか?」「こんなに動けない自分……」、殊に下の世話をしてもらわなければならなくなったとき、「自分にふがいない」と、大変悔やみます。そう言われると、そばにいて何とも答えようがないのです。「もう、死んだほうがまし」、「生きていても何の楽しみもない、生きていてもつまらん」とつぶやく。そして「今日、自分は死のうと思って道路に飛び出したら、車が避けて通って、私は死なれんかった」と、一人で動けないのに、そう言う。「それは良かった。交通事故をしたら、相手が迷惑する。死ぬならもっと楽な方をしなさい」と。しばらくしたら、今度は「昨日は、屋上まで上がって飛び降りようとしたけれども、人から引っ張られて、飛び降りられなかった。まだ今日も生きとる。ああ死にたい」と言う。そう言われると、返す言葉がないのです。私もそういう状況は理解できます。自分の身に置き換えて考えたら、恐らく、そういう悔しい思い、つらい思いをする。それは分かるのですが、しかし、誰がそのようにしていらっしゃるのか? 「神様が私のために備えられたことです」と、そのことを感謝する。神様を認めることです。「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言 3:6)と言われます。

 

今健康を与えられ、元気がある間に、しっかりと主と結び付くこと。やがていろいろな思い掛けない、願わない事態や事柄の中に置かれる時が必ず来ます。そのときにも主に感謝することができる者でありたい。「こんなに動けないけれども、主よ、あなたの恵みにゆえに支えられていることを感謝します」と、主にあがなわれた者であることの喜び、主が今日も共にいてくださることの恵みを味わう、そういう信仰をしっかりと握っておかなければならない。

 

私は義母の姿を見ながら、痛切にそのことを教えられます。だから、これは他人事ではなくて、“他山の石”で、それはやがて私の身に掛って来ることです。やがて、どういうことが起こるか分らないけれども、どんな事情や境遇の中に置かれても、ひとり子を賜うほどの限りない大きなご愛をもって「わたしはあなたを愛している」とおっしゃる神様の御手に握られていることを固く信じて、主に感謝し、主をほめたたえて生きる者でありたい。そうなったときに感謝できるように、今からまず感謝しなければなりません。「主に感謝する」。いま与えられているどんなことも、そこで心を低くして、「神様の憐れみによって今日もこうやって生かされている」と感謝する。また悩みが与えられ、問題が与えられることも感謝です。それは今でなければできないことを神様が求めておられるからに他なりません。私たちは「早く楽になりたい。早く自分の思うように、願うように飛び跳ねたい」と思いながら、「あれがあるからできない」、「これがあるから……、いつもストレスばっかり」と思い悩んでしまうかもしれませんが、そうではない。ストレスではなくて、それは神様の恵みの時です。そこで主にあがなわれた者、今日も主の民とせられ、神の子供として、神様はひとり子を賜うほどの大きなご愛をもって愛してくださる。

 

だから、まず「主に感謝せよ」。この1節に「主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と言われます。神様は私たちを愛して、「恵みふかく」、「そのいつくしみ」、慈愛は「とこしえに絶えることがない」。変わることがない、消えることがない。この神様を心にしっかりと信じたいと思う。

 

私は義母のことをどうにもしてあげることができない。ただ、祈る他はありません。だから、いつも一通り愚痴を聞いた後、帰るとき「じゃ、お祈りするからね」と、手を頭に置いて、祈るしかなかったのです。じっと寝ていて天井ばかり見ているわけですから、思うことは死ぬことばかりだそうです。「もっと違うことをしなさい。だから、テープを聞きなさい」と、説教テープを持って行きました。「聞いていると眠くなる」と言いますから、「それはいいから眠りなさい」と掛けっ放しにしておく。どういう訳か、私の声を聞いていると安心しているみたいで、ケアハウスの方々は「このテープを聞かせていると、お母さんはおとなしくて助かります」と言われる。神様の備えてくださった恵みの時であったと思います。聞こえてくる聖書のお言葉、あるいは、メッセージの言葉を通して、神様はその魂を少しずつ砕いてくださったのです。ちょうど召される三日ほど前でしたが、朝4時頃電話がありまして、「亡くなられたのか!」とびっくりしましたが、家内から「お母さんが会いたいと言うから、すぐに来てくれないか」と。それで私はすぐに出掛けました。「お母さん、どうしたの? 」と「会いたかった」と、「もうここにいるから大丈夫、心配しなくていい」、「ああ、うれしい、私は幸せ、有難うね」。「私は幸せ、有難うね」と繰り返して言う。私はしばらくそこにおりまして、「じゃ、お祈りをしようね」と、お祈りをしました。私はその日は帰りましたが、家内はそこに残りました。義母はそれっきり、召されるまで、言葉を発することはなくなりました。しかし、まだ意識はありましたから、うなずくことくらいはできましたが、それもだんだんとはっきりしなくなり、意識が低下して行ったのです。「私は幸せ、有難う」と、神様はそこまで魂を変えてくださった。

 

7節に「住むべき町に行き着くまで、まっすぐな道に導かれた」と。神様はいろいろなことを通して、私たちが到着すべき場所、永遠の住まいである神の御国にまで導き入れようとしてくださる。私たちはいろいろなことの中に置かれますが、「主に感謝する」、神様に感謝する。

 

事柄ではない、あるいは、それをする人を喜ぶのでもなくて、神様を絶えず喜び、感謝、賛美して、主のご愛を確かなものと信じて、いま与えられたこと、どんなことも感謝して受ける。そして、主に栄光を帰す。神様をほめたたえて行く者となりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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