いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(138)「福音の三法則」

2014年02月15日 | 聖書からのメッセージ
 テサロニケ人への第一の手紙5章12節から22節までを朗読。

 16節以下に「いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」。
 これは皆さんもよくご存じの御言葉の一つですが、知ってはいてもなかなかそれを実行ができない御言葉の一つかもしれません。ところが、誰でもこのようにありたいと願っています。嫌なことだとは思いません。「いつも喜んでいなさい」、これは私たちの願いでもあります。いつも喜んでいたいと、誰しもがそのように思っています。喜びたいけれども喜べない。いろいろな不安があり、心配があり、恐れがあるからです。あるいは自分の願ったことが実現できないから喜べない。不平不満がある。ところが、ここには「いつも喜んでいなさい」とあり、これには条件がないのです。「いつも」であります。どのようなときにも、どのような場合でも、良いときも悪いときも、うれしいときも悲しいときも、どのようなときでも、「いつも喜んでいなさい」と言われる。

それは喜びたいけれども…、ところが、喜ぶというとき「何をもって喜ぶだろうか」と考えます。どちらかと言いますと、事情、境遇、事柄で喜ぼうとします。何か喜ばせてくれる原因があるはず、「このようになったら喜べるのだけれども、今これがあるから喜べない」と思っている。ところが、それを実現できたら、その願いがかなったら喜べるか? と言うと、必ずしもそうではない。そのような喜びは、外側から与えられるものです。私たちの外側からいろいろと事情境遇をよくして、願いがかない、思いがかなう、思いどおりに事がいくから、人は喜ぶかと言うと、そうはならない。それが証拠に、私どももどれほど神様から恵まれてきたか分かりません。いろいろなことの中で、神様は祈りに、願いに答えて、一つ一つ恵んでくださった事がたくさんあります。ところが、どうでしょうか?「恵まれて喜んでいますか」と言われると、喜んでないのです。もちろん、願ったことがかなった瞬間は喜びます。「してやったり」とか、「うれしい」と喜びます。しかし、すぐにそれを忘れてしまいます。また、当たり前のことになってしまいます。だから、「外側の何か条件が整ったら、このような状況になったら喜ぼう」と思っているかぎり、喜べないのです。

私たちは一つの事、夢が実現できた、と思った瞬間から、はやくも次の不安と恐れが後ろからついてきているのです。「これが実現した。よかった。万々歳」と思っていたら、「さぁ、これからどうなるだろうか」と思って、一瞬にしてまた不安と恐れになって、喜べない。だから、私たちの外側が、あるいはいろいろな生活の条件がよくなったら喜ぶということはできないことです。では、ここで「いつも喜んでいなさい」というのは、何によって喜ぶのか? ということになるのです。

ピリピ人への手紙4章4節を朗読。

ここに「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」とあります。先ほどのテサロニケの手紙では「いつも喜んでいなさい」と、ここには「主にあって」と語られています。これが私たちのすべての喜びであります。「主にあっていつも喜びなさい」とはどうすることでしょうか? それは、私たちがイエス様の尊い命によって買い取られて神の子供とされている、私たちが救いにあずかっていることを喜ぶのです。これが主にある喜びであります。キリストの救いにあずかっている喜び、これを喜ばないで何を喜ぶことができるでしょうか? 私たちの事情境遇がどんなによくても、もしイエス様の救いがなかったら、私たちが十字架のあがないにあずかっていなければ、永遠の滅びです。今、私たちは、イエス様の救いにあずかって、私たちの生き方、存在、生きる目的が変えられたのです。今までは、自分のために生きていたのですが、今度は神のために、キリストのために生きる生涯へと造り変えられてきました。「主にあって」とは、そのようなことを含めて、絶えず、神様の救いがどんなものであるのかを繰り返し、繰り返し覚えていくことです。私どもは案外それを忘れるのです。何によって今、今日ここにあらしめられているか。それは神様の恵みによって、パウロは「我かくの如くなるを得しはの恩(めぐみ)に由りてなり」と、「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」と語っています。そのめぐみとはなにか? それはまさに「主にあって」ということです。キリストによって神の民とせられている。神の子と呼ばれている私たち、これを喜ばないで何を喜ぶのでしょうか。神様の一方的な御愛と憐(あわ)れみにあずかって、今日こうして平安が与えられ、またすべての必要を満たされて、主が共にいてくださる大きな恵みの中に置かれているのです。それを抜きにして喜ぼうとするならば、これは世の人と同じように、外側の条件や事柄が整わなければ、あるいは願いがかなわなければ喜べないという境遇に置かれてしまいます。

実は、イエス様を知らないとき、私たちもそうだったのです。そのように外側の条件や、あるいはいろいろな境遇が自分を喜ばせてくれる、楽しませてくれる、と思ってそれを求めていました。熱心になってそのようなものを追い求めてきたのです。そのような事情や境遇や事柄が変わることによって喜ぼうとするかぎり、私たちは、どのようなことをしても、いつまでも喜べない。その行き詰まりと言いますか、全く闇のような中にあった私たちを、そこからあがなって、私たちを神の所有、神様のものとしてあがなってくださった、買い取ってくださいました。これを私たちは感謝していくのです。その恵みによって、私たちは日々生かされていくのです。だから、今日私たちがこのように生きているのは、自分が生きているのではなくて、神様が憐れみをもって、恵みによって、十字架のいさおしによって、イエス様の血の代価によって私たちを買い取って、新しいいのちに生きる者としてくださいました。これが「主にあって」ということです。これを私たちが喜ばないで、ほかに喜ぶべきことは何もないのであります。経済的に恵まれようとも、健康が恵まれようと、家族の恵みの中にあっても、あるいは友人知人、素晴らしい環境に自分が置かれていても、もしそこに主のあがない、神様の御愛と恵みが欠けてしまっていたら、喜ぶことはできません。

私たちには喜ぶべき理由があるのです。「いつも喜んでいなさい」とおっしゃるのは、必ずしも私たちに無理難題を押し付けているのではありません。喜べないのに「頑張れ、喜べ」といくら言われましても、これは喜べません。ところが、神様はちゃんと喜べるようにしてくださっている。私たちはそれに気がつかないで、忘れてしまう。ここに、私たちがいつも不平不満、何か満たされない思いを持ち続ける原因がある。事情境遇が取り立てて変わりはしないけれども、神様が私たちの「アバ、父よ」と呼ぶ、親しい、愛すべきお父さんとなって、私たちに近づいてくださり、神の子供として、愛する子供として、私どもを顧(かえり)みてくださっている。神様の大きな恵みの御手の中に、御愛の御手の中に握ってくださって、私たちが今日あることを絶えず自覚して、そこに自分を置いていかなければ喜ぶことはできません。

生活の条件、事情境遇がよくなったら喜ぼうと思っているかぎり喜べませんし、また事実、皆さんもそれぞれ抱えている問題や悩み、心配や不安があるに違いない。先のことを考えます。いろいろなことを思います。そうしますと、今、楽しかるべきこのときを、憂うつな思いで過ごしてしまう。私も最近しみじみそう思いますが、「人間は賢すぎるのかな」と思います。先、先を考えます。まだ先の事は分からない。イエス様が「あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」と言われますし、そのように知っていながら、気がつかないうちに、考えることが明日のこと、来年のこと、これから先のこと、老後のこと、そのようなことへと心が流れていく。そうすると、人はいろいろなことを想像します。「ああなったら、どうしようか」「こうなったらどうしようか」。そのように考えているうちに、同じところをぐるぐる堂々巡りしている。そして、心がズーッと沈んでいきます。私もそのようなことを経験するたびに「ああ、なるほどこれだな」と思うのです。私たちのいちばんの問題点はそこになるなぁ、と思います。

その暗い堂々めぐりの中から抜け出す道筋はどこにあるか? 十字架のイエス様を見上げる以外にないのです。だから、十字架が立てられているのです。私どもは、心をイエス様に向けて、「こんな私のためにイエス様があがないとなってくださった。犠牲としてご自分をささげてくださって、私は今日も許され、生きる者としてくださっている」と、そこに私たちがいつも立ち返る。これが「主にあって」ということです。そうしますと、どのような事情、境遇、問題があっても、瞬時に「これでもう大丈夫。もう何の思い煩うこともいらない」という深い感謝がわいてくる。

先だってもある一人の姉妹とお話をしました。「新年聖会に出ていて、御言葉を通して自分の心を探られ、そしてイエス様が私のために死んでくださって、命をもってあがなってくださった。限りない主の大きな御愛をそのときに御霊によって教えられたとき、私は、本当にうれしくなってしまって、喜びにあふれました。そしていろいろな問題が確かにあるのですけれども、一瞬にしてそれらを全部忘れてしまうことができました。本当に素晴らしい恵みですね」と、感謝しておられた。私は本当にそうだと思います。「主にあって」、神様がどんな大きなことを私にしてくださったか。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」(1ヨハネ3:1)。私どもはそれがなければ決して喜ぶことはできません。この地上の生活の中で何を喜ぶか。確かに思いどおり願いどおり夢がかなった、実現した。それはそれでうれしいことであります。それを喜ぶことはもちろん感謝です。しかし、それがなければ喜べないとするなら、悲劇です。たとえそのようなものがなくても、今、喜ぶ材料が何一つなくても、「主にあって」、神様がこのようなものを愛して、ひとり子を犠牲にしていとわないまでに大きな限りない御愛をもって、私を愛してくださって、その主が私のためにすべてのご計画を導いてくださっている。明日のことも来年のことも、これから先の一切のこと、一つ一つ、今日の一日も、実はこの愛なる神様のご計画の中にあることを信じて、喜ぶ以外にありません。ですからこのピリピ人への手紙は「喜びの手紙」とも言われています。ピリピ人への手紙を1章から読みますと、繰り返し、繰り返し「喜びなさい」「喜びなさい」とパウロが語っています。考えてみますと「パウロはよほどうれしかったのかな」と思います。このピリピ人への手紙を書いたとき、パウロは恐らく「ジャンボ宝くじ」にでも当たった後で、うれしくてたまらないから「喜べ」「喜べ」と言ったのかと思いますが、そうではない。このピリピへの手紙を書いたとき、パウロは牢屋に捕らえられて入れられていた時期です。自分がこれからどのように処遇を受けるか分からない、そのような不安の中にあった。しかし、それでも、彼はなお「喜びなさい」と言えるのです。

ピリピ人への手紙2章14節から18節までを朗読。

この17、18節に4回も繰り返して「喜ぼう」「喜びなさい」と勧めています。しかも今は「曲った邪悪な時代のただ中にあって」、その中で「いのちの言葉を堅く持って」、神様の約束の言葉を信じて「星のようにこの世に輝いている」ではないかと。神様は私たちを多くの者の中からまず選んでくださって、取り柄もない値打ちもない者を選んで、御言葉によって潔め、私たちを輝く者としてくださっているではないか。私たちは今いのちに満たされて、輝いて生きる生涯へと導き入れられている。そのような私たちが「あれがないから困った」「これがないからどうしよう」「ああなったらどうしよう」「こうなったらどうしよう」と、ぶつぶつつぶやいて嘆いて暗くなって沈みこんでいるとするならば、誠に神様に申し訳がない。神様は私たちをこの世にあって輝く者としようとしているのです。私たちが喜び、喜んで輝いていることを、神様は待っている、望んでいます。私たちが神様をお喜ばせしようなどできませんが、私たちがいつも喜んでいると神様はうれしいのです。

子供が喜ぶと親はうれしい。先だって知恵ちゃんに自転車を買ってやった。大変喜んで乗ります。うれしくて仕方がない。それを見たお父さん、金生先生もうれしくなった。早速写真入のメールに「自転車をありがとうございました」と書いてあった。「やはりなぁ。人の子の親だなぁ」と思いました。娘が喜んで、毎日外へ出ると自転車に乗りたがる。そして、得意気に乗っている写真を一緒に送ってきました。やはり子供がうれしい、と喜んでいることは、親もうれしい。私はそれを見ながら「神様もそうに違いない」と思いました。私たちがめそめそ、ぐじゃぐじゃ泣いて恨み言ばかりのお祈りしている。それでもいいですよ。神様は「分かった、分かった。そんなに泣くなよ」とおっしゃるでしょう。もっと喜んでほしいと思っている。喜ぶということは神様が願っていることです。それは神様の御心です。神様は私たちを喜ばせたくて、選んで、イエス様のあがないに取り入れてくださった。

だから、17節に「そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう」。自分が迫害を受けて殉教して、その血を祭壇に流すようなことがあっても、私は喜ぶと言います。なぜならば、私は神様のものなのだから、神様が私を顧みてくださっているから、どのようなことがあってもそこから離れない、その喜びを奪うものはないと。これはパウロの確信です。私たちも喜ぼうではありませんか。事情、境遇、問題が何であっても構わない。そこに目を留めないで、私たちのために立てられた主の十字架を仰いで、主が今日も許し顧みてくださり、恵みの中に生きる者としてくださった。その事を感謝して、心から「主よ、ありがとうございました」と、主を褒めたたえ、賛美する。これは私たちの特権であり、また私たちにしかできないことです。事情、境遇がよくて喜ぶのだったら、世の中の人は誰でもできます。私たちにしかできないことは何か? 状況や事柄がどうであれ、「主にあって」喜ぶ。これが私たちの特権です。「そうだ、今日も主が私のような者を顧みてくださって、主の御愛の中にあがない、ご自分のものとしてくださった」と、このことを喜ぶなら、いつもどのような中にあっても、喜び続けることができる。

ローマ人への手紙8章34節から37節までを朗読。

35節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。どんな困難が押し寄せてきても、キリストの愛から、私たちを引き離すことはできない。キリストの愛にとどまっているとき、いつも喜んでいることができます。そして37節に「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」。私たちを愛してくださった神様は、今も絶えず私たちと共にいて、どのような困難にも苦しみにも打ち勝つ力を与えてくださる、勝利を与えてくださる。だから、私たちは喜ぼうではないか。39節に「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。そうです。私どもは、神様の大きな御愛にとどまっているかぎり、決して泣き言をいう必要はない。失望落胆する必要がない。私たちはこのことを心に留めて、絶えず喜び、そしていつも輝いていこうではありませんか。主がそれを喜んでくださる方だからです。

テサロニケ人への第一の手紙5章17節に「絶えず祈りなさい」と求めてくださいます。絶えず、どんなときにも「祈る」ことです。神様に向かって心を注ぎ出すこと、どのようなことでも神様に祈ることができる。これは繰り返し申し上げますように、私どもにとって大きな特権であり、恵みです。

私も両親から受け継いだもので何がよかったかと言うと、「祈ることを教えられた」ことです。本当に心から感謝しています。私は生まれたときから牧師の家庭でありましたので、物心ついたときから祈ることを覚えていましたから、いつ頃から自分で祈り始めたかは定かではないのですが、気がついたときはもうお祈りをしていた。といって、そんなに立派なお祈りをしたわけではありません。ただ食前の感謝であるとか、朝起きてお祈りすること、夜寝る前にお祈りすること、それは実にたわいのないことです。そのような祈りでありますが、祈った時に、祈りの後に来る心の平安、安心というものを幼い時から感じることができた。これは大きな幸いだったと思います。だから、何かを人にしてあげるといっても、祈ることができるようにしてあげることができたら幸いです。祈ることの喜び、祈ることによって得られる心の平安、望み、力、そのようなものを体験するなら、神様から離れることはできないのです。私はその事を体験することができたのは、何と幸いなことだろう、と思います。

牧会伝道をしていますと多くの人々が、新しく主を求めて来られます。その方々にお祈りを教えますが、初めはなかなか祈れない。「一言お祈りをしてください」と言うと、「先生、申し訳ないけれどもお祈りができません」と。「日本語はしゃべれるでしょう? 」と言ったら、「ええ、もちろんしゃべれます。しゃべれるけれども、お祈りはできません」。確かにそうなのだろうと思います。お祈りは、神様と語らう、「神様語」だと思う。英語はやはり習わなければしゃべれないでしょう。日本語は生まれながらに身についていますが、神様とのお話も生まれながらのままでは身につかない。これは特別な言葉ですから、それを練習するといいますか、訓練していかなければ身につかない。皆さんも自分はいつ頃からお祈りができたか、覚えていないと思います。今ではお祈りするのは当たり前になっている。ところが、実は当たり前ではないのです。大変に大きな恵みです。だから「日本語がしゃべれるから、お祈りができる」とはならない。「主の祈り」のように紙に書いたものを読むことはできますが、自分で祈る心からの祈りとは違います。初めは練習ですから、ただ、取りあえず祈る。英語でもそうですが、口まねです。人のまねをする。教師が英語をしゃべるのを、それをまねしてしゃべる。覚えるのです。そして覚えて身についてくると、自由にしゃべることができるように変わります。それと同じで、お祈りも初めは人まねでいいのです。だから、私は慣れていない方に、「じゃ、自分ではお祈りができないと思っているかもしれないけれども、まずあなたのお祈りを書いてください」と言います。便箋(びんせん)でもメモ紙でもいいから書く。書いて、それを毎日毎日お祈りしていると、それを見なくても祈れるようになってくるのです。これは確かです。何年も教会に行っているけれど、自分でお祈りができない。「声に出さないで黙ってなら、お祈りができるけれども」と言われますが、黙ってお祈りをしていると、せっかくの恵みが半分になります。声に出してお祈りをするとさらに恵まれます。

英語の勉強でも、イヤホンで英語の文章を聞きます。そして心の中でつぶやきながら繰り返す。それはできるのです。黙って聞いている間は、心の中でしゃべっていても、いよいよ口に出すとなると、これはまた違う能力です。特に顔の周辺の筋肉が複雑な動きをしなければ音が出てこない。だから、心の中で祈るということも幸いですが、別に悪いわけではないし、むしろ、それも大切な事でありますが、もう一つ声に出してお祈りをする。たった一人でもですよ。自分の部屋に独り居るときでも、あるいは夜寝るときでも、布団の中でも唇を動かして声に出してお祈りをしてください。祈りを声に出すとき、唇が動き、その音が自分の耳に響いてくる。内側からも内耳(ないじ)を通して耳に響いてくる。全身的にお祈りが自分のものになっていく。黙って心でお祈りする。それももちろんうれしいことです。しかし、全身的な喜びにつながりにくい。家族がいて嫌だったら、トイレに入ってでも構わない。ときには「うちのお母さんはおかしいぞ。何か最近独り言を言う」と思われるかもしれません。でも、とにかく声に出してお祈りをする。そうすると、お祈りが迷子にならない。黙ってお祈りをしていると、どこかへ行ってしまう。お祈りをしているのか献立を考えているのか分からなくなる。そうならないために、声に出して、17節にあるように「絶えず祈りなさい」。いつでもどのようなときにでもお祈りをしなさいと。これはうれしいことです。

ヨハネによる福音者15章16節を朗読。

神様が私たちを選んでくださったのは、私たちに実を結ばせるためです。実を結ぶ秘けつは、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるため」です。イエス様の名によってお祈りをするとき、父なる神様がそれに答えて、私たちに実を豊かに実らせてくださる。神様と交わること、ぶどうの木であるイエス様に結びついている秘けつは、祈ることです。お祈りすることによってイエス様と一つになる。神様と一つになる。神様は、私たちの祈りに答えて、一つ一つ具体的なことをしてくださいます。私たちを喜ばせてくださる。ですから「いつも喜んでいなさい」と言うのは、同時に「絶えず祈りなさい」ということと結びついています。お祈りをしていると、十字架の主を見上げることができ、また祈っていると喜びが心にわいてくる。また感謝して祈ることができる。

テサロニケ人への第一の手紙5章17節に「絶えず祈りなさい」。どのようなときにもお祈りをすればいい。私は子供の頃から、そのようにいつも祈ることを教えられました。大体気が弱くて、弱虫でしたから、私は何か心配なことがあると部屋の隅に行って、一生懸命にお祈りをしたことを今でも思い出します。しかし、そのような境遇であったということは感謝です。また、これは神様のお恵みだと思う。皆さんもこれまでそうだったと思いますが、これからもなお一層どんなときでも祈っていこうではありませんか。主の名によって祈るとき、私たちに答えてくださる。お祈りすると、そこに安心がある。私たちに喜びがある。だからピリピ人への手紙4章6節以下にありますように「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。神様の平安を私たちの心に満たしていただく。だから不安になったら祈ればいい。心配がわいてきたら祈ればいい。そうすると、心は喜びに変わっていく。どうぞ「絶えず祈りなさい」。

もう一つは18節に「すべての事について、感謝しなさい」と。どのようなことでも、いいことでも悪いことでも感謝しなさいと。感謝するのは、私たちにとって大きな力です。神様を喜んで、主を喜んで、感謝する。感謝するというのは、私たちが謙遜(けんそん)にへりくだらないとできません。何でも当たり前だと思っている。もらって当然、このくらいしてもらうはず、自分はそのくらいの値打ちがあると、思い上がる。高慢になると感謝がなくなってきます。だから、神様は私たちに感謝を思い起こさせるために、いろいろな事柄の中に置かれる。自分に力がない、もうお手上げである、どうにもならない、と分かったとき、少しでも人の親切に触れると感謝がわいてくる。ところが、五体満足、健康でぴんぴんして。どこをたたいても病気になりそうもない人が、少々恵まれても「こんなの当たり前や!」と思う。ところが、弱気を覚えてくると感謝をするようになる。そうでしょう。われわれが病気でもしてご覧なさい。青息吐息で、熱でうなされているとき、そばで看護や何かをしてもらうだけでもうれしい。有難いと思います。

以前、ひとりの姉妹がすい臓がんで手術をした後入院しておられまして、随分回復してこられ、ひとまず元気づいてこられました。ちょうど3月初めくらいです。手術後初めてお医者さんから「散歩してよろしい」と、朝の散歩の許可が出ました。その日の朝散歩してこられた。私が病室に伺ったときに、大変喜んでいらっしゃいました。「先生、神様がここまで癒してくださって、今日はお医者さんから許可が出て散歩をしました。朝6時に起きて本当にうれしくて、まだヒャッと肌寒い朝でしたが、取りあえず一歩外へ出てみた。出て、ふと足元を見たら雑草の小さな可憐な白い花が咲いていた。それを見たとき私は、もう感激で涙が出ました」と。「こんな所にも命が芽生えて、そしてこの寒空にありながら可憐な花を咲かせている姿を見たら、何と感謝だろうか、こんな喜び、こんなうれしいことはないと思って、感謝にあふれて、私はそこでしゃがみ込んで泣きました」と。それ程の感動を覚える。皆さん、どうですか? 普段少々雑草を見ても「また雑草が生えた。また取らなければ……、面倒だ!」と。ところが、その姉妹にとっては、死ぬはずの者が生かされて、やっとここまで元気が与えられた。そしてふと見たとき、その名も知れない小さな花ですらも喜びの源、感謝の源になっている。何が変えたのか? 彼女の心が低くなったからです。自分をすっかり捨てて、神様の手の中に握られている自分であることを認めたとき、感謝がわいてくる。私たちに感謝がないのは、自分が偉いとき、自分が高慢になっているときです。だから、それは自分自身でよく分かるはずです。最近、感謝がないなぁと思って、そうだ原因は「あの人がいけないのだわ」と。これは駄目です。私がいけないのですから、私の心が問題であって人ではない。

18節に「すべての事について、感謝しなさい」。「すべての事」です。そうなると、どんなことでも感謝の種です。人がいいとか悪いとか、勝手なことを言いますが、どれもこれも神様が御愛をもって、私たちのために備えられた出来事であり事柄です。滅ぶべき者が今日も許され、生かされて、神様の恵みに会うことができた。つらいこと、苦しいことであるかもしれない。しかし、その中で、神様は「下には永遠の腕あり」と、御愛の腕をもって私たちを支えていてくださる。その感謝と喜びは消えることがない。

洗礼を受けて、イエス様を信じ、クリスチャンとして生活をする人は、すごく熱心になって、ときに尋ねられる。「先生、クリスチャンとしてすべきことは何でしょうか?私はこんなに神様から恵まれて、何でもしたいと思います。クリスチャンとしての資格、クリスチャンらしく生きるには何がいいでしょうか? もちろん礼拝はきちんと守ります。もちろん献金もします」と言われますが、私は「何もそんなことをしなくてもいいですよ」と答える。「では、クリスチャンの資格は何ですか」と問われる。私はここを引いて「『いつも喜ぶこと』『 絶えず祈ること』『すべての事について、感謝すること』これがこの教会員の資格です」と言った。すると「それだけですか? 」と言うのです。「ええ、それだけです。それさえすれば完璧(かんぺき)ですよ」と。皆さんもこれだけですよ。だから、教会員の資格は、「いつも喜んで、絶えず祈り、すべてのことを感謝していること」をいいます。その一つでも欠けていたら自分は資格がないと思ってください。

私どもの信仰の原点は「喜び、祈り、感謝すること」、これ以外にありません。ところが、この三つは一つの事柄です。お祈りをすれば感謝がわいてきて喜ぶ者となります。祈れなくても感謝すれば祈りがわいてくる、喜べます。また喜びますと、祈らざるを得ないし、感謝がわいてくる。この三つは、三つどもえです。どれも切り離せない。「いつも喜んでいるけれども、祈ることも感謝もできません」と言う人はうそです。いつも喜んでいる人は、祈ることができます。もちろん感謝もできます。「私は祈っています。しかし喜べません」と。これはお祈りが間違っている。この三つは、私たちの信仰、魂のバロメーターですから、これを見れば信仰がどの程度であるか見える。ただ、外側からは見えません。でも自分ではよく分かります。いつもこのことを心に置いて「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」。

一人の姉妹は「先生、私はこのお言葉を玄関に貼り付けて、私はいつも台所に立つから炊事場の前にも貼っているのですよ」と。貼っているだけでもいいですから、皆さんも貼っておいてください。できればそれを実行していただきたい。これが大切ですね。御言葉はいのちです。そして、心に置いて生きるとき、日々が喜びに輝き、望みにあふれ、不安や恐れが消えていきます。どうぞ、輝いて、主を賛美して、喜んで、神様の恵みに生きる者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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