いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(78)「狭い門、細い道」

2013年12月08日 | 聖書からのメッセージ
マタイによる福音書7章13,14節を朗読。

今、読みました聖書の言葉は、クリスチャンでない人でもよく知っていまして、狭い門、滅びにいたる門、道が狭い細いと、そのような表現で、この言葉を引用なさる方がいます。先だって、散歩しておりましたら、あるビルの1階に大きく“狭い門よりはいれ”と書いてあるのです。私はなんだろうと思って近づいてみると、予備校の看板でした。今はまさに受験期ですから、それぞれ希望の夢を膨らませて受験に臨みますが、競争が激しい。そのために狭い門であるというのです。だから、できるだけ合格しやすい安易なところにいこうとするのでしょうが、その予備校は狭い門から入れと、自分の理想を高く、難しくして、チャレンジせよと勧めているのだろうと思いました。

ところが、聖書で言うところの「狭い門からはいれ」とは、14節に「命にいたる門は狭く」とありますように、命にいたる道は狭い門であるというのです。「滅びにいたる門は大きく」とありますように、この地上の生活を歩んでいくとき、楽な道、自分の好む道、それだけを歩むことは、実に楽です。それはある意味では広い道であり、広い門です。山道でもそうですが、細い道を歩むときは、非常に神経を使います。踏み外さないように、あるいは、狭いと並んで歩くわけにはいきませんから、後ろから付いてくる人を気遣いながら歩きます。ところが、広い道ですと、案外に楽です。自分の好きな歩調で、また人と一緒に群がってでも、しゃべりながらでも歩くことができます。

ここでいうところの、狭い門とか、滅びにいたる門、あるいは広い道、細い道と言いますのは、私たちが人生をどのように生きようとするかということに尽きます。先の礼拝でも教えられましたように、神様は、私たちに命と祝福、のろいと滅びという二つのもの、命と死という道を置いているとあります。そして命を選べと神様は勧めてくださいます。「そうか、よかった」、これから命の道を選ぼうと。ところが、その命を選ぶとは、“言うは易く行うは難し”です。16節にありますように、「命にいたる門は狭く、その道は細い」と。命を選びたいのだけれども、私たちにとってそれは必ずしも安易な、行きやすい道ではない。それは、細い道であり、狭い門です。そこを通る者が少ないとありますように、命を求めつつも、それに行き着くことができない。それは、先ほど申し上げたように、広い道、広い門から入ろうとしやすい。自分のわがままな思い、自分のしたいこと、自分の好きなことをし、自分の嫌なことを避け、自分の嫌いなことをよけて歩むことは、広い道です。広い道だと、少々障害物があってもそれをスーッとよけられるのです。狭い道だったら、真ん中にドカッと障害物があれば、乗り越えなければならない。迂回することができません。イエス様が、「命にいたる門は狭く、その道は細い」と言われるのは、命にいたるには気やすいことではないよ、と言っているのです。自分の思いのままに、自分の好きなように生きるわけにはいかない。命にいたるためには、自分の好きなことを止めなければならない。あるいは、嫌なことを引き受けなければならない。そのようにたいへん都合の悪いことが多いのが、命にいたる道なのです。

マタイによる福音書16章21節から26節までを朗読。

イエス様がピリポ・カイザリヤ地方に行かれたときに、弟子たちと共に交わりを持たれました。そのときにイエス様は、弟子たちに世間の人はわたしのことをだれと言っているのかと問われました。弟子たちは、それぞれ聞いたことを、預言者であるとか、バプテスマのヨハネの再来であるとか、いろいろな話をしたときに、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。ペテロは「あなたこそ、生ける神の子イエス・キリストです」と答えて、イエス様はそれをたいへん喜んでくださいました。ペテロを褒めてくださったのです。

ところが、その後です。この21節に「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」。このとき、イエス様ははっきりとご自分が何のためにこの世に遣わされてきたか、その使命が何であるかをお話になりました。これから、エルサレムに行くでしょう。そして、この世の指導者たち、長老、祭司長、律法学者たちから捕らえられて苦しみを受け、やがて殺される。しかし、三日目にそこからよみがえるのだよと言われる。

弟子たちにとって、イエス様と共にいる生活は、とても過ごしやすい、楽しい安心な生活だったと思います。だから、自分たちの生活の糧であった漁師としての仕事も放り出して、イエス様に従ってきました。生活はどうしていたのだろうかと思いますが、イエス様が彼らの食事や、生活の面倒を見ているのです。だから、彼らにとってはこんな楽なことはない。今までは、ガリラヤ湖で苦労して、きつい仕事をしておったのでしょうが、今はただイエス様の後ろに付いて回って、
イエス様のお話を繰り返し聞くだけで、普段どのような生活をしていたのか、そのへんはよくわかりませんが、漁師よりも楽であったと思います。だから、誰ひとり逃げ帰ったという記事はありません。イエス様のもとにいてたいへん苦しかったから、堪えきれなくて、元の生活に戻ったという人の話は載っていません。もちろん、イエス様が、十字架におかかりになられた後に、そのようなことになりますが、いずれにしても弟子たちはイエス様と共にいて喜んでいた。

ところが、イエス様が「わたしは死ぬ」なんて言ったのです。弟子たちはびっくり仰天して「そんな滅相もないことを言わないでください」と言った。私もよく家内から言われるのです。私は、最近どうも長生きしそうにない、「あと10年生きられるかどうかわからない」と言うとですね、家内が「私はどうなるの!」と。それは神様の責任ですから、そこまではこちらは責任を持てません。別に今、どこかが悪いというわけではないのですが、やはり病気をしてみると、そんなに永く生きるわけではない。父の姿を見ていて、92歳もあそこまでは無理だろうなと思う。だから、つい、ぽろっと言うわけです。でも、家族にしてみたら、少しでも長くという気持ちがあるのは確かですね。

ですから、イエス様がこのとき、私はやがてエルサレムに行って殺されると言ったので、弟子たちはびっくり仰天です。そんなバカな、滅相もない、不吉なことを言わないでください。いつまでも長く生きてくださいと思う気持ちがペテロにもありました。だから22節に「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ」と。いさめるとは、ただ忠告するだけではなくてしかるのです。「駄目ですよ!イエス様!」と、しかったのです。とんでもないこと、そのようなことがあるはずもございません。そのとき、イエス様は、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ」と言ったのです。ペテロに対して、「わたしの邪魔をするサタンだ」と言われたのです。厳しいですね。それから、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。イエス様は神様のことを思っていたのです。自分の喜びや、自分の楽しみではなくて、ましてや弟子たちのために自分が長生きして養ってやろうなどという思いは毛頭ありません。ただ、神様が、私に求めていらっしゃることは何だろうかと、そのことを一生懸命に求める。ところがペテロにとっては、自分たちの身分を考えたのです。せっかく仕事も辞め、家業も捨てて、イエス様についてきたのに、そんな中途半端で投げ出されたら困ります。このときイエス様の話を聞いて、思ったのは自分のことだったでしょう。イエス様が、もうわたしは死ぬよと言ったときに、私はどうなるのと。イエス様、滅相もない、そんなことを言わないでというのは、なにもイエス様のことを思って言ったのではない。自分の身を案じたから、自分が安心したいためにそう言ったのです。私たちもそうだと思います。だから、この時のペテロを笑うわけにはいかない。まさに私たちの姿です。イエス様、長生きしてください、いつも一緒にいてください、私たちを養ってくださいとペテロは願っていたのです。

ところが、24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。弟子たちは、イエス様について行きたいと思っていました。けれどもイエス様がいらっしゃらなくなったら、誰について行けばいいのですかという気持ちが強かった。イエス様がおっしゃるのには、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と。自分を捨てることです。まず、自分の思い、自分の計画、自我といいますか、私がこうしたいとか、「私が」という思いを捨てて、「十字架を負うて」とあります。これはいろいろと解釈されますが、わかりやすく言いますならば、死を覚悟してという意味です。死ぬ気になってと理解していただいたらよいと思います。イエス様についていくことは、自分を捨てて、文字どおり肉体も死んだつもりになって、イエス様に従っていく。このとき弟子たちは、目の前にいる肉体を持っているイエス様しか見えなかったのです。そんなイエス様が死んでしまったら、誰についていくでしょうか。私たちは行く所がありません。そう思ったのです。

しかし、イエス様は、ご存じのように、十字架の死からよみがえって、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と、弟子たちにご自身を現してくださいました。よみがえってくださいました。そして「わたしに従ってきなさい」と言われました。「ヨハネによる福音書」21章で語っています。イエス様はよみがえった後、弟子たちに、ことにペテロにそう言ったのです。「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言って、イエス様は天に帰られました。イエス様は、あなたがたのところから去っていくけれども、父にお願いしよう、聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けて、イエス様に従っていくことができる。その後、ペンテコステの霊に満たされた弟子たちは、もはや、イエス様を肉体の眼では見ることはできませんでしたが、常にイエス様を目の当たりに見るがごとくに、イエス様と共に生きる生涯を全うしていくのです。だから、このときの言葉は、実にイエス様は、先々を見通していらっしゃる言葉です。わからないのは、知らなかったのは弟子たちだけです。また私たちも案外そうかもしれません。

死んでどうして命にあずかることができるだろうか。そう思いますが、その後に「自分の命を救おうと思う者はそれを失い」とあります。わかりやすく言いますと、自分のしたいことをし、自分の好きなことをし、自分の嫌なことを避けて広い道をいく、広い門から入る者という意味です。その者は命を失うといいます。滅びるのだと。自分の好きなことをし、自分の嫌いなことを避け、そして自分が、自分がと、邪魔をされないように、それこそ、そこのけそこのけ私が通るというような生き方が、命だと思ってはいないでしょうか。命に生きる道は、イエス様に従う以外にないのです。

イエス様もそのような生き方をなさったのです。イエス様も命に生きた御生涯でした。イエス様は十字架に肉体は滅びましたし、イエス様の地上での生涯は決して楽な生涯ではなかったのです。けれども、当時の権力者、指導者、世の力によって十字架に無残にも何ひとつなすすべもなく死んでいかれたイエス様、ここには敗北の姿だけが見えるようですが、神様はイエス様をよみがえらせてくださいました。長い歴史を通して、イエス様は、多くの人々にご自身を現してくださいました。イエス様を迫害したサウロと言われていたパウロにすらも、ご自分を現してくださいました。そして今やその当時のローマ帝国は無くなりましたが、抹殺されたはずの、滅ぼされたはずのイエス様はよみがえって、東洋の端っこの島国である日本の、しかも九州という小さな島の21世紀に生きる私たちの心にも、主は勝利をとって生きておられます。これが命なのです。イエス様が生きた命を私たちが受け継ぐ道、これが命に生きる道です。

25節に「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」、このことをしっかりと心に置いておきたいと思います。神様は絶えず私たちの目の前に、死にいたる道と、命にいたる道を置いたと言われます。のろいと祝福とを置いたとおっしゃいます。そして命の道を選べと。確かに、私たちは命の道を選ぼうといたしますが、その選ぶべき道筋は、死ぬ生涯です。自分を捨てていく生涯、十字架を負う生涯です。イエス様の生涯に倣うことです。そうしないことには、命を得ることができません。ここ25節に「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」。確かに自分の好きなこと、自分の楽しいこと、自分の楽なことばかりを求めておりますならば、それだけのことです。地上のことでおしまいです。ところが、イエス様についていくために自分の思いを捨てて、従うところに命があるのです。

その後に「わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。ここで大切なのは、「わたしのために」というこの一言です。これから何か自己犠牲をしてあの人のため、世のために頑張ろう、自分を無にして、家族のためにも、ご主人のためにも、息子のためにも、自分を殺して生きようと思います。そうではないのです。息子のため、主人のため、奥さんのため、誰かのために死んだって、命にはいたらない。では、誰のために? 「わたしのために」とイエス様はおっしゃるでしょう。「イエス様のために」という生涯。言い換えると、イエス様に自分をささげるとき、それは命につながっていくのです。世の中にも優れた道徳家や立派な人物がいます。明治時代から大正にかけて各地に素封家(そほうか)という、その土地の名士と言われる人たちがいました。そのような人たちは、社会のためによく尽くしました。道路を造ったり、銀行を興したり、郵便局を経営したり、教育施設の幼稚園などをやりました。そのような素封家といわれる大地主だったり資産家がいて、社会のためにと自分を犠牲にする。自分のできる範囲で世のため人のために尽くします。そのようなことがここで言うところの命にいたる道ではないのです。わたしたちがどんなに小さくても、自分がイエス様のために生きることなのです。その時、新しい命につながっていくことができます。イエス様もまたそのような生き方をなさったのです。

ヨハネによる福音書6章38,39節を朗読。

この38節に「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく」とあります。イエス様は、神の位にいた方が、神なる方が、あえて、人となり、この世に下ってくださいました。その目的、それは自分のしたいことをし、自分の夢を実現し、自分の自我を満足させるために、この世に来てくださったのではない。では何のためであったのか?「わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」。イエス様をつかわされた父なる神様の御心にだけ従う。これがイエス様の生きる目的であり、使命だったのです。

ヨハネの福音書5章30節にも同じことを主は語っていらっしゃいます。ここにもイエス様は、「自分からは何事もすることができない」と語っています。自分がしたいからするのではない。自分がしたくないから止めるのではない。自分が行きたいから行くのではない。自分が行きたくないから行かないのではない。そのように、「自分からは何事もすることができない」。自分の好きだとか、嫌いだとか、そのようなことは一切考えない。では何をするのか。「わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めている」。イエス様は、絶えず父なる神様のみ旨を求めて、神様が行けとおっしゃるなら行きます。神様がとどまれと言うならとどまります。父なる神様が言えとおっしゃったことは言います。父なる神様が言うなと留めるなら、言いません。徹頭徹尾、朝から晩まで、絶えず父なる神様の御心を求め、御心を行い、御旨に従う。ここに徹底していました。それが自分を捨てたイエス様の生涯です。

もう一つ、ヨハネによる福音書5章19,20節を朗読。

この19節に「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」。「子は父のなさることを見て」それに倣ってそのようにしているのであって、自分からは何にもできない。これが、命に生きる生き方、イエス様の御生涯はまさにそこだったのです。しかし、この地上にあって、わたしたちが同じように行うには、狭い門、狭い道です。細い道です。これは困難を伴い、なかなか難しいかもしれない。しかし、難しいからあきらめるのだったら、わたしたちは命にいたることができません。イエス様は命を懸けて、命にいたる道を開いてくださいました。私たちもイエス様に倣う者となりたいと思います。イエス様の生きた生き方に、私たちも合わさっていくとき、初めて命に生きることができます。

数日前に、朝ごとに聖言メールを送っていますが、その時に与えられたのが、先ほどお読みいたしました「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」というみことばでした。先日ある一人の姉妹にお会いしたら、「先生、今日のあのみことばにたいへんショックを受けました」と言うのです。「どうしてですか?」「考えてみると、自分はそのような思いで生きたことがなかった。私は、自分のしたいことをして、神様に従いたいと思うのですが、神様の御心というのは、どういうことなのでしょうか。自分がしていることが、神様の御心なのだろうか、どうだろうかと、いつも自信がない。そこへあのみことばを与えられて開いてみたときに、ショックでした」と言われました。確かに、自分の生活を振り返ってみると、そこまで自覚がないといいますか、意識しないままで、今日はあれを食べたいから食べよう、あそこへ行きたいから行こう、時間があるからあれをしよう、あの人から電話で誘われたから、出かけようと、自分の気の赴くまま、風の吹くまま、自由自在なようで、自分は命に生きていたのだろうかと、その姉妹は深く反省を迫られたと言われます。そして続いて、「先生、どうやったら神様のみ心に従うことができるのでしょうか」と尋ねられました。神様のみ心に従うというのは、何か特殊なことをする、あるいは、日常生活と違った特別な何かをすることではない。日々にしなければならない一日の業があります。そのひとつひとつの業が、主の御心であることを信じていく信仰が大切なのです。御心なのだから、今日は神様のみ心を求めなければ、これを食べていいのだろうか、悪いのだろうか、それが気になりだしたら、何もかもが気になって、手も足も出なくなって、がんじがらめになって、御心だろうか、どうだろうかと、いつもそればかりが気になって仕方がなくなります。そうではなくて、何かするにしても、朝、目が覚めるにしても、すべてが主の御心によってここに立たせられ、ここに遣わされて、ここに置かれているのだと、確信することです。それは、ほかの人から「それはみこころだ」と保障されるわけではない。「あなた、御心だからそうしなさい」と誰かから指示をされたら安心するという問題ではない。だから、「先生、今日はあそこへ行こうと思いますが、これは御心でしょうか、どうでしょうか。神様の御旨を知りたいのです」と、尋ねても役に立ちません。牧師は、巫女(みこ)でも何でもありませんから、神様の御託宣を取り次ぐわけではない。肝心なのは「あなたの信仰があなたを救った」と言われるように、自分が神様の前に決断をつけること、確信を持って立つことです。

そのためには、まず、祈らなければ確信できません。昨日、みこころと信じてしたから、今日も同じことをするのは御心だとマニュアル化しようとします。しかし、そうであるかどうかわからない。そうなると、段々あやふやになってきて、自分は神様に従っているつもりだけれども、本当にそうなのだろうか、ひょっとしたら私は違っていたのではないだろうかと、心の中にもやもやと霧のようなものが、覆ってくる。そうならないためには何をするか? 一つ一つ、ことごとく祈れと、神様はおっしゃるのです。私はその姉妹にそのことをお話しました。何も特別なことをするわけではありません。あなたが、今日一日している、昨日と同じことをしているでしょうが、買い物をするにしても、掃除をするにしても、あるいはどこかに出かけるにしても、何か食べるにしても飲むにしても、感謝して祈って、これは今、主が私に与えてくださったこと、神様が、今、私にこのことを求めておられることですと、はっきりと心に確信を持って歩んでください。これが御心を行うことです。時には、お祈りをしていると、これはやめたほうがいいと神様がささやいてくださる、御霊が教えてくださる。そのとき、「はい」と素直に従いさえすればそれでいいのです。実に楽なのだけれども、祈りが欠けると、あやふやになって、信仰からずれてしまう。神様と直結できないでいる。そのようなお話をしたのです。

ともすると惰性に流されていく。毎日していることだから、これも今日しておこう、あれもしておこうと祈ることもなくやってしまう。果たして今日、神様が、私に求めていることなのだろうか、主が私に願っていることはこのことなのだろうか。主が喜ばれるのは、これなのだろうか。絶えず祈らなければ、祈りを欠かしては確信が持てません。お祈りしても、なんだか自分のしたいことをしているようだと思うのだったら、それを止めればいいのです。ところが、自分のしたいことが先にあるから、お祈りしてもなかなか確信がない。繰り返し祈るのは、自分のしたいことを通そうとしている。そうすると、神様はそんなに言うのならしてみてごらん、とおっしゃるに違いない。その結果は、決して心に満足がありません。わがままを通したというのは自分がよく知っている。後になって、あの時、神様がこちらの道だと言われたのに、私はあちらを選んでしまったと、悔やむ。

ヨナがそうです。神様の思いを知りながら勝手な道を行ったのです。そして、とんでもない災難に遭います。大きな魚のお腹の中で三日三晩悔い改めて、ニネベの町へ出かけて行きました。彼は自分が間違っていることをよく知っていたから、嵐に遭った船の中で、「この災いは、この船の中に誰か悪いやつがいるからだ」と言われたときに、ヨナは船底に隠れたのです。自分が悪いと知っていたのです。神様の前にまず持ち出して、導きを求めていくこと、そして祈って、これは主がさせなさることですと、確信があるならば、たとえできそうになくても、自分に力がなくても、大丈夫!神様は、どのような必要な知恵も力も健康も備えてくださることが出来る。信じて踏み出していくこと。また、途中で神様が、それでよろしい、と止められたならば、はい、と喜んで引くことができます。

そうでないと、ぐずつきます。自分が一生懸命にやっている。そうしたら、相手の人が、「そんなことをせんでもいい」、「せっかく私が、ここまでしてやったのに、今になってそんなことを言われても」と、不満になる。それはいつも神様の前に自分が歩んでいるという確信がないからです。だから、自分のした事が徒労に終わろうと、その結果が見えなかろうと、主が今このところに導き、ここまでさせてくださった。ここでとどめられたならば、中途半端に見えてもそれでいいのです。そこが命にいたる道なのですから、主の導きに従えばいいのです。

初めに戻りますが、「マタイによる福音」書7章13節「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い」。世の中はみな、自分のしたいこと、自分の好きなこと、そんなことばかりを求めて、自分の命を失うまいと、生きています。しかし、その行き先は、「滅びである」と。しかし、「命にいたる門は狭く、その道は細い」とあります。確かに私たちが、御声を聞きつつ、主の御心を行うイエス様の生涯に重なったものとなって、イエス様の生涯を自分の生涯としていく時、それが死を乗り越えていく命なのです。ですから、生涯を終わるとき、主よ、私はあなたに従ってきましたと、心から感謝して、振り返って、主にささげることができる生涯でありたいと思います。召された後、ご家族の方が、うちのお父さんは、思いっきりしたいことをしてよかったわ!わがまま放題で、したい放題、家族に迷惑を掛けて本当に好き放題したから満足だろう、あれで死んだのだからと、そう言われたら滅びです。残されたご家族から、あの人は神様だけに従った生涯でしたね、と言われるようになりたいと思います。

イエス様は、十字架で召されたときに、「まことに、この人は神の子であった」と百卒長が悔い改めたのです。なぜならば、イエス様がまったく神様に従ったからです。私たちも14節にあるように「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。この狭い門、細い道を通る者、歩んでいく者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。



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